ー不穏流れる英雄の不在ー
日は水平線に沈みながら、焔のように明々と西の空を染める。クシミアの遺体は砂浜まで運ばれると、二人の乗ってきたボートに固定された。底の穴は申し訳程度に塞いであるがその場しのぎでしかない。海原にたゆたえば一時間と持たず、身体はやがて海へと還される。これは還元を迎えられなかった民に対する葬儀の方法だが、クシミアの身体が入ったボートを押す三人には他に適切なやり方を持ち合わせていなかった。まさか異国からの襲撃者を、聖域の大地に埋めるわけにもいかない。
一同は沈痛な面持ちのまま、ボートが見えなくなるまで眺め続けた。やがて見失ってなお悲痛の表情は失せることなく、重い沈黙を携えたままもう一艘のボートを準備した。
ホノカが力を使いボートに海原を駆け出させると、オール要らずの挙動にライバが縁から身を乗り出す。その目は輝いていて楽しげだ。しかしリベアは暗い表情のまま俯いている。ホノカの大丈夫かという問いに静かに頷きこそするものの、蒼ざめた顔に説得力はない。
「そっか……それにしても、二重詠唱なんて使えるんだな。びっくりしたよ」
演技がかった快活な声にリベアの身体が一度痙攣するが、やがて口元だけうっすらと笑みを浮かべ、
「ううん。あれはハッタリ。二重詠唱なんて初めて聞いたもの」
「えっ、でも結界は二つ張られていたじゃないか」
「ええ。でも私はあの騎士の周りにしか張ってないわ」
純粋な驚きの声にクスッと笑い、風になびく前髪を押さえる彼女の視線の先で、頬の赤い手品の種は振り返るまいとより海を覗き込む。だが仮にあのもったいぶった痛々しい詠唱を指摘したならば、赤くなるのは彼女の方だった筈だ。
ようやくリベアの顔色が良くなったかと思えば、再び彼女は俯いてしまう。それほどまでにクシミアの葬儀は彼女の心の古傷を抉った――父と母の葬儀を強く思い出させたということだろうか。ついにへたり込んだリベアの様子にホノカはボートを止める。彼女の顔は真っ青だ。
「リベア、本当に大丈夫か?」
「きもちわるい……うぅっ」
ホノカの操るボートは水の民の経験にないほど速く、波に応じて動きを変えるために船の揺れも不規則だ。ホノカに背中をさすられつつ、船の縁から顔を出す彼女を責めることは出来ない。
日が四分の一程沈むと、彼らはマヤツミの街と手前の民達を確認した。わらわらと手を振るそれらの顔は近づくにつれて気の抜けた笑顔であることがわかる。程なくして三人を乗せたボートが浜にたどり着くと、帰りを出迎える彼らは歓声を挙げた。
「よくぞご無事で! お怪我はありませんか?」
「ありがとうございます! 襲撃を食い止めてくださったのですよね!?」
「ライバおめぇなんでそこに乗ってんだ?」
囲む民衆は口々に物を言い、三人を質問攻めにする。その様子にホノカは始めこそ笑顔で応えていたものの、頬は徐々に強張っていった。というのも、知識の祭壇へ向かったのは煙が上がっていたことに加えて、ココナティのアクセスが出来なくなった所に端を発する。もしアクセスが可能になっていれば、リベアやライバが既に一部始終を伝えている筈なのだ。ホノカが笑みの混ざった困惑の表情を浮かべる中、押し寄せる民達の中から背の低い影が三人の前へと抜け出した。
「オリゾ様。ごくろうじゃった。んがしかし、見てのとおりココナティはまだ使えぬままじゃ。一仕事終えた後じゃが、すぐに議会で何があったか報告してくれんかの」
議事堂には街の殆どの民が詰め掛け、ホノカとシュギイー、そしてルロウを除く聴衆たちは立ったまま代表たちを見下ろす。通常なら議論の内容は終了後速やかに共有されるが、今回はそうもいかない。初めて生で見るシュギイー達の会議とその議題にざわめく人々を、ルロウが手を叩いて制す。
「お集まりの皆様。ココナティに頼るまでもなく、お気持ちは十分にわかります。じゃが、議論が終わるまで今しばし静粛に。では皆の衆。始めますぞ」
まずは今回の襲撃について、ホノカに説明が促された。彼は一部始終を簡潔に辿りつつ、クシミアはライバを利用して“知識の祭壇”の結界を抜けたこと。その目的がオリゾ――つまり自分と戦うためだったこと。黒煙はホノカを誘き出すためのもので、島の自然が破壊されたためではないこと。そして最後に、クシミアを倒し海へ還したことを述べた。その間にも民の間から畏怖や感嘆の声が上がる。
「ふむ、なるほどなるほど。それで、知識の祭壇はどうなっておりましたかの」
知識の祭壇――ホノカが言葉に詰まると、リベアが即座に手を挙げた。視線が集まるのも構わずルロウに発言を許されると毅然とした顔で、
「相手は氷を自在に操る槍を持っていました。おそらくは湖ごと凍らせたものと考えられます」
氷を自在に操るというおとぎ話めいたものの登場に、民の間から野次が飛ぶ。シュギイー達も怪訝の目を浮かべていたが、ルロウが再び手を叩くと一気に静まり返った。
「オリゾ様。本当ですかな」
「……ええ、確かにクシミアは槍で氷を操っていました。俺が頂上に着いたときも、傍の湖は水面が氷で覆われていましたし。そして俺は一度氷が割れたところから落ちて、その後周りの水がみるみるうちに凍りついたんです」
民の間から驚きの声が上がる。“確かにそれなら、一瞬だけココナティが使えたのも辻褄が合う”と誰かが呟いたのをきっかけに、民達はお互いを見合いながらそうだそうだと首を縦に振った。
「でも、それと知識の祭壇と何の関係が」
ホノカの問いは民達の声にかき消されたが、唯一気づいたリベアが“知識の祭壇は、あの湖の底にあるの”とそっと耳打ちをすると、彼も納得の声を上げた。と同時に、ルロウが三度目の拍手を響かせる。
「まあなんじゃ。つまり何日か経てば氷が解けて、またココナティが使えるようになるというわけじゃなぁ。これについては時間が解決してくれるじゃろ!」
議事堂が安堵の雰囲気に包まれ、クシミアの件は丸く収まった。しかしロエゴだけは険しい顔を崩していない。ロエゴはギョロりとライバを目で捉え、大きく咳払いを二つした。
「ライバよ。ぬしはどうして知識の祭壇に行ったりなんかしたのだ。そもそもお主が島に行かなければ、こんな騒ぎにはなっていないのだぞ」
「ごめん……なさい」
目を丸くする一同。あの悪童が素直に謝るとは夢にも思わなかったようだ。これにはロエゴも言葉に詰まり、議事堂の外を吹く風の音が、ライバに次の言葉を促した。
「俺はただ、知りたかったんだ。何でもかんでも皆と同じにしたがる水の民が、どうしてそうなったのか……なんで皆が同じもの食べて同じ服着て、道具も一緒に使うのか、なんでそれに従わないといけないのか……ココナティで調べたって“水の民は均衡を重んずる”の一点張りで……知識の祭壇になら、ちゃんとした答えが書いてあると思ったんだ」
小さな声の絞り出すような呟きは、それでも議事堂の全員に聞こえるほどの静けさに迎え入れられた。言い終わるや否や、ライバをなじる囁き声が部屋を走り、ロエゴはそれを集約する。
「皆で漁に出て、畑を耕し、衣服を作る。それがこの水の国なのだ。誰かヒトリだけが異なるなど、あってはならぬこと。お主はそんなこともわからず、ヒトリの好奇心を満たすためだけにこの国を危険に晒したのだぞ!」
「俺は! 俺にしか出来ないことをやりたいんだ! おっさんたちのように毎日漁やら何やらやってればそりゃ腕も上がる。でもそんなの誰だってそうだ。俺じゃなくったって、誰でもいいんだ! 俺は嫌だね。俺は――」
ホッホッホ! ――民衆の耳を突き抜けるルロウの笑い声は、手を叩くよりも効果的に一同を制し視線を集めている。顎鬚をいじる彼はひとしきり笑うと息を整え、
「ライバよ。お主なかなか面白い奴じゃの。その気持ち、わからんでもない。この度の件は若さゆえの勇気に免じて許そうではないか」
と言い、誇るような鼻息で締めた。どよめく中でロエゴが真っ先に講義するが、ルロウは年の功が為せる不動のまま落ち着き払っている。
「勇気!? この者の行動のどこにそんなものが!?」
「我ら水の民という多勢に単身で挑んだ勇気じゃ。今こうして殆どのものが集まっている中でこんなことを言えるのは、大したもんじゃわい。じゃが次はないぞ」
全員を押し黙らせたルロウの手腕は特長老として申し分なかった。平和と平等を信条とする以上、水の民の代表たる特長老に話をまとめる技術は欠かせない。今彼は特長老に相応しい寛大な心を示し、民達の支持を得ることに成功した。ライバにとって予期せぬ味方となることでライバの語勢を弱め最後に釘をさしておけば、ルロウは少年にとって救世主でこそあれ憎まれる筋合いはない。ただ一点、少年の言葉を遮った点を除いてではあるが、少年の頭ではそれを非難する言葉さえ見つけられる筈もなく、結局ライバの件に関してそれ以上意見が出ることはなかった。
知識の祭壇への襲撃に関する議論が終わり、民は少しずつ議事堂を後にし始めたが、シュギイー達は依然座したままだ。ホノカの傍にリベアが腰を下ろし、ライバはと言えば部屋の隅で壁に背中を預け、気に入らなさそうに片頬を膨らませている。あらかた民が帰ったところで、ルロウが口を開いた。
「さて、もう時間は残されておりませんぞシュギイーの方々。火の国に対しどういう態度を取っていくか、決めねばなりますまいて」
シュギイー達はそれぞれの顔を見回し、いつもどおりロエゴが手を挙げた。
「いっそのこと、オリゾ様を筆頭とした軍隊を、火の国へ送るというのはどうだろう」
固まった。場の空気も、シュギイーの視線も、挙げられたままのロエゴの腕さえも、時が止まったかのように静止する。老いし民のシュギイーは自らの発言が何を意味するのか知らない筈はないが、彼の顔は冗談を言うそれではない。
「何を言い出すかと思えば、ラガモ殿。そんな馬鹿なことが」
彼はロエゴの反論に冷たい視線を向け、話しの途中でも構わず溜息で返事を返す。あまりの態度にロエゴの言葉が詰まり、ラガモはそこに割り込んで持論を進めた。
「火の国は現にこうして兵を向けている。そして今回オリゾ様が倒された相手は名のある将というではないか。仇を取らんと火の国が更なる戦力を送ってくる可能性は、十分考えられる」
「その前にこっちから攻めようってわけか。でも軍隊なんてどこにあるんです? 俺達は戦ったことなんて一度もない」
レザンの問いにリベアは目を伏せ、ライバは議事堂の外へと姿を消し、ラガモは不敵な笑みを浮かべながら得意げに作戦を発表した。まず火の国に上陸したら民は縦列を作り、全員が結界でその列を守る。そのまま城まで攻め入り、大将の首を取る。荒唐無稽な計画に鼻息を荒くする老人の大げさな身振り手振りとは対照的に、ロエゴの肩はわなわなと静かに震えていた。
「ラガモ殿。いい加減にしていただこう! 我ら水の民にはヘイセンの誓いがある。これがある限り攻め入るなど」
「ヘイセンの誓いで平和が守られないことはついさっき知った筈だ。水の民はいまこそ、新たな場所へと流れるべきなのだ」
皺の刻まれた瞼の下の鋭利な眼光がロエゴの喉に突き刺さり、それ以上の発言を止める。暴走しつつある議論に困惑気味だったロズベも手に負えないというかのように首を振る。
「シュギイーラガモ。そもそも、海の果てには嵐の壁があるのよ。向こうがどうやってこっちに来たのかは知らないけれど、こっちから向こうに行くなんて無理よ」
嵐の壁は水の国から遠く離れた海上にある、その名の通り壁場に連なってその先への進行を拒む嵐のことだ。しかしホノカが問う隙もなくシュギイー達は思い思いに論を交わす。
「漁船を改造すればいい。それにオリゾ様の力があればきっと何とかなる」
「そんなことしたらここで暮らす人たちの食事は」
「まあまあ、らしくありませんぞ皆様。水の民らしい平静な議論を。オリゾ様はどうですじゃ?」
ルロウの静止は今や特長老としての威厳を十分に伴っていた。発言を促す重々しい沈黙を生み出し、人差し指の付け根を唇の下に当てる仕草の方へと一同の視線を動かす。ホノカは幾度目かの瞬きの後、まっすぐルロウを見据えた。
「俺は、火の国の様子を見に行きたいと思っています。火の国が本当に侵略するつもりでいるのか、まずはそこから知る必要があるんじゃないでしょうか」
「何をおっしゃいます。これまで二度も攻撃を受けたではないですか。侵略の意思は十分!」
間髪入れぬラガモの反論と同時にレザンが身を乗り出す。苦い顔や驚いた顔が並ぶが、ホノカの目はまっすぐに前を見据えて揺るがない。それはリベアも同じだった。二人の瞳の中で確固たる意志が燃えている。
「オリゾ様、見に行きたいとはまさか、おヒトリで行かれるつもりですか?」
ホノカの頷きにロエゴは机を叩いて立ち上がる。強大な力が敵地に行く時点で侵略であり、ヘイセンの誓いに抵触すると声を挙げるが、ホノカ達は動じない。ロエゴと対立していたラガモもまた、ホノカの顔を覗き込んで考え直すよう訴える。
「いかにオリゾ様といえどもおヒトリでは……ワシの作戦の間オリゾ様にはこの国を守っていただかねばなりません。もし万が一囚われてしまえば、我々にはもう頼るものがないのです」
「いや、これはむしろアリじゃないか?」
レザンの思いもよらない発言にラガモとロエゴは首を回す。二人は冷や汗を書いているが、レザンは何食わぬ顔でそれぞれの顔を見回した。
「オリゾ様の言うことも尤もだし、なによりオリゾ様の独断でヒトリで火の国へ向かう以上、水の民の戦力としては数えられない。つまり、ヘイセンの誓いとの兼ね合いも考えなくて済む」
「そうねぇ。なによりオリゾ様が行きたいっておっしゃっているんだし、いいんじゃないかしら」
ロズベも同調するとラガモ達はしどろもどろになった。二人はオリゾを国に残すという点では意見は同じだが、そもそも侵攻と防衛とで対立の立場にある。手を組んでレザンたちを説得することは適わず、口を噤んだ。シュギイー達が言葉を沈めると、ルロウは立ち上がって“あー、あー”と言いながら腰を二、三度叩いた。
「シュギイーの方々。意見はまとまったようじゃな」
卓を囲むシュギイー達がそれぞれの表情で頷くと、ルロウも一つ一つに頷き返し、ホノカの隣へと足取り軽く歩み寄った。
「さて、オリゾ様。貴方の意思は固いらしいのぅ。しかし貴方は我らの守り神じゃ。その意味をよく考えて欲しい」
特長老の沈黙の間に、一同の表情が変わる。リベアの小さな驚嘆に一瞥をくれると、ルロウはたしなめるようにホノカに続けた。
「伝説の英雄とは、守る者じゃ。我らの国を、民を、そして伝説の道筋を。その定めは生きている限り続く。お主が伝説の英雄である限り、ここから去ることは許されないのじゃ。その命尽きるまでのぅ」
「そんな! さっきの議論ではそんな」
「少し落ち着いたほうが良かろう。シュギイーロエゴ、シュギイーラガモ。オリゾ様を運ぶのを手伝ってもらえぬか」
バチリ、と音を立てて、ホノカの手足に枷状の結界が張られるとその頭がガクンと項垂れた。二人はホノカの身体を抱え、そそくさと外へと運び出す。唐突な出来事とあまりの手際のよさに呆気を取られていたリベア達だったが、追いかけようとするとルロウが立ちふさがった。
「ルロウ様、これは一体何のつもりですか」
「言ったじゃろ。少し落ち着いてもらうだけじゃて」
――果てしなく広がる薄暗い空間。仕組みのわからぬまどろむような光は来訪者に視界を認識させる。どこからともなくカツカツと響く音が近づき、唯一腰が下ろされている席の隣で止まると、そこから埃を叩く音が響く。視界の端に一本の銀の糸が揺れた気がしたが、それ以降いっかな見えるものはなく、幽かな光も再び眠りについた。
目を強く閉じた時と全く同じ一面の黒。目が慣れかけたところで、一つの小さな球形が現れる。赤い光を纏うそれは人魂のように怪しく揺れ、英雄の意志のように雄々しく燃えている。照らされる空間は常に新鮮な闇の中。場所はおろか方角上下の区別もつかない黒そのものの内側。
やがて人魂が人間の形を取り始め、色も赤から肌色へと変わる。体つきからは男性か女性かは判別できない。しかし潤いを含んだ黒い髪はわずかな光を捉えては放ち、細い手足や体の線からは爽やかささえ窺えた。
「みつけたよ。ホノカ」
それは明らかに男の声だが、男らしい声ではない。か細い印象を受けるが、繊細な音が先鋭に耳から入り込み脳を響かせるその声は傾聴を誘う。
「ほら、そろそろ起きないと、遅刻しちゃうよ」
ホノカの目がぱちりと開いた。彼の身の回りにはつるつるとした冷たい床と四方を反る壁があり、見上げれば丸い夜空がそこにある。ホノカは水を湧かし四、五メートルほど先の夜空へ近づいたが、その先には出られなかった。まるで窓ガラスで隔たれているように、夜空の切り取り口から上へは一滴たりとも飛び出せない。
「結界か……」
水を戻し腰を落とした彼の問いは反響するばかりで、ホノカを疑問の深みへと誘う。空しか見ることの出来ないこの部屋では、時の流れを捉えるには情報に乏しい。思考は闇を進む星々のごとく、どこへ向かっているのかもわからない遅々とした堂々巡りに入り込む。一点に没入した彼が果てしない時の硬直から解き放たれたと見上げる空はしかし、一度見たそれとまったく変わっていない。
右手に水を纏わせ、氷の檻を破ったときと同じく表面に水の流れを作る。徐々に速さを上げながら壁にあてがうと、少しずつではあるが確実に削れ始めた。それでもホノカの身体が通り抜けられる程の穴を開けるには一日や二日では足りそうにない。
そのときである。コツンと壁を叩く音が響いたかと思うと、夜空を切り取る穴の端から縄が垂れ下がった。ホノカが縄を掴み二度三度軽く引っ張ると、頼もしくもその身をピンと張らせる。縄を昇り、結界の外れた口から顔を出したホノカの前には、誇らしげな笑みを浮かべるライバの姿があった。
「ライバ、どうして」
「俺だけじゃねぇよ」
少年が顎差す先には、下で縄の端を持ったレザンの姿もあった。見渡せば眠りに付いたマヤツミの街が広がっている。ホノカは穴から出ると、結界を張りなおしたライバと共に壁の傾斜に任せて身を滑らせ、水に身体を受け止めさせる。
「オリゾ様急ぎましょう。夜明けもそう遠くない」
レザンはそれだけ言うと一度手招きをして海岸の方へと駆ける。ライバもその後に続き、ホノカも困惑の顔を浮かべつつ、深海色の壷を背に走り出した。
風と共に街を抜け、海岸を走り、岩場をも越えて森の脇を過ぎた先には、数人は乗れそうな大きさの灰色の船体が、いつでも出られるよう穂先を夜の海に向け、英雄の搭乗を待っていた。水の国に似つかわしくない機械の登場に声も出ないホノカが力なく歩み寄ると、甲板から水の民が下りてくる。夜風がさらう前髪に飾られた髪飾りは、星明りの下でその桃色を仄かに輝かせる。
「リベア、これは一体」
「多分クシミアが乗ってきた船じゃないかな。レザンが見つけたんだって」
「そうじゃなくて――どうして俺を逃がそうとするんだ。こんなことがバレたらきっとタダじゃすまないだろ」
無邪気とも言える微笑みが彼の言葉を詰まらせる。ホノカは一歩下がるとライバとレザンへと順に首を回した。二人とも自信に満ち溢れた表情でお互いを見合い頷いている。そしてリベアの目がまっすぐにホノカの目を捉えた。
「これが私にできることだから」
一際大きな波の音がリベアの言葉に続き、直後の静寂が鮮明になる。彼女が一歩進む度、その足音にあわせて小さな波が浜へと寄せる。ホノカの目と鼻の先に来ると歩のリズムを崩さずに身体を前へと傾け、彼は面食らった顔をしながらも両腕で彼女を包み込むように受け止めた。程なくして二人は抱きしめあい、胸の鼓動を共有する。
「私ね、気づいたことがあるの。“命を無駄にするな”っていうのは、ただ生き延びるだけじゃだめ。自分のできることを、やるべきことをやって、皆で一緒に生きることが、命を大事にする、無駄にしないってことなんだって」
抱きしめたままの状態でリベアの声を聞くホノカは、彼女のココナティの付け根を優しく撫でる。一体となって二度と離れたくないかのように彼女の顔が身体に強く押し付けられ、シャツの背中の指も強張る。二人の睦まじさにライバは目をそらし、レザンは羨ましげに眺めてから一つ咳払いをした。
「水の民の一生は六十年。寿命が決まってるなら、そのうちにたくさん経験をつんだほうがいい。なるほど、流石は英雄オリゾ様だ。いいことを仰る」
“俺は英雄なんかじゃないさ”彼がレザンの言葉に照れくさそうに答えると、リベアは腕を緩め、ぐいと背伸びをすること数秒。彼女のごく一部分を触れ合わせたホノカは再び面食らった顔を浮かべていたが、その頬は真っ赤に染まっていた。
「答え、合ってたかな」
「あ、ああ。それにしてもよくわかったね」
「私はオリゾ様の……ホノカの補佐だもん」
得意げに言う彼女の瞳が潤んでいることを彼女自身悟ったのか、岩陰に身を翻すと、変わってレザンが船を指差しながら歩み寄った。二人の仲を冷やかしつつ残されていたマニュアルの受け売りで動かし方を伝え、無事火の国へ辿りつくよう励ました。その間ライバはせっせと船に食料を積み込んでいる。
「俺達は残って、“水瓶の中のオリゾ様”の面倒を見る。ココナティでもそう共有しておく。いないってバレる頃には流石に向こうに着いてるだろうさ」
「いいなぁー。俺も行きてぇよー」
寄ってきたライバの頭をレザンがマニュアルでコツンと叩き、非難の声と笑い声が響く。ホノカはマニュアルを受け取りつつ、その表紙に書かれた文字を指でなぞった。
「ありがとう。それにしても火の国の文字が読めるなんて、さすがですね」
「それが、こっちでココナティを通して見る文字とほとんど同じなんですよ」
驚くホノカだが、二つの国の言語が近しいことはリベアとクシミアの間で会話が成立していたことからも察せられるだろう。注目すべきはそれが何故かという点だが、この場で考えていてもわかるものではない。彼はぱらぱらと頁をめくり、一枚あたりの図画の占める割合に安堵の息を漏らして本を閉じた。
「“ユーカク”ってのがこの船の名前だそうです。物に名前をつけるなんて、こっちじゃ考えられないですね」
「そうなんですか」
「物に名前をつけるということは、それが名付けた者の所有物であると主張するようなものですから。この国ではそうはいきませんよ」
不思議そうな声を上げて船へと歩きだすホノカの隣にリベアが加わると、彼の手に青く長い布を持たせた。リベアの部屋に飾ってあった布と同じ素材で出来たマフラーだ。彼女の首もとには既に同じものが巻かれており、彼も同じように首に巻く。
「夜の航海はきっと冷えるだろうから」
「……ありがとう」
遠くの空が薄明るくなり、幽かに水平線が露わになる頃。彼を乗せた小型艇ユーカクは、三人の水の民に見送られて旅立った。窓から入り込む風を受け、まだ見ぬ土地へ死んだ筈の友の影を追う魚田峰ホノカを傍で励ますように、青いマフラーがたなびいていた。