ー黒煙昇る知識の祭壇ー
長い下りの林道を抜けると、黒煙があった。はるか遠くに細く立ち上がるそれは街や海岸よりずっと向こうを示している。四人が海岸へ急ぐ途中リベアは何度もココナティから知識の祭壇へのアクセスを試みたが、一度も繋がることはなかった。途中で走り疲れたラガモを除く三人が海岸に着いた頃には既に大勢が集まり、決して穏やかとはいえない海原と煙の上がる小さな島、“知識の祭壇”を見つめていた。
ホノカは見回して背の低い影に駆け寄ると、顔を覗き込むように前に回りこむ。黒い顎鬚を蓄えた皺だらけの顔は全てのパーツが丸くなっていたが、ホノカに気づくと即座に威厳ある顔に戻った。
「ルロウさん!」
「おおおオリゾ様! 大変なことになってしもうた。何が起こったかわからぬが、とにかくヤバイですじゃあ!」
表情を取り繕ったところで慌てぶりは変わらない。もっとも島から煙が上がったのは何の前触れもない突然の出来事であり、ココナティが使えないとあれば慌てるのも無理はない。最悪の事態は既に始まっているのだ。
ぐるりと辺りを見回したホノカは船の場所をルロウに聞いた。しかし漁船は既に午後の漁に出てしまったあげく、倉庫のボートは壊されていたという。一番まともなものでも底に小さな穴が無数に開いて、到底祭壇まで辿りつくのは不可能とのことだった。それでもホノカは大きく深呼吸をすると、近くの民に穴の開いたボートを持ってくるよう告げた。
「オリゾ様、何を」
「俺が行きます。危ないから皆さんには待ってるよう伝えてください」
驚きの声が上がるが、反論は出ない。この事態をどうにかできるとすれば彼しかいないことは考えるまでもない。民による肯定の沈黙を破ったのはリベアただ一人だ。
「私も行く」
「ダメだ。もし君の身に何かあったら」
「私はオリゾ様の補佐を任されているのよ」
お互い一歩も譲るつもりはないらしく、二人は真剣な目で対峙する。その横を四人の男に支えられたボロボロのボートが過ぎた。
「お父さんやお母さんの分まで生きるんじゃなかったのか」
「……うん」
「だったらどうして」
「わかんないよ! でも、もうヒトリで残されるのはたくさんなの!」
船出の用意が整ったと、民の声が響く。言い合っている時間はない。ホノカは歯を食いしばって声を絞り出し、リベアが頷くと二人はボートに乗り込んだ。
激しい波が打ち寄せる中、二人を乗せたボートが多くの民に見送られて進みだす。ホノカは水を操り、まずは底に開いた穴から水が入らないようにした。続いて知識の祭壇へと向かうよう周囲の流れをいじり、波に呑まれぬよう進路を調整して進む。その間も黒煙は途絶えることなく空を侵食し続けた。
知識の祭壇は無人島ではあるが、中心部に行くための石畳の道は遠くからでも確認できた。その手前には広い海岸があってボートでの上陸も容易い。ホノカ達が島の細部を確認できる距離に来るまでに七分程かかったが、この記録は民の持つ漁船のものよりも圧倒的に早かった。
風と波の轟音に二人は声を張り上げる。一際大きな波がボートを襲うが、ホノカは辛くもこれをかわす。しかし無理な動きに船体は軋み悲鳴を上げた。
「リベア! 大丈夫か!」
「ええ! 大丈夫!」
両側のへりをがしと掴み吹き飛ばされまいとする彼女は、ホノカの後ろで島に目を凝らすと、右手で海岸を指差した。
「見える!? あそこ、ボートがある!」
「本当か!」
「ええ! それに結界も外されているわ!」
ボートはその後も大きく揺れながらも、なんとか海岸に辿りつく。二人がボートを波の届かないところまで引きずると、そこには同じ作りの――違うといえばあちらの方がずっと綺麗な――ボートが仲間を待っていた。側に倒れているオールにホノカの目が留まる。
「やっぱり誰かが先に来てるみたい。でも誰が――ちょっと!?」
リベアの声に振り向かず、ホノカは駆け出した。なりふり構わず、石畳を頼りに走る彼は、生命の滝壺でケルからリベアを庇った時、そして横断歩道に駆け出した少女に気づいたときと同じ顔をしていた。
彼が長い上り坂を抜けると、開けた場所に出た。境でちょうど石畳は終わっており、焦げ茶色の地面が取って代わっている。所々に膝の高さまで伸びた草が生え、広場を囲むようにそびえる木々の葉が散らばっている。奥には更に石畳の道があり、黒煙はその先から上がっている。急ぐホノカだが、向かい側から同じく道を急ぐ姿を認めて身構えた。直後にお互いの目が見開かれる。
「ホノカ!?」
「ライバ! 何があった!」
「やめろ! 来んな!」
少年の叫びをいぶかしむ間がどうしてあろうか。二人の間に雷のごとく降り立った男の衝撃は土煙を巻き上げ、直下の地面をその半身ほど陥没させる。周囲の草木を大地ごと揺らし、ライバやホノカもたまらずよろめく。
踏ん張る二人の間に立つ影は、土煙が収まるにつれ明らかになる。獅子を彷彿とさせる金色の髪。火種が焼き付いたようなその眼。溶岩をそのまま着込んだと言われても不自然ではない赤黒き鎧。土煙はすっかりおさまり、日に焼けた騎士の顔が露わになる。
「やっと会えたな。“伝説”」
一帯の空気が張り詰める。険しい顔で敵を見据えるホノカに、騎士はゆっくりと歩み寄る。右手に携えた青と白銀の槍は日の光を受けて輝き、久方ぶりの戦場というあるべき場所に喜んでいる。
「あんたは、もしかしてクシミアか」
その言葉にピタリと足を止めたクシミアは、その武骨な格好で優雅な礼を見せた。それでも微動だにしないホノカへ肩をすくめてみせる。その顔は穏やかだ。
「挨拶は大事だぞ。“伝説”――それにしても“伝説”に覚えてもらえているとは光栄だな。私の名にも箔がつく」
「ホノカだ。あと覚えているって言っても聞いた話だけだ。前に戦ったらしいが、その時のことは覚えていない」
ふむ、とクシミアは左拳を腰に当て、ラフな姿勢で品定めするようにホノカを見回す。槍を自らの腕のように自在に回し、
「そうか。なら今から私の強さを刻み込んでくれよう。この氷烈の槍でな」
若々しい雄叫びの直後、鉱物同士がぶつかり甲高い音を広げる。ホノカの目の前で、クシミアは背後に忍び寄った伏兵の一撃を弾いていた。小さな身体が宙を舞い、柔らかい土の地面が受け止める。
「ライバ!」
「後ろから襲うというのはいい発想だ。だが、相手を見誤ったな小僧」
メキュハクヒの石突が地面を叩くと、そこから氷がみるみる地面を覆う。それはライバを囲むように這い、やがて無数の柱を形成する。そうしてライバは瞬く間に氷の檻に囚われた。
「今のはなかったことにしてやろう。ヘイセンの誓いを破ったとなれば、水の民は放ってはおくまい」
ライバは威勢よく突っかかりながら氷格子に手をかけるが、それも一瞬のことだった。刺すような冷たさに即座に手を放したライバは、既に凍っている地面に足を滑らせて尻餅をつく。
のた打ち回る少年の姿は既にクシミアの背後となり、穏やかな表情のままメキュハクヒで宙を一振りすると苦い顔のホノカは一歩後ずさった。
「理解したようだな。これぞ為守禍氷烈槍メキュハクヒの力だ。貴様と同じ――火の国に腐るほどある――伝説の一つだよ」
再び石突が地面を叩くと、周囲の温度が一気に下がった。どこからともなく雪が現れ、日に照らされて輝きながらクシミアの近くで舞う。その範囲は風が吹く度に広まり、あっという間にホノカの周りでも雪が舞い始めた。
「目的はなんだ」
「知りたくはないか? 伝説と伝説がぶつかれば何が起きるか、あるいはどちらの伝説がより強さを持つか」
「ホノカ!」
ようやく駆けつけたリベアの吐く息は白く見るからに寒そうだが、走って身体が温まったからなのか寒がる様子はない。彼女は突然の冬模様と奥の氷の檻に息を呑んだものの、手に一本ずつオールを持って今にも叩きつけんとクシミアを睨んでいる。
「リベア! ここは任せてくれ」
「嫌よ。私だって戦えるわ」
隣同士で構えをとるホノカ達を眺め、クシミアは遊ぶように槍を振り回す。舞う雪の量が増し、地面は白に染まりつつあった。やがてクシミアは槍を構えると、リベアの姿に笑みを浮かべた。
「あの時の娘か、いい顔になったものだ。見違えたぞ。それにしても、思ったよりヘイセンの誓いというのは軽い誓いらしいな。“平和を愛する民”が聞いて呆れる」
「うるさい!」
右腕から投げられたオールはまっすぐクシミアの頭めがけ、雪が乗った風を切る。クシミアの身体がわずかの間硬直したが、槍を振るう時間は十分にあった。矛先が宙を切ると、飛ぶオールはたちまち氷に覆われ勢いを失う。
既にその時リベアの身体は宙に浮いていた。もう一本のオールを支えに飛び上がったのだ。すうっ――とクシミアの顔にリベアの影が差し込むと、彼女は敵の腹に跳び蹴りをかます。
予想だにしないリベアの動きに男達は愕然とした。ライバは檻の冷たさを忘れてまじまじと彼女を見つめ、ホノカは片足で立っているリベアに駆け寄る。一方のクシミアは虚を突かれて笑いつつ、腹で受け止めた女の右足をがしりと掴んで押し飛ばした。
「なかなかどうして、どこにも磨けば光る者はいるものだな」
ホノカの逞しい腕が倒れこむリベアを支える様に、クシミアは懐かしむような目を浮かべる。一つ息をついて首を振ると、足元の凍ったオールを槍で砕いた。
「何をそんなに死に急いでいるのか知らないが、私は“伝説”と一騎打ちがしたいだけだ」
「誰が死に急いでなんか!」
刃向かわんと起き上がるリベアを、ホノカの腕が止める。それでもなお進もうとする彼女に、クシミアは冷たく言い放った。
「身の程を知れ。闇雲に突っ込んで命を落とすなど愚者の行為だ。勝てないと思った相手には正面から挑まない。打つ手がない相手には刃を向けない。戦場で長生きしたいなら覚えておくといい。血気盛んな貴様らだ。いずれ役に立つときもくるだろう」
歯を食いしばって敵意をむき出しにするリベアを制し、ホノカは場に不相応な笑みを浮かべた。表情を確認したクシミアも不敵な笑みを浮かべている。
「親切にどうも。それで、その槍なら俺を倒せるって踏んだわけか」
「フン。戦う準備ができたら、いつでも来るがいい」
踵を返す騎士を見送る二人。やがて姿が道の奥に消えると、ホノカは正面から彼女の両肩をがしりと掴んだ。リベアの身体がすくんだがそれも一瞬のことで、二人の真剣なまなざしが交差する。
「リベア、どうしてあんなことを。死んでたかもしれないんだぞ」
「ずっと考えてたの。花畑でホノカが何を言おうとしてたのか……さっきのが私の答えよ」
毅然とした物言いに押し黙るホノカは口を噤み目を伏せ、改めて目を開きなおした。冷ややかな風が落ち葉をさらうが、彼女の足が震えているのは寒さのためばかりではない。
「それにしたって、もう少し考えたほうがいい。後で答え合わせしよう。だからここで待ってるんだ。いいね」
「でも!」
リベアの声に構わずホノカは氷の檻に歩み寄ると、細い柱の一本を軽く叩いた。檻はびくともせず虚しい音を響かせる。柱を掴んで押したり引いたりしてみるがあまりにも頑丈で、離した彼の手は冷たさに耐えかねて赤くなっている。
「俺のせいだ。俺が来たから、結界を外したからこんなことに……ごめん」
ライバは中で身をちぢこませて震えながら、泣きそうな声を上げる。ホノカは後悔に染まった顔に目線を合わせると、包み込むような笑みを浮かべた。
「過ぎたことだ。悔やんでも仕方ない。でも、ちゃんと謝ったのはえらいぞ。戻ったらみんなにもちゃんと謝れよ……ちょっと離れてな」
言うなりホノカの右腕を水が包み込み、よく見ればそれはガントレットの型を作っていた。ライバが身を避ける一拍の間を置いて拳の打ち付けられた氷の柱は、目にも留まらぬ速さでガントレットの表面を流れる水が削るのもあわせて粉々に砕けた。
柱一本抜かれた隙間をなんとか抜け出したライバは一つ大きなくしゃみをすると身を震わせる。氷の檻から抜け出しても辺りは既に雪に覆われているのだから当然だ。ホノカがシャツを脱ぎライバに羽織らせるが、他に身体を温めるものはここにはない。
「ライバを頼む。海岸まで行ったらだいぶマシだろう」
リベアは口を開き半歩だけホノカに近づくが、強く目を閉じ頭を振り、ライバの手を取って来た道を引き返す。雪から石畳に変わったところで立ち止まって振り返ると、
「絶対、ぜったい戻ってきてね。約束だよ」
あどけない顔に浮かぶ切ない表情に言い聞かせるように、男は笑顔を返した。
石畳の道はいつしか切り立った崖の端をなぞり、片側に豊かな眺望を持ち始めた。マヤツミのような画一的な建造物は一切無く方々に茂る木々の緑と波高く揺れる海原だけがあり、その向こうにうっすら見える島は未知の侵略者が蔓延る要塞に似ている。空は青く、触れてみたくなる雲の白さはしかし、ホノカの頭上に近づくにつれくすみを増す。いまだもくもくと立ち上がる黒煙はその身を空に刻み込まんとするが、大海に血の一滴を落とすのと同様、空の奥で極限まで薄められる。
ホノカがいた世界でもこの世界でも、広い世界と長い時の中で多くが己が存在を世界に刻み込まんと力を尽くした。大半は夢半ばに消え、一矢報いた一握さえ、長い時間と空間によってその存在を忘却させられる。雄大な自然の中に一人あっては、どのような騎士や英雄であれ身の儚さを身をもって知る。環境に溶け込みだした意識は自らがそれと一体になったと思い込み、やがては身体を動くままに任せて世界を俯瞰する。水の民のような知的生命体の手が多く入らない自然にはそれだけの力があるのだ。
ホノカといえば、狭い足場や広がる自然には目もくれず、確かな足取りと神妙な面持ちで進んでいる。瞳に灯る光は意志の表れか。しかし体は寸分の狂い無くただただ機械的に足を動かす。体を動かすのはかつてその存在を示し、水の民の間で今なお引き継がれし英雄の影であり、影に命ずるのは魚田峰ホノカその人の自我だ。
ホノカの足元から起伏が消えた頃、ふくよかに昇る黒い大樹の根元を目の当たりにした彼は二の足を踏んだ。道はホノカが辿ってきた一本しかなく、この場が知識の祭壇のあるべき場所であることは想像に難くない。しかしそれらしいものは見当たらず、代わりに小さな煙突が付いた小箪笥のような大きさの黒い機械と水面の凍った湖があり、その間の砂利の上に大の字に横たわるクシミアの姿は今から命を賭して戦うとは到底思えない。鎧こそ着ているもののメキュハクヒも近くに突き立てられ、勝負を諦めているようにも見える。
クシミアはホノカの姿を認めると身体を起こし、手招きしながら機械の引き出しを開けた。おずおずと近づいた英雄に彼は引き出しの中の長く太い針を素早く向ける。身構えるホノカだが、鼻がひくりと動くと当惑の表情を浮かべた。
「何のつもりだ」
「腹が減ってるんだろう。ほら」
針には肉が――ホノカがこの世界に来て初めての肉が刺さっていた。ジュウという音を立てながら肉汁をしたらせ、何より香ばしい香りが鼻から口の中まで押し入ろうとする強大な肉の魅力の前に、昼食を取っていなかったホノカは膝を付くしかなかった。彼は針を受け取ると思いっきりかぶりつき、感嘆の声を上げた。
凍った湖のほとりで男二人が肉に齧り付く。途中でクシミアが小瓶の調味料をふりかけホノカに手渡すと、ホノカもマネをした。二人が会話らしい会話を始めたのはお互いに肉を食い尽くしたあとだった。
「今から戦う相手に変な感じだけど、ご馳走様。久々に肉を食った気がするよ」
「だろうな。水の民は肉といったら魚のことらしいじゃないか。あと……まさかとは思うが私が何の考えもなく貴様に肉を食わせたと思っているのか?」
ホノカの首がグリンとクシミアの方を向き、身体は飛び上がって再び身構える。風が枝葉をさざめかせ、すっかりやせ細った黒煙を凪ぐ中で、クシミアの身体はまったく動かずに
「誰がどの程度腹を空かせていてどのくらいあれば十分か。戦士達を従えてから自然とわかるようになった。いい仕事にはそれだけの投資が必要ということだ」
「あんた、まさか毒を」
「いいや。ただの肉だ。そんな勿体ないことはしないさ」
黒い鎧がすっと立ち上がる。落ちた針が砂利にぶつかって甲高い音を短く立てる。そして足音が一つ。
「今からやるのは、死んだ方が負ける作法無用の決闘だ。どんな手を使ってでも貴様は倒す。だが、その分貴様にも全力をかけてもらいたいと思ってな」
この騎士はたった一人で水の民の知識共有を司る場所に入り何がしかの方法でその機能を停止させておきながら、島の自然を破壊するでもなくライバに手を出すでもなく、ただ肉を焼いていた。肉を焼きながら、ホノカが来るのを待っていた。平和を脅かさんとする倒すべき相手が、敵とは思えぬ態度でこちらを迎え入れた場合どうすべきか、どうして即座に一つの答えを出せるだろうか。
「教えてくれ。あんたは何のために戦うんだ」
「火の国は既にこちらへの侵略を諦めている。これは私が戦いたいから戦う。何のためだってないさ」
答える間際わずかに首を回したのは逡巡のためか。クシミアの言葉は迷うことなく鮮明に響いた。突き立てたメキュハクヒを引き抜いて軽々回し、ピタリと矛先をホノカに向ける。
「さあ、命を賭けた腹ごなしだ」
対するホノカも水を身体に纏わりつかせる。程なく身体を包み込んだ液体は細部まで甲冑の形を成し、太陽の光と全身を流れる水面の微細な角度調整によって青い半透明の中に彼の姿を隠す。水の民に伝わる伝説の英雄“オリゾ”は水の民を守護すべく、彼らの平和の終焉を打ち消すべく騎士の前にその力を現した。
「もう少し食休みしたいんだけどな」
「あの世なら食休みし放題だ。連れて行ってやろう」
クシミアは言うや否やメキュハクヒを魔法の杖のように頭上で振ると、瞬く間に雪が舞い始めた。辺りは白く塗りつぶされ、砂利と凍った湖との境界を隠す。オリゾの鎧にしみこむ雪。クシミアの鎧に張り付く雪。二人同時に地を蹴りだし、踏みしめていた足跡の二つが露わになる。
激突寸前の二人。走りくるクシミアが槍を構え、オリゾの足元を突く。しかしオリゾは飛び上がって指先から水流を放っていた。斜めに突き刺さった槍を支えに紙一重でかわすクシミア。目標に当たらなかった水流は白い地面に底の見えない小さな孔を開ける。
着地したオリゾはしかし、追撃の動きをとる前に身体を地面に打ち付けた。先程まで柔らかい雪が敷き詰められていた地面は硬い氷に覆われていたためだ。嗤いながら槍を引き抜いたクシミアがオリゾにゆっくり歩み寄る。
「ハッ、どうした? 無様だぞ“伝説”」
「ちぃっ」
槍先から放たれる雹をオリゾが転がってかわし、傍の木にぶつかったところで、ペンギンのように頭から滑り出した。あまりに急な方向転換。人体では為しえないその動きは鎧を形成する水の流れが彼を押し出してなるものだ。オリゾは身体の前面から勢いよく水を発し身体を起こすと、そのまま足元に波を作ってクシミアの方へと向かう。影を作る大きな波は武器というより猛獣に近く、単体で防ぎようのない脅威だ。そんな猛獣が大きく口を開けて迫るにもかかわらず、クシミアは逃げるどころか槍を構えて飛び掛った。
まさに波が黒き鎧を飲み込まんとして、止まる。凍りつく時の中でクシミアが拳を叩き込むと、波の氷像は粉々になって轟音と共に崩れ落ちた。無色水晶の砂にも似た氷の粒が雪よりも急いで落ちる中、輝く景色の中にオリゾの姿はある。
「貴様が水を沸かせるより、この槍で凍るほうが早いらしいな」
答えずにオリゾは小さな波を作り、同時に高圧水流を敵の頭めがけて幾度も放つ。それを凍らし槍で捌く隙に距離をつめ、オリゾの右拳が奴の腹部を捉える。それは氷の檻を破ったときと同じく表面に目にも留まらぬ速さで水を流している。どんなに頑丈な鎧でもひとたまりもない筈だ。
しかしクシミアもただ突っ立っていたわけではない。メキュハクヒの刃先を相手の左拳に当てていた。通常なら前回の戦いと同じく受けた刃先を受け流されてしまうが、彼はそれよりも早く拳に流れる水を凍らせたのだ。
二人は同時に後ずさり、それぞれ一撃を食らった部分を押さえる。クシミアの鎧は抉れてこそいるもののその機能を失ってはおらず、オリゾの左拳もまた新たに沸き出す水に押されて氷がはじけ飛んだ。だがオリゾのダメージは見かけより大きかったか、彼は肩で息をしている。
「なるほどその力、長く使えば身が持たないと見た。長期戦に持ち込めば勝てない相手ではないな」
「くそっ」
打撃と槍捌きとが幾度もぶつかり合う。英雄の力を余すところなく使うオリゾと、伝説の槍を己が経験に組み込んで扱うクシミア。二人の戦いは互角に見えるが、徐々にオリゾの反応が遅れ始める。わき腹に生まれたわずかな隙をクシミアは目ざとく見つけ、石突を叩き込むと青い甲冑が初めて膝を付いた。
「貴様と私とでは、踏んできた場数が違う。勝負あったな。“伝説”」
矛先を向けられて項垂れるオリゾは、急にクシミアの腹部に抱きつき、抉れた部分へ垂直に指を立てた。
「避けられるものなら!」
「言った筈だ。“勝負あった”と」
指先から放たれた水流は空高く上がり、ただそれだけだった。ぐらりと揺れたオリゾの身体。いつの間にか二人は凍った湖の上にいて、散々暴れた結果オリゾの足元が割れその身を飲み込んだのだ。オリゾが浮かんでくるより早く、クシミアは穴にメキュハクヒの刃先を入れる。たちまち湖の奥底まで冷気が伝わり、水を氷へと変えていった。
胸に当てた手をきゅっと握り締めるリベアが立ち上がって石畳の道に振り返ったのは、全身で日の光を受けるべく砂浜に大の字で横たわるライバが目覚めたときだった。彼女らは顔を見合わせると、お互いに同じことを考えていたと言うように頷いた。ほんのわずかな間だが、ココナティのアクセスが通ったのだ。二人は急いで石畳を駆けた。
氷の檻があった場所で、二人は反対側から歩いてくる影に口元を緩めたが、その黒い鎧にすぐさま青ざめた。勝ったのはクシミアだ。
「まだ帰ってなかったのか。ほら、死にたくなかったら道をあけろ」
ライバは悔しそうに後ずさりするが、リベアはむしろ仁王立ちの姿勢をとった。ここから先は一歩も通すまいと彼女の目が凄む。意外そうに眉を上げるクシミアだったが、やがて溜息をつくとゆっくり歩きだす。
「奴なら上にいる。どこかにな。今ならまだ間に合うかもしれない。様子を見に行ったらどうだ」
クシミアがそう言ってなお、彼女は一歩たりとも動こうとはしなかった。
「……そうか、警告はしたぞ」
早足になったクシミア操るメキュハクヒの槍が、リベアの右肩へと振り下ろされる。しかし壁に阻まれたように寸前で跳ね返り、彼女の身体に傷をつけることは適わなかった。
「ほう」
ギョロりと睨んだクシミアの目に、ライバは慌てて口を噤む。と同時に彼女の身体をなぞるように張られた結界が消える。この機に石突を叩き込もうと振り込むも、今度はより手前で弾かれた。
「ただの水の民だと甘く見ていたみたいね」
距離をとり、指先で宙に模様を描くリベアは挑むような目で大胆不敵に笑みを浮かべる。結界は鳥かごのようにクシミアを囲み動きを封じ、クシミアの瞳に更なる光を宿らせた。
「私はオリゾ様の補佐を任せられているの。彼と一緒に来たときにそれだけの力があるとどうして考えなかったの?」
「火の国に生まれれば、アンニィと肩を並べていたかもしれないな……面白い。その度胸を見込んで相手になってやろう」
手を離れた槍が結界にもたれかかり、クシミアの拳が結界の一点に猛攻を加える。リベアの宙をなぞるスピードが増し、少しずつ結界の厚みが増す。それはさながら拳で拳を打ち合う殴り合いだ。
「大したものだ。だがこのままでは貴様も私に傷をつけることは出来まい」
「それはどうかしら」
リベアは大きく息を吸う。
――古から将に来る先々の先において
平和の糸を紡ぎ続ける我ら水の民は今こそ力を欲す
そのイトはなだらかなる海原と大らかなる空をせり分ける水平線なり――
声と共に再びリベアの身体をなぞって結界が張られる。しかしクシミアのものと違うのは、俊敏に動く指先まで張り付いているかのように動く点だ。彼女は結界を自らの装甲として纏いつつあるのだ。
――我らが始まりし生命の滝壺 我らが崇めし知識の祭壇 我らを繋げし原始の水瓶――
「指先と口での二重詠唱か。ますます面白い!」
メキュハクヒを手に取り地面に突き刺すと、クシミアに張られた結界の外側の地面から勢いよく氷柱が突き出した。身体に纏う結界のおかげでリベアに触れた氷はすぐさま砕けたが、不意の攻撃に彼女の言葉が詰まった。それでもまだ結界は消えていない。
――これより使いし力は己を守るために 己こそが民と国とを守る四種目の聖域なり 即ち――
二人の熱気とは対照的に、周囲は砕けた氷で溢れかえる。それだけ熱中しているからこそ、クシミアは頭上から来る影への反応が遅れた。彼が見上げたときには既に、オリゾの足が迫っていたのだ。リベアの声と共に結界の上部が開く。もはやクシミアに逃げ場は無い。
一瞬だった。突き立てたメキュハクヒを引き抜くと同時に石突をオリゾに突き入れ、瞬時にオリゾを氷像へと変える。が、クシミアの肩に当たっていた筈の左足は無く、そこにはただ水が鎧にぶつかり迸った状態で凍っている。
「これは――」
ミシミシと、オリゾの氷像にヒビが入り、砕けた奥からオリゾがほぼ同じ姿勢で、メキュハクヒを器用に避けながらクシミアの肩に一撃を食らわせた。ホノカはメキュハクヒへの対策として、先に自らの水像を飛ばしていたのだ。
クシミアが身体を崩し、結界の器に水が満たされる。程なくして結界が解かれると、中から二人の男が流れ出た。ふらふらと立ち上がったのはホノカの方だ。
「ホノカ!」
駆け寄ってホノカの胸に顔をうずめるリベアの頭を、彼は抱き返しながら優しく撫でる。赤く腫れた目と澄んだ黒い目とが見つめあう。
「ホノカ、氷付けにされたって」
「ああ。でもこのとおり。よくよく考えたら、熱湯で溶かせばよかったんだ。もっと早く気づいていれば……心配かけたね」
「……馬鹿」
二人はもう一度互いを強く抱きしめあった。
ライバは倒れているクシミアに近づき、恐る恐る指先で何度かつつくも反応はない。安堵の息をつきポンと蹴ると、クシミアの手が即座に足首を捉えた。バランスを崩したライバは泣きそうになりながら逃れようともがくが、足首を掴む手は硬く閉ざされている。
「不意打ちか……伝説とは、実際前にすると案外大したものではないのだな。ハハ……」
ホノカ達が駆け寄るとクシミアはようやく手を広げ、仰向けに転がった。鎧中に亀裂が走り、破片が散らばっている。口から血を吹き出し咳き込む様は見るに耐えない。彼は目だけを動かしてホノカの顔を見つめると、苦痛に顔を歪めながらも優しい笑みを浮かべた。
「私は始め、貴様のことを勘違いしていた。強大な力を得て馬鹿の一つ覚えに振るい奢るただの小心者だとな。だが、戦ってわかった。私は“伝説”に破れたのではない。ホノカ、他でもない貴様に敗れたのだ」
息絶え絶えに話すクシミアが再び血を吐き出す。担ぎ上げようとするホノカだが、騎士は首を振って制した。
「それよりもだ。火の国に、貴様と同じような髪と目の色をした新参者がいる。ああ、肌も同じか。体格はひょろひょろしていて女みたいな奴だが、中身はもっと奇妙だ。貴様の仲間か」
ホノカの眉が上がり、おでこにうっすらと横皺が浮かぶ。
「ミナリ」
「そうだ。そう名乗っていた。動いていないならまだ城にいる筈だ。どうするかは貴様が選べ」
かすれゆく声を出しながらクシミアが視線をずらすと、赤く腫れた目を捉えた。その顔は何かを悔いているようだ。
「そこな娘。まさか貴様のような娘が二重詠唱を扱えるとはな。発動とまではいかなかったが、いいものを見せてもらった」
二人は屈んでクシミアの手を祈るように取るが、彼の表情が少し和らぐだけだ。
「すまない」
声にならない声が誰かの名前を呼び、すうっと、彼の口から息が漏れた。天寿を全うしたかのような、やり遂げた溜息に似た息を最後に、彼の気道は空気の運搬をやめた。