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-ORIZO- 異世界の英雄  作者: 小浦すてぃ
3/18

ー均衡守る水の国ー


 ――不戦を貫く人々の前に現れ、彼らを守護し、終焉を前に命を賭して打ち消した。水の民に語り継がれし古の伝承。纏う青き甲冑は穏やかな水面のごとき表面を持ちながら、触れるものを激流で押し流すように滑らせる。時として全てを包み込む深く広い海のように何もかも受け止める。戦士は穏やかな水を操り、自らの力に、人々の恵みに変える。この世界に生まれざりながら、この世界に訪れる者。その名は、オリゾ――。


 無数の線で区切られた色鮮やかな布がいくつか飾られる、青い壁と天井が雨風を絶つ部屋にリゼエの老いた声が響く。土の床の上、段差が生まれるほどに重ねられた布のベッドから起き上がる男の耳に最初に流れ込んだのは、水の国に伝わる昔話だった。

「気分はいかがですか?」

 枕元に立つ女性の姿に、彼は目を見開いて身体をすくませた。小さな島に暮らす少数民族が纏うような柄の一体型の――ワンピースと言うには少し厚い――衣服は、彼が身に着けるシャツにジーンズといった服装とは大きく異なる。彼女の艶のある水色の前髪がほんの少し揺れ、そこから頭の後ろへ視線を滑らせた彼は、人間の身体ではありえない長く垂れ下がった部分に息を呑んだ。夢か現か。光を求めるように伸ばす彼の腕を、彼女の両手が受け止める。

「オリゾ様。リベアです。お会いできて光栄です」

 互いに存在を確かめるように手を握りあう。男は何か言いたげに口をパクパク動かしたが、言葉にはならない。リゼエが皺だらけの手で男の肩を叩くと、彼の身体は少し跳ね上がった。

「オリゾ様。ようこそ水の国へ。ワシは特長老を任せられております、リゼエでございます」

 リゼエに向けられた男の顔には未だに驚きが張り付いたまま離れない。まじまじと皺だらけの顔を見つめていた彼は何を思い出したのか素早く首を前に倒すと、両手で自らの身体を手早く触った。急に我が手を離れる戦士の手に、リベアが小さく声を漏らす。

「痛くない……俺は、死んじまったのか?」

 彼の目は自らの足元へ向けられる。その問いが誰に向けられたものでもないことは明白だが、リゼエは肩に手を置いて首を振った。

「いいえ。貴方は死んでおりませぬ。このように生きて、ワシらの世界に降り立っているのです」

 ――ここに来る前の事を思い出せますかな。手を放したリゼエの声に、男は俯きながら右手の人差し指の付け根を唇の下に押し付けた。

「親戚の子に勉強を教えに行く途中で……子供が信号渡ろうとしてて、タンクローリーにぶつかりそうになって、気づいたら、俺が跳ね飛ばされてて……」

 言葉の意味がわからないのか目をくりくりさせるリベアとは対照的に、言葉の一つ一つに頷くリゼエは頬を緩ませる。

「なるほど。ここに来る前から既に英雄だったということですな。オリゾ様は」

「いやそんなつもりは……あと、俺はオリゾじゃなくて、魚田峰ホノカって言いまして」

「わかっておりますとも。オリゾとは戦士の名。真の名はまた別にある。しかしここでは皆がオリゾ様と呼ぶでしょう。どうかお気になさらずに」

 戸惑うホノカの言葉を遮り満足げに語る彼は、軽く頭を下げるとリベアに目配せをして部屋を後にした。

「立てますか?」

 彼女の声に頷き、腰を重心に体を回し足を床へと投げ出したホノカは、側の置物を支えに立ち上がろうとしてよろめく。手を差し出そうとしたリベアを咄嗟に制すその姿は毅然としてリベアを見惚れさせたが、彼女の見えない方へ俯いた顔は決まりが悪いと言わんばかりに赤らんで歪んだ。

「こちらへ。街をご案内します」


 リベアに続いて表に出たホノカは、外の様子に顔を引きつらせた。伝説の戦士がどんなものか一目見ようと集まった水の民が何人も彼の周りを取り囲み、羨望のまなざしと見世物小屋の珍獣を見るような視線を注ぐ。

「さあ、こっちです」

 二人が歩きだすと自然と人の壁は左右に分かれ、やがて思い思いに散らばった。涼しい顔のリベアについていくホノカは、背丈こそ彼の方が頭一つほど高いが、口は半開きのままキョロキョロと辺りを見回し、足を止めそうになっては開いたリベアとの距離を詰める。さながらテーマパークに来た子供だ。

 遠くに見える山々や海原は彼の世界のそれと大差ないが、小学校の運動場と同じ地面には傾斜や起伏が全くない。立ち並ぶ四角い建物は皆一様に青く、窓の位置、玄関の位置、屋根の高さに間口の広さ、全てが判子を押したように画一的だ。

 少し歩いた彼女らの前方に、深海色の壺が見えてくる。その大きさはちょうど近くの家を縦に二つ重ねた程度で、目の前に来る頃には二人は顎を上げて口縁を眺めていた。

「これは“原始の水瓶”といって、水の国のシンボルなんです。そのモデルは全ての生命を生み出した底のしれない大海なんですよ」

 話しながら壺を一周するリベア。ぐるりと引かれた三本の白い波線は荒々しく、線に近いほど深海の青は水面の色へと薄まる。躍動感がある一方でどこか落ち着いた雰囲気を醸し出すその様。海そのものを模して作ったというのも頷ける。

「中に何か入ってるんですか?」

「ええ。この中はかつて神が海底からさらった水で満たされているんです。全ての生命の根源たる海底の水は、流れる場所がない水瓶の中でも腐ることがないんですよ。水の国に点在する全ての街に水瓶があって、この瓶のおかげで知識共有範囲の拡大がなされ、行き来の出来ない街同士でも意思の疎通が可能となっているんです」

 リベアは簡単な数式を解くように淀みなく語るが、“知識共有”の辺りから、何を言っているんだこいつはとホノカの顔には書いてあった。――知識の共有。確かめるように発する彼の言葉に、リベアは照れた笑みを浮かべ、

「ごめんなさい。説明がまだでしたね」

 と、思い出したと言わんばかりに胸の前で手を叩いた。ようやく見えた容貌相応の反応にホノカは小さな安堵を息にして漏らすが、変わらぬ口調を見るにあくまで伝説の戦士に失礼のないよう努めるつもりらしい。彼女はホノカに背を向け首だけで振り返ると、後頭部に垂れ下がる部位を、後ろ髪をまとめるのと同じ仕草で軽く持ち上げた。

「水の民はココナティという、こうした身体の部分を持ちます。この内側にある器官が、私達に知識の共有を許しているんです。例えば近くの森で嵐が起こった場合、それを見た民からの情報をこの街にいる私達も受け取ることができるんです。どうぞ」

 ココナティに触れるよう促すリベアの横顔はどこか誇らしげだ。奇妙そうな顔のホノカが頭ほどの幅があるココナティの先を両手で受け取ると、彼の眉が目蓋を引っ張った。

「軽い」

「そう。一見重そうに見えますが、実は気にならないほど軽いんです。これは中身が空というわけではなくて、頭部や頸部の負担にならないように進化した結果だと言われています」

 リベアの学者のような説明の間、彼は不思議そうにソレを揉み続け、うんうんと首を縦に振る。

「つまりネットとかSNSみたいなものが生まれ付き備わっているってことか」

 一人納得するホノカ。彼女の耳に飛び込んだ異世界の言葉は当惑の表情を浮かべさせようとするが、彼女はあくまで静かな態度を崩さず“そういうことです”と肯定した。

「もしかして今までの大人びた説明も、ここから拾ってきたのをそのまま喋ってただけだったり」

ふにふにと揉むのをやめないホノカの指摘に、一瞬ばつの悪そうな顔を浮かべて背けた彼女の姿は愛らしい。

「ちなみに、赤ちゃんにココナティを触らせると、不思議と機嫌をよくしてくれるんですよ」

 ようやく彼の顔に見えた余裕はその言葉に立ち消え、彼は咄嗟に手を放して大きな咳払いを響かせた。


 二人の表情は、それぞれ案内人と来訪者のソレから少し緩んだ。リベアとしては伝説の戦士に粗相のないようにと気を張り巡らせていたみたいだが、水瓶を去る前のやり取りで緊張がほぐれたらしい。現に彼女は鼻歌を歌っている。ホノカの方はと言えば、今の状況を楽しむことにした様で、見るものにいちいち目を輝かせている。二人の位置は前後から左右に近づき、事情を知らない者にはデートの最中とさえ映るだろう。しかし歩けど歩けど相変わらずの軒並みは、デートスポットには程遠い。

「そういえば他にも街があるって言ってましたけど、やっぱりここと同じ造りなんですか?」

「うーん、自然以外はほとんど同じに見えるかもしれませんね。キィサモ、リバァマ、マーシンキ。どこも海沿いですし、家の形も統一されています。でもちゃんと目を凝らせば、このマヤツミにしかないものがちゃんと見えてきますよ」

 それぞれの街の名前を復唱しようとするホノカだが、はっきり言えたのはマヤツミだけだ。外観は似ているのに名前は違って覚えにくいと言う彼と笑顔で応えるリベアの距離が更に少し縮まった。

進む二人の右手に、それまで見てきた家をそのまま横に引き伸ばしたと言わんばかりの広い建物が現れる。ただ広くなっただけだがこの街の中では大きな違いだ。

「ここは一体」

「ここは何でもないです。先に行きましょう」

 上ずった声と共にリベアの足は早まり、歩幅が広がる。しかしその建物の入り口に差し掛かったところで急に立ち止まり、歩調を合わせていたホノカはつんのめって彼女の肩にぶつかりそうになった。建物から出てきた四人の水の民が、二人の前に立ちはだかる。

「あのー、通してもらってもよろしいでしょうか。おじいさまから彼を案内するように言われてますので」

「だったらまずは、コッチに来るのが礼儀だとは思わぬか?」

 顔に引きつった笑みを張り付ける彼女に、四人の先頭にいる白く面長な顔の男が奇妙な発音で返す。その後ろのふくよかな女性は品定めするようにホノカを見ていたが、お眼鏡に適ったのか不敵な笑みを浮かべた。最後尾の逞しい体がずいと前に出て、ホノカの肩に手を当てる。

「貴方がオリゾ様ですね。私達はこの街に住む民の代表――シギュイーと呼ばれています。私は若い世代のシギュイーを任されております、レザン。こちらの顔の長いのが、男代表のロエゴ。彼女は女性代表のロズべ。そして――」

 レザンの後ろから小さな体がひょこっと現れ、黒い顎鬚をいじりながらホノカの前に歩み出る。

「アッシが老いし民のシギュイーにして、次期特長老のルロウですじゃ。どうぞよしなに」

 ぺこりと頭を下げる彼の背丈はホノカやレザンのへそ辺りまでしかない。ホノカは戸惑いながらも首だけで頭を下げると、ルロウはゆっくりと手を挙げ、ピョンピョンと飛び跳ね始めた。十回ほど跳んで息を切らしたところで、レザンがその小さな体を抱えてやると、彼はようやくその手をホノカの肩に置いた。

「すみませんね。オリゾ様はご存じないでしょうが、水の民の男は初めて話す相手にこうするんです」

 レザンに相槌を打ちつつ、ホノカが大きな肩、小さな肩へと順番に手を置くと、小さな体の主はカカカカと顔中に笑みを浮かべた。

「なるほど、握手みたいなものですね」

「アクシュ?」

 そう首を傾げたのは白い顔のロエゴだ。ホノカはロエゴの肩に手を置き、

「ええ。ここに来る前の、僕のいた世界では、出会った時にお互いの手を握りあったりするんです。こんな風に」

 流れるようにロエゴと握手を交わす。未知の文化にロエゴは顔のパーツまで縦長にする。

「これは興味深い。是非ともオリゾ様のいた世界のお話をお聞きしたいですな!」

「そうねぇ。これはお互いにじっくり話し合う必要がありそうだわぁ。ねぇオリゾ様。どーおぅ? この子に変わって私が、この国のこと教えてあげてもいいわよ? つ・い・で・に、私のことも、ね?」

 いつの間にかホノカの左側に立っていたロズべが体を寄せる。猫なで声と合わせて彼を誘惑しているのかもしれないが、彼女には到底不可能な挑戦だ。そもそもこの二人は並んだだけでも親と子以上に歳が離れているのがわかり、とてもではないが男女の関係という言葉は当てはまらない。

「あのー、シュギイー・ロズベ。オリゾ様の案内は私が特長老様に任せられたことでして……」

 おずおずと口を挟むリベアに睨みを利かせながら、ロズべはねっとりとした笑みをホノカにだけ見せ、

「ごめんなさいねぇ? そんな色気の欠片もない子供じゃ頼りないでしょう? でも特長老の命だから……あとで私のトコにいらっしゃい。いいもの見せてあげるわ」

 と目蓋を一瞬閉じた。なんとも言えない妙に張りつめた空気が、わずかな沈黙を招く。

「なんにせよ、まずは日夜議論を交わすシュギイーの議事堂に、のっ、のわぁあ!」

 気取るロエゴの白い顔がクリアグリーンに変わり、奇妙な悲鳴が上がる。ねっとりと頭から垂れるそれはロズエ、レザンの頭にも次々と落とされ、それぞれの表情が声と共に歪む。しかしルロウだけは小さな体でひょいと避けてみせた。やがて響く笑い声に、一同は議事堂の屋根を見上げる。

「はっはっは! 惜しい惜しい。やっぱジジィは手ごわいぜ」

 民の代表であるシュギイー達を見下ろすその少年は片手でクリアグリーンの球を弄び、キリっとした目を細めて無邪気に笑う。被害に遭った三人は目を吊り上げて叱ると、笑いながら屋根伝いに駆け出すいたずら小僧を追いかけていった。後には緑色に汚れた地面と、的に選ばれなかった二人、そして調子よく反復横跳びをするルロウが残るだけだ。

「まったく、ライバにも困ったもんだわい。ホッ! ホッ!」

 口ではそう言うが、老体とは思えぬ身のこなしを披露し続けるルロウはどこか楽しそうだ。呆気にとられていたホノカは、何事もなかったかのように歩きだすリベアの背中とルロウのステップを交互に見、ぺこっと頭を下げてその場を後にした。


「議事堂は見なくていいの?」

「いいの。めんどくさいだけだし」

 リベアの足が自然なペースに戻った頃には、二人は既に隣同士で進んでいた。突き放すような彼女の口からは敬語が外れ、わずかに目が血走っている。その様子に何か気づいたのか、小さく口を開いたホノカだったが、やがて口を噤んでそっぽを向いた。

 道の奥に見える海は歩く度に広がり、見る者の心を癒しながら空と大地を大きく隔てる。両脇に並ぶ家々の終わりが見えてくると、顔をのぞかせた白い砂浜に青いジーンズが駆けだした。

「おおー! すげー!」

 砂浜は力強い足の一歩一歩を丁寧に書き出し、更には彼の身体さえ受け止める。砂まみれになってなお笑うホノカに、彼女は困ったような笑顔で息をつきつつ左に腰を落とした。

「あそこに見えるのが、“知識の祭壇”といって、知識共有の要を担っている場所です」

 彼女の指差した先では岩肌の見える島が、生物には作りえない青の真っただ中を所在なげに佇んでいる。腕で上体を支えたホノカは果てのない海と空を瞳に写すと改めて言葉を呑み、その中に際立つ“点”に目を凝らす。

「あそこに祭壇があるんだ。結構距離があるん……ですね」

 言葉の妙な間に、二人は同時に右を向く。しかし不思議そうな顔は何やら気恥ずかしそうな顔を覗き込むことなく、水平線に目を細めた。

「そうですね。向こうに行く時は小舟を使います。と言っても、行く機会なんてそうそうないからどれくらいかかるかは……」

 後半笑い混じりの答えに、海に向き直った彼が気の抜けた返事を返す。細波は誘うようなリズムで続き、二人の沈黙をかき混ぜる。海に還り、自然と一体になったらどんなに気持ちいいだろうか等という思索にふけるにちょうどいい音色が砂浜と海原を結ぶ。


 ――ところで、

 静寂が弾けると同時に覗き込まれた忘我の表情は一転し、彼は中断された思索の海から砂浜へと打ち上げられる。空気に溺れたような素っ頓狂な反応はほんのわずかのことだったが、上体を支える腕を滑らせるには十分すぎた。その反応に一拍置いたが、彼女は言葉の続きを選ぶ。

「ところで、さっきの間はなんだったんですか?」

 困惑する彼の眉が上がる。しどろもどろになりつつ、

「いやその、あー、敬語が、使うべきか迷って」

 かき集められた言葉に目を丸くし、彼女の口から笑いがこぼれる。

「気にしなくていいですよそんなの。私に合わせてくれなくたって――私は気にする必要がありますけどね。なんてったって相手は伝説の戦士様ですから」

「伝説の……戦士」

 茶化して言うリベアだが、その顔はどこか得意げだ。だが身体の砂を払い、ゆったり立ち上がるホノカの思案顔からおもむろに出た言葉が、そんな彼女の顔を変える。

「でも途中でタメ口になったよね」

「えっ、いっ、いや、そんなことないです! ずっと敬語のままでしたよ!」

「いやっ! ちょっとだけだけどタメ口だった!」

「なってまーせーん!」

 からかうホノカに意地を張るリベア。しかし程なくしてどこかで聞いた若々しい呼び声が痴話喧嘩を止めた。

街の方へ振り返るホノカは自分の顔へ飛んでくる何かに目を光らせ、その正体を見定めるより先に手のひらをかざした。その右手は余裕を持って開かれ、あわよくば飛んできたものを受け止めようと考えているようだ。すぐさまソレはホノカの手の中に飛び込み――指の間からその一部が勢いそのままに彼の顔をライトグリーンに汚した。

「わぷっ」

「へへっ、ちょろいぜ」

 パシャッという音と共に小さな悲鳴と勝ち誇った声が重なる。目元を拭う二人は混濁した緑に塗れた手に顔を曇らせるが、お互いの汚れた顔を見交わすと腹の底から笑い出した。

「何笑ってんだよ。ばっかじゃねーの」

 つまらなさそうに口を尖らせるその顔は、さっきシュギイー達の顔にも緑を塗った子供のものだ。ようやくリベアがハッとして咄嗟に子供の方を向くと、彼はニタニタとした笑みを浮かべる。もはや彼女の非難の声は追いかけっこの始まりの合図でしかない。

 ホノカの口に広がる甘じょっぱい風味は、混濁とした緑色の液体から滲み出る。一口含み舌と上顎で揉むようにする彼は料理の味付けを確かめる顔を浮かべた後、持て余した両手の緑を眺めて途方に暮れた。

 その時だ。彼の両手の平と緑色の間に冷たくさらさらとした感触が芽生え、瞬時に増大して緑色を流れ落とした。声のない驚きに染まる顔でも既に同じ現象が起こっており、汚れを顎から砂浜へと追い込んでいく。後ずさりする彼の顔と両手には既に粘っこく張り付くような感触はなく、汗というには多すぎるほどの水分がこぼれ落ちていく様子に彼の瞳が揺れ動く。

 身に起こった不可解な出来事が信じられないのか右手をゆっくりと持ち上げ、人差し指の付け根を唇の下に密着させ、舌で小さく水分をすくう。だが彼の嗅覚にも味覚にも、喉や胃といった身体の内部にさえ訴えかける刺激はなく、湧き終えて腕を伝うソレは自らをただの水であると主張していた。

 彼が呆然と手を見つめる間も、波打ち際でのリベアと少年の追いかけっこは続いている。彼はその指で銃を作り少年に向け、中指をおもむろに開く。何となく、といった確かめるような表情で中指を素早く畳む。そこからの手の中で起こったことは一瞬だった。すぐさま畳まれている三本の指で出来た筒の中に水が満ち、そこから紐のように人差し指をぐるぐると回りながら先端へと動く。そして指先に辿りつくや否やまっすぐに飛んだ水流は、少年の後ろを追いかけていたリベアの顔に当たり、波打ち際に小さな悲鳴と新たな波音を立てる。

「あっ、やっばい」

 かかとで砂を蹴り上げて彼女のもとに駆け寄るホノカは、気まずさを引きつれた笑みで声をかける。彼の水流が弾き飛ばしたのか細波が洗い流したのか、彼女の少し怒った顔に緑色の汚れはついていない。

「うー、もう、何するんですか!」

「ごめんごめん。俺もよくわかってないんだ。俺の身体なんか水が出てくるんだよ」

「あーあー、女の子に手を出したー」

 謝る彼を指差し、どこか楽しそうに言う少年。彼女もホノカの顔を半目で見つめる。更に弁明を重ねようと彼が手を軽く広げたところで大きな波が三人の身体に覆い被さり、それぞれ目を丸くすると一斉に吹き出した。

「もうっ、なんだよこれっ」

 それからしばらくは少年と男との追いかけっこが続いた。水と緑の球の撃ちあいは時おり眺めているリベアに流れ弾を食らわせ、その都度野次が飛ぶ。数十分ほどしていい加減疲れ果てたのか、駆け回った二人が隣同士でへたり込む。

「お前、面白れぇ奴だな。こんな張り合いのある相手初めてだぜ」

「いやー、俺も楽しかったよ、子供に戻ったみたいだった……君の名前は?」

「ライバ。あんたは?」

「魚田峰ホノカ。ホノカでいい」

「ウオ……ダァ? なげぇし変な名前だな」

 笑って言う少年の肩を、似たような笑みで小突く。

街からヒステリックな声がライバの名を呼ぶと、うっすら青ざめた少年の顔がぎこちなく振り向く。ブルドックに似た顔の女性はどすどすと二人に近づきライバの頭にげんこつを下すと、その腕を掴んで街の方へと戻っていく。

「いってぇよ何すんだよかぁちゃん」

「あんた留守番してろって言ったのにまたサボって!」

 嵐のように去っていった二人にしばし呆然とした後、リベアは立ち上がって何事もなかったような顔でホノカの手を取り、波に並行するように指差した。

「ほら、次行きますよ」

 

 左手の景色が街から鬱蒼とした森に移り、二人の足元はきめ細やかな砂浜から、大小入り乱れる白っぽい岩場へと変わる。

「伝説では、オリゾ様の力は水そのものを司るとあります。水に形や固さを与えたり、それこそ水を生み出すこともできたと」

 彼女が語る間も、その手は繋がれたままだ。興味深そうに自由な方の手を見つめ、水を湧かせては止めて腕に伝わせるホノカはその手を裏返す。上を差した指先から水を放射させ噴水を作り二度三度頷いた。

「本当に俺が、伝説の戦士……なんだな」

 噛みしめるような言葉に返事はない。やがて見えてくる清流の流れを辿り、リベアを前にして登る岩場は険しさを徐々に増す。

「そこ、足元に気を付けて……初めての人には結構厳しい道ですけど、大丈夫ですか? 怖くないですか?」

 先を行くリベアが彼を気遣うが、ホノカの顔は不服そうに歪んでいる。額の汗を拭い、その手に水を湧かせて洗い流しながらの“大丈夫”は岩にぶつかる激流の音に負けていない。体の丈夫さを見せるホノカだが、軽い掛け声と共に大きな段差を登る彼に対し、ピョンピョンと軽やかに岩を跳ねる涼しい顔のリベアの差は土地鑑の違いから生まれるものであることは明らかだ。足場が平坦になる頃には、流石のホノカも両手を膝について息を整えた。

「お疲れさまです。ほら、あそこが生命の滝壺ですよ」

 指差された方へ顔を上げるホノカの目の前に、小石の原が広がった。人ほどの大きさの岩が点在して涼しげな影を作る。隙間を見つけて咲いた小さな花は気持ち良さげに風にそよぎ、時おり川からはみ出した飛沫を浴びている。目線が川を上ると、その目は見開かれた。遠くに水筋が縦になる場所へと行き当たったのだ。長い感嘆の息を吹き出し、彼は歩きだすリベアに続く。

「あれが生命の滝壺。私達が生まれ、そして死んでいく場所。水の民の命を司る場所なんです」

 水の民の命。言葉に怪訝な表情を浮かべる彼は立ち止まった彼女のココナティにぶつかりかけてステップを踏む。彼女の口からどこの言語ともつかない音が発せられるが、周囲を見回す彼の瞳は景色の変化を認めない。程なくして彼女の足は寸刻前と同じテンポで動き出す。

「今のは?」

「今の……ああ、今のは結界呪文です。ここのように私達にとって重要な場所には結界を貼っておくんですよ。森の獣が汚したりすると困りますからね。この呪文は先人が昔旅人から教わったもので、さっき見えた祭壇に古くから記録されているんです。だからこういう場所には、水の民以外は近づけないようになっているんです」

 つらつらと語る彼女の言葉は、彼女自信の知識からくるものなのか、それとも祭壇からココナティに受け取った知識の受け売りなのか、判断するには流暢すぎる。

「でも今朝、私達が還元の儀を行っている最中に、その男が来たんです」

 並んで歩くホノカには、少し俯いた彼女の唇が震えているのがよく見える。男――彼が語尾を上げると、彼女の首は縦に揺れた。

「その男は、火の国というところから来た騎士だと言っていました。クシミアと名乗るその男は、私達が結界を解く瞬間を、儀式の時を狙って来たんです。――私達は戦うことが出来ませんから、本当ならその時に死ぬ筈だった。でもそこにあなたが滝壺の中から現れて、彼らを退けてくれたんです。覚えてないですか?」

 驚いた顔で首を振る様子に寂しげな顔を見せ、彼女は続ける。

「そうですか、でも、命の恩人には変わりありません」

 際立った息が吐きだされ、気を取り直したように滝壺のほとりへと彼女は手を引く。二人に構わず水は落ち続け、透き通る水面に移った二人の姿を揺らす。ホノカは映り込んだ自分の顔を掴むように、両手を差し込み皿を作って水を持ち上げるが、指の隙間から水面へと戻っていく。

「一度こぼしてしまえば、二度と同じ魂を作ることは出来ない、か」

 水面に揺れる彼の微笑みには、どこか諦めに近いものが寄り添う。濡れた両手を顔に当て皮膚を揺らし、彼女に向き直る。

「ありがとう。なんだかすっきりしたよ。ここは綺麗な所なんだね」

 はにかむ彼女の顔は道中で見せた涼しい顔より相応しく写る。ホノカの手は彼の目の高さまで上がり、少し迷った顔を浮かべてから自らの頭をかいた。頬は仄かに赤い。

「でも、俺をここに案内するためだけに結界を解いても良かったのか?」

「それは問題ないですよ。何かあってもオリゾ様がいますから」

 彼は幾度目かの面食らった顔を作る。

「それに――あっ、来ましたね」

 彼女が川下の方を見やると、そこから一人、また一人と水の民が登り、列をなして二人の元へ向かってくるのが見えた。その先頭にいるのは水の民の特長老リゼエと、老いし民のシュギイー・ルロウだ。

「何が始まるんだ?」

「還元の儀式です。リゼエおじいちゃんの」



 六十歳を迎えると水の民は生命の滝壺に還る。その見送りが“還元の儀式”と呼ばれる行事だ。対象者は特長老によってその身を滝壺の底に沈められ、水と一体化する。淡々と説明するリゼエの口調は他人事のようだ。

「六十年も留まっていたら、どんな水だって腐ってしまうわい。それでは若い水にも影響が悪いですしの。だからこうして、還元の儀式を行うのですじゃ。なんでも新鮮な方がいいっちゅうことですの!」

 カカカカと笑いながらルロウが補足する。当たり前のように佇む数十人の民からは、この儀式が古来より疑いなく続けられていることが窺える。

「では、リゼエ殿。ご挨拶を」

 うむ、と返事をした老体はもったりとした足取りで滝の正面に立つと、取り囲む一同を見渡して小さく頭を下げた。

「今日ここに集まりし水の民よ。今日はワシのために時間を使わせてしまってすまぬ。ワシは、皆のおかげで還元を迎えることが出来たと思っておる。これまで先人達や皆が支えてくれたおかげで、様々な経験を積むことが出来た。最後に伝説の戦士を一目拝むことさえ出来たのだ。これでもう、思い残すことはないと言ってもいい」

 水の民に混じって彼の最後の言葉を聞くホノカは、リゼエが一瞥くれるとたちまち姿勢を正した。リゼエは続けて、

「特長老としてのワシは皆の役に立てただろうか。皆が満足のいくようにはできなんだかもしれぬが、ご容赦頂きたい。その点ルロウ殿はきっと皆の期待に応えてくれる、良き特長老を務めてくれる筈だ」

その言葉にルロウは胸を張ってカカカカと笑う。尚もリゼエは続ける。

「最後に、特長老としての最後の仕事をしようと思う。というのは、オリゾ様のことだ」

 民の視線がホノカに集まり、彼は一層体を強張らせる。

「オリゾ様は伝説の戦士と言えど、我らの生活には馴染みがない。しばらくは誰かが側に付く必要があるだろう。そこでだ。オリゾ様の補佐に――リベアを任命する」

 リゼエを除く全員の顔が驚嘆を表した。方々でどよめきが起こるが、一番驚いているのはリベア本人かもしれない。彼女は目を限界まで開き、手を口に当て絶句している。リゼエが咳払いを一つすると、どよめきは速やかに引き上げた。

「と言っても、我ら水の民は出来うる限り平等を目指す。リベアだけに任せるということではなく、皆で助け合ってやってほしい。その代表が彼女というだけだ。皆、賛同いただけるかな」

 集まった人々は他の民の顔を窺いあい、やがて納得したように頷く。全員の視線がリゼエの下に戻ったことを確認すると、彼もコクリと一つ頷いた。

「最後まですまぬな。それでは、またいつかこの土地に新たな水の民として帰ってくることを願って」

 リゼエが頭を下げると同時に、集まった民も頭を下げる。ホノカも一拍遅れて頭を下げ、リベアが頭を上げたのを横目に確認してから頭を上げた。民達が話し出す中、リベアが祖父の下に駆け寄りホノカも後に続く。

「おじいちゃん。どういうつもりなの」

「リベア。お前は今日までよく、老いたワシの世話をしてくれた。彼の面倒くらい見てあげられる。そうじゃろう?」

 祖父の言い聞かせるような声音にリベアは押し黙る。リゼエはおもむろに彼女を抱きしめると、背中を優しく叩く。

「大丈夫。お前ならやれる。心配ないさ。あの二人の子供で。ワシの孫なのだから」

 二人の最後の抱擁は、その感触を触覚に刻み込むように長く、お互いを思いやるように優しいものだった。


「それでは皆の衆。これよりこの老いし民のシュギイーことアッシ、ルロウが、リゼエ殿の全知識の継承をさせていただきますぞ」

 ルロウの声が弾んだのは抱擁からわずか数分だった。その間リゼエは他の民同士の会話に入らず、神妙な顔で滝の前に座しており、ホノカといえば民達に囲まれ“火の国の戦士は戦ってみてどうだったか”“ここに来る前はどんな所にいたのか”など、矢継ぎ早の質問攻めにあっていた。故にホノカにとってはルロウの声は助け舟と言えよう。

 再び一同が沈黙と水音を共有し、リゼエを囲んで見守る。躍り出たルロウが腕を交差させ前に突き出しリゼエの両肩に触れると、その手がジワリと青く輝きはじめる。

「おおお、クる! 入ってキますぞぉ!」

 波打つように、光は強まっては弱まりを繰り返す。そのリズムは瞬きの速さから子供がお風呂で数を数える速さへと徐々に伸びていく。その様子を目から離さないようにしつつ、ホノカはリベアに声を潜めて問う。

「あれが何かですか。あれは全知識継承の儀式です。私達水の民は還元がありますから、年老いた方の知識や経験は出来るだけ残そうとするんです。それでも伝えきれなかったことに関しては、ああやってヒトリの者が記憶を受け継ぐようにしているんですよ。まあ……あんなに派手にやる必要はないんですけど」

 耳打ちは水音のおかげで他の民には届いていないらしく、二人の他は中央でうねうねと体を動かすルロウに注目している。突如ルロウの雄たけびが空高く木霊し、小さな背中が仰け反る。

「……ホッ! ほああ、無事、全知識継承は執り行われましたぞ」

 機嫌よく言う彼だが、水の民は皆無表情だ。白けきっているというよりかは、儀式における通常の雰囲気なのだが、ホノカは一帯に漂うシュールな空気に奇妙な顔を浮かべる。

「それでは皆の衆、いよいよ還元に移りますので、どうぞ滝壺の方へ。どうぞどうぞ」

 滝壺を囲むように移動する民にホノカも混ざる。全員の足が止まると、ルロウがリゼエの手を取って滝壺の中に身を沈めていく。それからルロウの身だけが戻ってくるのは数十秒後のことだった。

「皆の衆、お待たせいたしました。リゼエ殿は無事、我らが水の民の生命を司る“生命の滝壺”へとお帰りになられました」

 ルロウの宣言に皆が顔を緩ませる。多くの安堵の表情の中に目頭を押さえる姿や鼻をすする音があり。人々の間で清々しい穏やかな空気としんみりとした空気がせめぎ合う。

「リゼエ殿は素晴らしい特長老じゃった。朝の襲撃の際にも、オリゾ様がいたから助かったとはいえ、相手の騎士に対する毅然とした態度。彼は芯の芯まで水の民じゃった……これからはアッシが特長老の座に就くことになるが、どうか彼のような立派な勤めが果たせるよう支えておくれよ……静かなる水面を保つために!」

 ルロウはしたり顔で反応を待つが、ぞろぞろと歩きだす民の背中を見て肩を落とした。だが俯いた顔は決して小さくない滝壺の水音を裂く咆哮によって痙攣し、素早く首が回る。遠くに広がる針葉樹の森。そして視点の先では、黄色いまだら模様が痛々しい四足の獣――狼に似た咆哮の主が敵意をむき出しにして睨みを利かせていた。


「一日に二度も結界を抜けられるなんて、ツイてないにもほどがあるんじゃないか」

 民の誰かの声が当てもなく漂う。彼らの青ざめた顔は、その獣との遭遇が死に繋がることを暗に示す。それでいて一目散に逃げださないのは、相手が力のみならず速さにおいても到底太刀打ち出来る相手ではないことを彼らが知っているのに加え、ヤツに出会った際は出来るだけ刺激を与えてはならないという知識が共有されているためだ。

 民の戦慄はホノカにも伝わり、獣の威嚇もあわせて彼の動きを止める。しかし直後に真横から響いた音に反応し、彼の身体が一度震える。すぐ横には腰を抜かし尻餅をついてなお怯えた顔で獣を見るリベア。彼女の視線の先で、獣は目を光らせるが早いか、小石の原を駆けだした。獲物は決まったようだ。

「まずい!」

 悲鳴と雑踏が入り乱れる阿鼻叫喚が三人を残し、一匹の獣から離れていく。ホノカ達は既にわずか数メートルにまで距離を詰められ、唾液の滴る牙と充血した目が狂ったように彼らに飛び掛る。ホノカは足元で顔を強張らせたリベアを一瞥すると、彼女の身体を庇うように覆い被さり強く目を閉じた。

 ゆっくりと目を開くホノカがまず目にしたのは、表情筋が限界まで緊張した彼女の顔。そして確認した背中にあったのは深い傷ではなく、淀みなく呪文を唱えるルロウと見えない壁に突進を続ける獣の姿だった。

「ルロウさん!」

「ほっほっほ! 特長老の初仕事としては悪くないわい。オリゾ様。その子を安全な所まで運んでくだされ」

 落ち着き払っているルロウだが、指は素早く宙に模様を描いている。それは獣との間に隔てた一枚の見えない壁をなぞるパントマイムにも見える。ルロウの言葉に頷いたホノカは彼女の身体を抱き上げ、獣の猛攻を遠巻きに見ている民達の下へと合流する。

「リベアを頼む」

 彼女を降ろし、すぐさまルロウのもとへ駆けるホノカは右手で銃を作る。見えない壁に獣の爪が食い込んだのは、彼の中指が素早く開き閉じた直後だった。指先から放たれる水流は壁を破った獣の顔に命中し、間一髪ルロウの窮地を救う。ルロウは後ろへ倒れこんでいたが、駆けつけたホノカの顔を見ると、後は任せたと言わんばかりに民の下へ逃げだした。

「さて、と」

 ホノカに対峙する獣は体の水分を振り飛ばしながら目の前の邪魔ものに鋭い目を向け、海鳴りに似た唸り声をギラつく牙の端からこぼす。何があってもタダで済ませるつもりはないようだ。

 獣はホノカの姿が青い甲冑に変わるや否や、後ろ足で地面を蹴り吠えながら飛び掛った。しかし勢いよく噛み砕こうとする牙が、そして爪が甲冑の表面に触れた途端、獣の身体が相手の右側へと跳ね飛ばされた。

驚いたように吠えた獣は地面に叩きつけられてなお敵意を向け続ける。

「おい、もうやめとけよ」

 ホノカの言葉が通じる筈もなく、獣は甲冑を襲い続ける。全身に纏った水の制御を確認しながら紙一重にかわすホノカの動きが、ふと獣の突進を素早く避けたところで止まった。

「危ない!」

 民の声に続き、大きく開かれた獣の口が甲冑の後頭部に触れる。しかし次の瞬間には、甲冑表面の濁流のごとき水勢によって獣の姿は後方へと打ち上げられていた。その瞳の中には振り返って両手で作った銃を向ける戦士の姿がある。そしてまだ地面に体のついていない獣には、敵前に晒す腹部を庇うことは出来ない。

 戦士の指先から放たれた二つの水流が迫り、一方は耳をかすめ、そしてもう一方は不運にも雄々しきオスの象徴に直撃し、その体はようやく地面とぶつかった。獣の表情は苦悶に染まり、ふらつきながらも立ち上がるが、足元に水流を撃たれると子犬のように鳴き喚きながら森へと走り抜けていく。

「悪いことしちゃったな」

 甲冑を形成していた水分が地面へと流れ、ホノカの気まずい顔が露わになる。彼の周りに集まった民がそれぞれに感謝や称賛の言葉をかけるが、彼の反応は薄い。というより、反応に困っているようだ。やがて一人、また一人と彼を取り巻く人が減り、ついにはルロウまで岩場を降り始めた。残っているのは彼とリベアだけだ。

「また、助けられちゃいましたね」

 リベアはホノカの横に歩み寄り照れくさそうな顔を浮かべるが、夕日は潤む彼女の瞳を輝かせる。目をこする彼女は、差し出されたホノカの手をそっと取り、小石の原を歩き始めた。来た時とはまったく異なる重い足取りの中、気遣うホノカの言葉に彼女は黙って頷くばかりで、結界の呪文を張りなおしてなお目をこするのをやめることはなかった。


 道には自信がある――ホノカが朗らかに口にして数十分。空がすっかり暗くなってようやく、二人はリベアの家に辿りついた。彼としては街を案内してもらう中でその構造がほぼ一本道であると踏んでいたようだが、特に目印になるものがほとんどないこの街は一度歩いたくらいでどこに何があるかを理解出来るほど単純ではない。結局音を上げて先をリベアに任せたのは、ものの数分前のことだ。

「ここだったのか、惜しかったなぁ」

「何度も通り過ぎて見向きもしなかったのによく言いますよ」

 冷やかすような口調に「言ってくれればいいのに」とホノカは、昼間自身が寝ていたベッドに腰掛け口を尖らせる。目の前の子どもっぽい英雄の姿につい笑うリベアの目にはもう涙はない。

「じゃあ私、体洗ってきますね」

 彼女が奥の扉に姿を消すと、ホノカは上体を倒しベッドに身をゆだねた。夢のような出来事の連続で、今でさえ到底現実とは思えないこの世界に目をぱちくりさせる。上に挙げた右手で空を掴むと、握る手の感触が確かにある。その手から滴り落ちる水が頬を打ち、彼の感覚が声を上げる――これはまやかしではないと。

 身体を起こし、ポスターのように壁に飾られた何枚かの厚手の布に目をやると、ホノカは立ち上がってその一枚に触れた。直線に区切られる原色が幾重にも重なって模様を作り出しており、それらは正確に編みこまれた太目の糸によって描かれている。彼はその一枚を壁から外すと、おもむろに大きな肩に羽織った。じんわりと、彼の肩が温められる。

 リベアが部屋へ戻ってきた頃には、彼は最後の布を羽織っている最中だった。彼女の驚いた目に彼はそっと布を元の場所へ戻し、逃げるように彼女の脇を抜けていく。彼には見えていないが、リベアの顔は少し呆れたようだった。


 逃げ込むように入った部屋は、一人が身体を洗うには十分な広さがあった。とりあえずシャツを脱ぐホノカは横に箱状の窪みを見つけ、興味深そうにべたべたと触る。彼の手が窪みの奥に触れると、急に頭部を襲った冷たさに声が上がった。水が降ってきたのだ。

「大丈夫ですかっ! あっ」

 不意に開かれた扉からリベアが顔を出すが、彼女はホノカの逞しい身体に顔を赤くすると、すぐに扉を閉めた。扉を後ろ手に押さえて彼女が言う。

「横の窪みに服とタオルを入れたら勝手に水が出ますから!」

 そういうことは早く言ってくれ――部屋から漏れないほどの声で呟くホノカだが、有無を言わさずそそくさと入っていったのは他でもない彼だ。ホノカは濡れたジーンズを脱ぎ、床で水浸しになったシャツと纏め、それらを窪みに置こうとしてやめた。どうやらさっきのシャワーは彼には冷たすぎたようだ。

 少し悩んだ顔を見せた彼は、ふと甲冑の姿を取る。全身に纏った水は体中を縦横無尽に流れ、体の汗や汚れを奪っていく。やがて全身を洗い終えた水は、衣服の水分を伴って床に開いた小さな穴へと流れていった。

 元の服に着替えたホノカが扉を開けると、心配そうな彼女の顔が出迎えた。

「大丈夫でした? 冷たくなかったですか?」

「大丈夫。問題なかったよ」

 

 壁と同じ青い机の上に置かれた四角い皿には市販の弁当のように料理を分ける仕切りが浅く設けられている。細かく刻まれた葉が混ぜ込まれたポテトサラダ。近海で取れる二枚貝の蒸し物。そして淡い緑のソースがかかったブロック状の焼き魚が四つ並んでおり、まったく同じメニューがリベアの目の前にも用意されている。

「君が作ったの?」

「私が作ることもありますけど、今日は違いますよ」

 彼女の妙な答えに首を傾げ、彼女もまたその反応に首を傾げる。

「買ってきたってこと?」

「買う……ごめんなさいオリゾ様。買うってなんですか?」

 目を見張るホノカ。彼女の顔にはとぼけた様子は見られない。彼はようやく今いる世界が自分の常識から少しずれていることを確信した。勢いよく立ち上がり、家中のドアを開けて回ったが、元の世界の家には当然あるべきもの――キッチンの設備を見つけることはなかった。

「オリゾ様?」

 彼の鬼気迫る様子に、リベアは不安げな表情で声をかける。なんでもないと答える彼の視線は何もない床に向けられ、頬には汗が伝う。彼が椅子に座りなおすと、その顔はまっすぐ彼女に向けられた。

「頼む。ここのルールを教えてくれ」


 街の女性達がいくつかのグループに分かれ、日ごとの交代で街全員分の食事を作って運ぶ。というのがリベアの説明だった。また必要なものは全て物品保管所へ借りに行くため、買い物やお金という概念がない。それぞれの家は外見のみならず内装も同じであり、家の中にあるものは家具から衣服まで全て他の家にもあるものとのことだ。淡々と話す彼女の声に、ホノカは口をあんぐりと開けている。

「食べ物も服も同じで、道具も皆で使うって、まるで小中学校じゃないか」

 ホノカの言葉に目を丸くするリベアは、どうやら学校自体がどんなものか知らないらしい。ホノカが説明すると頷きこそするものの、おそらく完全には理解していない曖昧な反応だ。

「大人が子供に知識を教える場所……ですか。私達にはこれがありますからね」

 そう言って背中に垂れ下がるものを軽く揺らす彼女。その反応にホノカは溜息を付き、羨ましそうに眺める。

「確かにそれがあったら学校なんていらないかもしれないな。中学校の頃なんて大変だったよ。金持ちのお嬢様が片親の子に陰湿ないじめを続けてたり、テストの点数や順位で上下関係を争う奴らがいたり。こことは大違いだ」

 おかしな世界ですね――リベアは木のフォークで焼き魚を突き刺し口に運ぶ。それはこっちの台詞だと言わんばかりの目で見返すホノカだが、意図は伝わっておらず彼女の反応はない。彼も木のフォークを掴むと、ポテトサラダの山を崩し始める。

「皆出来るだけ上に立ちたいっていうのは、割と自然な考え方だと思うけど……おかしいかな? こっちの世界も十分おかしい気がするけど」

「水面が水平を目指すように、水の民は均衡を保つ。皆同じなのに誰かヒトリだけ大きく差がつくなんて、そっちの方がおかしいですよ」

 彼の口に柔らかい食感と甘い風味が広がり、フォークを咥えた手が止まる。続いて手を伸ばしたソースのかかった焼き魚はおおよそ彼の知る味ではあったが、少し甘じょっぱいものだった。


「オリゾ様はおじいちゃんのベッド使ってくださいね」

 二人が食事を終え、彼女が皿を表に出す。ホノカは腹をさすりながらリゼエの使っていた――昼まで彼が使っていたベッドに腰掛け、そのまま背中を倒した。天井の真ん中に開いた腕の太さほどの穴では火が揺らめき、その奥には夜空が見える。そして今にも寝入りそうな彼の目に、側で家具の引き出しを開けるリベアの顔が映る。

「オリゾ様服はどうしましょう? おじいちゃんのじゃ小さいですし……」

「ホノカでいい」

 えっ――彼女の声が静寂を呼ぶ。ホノカの言葉が彼女の頭の中で理解出来るよう処理される間を漂ったそれは、彼女の慌てふためく声に消える。

「いやいや! ダメですよそんな!」

「なんで?」

 間髪入れないホノカの目は既に閉じられている。

「なんでって……伝説の戦士に対して失礼ですし」

「そんな大したもんじゃないよ。本人がいいって言ってるんだから」

「それに、皆の前で呼んだら怒られちゃいます」

 不意に身体を起こし瞼を開いた彼は、微笑んだ顔でリベアの目を見つめる。

「じゃあ二人のときはホノカでいい。敬語もいらない。様とかつけられるとどうもむず痒くてね。どうしても嫌なら、命令だと思って嫌々でもいいからさ」

「そんな……オリゾさ、ほ、ホノカがそう言うなら」

 顔を赤らめておずおずと喋る姿はまさに花も恥らう乙女だ。ホノカは満足げに頷くと、ベッドに全身を預けた。


 一日の出来事に驚き疲れたのか、ホノカの瞼が開かれると部屋は真っ暗になっていた。天井に開いた穴の先では、いくつかの小さな白い点がポツポツと輝いている。しかし夜空の違いについて思いを馳せるには、彼は元いた世界での夜空を真剣に見ていなかった。妙に目がさえてしまった彼は、視線を一つ一つの点へと向ける。そうでもしないと寝られないと言わんばかりに。しかし彼の身体は強張っていくばかりだ。

 隣のベッドで寝ている筈のリベアの姿が、何故かすぐ横にあって彼の左腕を抱いている。いくら伝説の戦士といえどもホノカは二十一の男だ。横に女性特有の柔らかい肌や温もりがあって心穏やかに寝付ける筈もない。

彼は持ち主を失ったベッドに目をやり、右腕を器用に使って身体を起こすと、彼女から左腕を引き抜こうと試みる。震える指先が時折肌を滑り、その都度ホノカの真剣な顔には汗が伝う。

 左腕を抱く力が不意に強まり、ホノカは顔だけで声のない悲鳴を上げる。

「おじいちゃん」

 リベアの声に、彼の身体が固まった。ぎこちなく首を回した先で彼女は無防備な寝顔を晒している。ホッと息をついた彼の目は、涙の跡を捉えていた。



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