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-ORIZO- 異世界の英雄  作者: 小浦すてぃ
17/18

ー幕引く異世界の英雄ー


『……聞こえましたか? ホノカ様』

「ああ。よく聞こえた。ありがとうジェイビー」

 小型電信機をポケットにしまいながら、ホノカはジェイビーに電信機の片方を渡して正解だったと呟いた。足元に作った波を駆使して津波へと急ぐ彼は両端のたなびく厚手のマフラーで口元を覆い、傷ついた身体に鞭打ちながら垂直の海原目掛けてまっすぐに突き進む。

 処刑場から響いた声。あれは確かに水の国の特長老ルロウの声だった。水の国で何があったのか彼は知る由もない。しかしルロウがこんな強行的手段を取ったということは、それだけの事件があったと考えるのが自然だ。そして最悪の事態がよぎったか彼は蒼ざめた顔を強く振る。

 津波を津波で打ち消すことは不可能ではない。彼は昔見たテレビ番組で言っていた事を思い出した。しかしまったく同じ大きさの津波を真正面から正確にぶつけることが条件だとも言っていた。目の前に反り立つ波と同等の物を作ることができるだろうか。そんな問いに答えるように鼻で笑った。

「やっぱり、本体を叩くしかないか」

 津波まであと十キロ程。波の影に入ったホノカの隣に、並行して水面下を移動する物体があった。彼がふと目をやれば、ギラリと見返すように何かが光る。それが瞳であると理解したのは――光が何かを訴えかけようとする視線であると判断したのは――彼の直感によるものだが、相手が何を伝えようとしているのか、その真意を汲み取るまでには至らない。

 やがて海面を裂いて現れたのは家を二、三件丸呑みしそうな大蛇。いや、大蛇を模した水流だ。身体の表面は迸る水しぶきが鱗のようで、その“蛇”は水流の先端を口のようにぱかっと開くとホノカに襲い掛かった。

 突然の出来事に姿勢を崩し水面へ放り出されるホノカ。すかさず水の鎧を纏わせて衝撃を抑えながら、水中を魚雷のように先へと進む。しかしその“蛇”はオリゾに狙いを澄ませたまま追跡を止めようとしない。

「なんなんだ急に」

 一人ごちながらも彼は気づいた。彼は力を振り絞り出来る限りの速さで進んでいる。命の危機に差し当たって海上で波に乗っていた数分前よりも速くなっている。にもかかわらずその“蛇”は、少しずつ距離を詰めてきているのだ。

「まずいな」

 後ろを見た彼に声が届く。力を抜いて――それは彼の幻聴ではない。水中で明瞭に声が届く道理はないが、彼は確かに聞いた。“蛇”の姿からは想像もつかぬ優しい女性の声。彼には聴き覚えがあった。これはリベアの声だ。そしてこの声は、あの“蛇”が発している。

 呼吸のために海面に出たオリゾの後ろには“蛇”が今にも食らいつかんと大きな口を開けている。呑まれればただではすまないだろう。彼は精一杯、食べられまいと前に進む。“蛇”からリベアの声がしたからと言って、それがルロウの罠でないとは言い切れない。彼女があの“蛇”になってしまったと言う可能性もあるが、彼にとって考えたくない想定だった。とにかく今は津波の中にあるという本体を叩くべく急ぐのみだ。しかし“蛇”は既に彼を水の舌の上に乗せ、口を閉じようとしていた。


 ピシッ――


 ホノカが大きな口から喉へ飲み込まれる直前、その“蛇”は動きを止めた。彼の足元の水は凍り、振り返ったホノカは四方を覆う白い氷の壁に直面する。見事な蛇の氷像の口の中で、彼は思わず息を呑んだ。

「ホノカっ! 間に合った……みたいだね」

 蛇の口から彼が顔を出すと、メキュハクヒの槍を持ったライズが浮いている。処刑場から彼の下まで文字通り飛んできたライズは彼に向かって“早く行こうよ”と手招きをした。それは同時に“ホノカと一緒じゃなきゃ嫌だ”と言っているのも同義に取れる。この時ライズがそういう意味を込めていたかは定かではないが、元よりミナリはホノカ一筋だ。一緒に添い遂げるという運命を信じて疑わない恋する純朴な青年だ。ミナリは今全てホノカの為に行動していた。


 凍った“蛇”の口から出たホノカは再び波を作り津波へ向かう。その隣を、ライズが速度を合わせて飛ぶ。どんよりとした空の下、荒れる海原の上を行く、この二人でなければ成立しないデートコース。しかも行き先は天変地異とも言うべき波の壁。そこで二人は初めての共同作業として波の壁を対処しなければならない。

「ねぇ、ホノカ」

 二人の無言をライズがしとやかに裂く。その声はどこか不安げで、ホノカは進みながら顔を彼に向けた。

「僕は運命を信じてる。ううん、信じてるって言うより、そう筋書きが決まっているから受け入れるしかない。でもね」

 ライズは辛そうに息を飲み込んだ。躊躇っているのだ。あの自由気ままの塊のような彼が、言葉の途中で沈黙している。次の句を探しているのか、もう見つかっているが喉につっかえてしまったか。いずれにせよ彼の弱々しい態度はホノカが初めて見るものであり、ミナリも他は誰にも見せるつもりのないものの筈だ。

「正直……正直ちょっと怖いんだ。あの波が、僕がホノカと添い遂げる運命の終着点なんじゃないかって。だとしたら、ちょっと早すぎるよ……添い遂げるのは本望だけど、生きている間にもっと一緒にいろいろやりたかったな」

 筋書きへの小さな不満を口にし、切なそうな顔が炎の下で揺れる。二人は知り合って半年と経っていない。二人で過ごした時間といえばごくわずかなものだ。故にその先のことを諸々考えてきたのだろう。ミナリの口調には心の底から自らの仮定を残念がる節があった。

 ミナリがホノカに無条件で心を開き思いを寄せているのは不自然といえば不自然かもしれない。“それが恋というもの”の一言で説明付けるのは簡単だが、二人の場合それで良いのだろうか。ここでもしホノカがライズを抱き寄せて熱い口付けでもかわせばそれでも構わないかもしれない。しかしそんな都合よく映画のように悠長にキスシーンが入るはずもない。二人はいわゆる異世界の現実にいて、やるべきことを前にしているのだから。

「さっきはありがとう、ミナリ。助かったよ」

 ホノカがようやく口を開いた。「添い遂げるって言うのは“死ぬまで一緒”ってことでいいんだよな?」彼の問いにライズが頷くと、ホノカはじっと炎の下の瞳を見つめ、仄かな笑みを浮かべた。

「だったら、添い遂げ続けるよ。この運命が終わったら、一つになろう。死んだあとも生まれ変わっても、完全に一つになるまでお前の傍にいる」

 落ち着いた声ははっきりと二人の間に響く。どぎまぎとしたミナリの顔は炎の上からでも分かるほど真っ赤だ。好意をぶつけることはあってもぶつけられる事には慣れていないミナリは恥らう乙女のように顔を背け口を噤んだ。だからといって彼の喜びと興奮が確認できないわけではない。ミナリを包む炎が徐々に色を落とし、薄い青に変化していく。きっと高まり行き場を失った感情が、炎の温度を上げたのだ。

「そ、そうだ! ナンシーは消滅したよ! 言うの忘れてた!」

「消滅した?」

「そう。自分から靄になって消えたんだよ。しかも最後まで好き勝って言って。後味悪いよ」

 あからさまに話題を変え平静を取り繕うミナリは、ふとホノカに背中を見せるよう言う。ナンシーの話では昨晩の食事でホノカの中に常闇の力を仕込んだとのことだった。それが本当ならホノカの背中には何かしらの模様が浮かんでいるはずだ。そしてはたして不思議がりながらも服をめくり上げるホノカの背中にはくっきりと二つ角の模様が浮かび上がってた。

「どうした?」

 ミナリは一度躊躇ったが、声にならない声を呑み込むと背中の模様のことを説明した。それを聞くホノカは初めこそ驚いていたものの、些細な問題だとでも言うかのように肩をすくめてみせた。常闇の力が侵食しているとはいえ、彼の身体は今彼自身の意思によって動いている。とにかく今はそれで十分だ。


 水と風のけたたましい音が大きくなり、二人は津波の目の前までたどり着く。遠くから見ると壁のように見えたそれは激しい無数の水の流れによって縫い合わされており、ちょうどホノカが身につけているマフラーと同じ縫い目があることがわかる。触れれば最後、波の中に縫いこまれもみくちゃにされて、言葉通り海の藻屑となるだろう。

 今まさに離陸せんとする飛行機の真下にいるような轟音に言葉はかき消される。それでもライズが指差す先に目をやったホノカは、彼が言わんとしていることを理解できた。彼の指し示した先に目を凝らせば、楕円形の影が浮かんでいるのが確認できたためだ。他に怪しいものは見当たらない。

 “これは罠かもしれない。”そんな考えがホノカの脳裏をよぎったかもしれない。しかし次の瞬間ホノカは水の鎧を纏い楕円形の影に飛び込もうとする。仮に罠だとしてもミナリが助けてはくれるだろう。しかしホノカが初めからミナリに頼るつもりではなく、また決して何も考えず愚かなまでに無策で反射的に向かっていったのではないことはこれまでの彼をみてもわかるはずだ。

 オリゾの波が縫い合わされた水流の壁にぶつかる。しかしオリゾの身体は同じ水であるはずの壁にうちとけない。彼は縫い目に腕をつっこみこじ開けようとするが、壁の水流はオリゾの鎧表面を流れる水流と正反対の方向からぶつかり合う。彼がどんな方向に流れを変えても、壁は鏡写しのように正反対の水流を生んで彼を拒絶した。

「来たかオリゾ。しかしもう遅い。お主の健闘も空しくアッシ終焉の大津波ルロウが火の国を呑み込む。これが新たな世界に作られる新しい伝説の一節じゃ」

 ルロウの声が響き渡る。しかし彼の小さな体も、チャーミングだと自分で思っているであろう髭も見当たらない。それもそのはず、ルロウは今その大津波を自身の身体としているのだ。

「ルロウさん! どうしてこんなこと!」

 ホノカの声は飛沫に呑まれていたが、今や津波はルロウ自身だ。ルロウはその巨大な水の身体をもって空間を支配している。いや、空間と同化していると言ってもいいだろう。立ちはだかる全てを飲み込み、どんな小さな声も彼の裁量で聴くかどうかを決められる。

「伝説は繰り返されてきた。数百年ごとに“オリゾ”が現れ、我ら水の民はオリゾと共に生き、オリゾによって守られてきた。じゃがな、気づいたのじゃよ。同じところをぐるぐる回っていたのではどこへも行けぬとな」

 ライズが無数に炎の矢を放つも焼け石に水だ。メキュハクヒの槍を使っても水流はたちまち氷を砕いて糧とする。業を煮やすライズは不意に自分目掛けて放たれる水流を反射的に避けた。しかしその水流は波の壁と海面のあらゆる所から次々と放たれる。数本程度なら彼の炎で蒸発させても良かったが、そのためには空中に静止して水流を受け止めなければならない。しかし水流を一本づつ対処していては間に合いそうもなく、ひとまずライズは水流をどうにかする良い案が思いつくまでかわすしかなかった。

「それに気づいた民はどうなる? どこへも行けぬのに無駄に流れても仕方があるまい。流れるのを止めた水はいずれ腐っていく。じゃからその前にな。この輪廻を止めて新しい場所へ流れ出さなければならんのじゃ」

 網目をこじ開けようとするオリゾにも水流が集中する。水の鎧を纏っているといっても身に受けたときの衝撃がまったく無くなるわけではない。彼は痛みに耐えながら網目の攻略を続ける。

「無駄な足掻きを。貴様は既に英雄などではないというのに」

「どういう意味だ」

「貴様は水の民を守る英雄オリゾだった。にもかかわらず、貴様は水の国から離れた。そのせいでマヤツミにいた大勢の水の民が死んだのじゃ。貴様は守るべき民を、守れたはずの民を守れなかった。英雄失格を告げられても仕方なかろうて」

 ルロウの言葉がホノカの顔をぐにゃりと歪める。一時期暮らしを共にした幾多の命が僅かな言葉という軽さで片付けられてしまったあっけなさへの驚き、続いて怒りが沸いてくる。しかしその怒りはホノカ自身に向けられたものだった。“俺が水の国を離れなければ……”網目をこじ開けようとしていた腕が完全に弾かれた彼の後ろには、火の大陸の地平線が見え始めていた。

「アッシは貴様を責めるつもりはない。むしろ感謝しているのじゃ。貴様が離れてくれたことが、今にして思えば伝説の輪廻を抜け出すきっかけになったのじゃからなぁ……」

 ホノカの行動がこの津波を作り出したそもそものきっかけ――全ての原因が自身にあると知ったホノカは強いショックを受けたか呆然としてよろめいた。結果論だが大人しく捕まっておいて、逆にルロウに目をつけておくべきだったのだ。

 マヤツミにいた民は大勢死んだ。リベアはどうだろう。彼女も死んでしまったのだろうかと彼は考える。しかし彼の中に浮かんできた答えは、彼女は生きているという確信だった。無論根拠はない。ただの願望かもしれない。それでも何故か彼にはリベアが生きていると信じきっていた。

「まぁそういうことじゃから無駄な足掻きはやめて、ココナティを抱えて逃げだすことじゃ。そうすれば命だけは助かるかも知れんぞ?」

「それはこっちのセリフだよ! あんたを火の大陸に辿りつかせはしない!」

 叫びながらライズがオリゾの背後に付き、迫り来る何本かの水流を蒸発させながらメキュハクヒの槍を手渡す。“たとえこの命に代えても、僕達は津波を食い止める。それが僕たちの運命だ!”オリゾが槍を受け取ると、ライズは水流を引き受けながら再び舞い始めた。

「愚かな。あの小娘といい、新しい未来を創ろうとしているとどうして理解できぬか」

 ホノカには、ルロウの言う“小娘”に心当たりがない筈がない。ルロウの言葉はリベアが果敢に立ち向かい、そして敗れたことを意味していた。“しかしそれでも彼女はまだ生きている”。オリゾは身体中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸をすると、力を振り絞り縫い目に槍先をあてがった。

「ルロウ、確かに俺は英雄失格だ。でもな、ただの魚田峰ホノカでも十分お前を止められる。今からそれを証明してやる!」

 そして津波を止めた時、彼は再び英雄となる。


「……ひとつ忠告してやろう。背中は無防備に晒すものではないぞ」

 力を抜いて――ホノカは背後から彼女の声を聴き、目の前の水壁に映る“蛇”の姿を見た。“蛇”が一直線にオリゾへと突っ込むのに、彼が振り向く間もなかった。いや、彼は初めから振り向くつもりは無かったのかもしれない。彼の身体は今“蛇”の体内にあって流れに身を任せており、“蛇”はといえば縫い目を貫き波の中に浮かぶ黒い影目掛けて迸り続けている。

 黒い影の正体は、五メートルほどの高さはあろう巨大な壷だった。ホノカは“蛇”によって壷の中に投げ込まれ尻餅をつく。そこに水はなく、見上げれば壷の口に膜のようなものが張ってある。結界だ。そして見渡したホノカの目が大の字で横たわるリベアを捉えた。

「リベア!」

 ホノカはメキュハクヒの槍を置いてリベアの体を抱き起こす。胸の鼓動は止んでおらず傷も見当たらないものの、彼女の瞳は磨りガラスのようにくぐもっており、声を掛けても反応がない。

「無駄じゃ。小娘はこの津波の動力源として力を使うよう操っておる。お主の声は一切届くことはないのじゃ」

 ルロウの声が壷の中で反響し、ホノカは愕然とする。反る壁には埋め込まれたかのようなルロウの顔があったからだ。それも最後に会った時と同じく活き活きとしているにもかかわらず、顔と壁との境は見事に馴染んでしまっている。壁から顔が生えてきたと言われれば表現上違和感しかないが、実際目の当たりにするとその表現で間違いない。

 ホノカはリベアの背中を確認する。そこには三つ角の模様がくっきりと刻まれ、あとは光を発するのを待つのみとなっていた。

「そんな……」

「ほっほう、眷属の印のことを知っておるのか。なら話は早い。そうじゃ。そこの小娘はアッシの支配下にある。全ての意思という意思を奪ったつもりじゃったが、お主をここまで運んでくるとは、まだ残っていたというのか。まぁ、それだけの力が無ければこれほどの津波は生み出せなかったが、少々見誤っておったようじゃのう」

 ホノカはルロウの顔に向けた指先から水流を放つ。しかし皮一枚のところでルロウには当たらず、不自然な軌道を描いて床を濡らすだけだ。

「うひゃひゃひゃひゃひゃ! 無駄じゃ無駄じゃ。今やアッシもこの常闇の力を通して水を操ることが出来る。こんな風にな」

 床の水がひとりでに動き出しホノカの口目掛けて飛び掛る。彼は咄嗟に水の鎧をまとうと、ホノカに掛かりかけた水は鎧の中に吸い込まれていった。しかしオリゾの身体は膝を付く。連戦の疲労もあるがそれだけではない。水の鎧が内側のホノカの体を動かそうとしているのだ。

「ひゃはははは! たった数滴でこれほどとはのぅ! 常闇の力を染み込ませた水は全てアッシの思うがまま。アッシの水を防げば防ぐほど鎧の中に入り込み、ついにはお主を支配する。これからお主は英雄でもただの男としてでもなく、名も無き手駒として働くんじゃあ!」

 このまま水の鎧を纏っているわけにはいかない。ホノカは鎧を身体の外側へ弾けさせる。内側に吸収してしまうと常闇の力まで入ってしまうと考えたのだろう。しかし結果的に言えばそれは失策だった。今彼の足元にはさっきまで纏っていた分の水が溜まり、ルロウは即座に常闇の力を染みこませてゆく。

「アッシは水では止められぬ。だがお主は止められる。同じ水を操る力の持ち主でも、その差は歴然よの。ほっほっほ!」

 身構えるホノカだが、彼の身体が力強く後ろに引っ張られる。ぼんやりとした目のリベアが彼を羽交い絞めにしたのだ。その力は強く、ホノカでも振り払うのは容易ではないらしい。操られたリベア相手に強い抵抗が出来ないというのもあるだろう。彼をふてぶてしく眺めるルロウは床の水を操作し、手足があった頃のルロウを形作る。

「忠告したのにのう。背中は無防備に晒すなと。さ、諦めて常闇の力を受け入れるのじゃ!」

 その時、ホノカの両肩の位置にあったリベアの両手がジワリと青く輝きはじめた。波打つように、光は強まっては弱まりを繰り返す。そのリズムは瞬きの速さから親子が湯船で数を数える速さへと徐々に伸びていく。その様子が何を意味するのか、ルロウもホノカも当然知っていた。

「なっ、全知識継承の儀式じゃとぉ!?」

 リベアの体が痙攣し、やがてぐったりとホノカの背中に、彼が巻いているマフラーの端に顔をうずめる。そして顔を上げたリベアの瞳には燃える命の青が宿っていた。

「ば、ばばっばばっば、そんなばかな……常闇の力が! 眷族の印が破られるなど!」

 ルロウの形をした水がホノカを襲うが、ホノカの目の前で独りでに形を失った。リベアの作った結界にぶつかったのだ。

「何故だ! 小娘風情が何故アッシの支配を振り払うことが出来た!?」

 ホノカの前にあった結界の壁が並行に移動してルロウの顔にぶつかり、ぐえっと蛙のような声を上げた彼に結界を纏ったリベアの拳が追撃した。

「決まってるじゃない。私は、ホノカの補佐だもん」

 ひん曲がった鼻から水を流して慄くルロウ。そんな彼にホノカは指先を向けたが、水を出すことなくすぐに腕を下ろした。

「そういえば、“水では止められない”だったな」

「そうじゃ! お主にアッシは倒せ――」

「じゃあコイツだ」

 オリゾはメキュハクヒの槍を掴み槍先をルロウに向ける。

「ま、待て! アッシを殺しても津波は消えぬ! 何の解決にもならんぞ! そ、そうじゃ。手を組もう! 取引じゃ! アッシは全力を尽くして津波を引き返させるよ。じゃから命だけは助けてくれぬか? の? それに、水の国の英雄ともあろう方が水の民を殺すなど、そんなことするはずなかろう? ……そうじゃ! アッシのこの力を使えば元の世界に帰してやれるかも知れん! いや、帰せるに決まっておる! お主はもといた場所に戻りたいのじゃろ? じゃからな? 考え直せ。いや、考え直していただけぬか、オリゾ殿。こんのとおりじゃあ……」

「……わかった」

 ルロウの命乞いとリベアの耳打ちを一緒に聴いていたホノカは構えていた槍先を下ろしつつ、彼女と一緒に後ろに飛び退いた。途端ルロウの顔がコロリ笑顔に変わる。

「ふふ、青い。青いぞ小僧! さあ今度こそお主ら二人ともアッシの手駒にしてやるわい! 行けっ!」

 ルロウの声はしかし空しく響くだけだ。床の水は暴れこそするもののホノカやリベアを濡らさない。その後もルロウは“行け!”と叫ぶが、その様は滑稽でしかない。

「ええい、一体何を」

 ルロウは床を見て目をかっ開いた。床には水がある。そして水面の少し上にはちょうど蓋をするように結界が張られている。これではルロウがいくら水を操ってもホノカに届くことはない。

「なんじゃとぉお!?」

 ホノカは再びメキュハクヒの槍を構える。

「お、オリゾ殿。本当にアッシを、水の民を殺すおつもりか? そんなのは……」

「あんたはさっき“俺は既に英雄じゃない”って言った。それにあんたももう、水の民じゃない」

 槍先から吹き出した冷気を受けルロウの顔がみるみるうちに凍っていく。そして槍の一撃を受けると跡形もなく粉微塵に砕けた。




「リベア。俺は」

 リベアはホノカの言葉を遮って彼を抱き締める。彼女の背中で完成しつつあった“眷属の印”はその色を薄くしていた。火の国を旅したホノカの記憶が彼女自身の意思に活力を与え、常闇の力へ再び抵抗できるようになったのだ。

「ありがとう。ホノカ」

 彼女の頬を伝う雫が彼の肩に落ちる。再会した二人はまるで壷の中だけ時間が止まったかのように強く抱きしめあった。実際には数分と経っていないが、今の二人には彼らが離れていた時間を取り戻したかのような長い間に感じられていた。しかしそれでも足りるものではない。この先もずっと、一生を共にしたい。リベアは望みが薄いと分かっていながらもそう祈っていた。

 壷の口から結界越しに見える水は勢いの衰えることなく、見上げたホノカはそっとリベアを放した。そう、津波はまだ消えていない。まだ“本体”である壷を壊していないのだ。

「リベア、まだやらなきゃいけないことがある」

「そうね。手伝うわ」

「いや、リベアは先に逃げるんだ」

 リベアの表情が固まる。それは驚きによるものではなく、奥歯を噛み締め喉まで出かかった言葉と感情を表に出さないためだ。彼の記憶を取り込んだ彼女には、彼が“先に逃げろ”と言うことは分かっていた。故に彼女は言葉を押しとどめた。

「また会えるさ。必ず」

「……約束よ」

 リベアはもう一度彼を強く抱きしめ、そして口付けをかわした。そして目にたまった涙を拭い結界を纏って壷から出て行く間際、壷のある一点を指差した。そこは削られたように抉れており、壁としては最も薄い部分といえる。その窪みは水の国を立つ前に閉じ込められていた“原始の水瓶”で、彼が脱出できないか模索していた時にできたものだ。しかし一人でその窪みを削り続けても、良くて小さな穴を開けるくらいしか出来ない。

 ホノカは苦笑しつつ壷の口から外を眺め、大きく伸びをした。ルロウが消えた今、津波を形成する水は制御を失っている。オリゾの力を使っても常闇の力が染み込んだ水が相手ではホノカが蝕まれ、操られこそしないがアンニィのように暴走してしまうだろう。

「『アッシは水では止められぬ。だがお主は止められる。同じ水を操る力の持ち主でも、その差は歴然』……」

 彼は人差し指の付け根を唇の下に当ててふとルロウの言っていた言葉を復唱する。そしてメキュハクヒの槍へ視線を移し、彼の右手はゆっくりと背中に伸びた。そこには途中まで刻まれた“眷属の印”がある。

「水で止められないなら、こうだ!」

 ホノカはメキュハクヒの槍を掴み、先を壷の口から出した。槍から湧き出した黒い靄が柄から槍先を伝って水へと流れ出す。勿論ホノカにも流れ込むが、彼は歯を食いしばって槍を回した。――ぐらり。壷全体がゆれ、口が波の進む方に向く。ホノカは波の中で壷を前進させると、その位置を波の最前面に持ってきた。

 口の外ではライズが手を振り、その後ろには旧灯台と処刑場、そしてランドグラーシャの街並みが見える。もう時間はない。ホノカは大声で叫んだ。

「ミナリ! この壷を壊す! 一点を狙ってくれ!」

「わかったよホノカ!」

 ホノカは壷を縦向きに戻し、ちょうど窪みのある部分が水の外に出るようにその位置を少しだけ後ろに移動させる。“よし”と一言の後、水を纏わせたメキュハクヒの槍を構え、窪みに狙いを済ませる。

 外ではライズが自身の炎の温度を上げていた。これがこの世界での最後だと覚悟を決めたのか、色をほとんど失った炎越しに見える彼は好奇心いっぱいな笑みを浮かべている。

 内側からホノカによるメキュハクヒの槍の一撃が、外側からミナリによる渾身の一撃が窪みのある一点に炸裂する。おそらくそれと同時だっただろう。厚い雲を貫く巨大な光の柱が壷を中心に目掛けて降ったかと思うと津波は跡形もなく消滅し、そこには初めから何も無かったかのような穏やかな海原が広がっていた。



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