ー世界を覆う常闇に声ー
「くそっ、仇が死んだってのに……」
バスタは横たわるアンニィの傍に座り込むと、床に拳を打ち付けて舌打ちをした。一度目の銃声で意識を取り戻した彼女は二度目を聞くまでに体を起こすこと適わず、手も足も出せぬまま復讐する相手をなくし、同時に相手が抱えていたものを知った。恋い慕う男を殺されたアンニィは自らと同じように復讐に燃えていたこと。そして戦士として戦い伴侶として男の後に続こうとしたこと。憎み続けてきた相手の事情を知ったところで決して憎しみは消えることはなく、それは相手が死んだとしても同じことだ。それでもふるふると体を震わせ奥歯を噛みしめるバスタの様子からは――今の空のように一筋の晴れ間もない心が透けて見える彼女の表情からは――憎しみ以外の思いが中途半端に交じり濁っているように見えた。
声を上げて泣き崩れ、遺体しがみ付くジェイビーもまた、アンニィが抱いていたものを知った。灯のクニに伝わる伝説を聞いていた彼は今、彼女が抱えていた“呪い”の苦しみをそのまま受け取ったかのように嗚咽し、咳込み、泣くのを止められないでいる。クニを救った女性を目指して鍛えてきた彼女は同じ伝説の暗部、子を身代わりにして生き延びることを否定してきた。お腹に子がいると知ってからは、さぞその“呪い”に苦しめられたことだろう。少年の弾丸は“呪い”を撃ち抜いた。だからと言ってそれは彼にとって彼女の死の埋め合わせになり得るものではない。腰に下げた袋は今、手に弱々しく握る銃が入っていた分の空間がある。ちょうど大切な人を失った彼と同じ、ぽっかりとした空間が。
「ミナリ……これで」
「良かったんだよね?」
海を眺めていたホノカがようやくミナリと視線を交わした。オリゾの力によらず潤う瞳に、ミナリは慈悲深い微笑みを向けて頭を撫でる。誰かの死を見過ごせないホノカがアンニィの思いを汲み、彼女を助けようとするミナリを止めた。それは今までの彼では到底考えられないことだ。彼の大きな変化に全く動じることなく、ミナリはホノカが腕で目元を拭い強く頷くのを見て頭を軽く叩いた。
「ほんっと、お人よしなんだから」
お人よし過ぎて自分のことは二の次。そんな彼だからこそミナリは隣にいるのかもしれない。自由気ままに振舞い思ったことを口にするミナリは唯一彼の他において執着するものはない。彼はミナリを放っておけないのかもしれないが、それはミナリも同じだった。さもなくば立ち上がって彼に手を差し伸べることなどしない。立ち上がって海を眺める彼の顔をじっと見ながら、ミナリはうっすらと頬を染めるのだった。
「あれ、さっきより水平線が上がってる」
“水平線が上がってる?”オウム返しに問いながら、ミナリはようやくホノカから目を放す。海を見ればホノカの言うとおり、じわりと水平線が空の領域へと侵攻していた。よくよく目を凝らせばそれが“水位が上がっている”のではなく、“巨大な壁が遥か遠くから迫ってきている”ことがわかるが、一目見るだけではその壁が波であるとすぐには判別できないだろう。海面がめくり上げられているのではと錯覚せんばかりの光景に二人は息を呑み、二人の様子に気づいたバスタやジェイビーも圧倒され、これから起こるであろう惨状に顔を強張らせた。
『火の民よ。アッシの声が聞こえるか?』
突如として響き渡る声に一同は振り返る。処刑場の中央、ナンシーが置いていった拡声機械から発せられるその声に、水の国の特長老ルロウの声にホノカは硬直した。
『今日お主らの火は尽きる。終焉の大津波によってな』
処刑場では再び黒々とした煙が沸いてとぐろを巻いている。倒れていた兵士達がゆらゆらと一つの壁際に押し寄せ、彼らの目指す先でコルチ達が抵抗している。ゾンビみたいと呟くミナリがすぐさま指差した先、王達を押し殺そうとする物量の尾の方では、ナンシーが倒れた兵士の体を起こそうとしていた。そして程なくしてひとりでに、機械的な動きで起き上がった兵士は群れに加わっていく。その背中を見送りながらナンシーは他の兵士達を起こそうとしていた。
『言っておくが、先に我らの水を汚したのは貴様らじゃ。大人しく報いを受けよ……もっとも、打つ手などないがな』
ルロウの声に歯噛みし、迫りつつある波へと振り返るホノカ。ルロウは火の大陸を創世記の大洪水のように丸ごと波で呑み込むつもりらしい。現実味のない話だが四人の目の前には途方もない大きさの波が現に迫っている。ジェイビーもバスタもすぐに戦える状態とは言えず、もっとも万全の態勢を取ったところで、下の兵士達は勿論彼らにも津波と戦う術などありはしない。手の施しようがない状況においてそれでもミナリはホノカの肩を叩いて振り向かせると、王から受け取った小型電信機二つを微笑みながら手渡した。
「これ持ってて。ちょっとコルチ達を手伝ってくるから」
ミナリは赤い炎を身に纏い、灰色の空へと舞い上がる。やがて空中で静止したかと思うと、今度は彼の眼下に蠢く黒い煙と兵士の群れ目掛けて隕石のように空気を突き抜けた。彼が着地すればその衝撃が彼自身の炎を周囲に広げ、黒い煙を打ち消していく。兵士達を取り囲むように燃え広がる炎は体を燃やすことなく、その熱だけで体力を奪った。
やがて炎が収まると黒い煙は跡形もなく消え、地に伏した兵士達の中心でミナリは目を丸くするコルチ達に軽く手を振った。“みんな、大丈夫?”と言う彼の声は軽く、道端で転んだ友人に掛けるそれに近い。コルチの憎まれ口を聞き流しながら彼は王様とアイコンタクトを取り、二人でナンシーを睨んだ。
「宰相よ。君の負けだ。もう打つ手はあるまい」
王の言葉にナンシーは抱えていた兵士をほいっと捨てて清楚に姿勢を正す。“それはどうかしら?”ニコッと浮かべた彼女の笑みは優しく見守る様子から冷ややかに侮蔑するように歪んだ。劣勢に立たされてなお余裕を見せる彼女はまったく肝が据わっている。コルチが拳を握り締めて怒鳴ってもたじろぐ様子はない。
「まだ諦めてねぇってのか!」
「もちろん。諦めない限り道は開けるものよ。こんなふうにね」
彼女の言葉は呪文のように、まるで数か月前から念入りに稽古をしていたかのような見事なタイミングで、ミナリの体が大きく揺れる。歴戦の兵士達を相手にし、暴走したアンニィと戦い、そして今に至るまでに力を惜しむことなく振るった彼は体力を激しく消耗したようだ。コルチが駆け寄って声をかけると、意識はあるがとても立てそうにないのがわかる。
「それに、はたして私を相手している暇があるのかしら?」
観席の外からゴウゴウと天にも昇る波の近づく音が轟く。正気を取り戻した兵士達はその正体を知らぬまま、しかし実戦経験を重ねてきた勘からか危機が迫っているということは察したようでそれぞれ恐怖に顔を歪ませている。音の大きさからして逃げても間に合わないと判断した一人の男は蒼ざめた顔で大の字に横たわった。もっとも二度もライズの炎をくらった彼らには立ち上がるほどの気力も残っていない。這って出口へ向かおうとする兵士とすれ違った王はそのままナンシーのもとへと進み、冷笑する彼女の前にまっすぐと手を差し出した。
「君が諦めていないのなら、私も同じだ。大きな脅威が迫る今、今だけは、私達は手を取り合って立ち向かうことが出来る。君は今迫っているという津波について何か知っているようだが、教えてくれないか。君が支配したいこの国を守るために」
目を丸くした宰相は咄嗟に口元を手で覆い隠した。プロポーズを受けたヒロインじみた驚きっぷりはどこか大げさだ。彼女は照れたように俯き一呼吸置いて手を前で組むと、伏目がちでおしとやかな表情を王に見せた。
「あくまで貴方は理想を貫こうと言うのですね。わかりました。その根気に敬意を表して、一ついいことを教えてあげます。あの津波、私とは別の常闇の民によって制御されているようです。かなりの力を持っているようですが、私の持つ同じ常闇の力を使えば、簡単に制御を奪えるでしょうね。条件によっては、止めてあげても構いませんよ」
「それを聞いて安心したぜ。つまり、アンタを打ち負かして言うこと聞かせりゃいいわけだ」
コルチが指の骨を鳴らしながら、鼻息荒くずいずいと土を踏みしめて進む。こめかみの血管が浮き出てひくひくと動き、獲物を見つけた猛獣のような喜びを含んだ怒りの表情からは気迫が伝わってくるが、それでもナンシーの表情を恐怖に歪ませることはできない。
「ふふ、貴方にそれが出来るかしら」
「コルチ、変な気は起こすな」
振り返る王の言葉と同時にコルチの足がピタリと止まる。しかしそれが王の言葉を受けてのことではなく、また決して怖気付いたわけではないことは未だ立ち上り続ける彼の気迫からわかる。彼は足元に転がる拡声機械に目を留めていた。丁度人の頭ほどの大きさで、ナンシーが片手で扱っていたところからそこまで重くもなく、蹴りとばされるためにその場に落ちていたと言ってもいいだろう。笑みを深める彼は顔を上げ、ナンシーから目を放さぬまま数歩後ろへ下がった。
「この一発で十分だ」
「コルチやめろ!」
王の制止も届かず助走をつけたコルチが勢いそのままに右足を拡声機械にぶつけると、たちまち機械の中から炎が膨張して彼を包み、周囲に光と熱が広がった。黒煙が這う火球へコルチの名を叫ぶ王に返事は返ってこず、王は目を伏せ歯を食いしばり、強く拳を握り締めるしかなかった。
「流石鍛えているだけのことはありますわね。強すぎて機械が爆発するなんて。でも、これでようやく落ち着いて交渉できますわ」
拡声機械に強い衝撃を与えれば爆発するよう仕掛けを施していたのだろう。燃え盛る炎を瞳に映し、彼女は悪戯が成功した子供のような――ある種無邪気とも言える程純粋な――悪意だけがこもった笑みをこぼす。立ち上る黒煙を背に、“わかった。王位をくれてやる”と潔く明瞭に答える王の姿に目を細めるナンシーはうんうんと頷いて、数歩歩み出て彼の手を取った。
「物分りがいいというのは素敵なとりえです。でも、その必要はありませんよ。物分りのいい王様は、私の言うとおりに政治を執り行ってくれれば、それだけで十分です」
優しく告げる彼女の腕を伝う黒い靄が指先まで伸びて纏わりつき、あるいは撫で回すように二人の手を包み込む。頬を強張らせる王は片足一歩退くが、下げた足はそれ以上退くまいと強く地面を踏みしめる。
「条件を飲んでくださるのでしたらその証として、この常闇の力を受け入れてください。簡単でしょう?」
非情な選択。常闇の民たる宰相を打ち倒す代わりに皆大陸ごと波に沈むか、津波を止める代わりに自身が忌み嫌う常闇に飲まれ、宰相に言われるがまま自ら国を闇に染めていくか。どちらを選んでも望みのない究極の選択に、王は沈黙するしかない。
「選択肢は二つしかありません。服従か、この国ごと共に死ぬか。いずれを選んでも、貴方の意思は尊重いたしますわ」
「ダメだ!」
その声はいつの間にか炎が消え、煙が風に流されてよく見えるコルチの口から発せられていた。肩で息をしてふらふらよろめいているが、火傷の痕は見られない。“飲んじゃ、ダメだ!”声を張り上げた彼は声とは裏腹に力なく座りこんで意識を失った。爆発の中心にいたのだから無理もないと言うよりむしろ大きな怪我を負っていないのが奇跡と言うべきだろう。
そんなコルチの横を通り過ぎる青年、普早ミナリは険しい顔で王と宰相のもとへと力強く歩いていた。コルチが拡声機械を爆発させた際、力を使い果たしたミナリが爆発の炎を吸収したことによって、コルチの致命傷を防ぎ自身を回復させたのだ。
「活きのいい炎をありがとう。おかげで、こうしてまだ戦えるよ」
「お気に召したようで何よりですわ」
「王様。あの津波は僕達がなんとかするから、断っていいよ」
軽く言ってのけるミナリだが、彼にあの津波を止める術はない。彼自身一番よくわかっている筈だが、余裕たっぷりの様子にはハッタリであっても信じさせるだけの力があった。実際地を這いながらミナリの声を聞いていた何人かの兵士は安堵表情を浮かべ、宰相もまた嬉しそうに囁いた。
「それは朗報ですわ。良かったですね王様。では」
ナンシーと王の手に纏わりついていた煙が、王の腕を這い伝って耳から中へと入りこむと、彼は咄嗟に手を振りほどき痛みに耐えるように頭を押さえこんだ。彼女の持つ常闇の力が、王の脳に直接干渉を試みている。二歩三歩後ずさる王は体を震わせながらも必死に歯を食いしばりながら、宰相を睨みつけている。
「話が違うんじゃない!? まだ王様はなにも選んでないのに!」
王に駆け寄ったミナリはガシリと肩を掴んで支え、ナンシーに吼える。
「ほんの少し、力を分けてあげただけです。受け入れるかどうかは王様次第。ねぇ王様、試しに一度その力を使ってみてはいかがです?」
彼女の澄ました笑顔さえも、王を焚きつけるための道具に過ぎない。負の感情に飲まれ常闇の力を使えば最後、王は常闇の民の一員と化す。しかしそんな状況においてなお、王は食いしばっていた歯を緩ませると、自らの足で立ち顔だけでミナリに振り向いた。
「本当に出来るのか?」
「王様!」
「出任せを言っていることくらい、わからないとでも思っていたのか?」
王の地位も飾りではない。それに足りうる素質を持つからこそ王として選ばれる。前線で戦果を重ねていた頃から幾多の交渉や会談を重ねた彼が、思いつきのハッタリを見抜けないわけがなかった。前を向いて“君は下がっていたまえ”と続ける彼の言葉は勇ましいが、裏腹に彼の身体は鉛が取り付いたかのように動きが重く、とめどなく流れる汗さえ拭えていない。
「流石王様。よく耐えますね。その強がった顔、とっても愛らしくて素敵ですわ。でも、あんまり我慢していると取り返しがつかなくなってしまいますよ」
王はついに片膝をつき苦悶の表情で宰相を見上げる。彼女の言うとおり彼は今必死に常闇の力を受け入れまいと耐えているが、次々と流れ込む煙に肉体は今にも屈してしまいそうだ。ミナリが王の体を焼かないよう気をつけながら煙を遠ざけようと試みているが、煙はわずかな隙間を縫って王の中へと侵食していく。
「抵抗すればするほど、今この間にも、貴方の理性は磨り減って弱り始めています。少しの汚れもない貴方の意思が犯されていくのがわかるでしょう? そうして理性が砕けてしまえば最後、もう二度と自分の意思で動くことは出来ません。逆にすんなり受け入れてしまえば、理性だけは保っていられますよ」――言い終わると同時に王の身体はついに地に伏した。立ちはだかる無慈悲な世界の前に無力な一人の民と言う構図の中では立ち向かうべき心も奮い立つことは容易ではない。彼にとって屈辱と言ってもいいその姿勢は理性をすり減らす滑車の速度を上げる。王に纏わり着く煙を必死に払いのけるミナリだが、効果の程は定かではない。
「どうしてこんなことを」
「抜け殻になった王を操るのは簡単ですが、それでは面白くありませんからね。彼には残った理性で国が闇に染まっていくところを見ていただきたいですし。ところで、目の前に悪がいるというのにライズは動かないのですか?」
ミナリは憎悪の目を向け続けている。自分を悪と開き直る宰相には何を言っても無駄だ。むしろ口車に乗せられれば相手の思う壺だ。そう理解したのか彼の唇はキッと真横に結ばれている。
「“私を殺しても、何にもならない”そう考えているのなら、確かにそうかもしれませんね。でもこういう考え方はどうでしょう。この常闇の力の根源は私。大元を叩けば、ひとまず彼は苦しみから解放される。理に適っていると思いませんか?」
攻撃を促すような宰相の言葉はあからさまに罠である可能性が高い。なにしろ津波を止められるという彼女を殺してしまえば火の国は飲み込まれて消えるのだ。王に委ねられたはずの選択肢を預けられたミナリは、王と同じくすぐに答えを出すことは出来ない。
その時だった。王がすくっと立ち上がるとミナリの方へ向き直り、何も言わずに拳をぶつけた。弾き飛ばされたミナリは身体が地面に擦れる前に炎を纏って宙に浮き、腹部を押さえながら王と距離をとる。
「あらあら、もう堕ちてしまいましたか。あっけないものですね」
王の目がキラリ光ったかと思うと、ライズの身体は彼の下へと強く引っ張られた。王は殴りつける一瞬の間に、体に仕込ませた鎖をミナリの体に巻きつかせていたのだ。手繰り寄せたミナリを王はその拳で粉砕せんと再び殴りかかるが、寸でのところでかわされてしまった。
「王様! 目を覚まして!」
ミナリの声はもう王には届かない。ミナリ自身諦めていたのか飛翔して鎖で繋がった王をぶら下げ、ハンマー投げの要領でぐるぐると振り回す。そして勢いよく下へ降ると鎖で繋がったミナリも一緒に地面に落ちた。土煙が漂う中、落下の衝撃と振り回された感覚に立ち上がれないでいる王に警戒しながらミナリは巻きつけられた鎖を解いた。
前線を去って久しいと言っても王の力が健在であることは、ミナリが鎖を解いた直後には既に迫ってきていることからもわかる。一歩踏みしめる度に大きな体をずいと揺らし、軽く大地を震わせながら鎖を振り回して襲い掛からんとする彼は昔話に登場する鬼を彷彿とさせる。ミナリは逃げるように駆け出し、途中で兵士が携えていた小盾を拾う。鞭のように伸びる鎖をそれで一度凌ぐが、もう使い物にはなりそうになかった。
「ミナリ様の焦るお顔、やはり素敵ですわ。ほらほら、力を出し惜しんでいると怪我をしますよ」
頬に手を当てうっとり顔のナンシーに歯噛みしつつも、ミナリはさっさと津波を止めろと叫ぶ。しかし彼の叫びに答えたのは王の鎖で、今度は彼の右足首に巻き付いた。王のもとへ引きずられる中、頭の上にハテナマークが浮かびそうなきょとんとした顔を浮かべるナンシーにもう一度叫ぶ。
「王は力を受け入れた! 早く津波を!」
ミナリの身体に次々と飛び掛る鎖は触手のように這って巻きつき、逃すまいと締め上げる。身動きの取れぬまま王に後ろをとられ羽交い絞めにされた彼は、近づいてくる宰相を凄まじい剣幕で睨み就ける。目の前まで来た宰相の白い手が愛玩動物を愛でるような手つきで彼の頬を愛撫し顎に触れてクイと持ち上げたのを機に顔に炎を灯すも、彼女はおどけて手を引っ込める。
「津波を止めないと、貴方だって死ぬんだ!」
「それは大変ですねぇ。大きな損失ですわ」
「だっかっら! 早く止めて――」
「“止めてください”でしょう?」
終末が迫っていると言うのに、彼女はまるで週末の余暇を楽しむような余裕を美しくも意地の悪い笑みに含んでいた。世界の命運を託されることほどプレッシャーの大きいものはないが、それを後ろ盾に好き放題振舞うことが許されるのはロールプレイングゲームで勇者が民家の箪笥を漁る時くらいのものだ。そしてこの世界はゲームでもなければ彼女は勇者でもない。しかしあえて今の彼女をゲームで例えるならば、魔王以外に相応しいものはない。
「そんなこと言ってる場合じゃ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししましょう……“誇り”とは、綺麗なだけの足枷に過ぎないと思いませんか? 常闇の力を忌避し続けたために、結局津波を止める約束を取り付けることもできず力に染まってしまったスコリエル。そして貴方も、ただただ私に服従を誓えばいいというのに自尊心が邪魔して動けない。貴方達は誇りのためにこの国の火が消えても構わないのですね。自分達の誇りがこの大陸や民の命と釣り合うと、本気で思っておられるのですね」
まるでさっさと決断しないミナリ達が悪いと責めるような口ぶりに文句の一つや二つ返したくなるところだが、口喧嘩をしている場合ではない。こうしている間にも刻一刻と波は大陸に近づいている。言い返す暇があるならその分頭を回すべきなのだ。
「“なんでも言うことを聞く奴隷になりますから、津波を止めてください。ご主人様”はい」
「僕は、貴方みたいに奴隷にはならない」
ミナリの言葉に躊躇はなかった。ナンシーに言われた通りに口にしたと言わんばかりの明瞭な発音。今や彼の表情に悩みは浮かばず、瞳の中に燃える決意の炎は、そこに映るナンシーを飲み込まんとしている。体を拘束されていると言うのに、してやったりと言いたげな笑みを浮かべている。
「そう、ですか。皆仲良く波に呑まれても良いとおっしゃるのですね」
「貴方の手を借りなくたって、津波を止める方法は必ずある」
ナンシーの表情が一気に冷たいものへと変わる。眉を顰めたり冷ややかな笑みを浮かべたりではなく、まるで精密機械に作らせた人形のような無表情に近い顔。ただしそこには明らかにミナリに対する嫌悪が見て取れる。
「ホノカなら、きっとこう言う。たったそれだけ。だけど、僕にはそれだけで十分。だからナンシー・フィクツ、貴方にはここで灰になってもらう」
ナンシーは王に拘束を強めるよう合図をした。だから遠くに現れた二人に気づくのがわずかに遅れた。あるいはミナリの挑発で頭に血が上っていたためかもしれない。とにかく彼女は自分が出した合図とほぼ同時に響いた銃声への対応が遅れてしまった。銃弾は彼女の右脚を抉り、地面に血を溢れ出させた。
彼女がうずくまりながら銃弾の飛んできた方を見上げると、硝煙の上がる金色の四連装自動拳銃を構えたままのジェイビーとホノカが近づいていた。ミナリの挑発は二人が来るまでの時間稼ぎであり、不意を突くための陽動だったのだ。しかしそれでもナンシーは動じない。痛みのせいか多少表情に悲痛さが垣間見えるが、彼女の変化はそれだけだ。
「随分と生意気な口を利きますわね。ホノカ様ならきっとこう言うに決まってるですって? じゃあ本人に聞いてみましょうか。私の僕となったホノカ様に」
ホノカの目は据わっており、ぼんやりとナンシー達の方を見ている。足取りは決して重くはないがどこかぎこちなく、三歩後ろに続くジェイビーのそれとはまったく異なっていた。ナンシーが勝ち誇った笑みを浮かべていても、ミナリが名前を呼ぼうとも一切の反応を見せず、怒りの表情が張り付いた彼はナンシーの前までやってきた。
「昨夜、食事をご一緒した際に隠し味を仕込んでおきましたの。さあホノカ様。物分りの悪い貴方のお友達に、常闇の力の素晴らしさを教えてさし上げて」
ホノカはミナリの前に立ち、何かを考えるように腕を組んで俯いた。そして一度だけ首だけでナンシーに振り返ると、一言もなくただ頷いてミナリを見据える。やがて、組んでいた腕が解かれる。
その脚は空を切る。踵が背後にいたナンシーの頭を捕らえる。柔軟な身体の旋回から生まれた遠心力が加わったその蹴りは、常人であれば生死の境をさまよう程の言葉通りの必殺技だった。鋭い後ろ回し蹴りをくらったナンシーは宙を舞って地に伏し、口から黒い煙を吐き出した。
ホノカの行動に気を取られたのか、王の鎖がわずかに緩む。その隙をミナリは逃さず、すかさず後頭部の頭突きを食らわせる。さらに緩んだ鎖を振り払い、炎を纏って空中へと距離をとる。
「王様! 王様ったら!」
王は姿勢を立て直しながら、両手で持った鎖を頭上に振り回す。臨戦態勢の彼にミナリの声は届いていない。王は無言のまま彼を地に落とさんと鎖を鞭のように操って風を切る。動きは俊敏、狙いは正確。避ける暇などありはしない。これほどの鎖捌きには強靭な精神力が必要だったはずだ。そして宙を舞う敵に当てるのにはなおさら神経を使ったことだろう。だからかもしれない。鎖がピンと伸びきった時、既にホノカのとび蹴りが目と鼻の先まで迫っていることに気づけなかったのは。
王がホノカとミナリを相手しているのを見ながら、ナンシーは土を払って立ち上がった。周囲に広がる地獄絵図の再現をぐるっと見回し、眉を潜めてもう一度軽く土を払う。そして右足を引きずりながら処刑場の出口へと歩き出すが、彼女の前に立ちはだかる影があった。
「貴方も、私の味方になってくれるつもりはないようですね。ジェイビー」
彼の小さな左手は黄金の銃を構え彼女に向けている。右手にはメキュハクヒの槍。パンパンに張った袋が揺れ、焼き菓子の生地を薄めたような頬には涙の跡が残っている。
「アンニィ様のお腹には、新しい火が宿ってた……それを知っていて、この槍に常闇の力を込めて渡した。そうですね?」
「賢いのね。流石は私のジェイビー……これまでよく頑張ったわね」
引き金にかけられた指が強張り、手が小刻みに震える。引き金を引いてしまえばジェイビーはまた一人殺してしまうのだ。それもこれまで自らを本当の弟のように可愛がってくれた相手を。“どうしてこんなことを”と咎める彼の声の重さと鋭さはいささか弱々しい。
「たったヒトリ、その民のことだけを思う。純愛って言うのかしら。素敵だと思わない? 私はアンニィの思いに心打たれて手を貸しただけ。彼女も満足そうな顔してたでしょ?」
知ったような口を利くナンシーだが、まさに言うとおりだ。アンニィの最期は清々しかった。やりたいこと全てをやりとげたと言わんばかりに安らかに逝った。彼女は満足だっただろう。敗者として惨めに生きるよりも、敵に一矢報いて死にたいといった言葉はどんな世界にもある。彼女は間違いなく後者であり、その考えを肯定するだろう。悪びれないナンシーの飾り立てた言葉はそんなアンニィの意思と命をチップにしてちょっとした賭けに興じたことを意味していた。
「でも残念。アンニィが勝っていたらきっと優秀な常闇の民になれたでしょうにね。強敵を倒し、お腹の中の火も消え、自らの火を消す意思さえ常闇に飲まれながら絶望して……本当に、残念でならないわ」
ジェイビーは怒りと失望と哀れみを同時に抱いて、どんな顔をすればいいのかわからないようだった。今まで散々弟扱いされてからかわれたものの、それが彼女なりの愛情表現であることはわかっていたし、時が経つにつれ彼自身まんざらでもなくなっていた。本当に弟だったら良かったのにと思う時だってあった。そんな彼女の悪事を知って、彼はどうするべきか迷っていた。
ナンシーの右足が一歩前に出る。しかし血を流しすぎたか姿勢を崩し、ジェイビーの足元に倒れ伏した。それまで冷たい銃口を向けていたとは思えないような驚きと悲痛の表情は、彼が屈んだためにナンシーの目の前にある。
「ねぇ、ジェイビー。貴方は私のこと、どう思う? ……幻滅しちゃいました?」
消耗のせいか少し息の荒いナンシーは仰向けになるよう体を転がすと、その全身が黒い靄に覆われ始めた。アンニィを暴走させ王を堕としたそれは徐々に彼女の衣服を侵食し塵へと変えていく。
「お願い、聞いてもらえるかしら。ジェイビー」
「お姉様。もうやめてください……」
「私を、抱いて」
彼女はもはややりたい放題だった。終末が迫れば自暴自棄になる者がいてもおかしくはない。愛を確かめ合いながら共に滅びるというのも一つの選択だ。しかし終末を止められるという彼女はおそらく“好機”としか捉えていない。止めてやる代わりに言うことを聞けと、世界を人質にワガママの限りを尽くしている。
もし彼女を抱きしめれば、彼女の身体に滞留する靄が一気にジェイビーの体を飲み込むことは想像に難くない。彼自身それがわかっているため不用意に動くことはしない。ただ、目の前の怪我人を放っておけるような彼でもない。
彼女の衣服が全て塵に変わり、風に吹かれて消えてゆく。豊満な身体の白い肌が所々靄に隠されている。よく見れば痛みのせいか死の恐怖に怯えているのか全身にうっすらと汗をかいており、熱でもあるのか頬を赤く染め荒い呼吸に揺れる潤んだ瞳がジェイビーの目を捕らえて放さない。
「ほら、おいでぇ」
彼女の手が、ジェイビーに拳銃を下ろさせる。そのまま手を取られ、彼は導かれるまま彼女の胸を掴まされる。やわらかい。普段一方的に抱きつかれる時の、布越しの感触とは異なった柔らかさ。まっさらな雪原に最初に足跡をつけたような言い知れぬ興奮。抗えぬほどの衝動が凄まじい勢いで湧き出し、気づけばジェイビーは黒い靄がまとわりつく中で彼女の体に跨り胸に顔をうずめていた。
「いい子ね。それでいいの。お姉様と一緒に、常闇に飲まれて消えましょうね。貴方は私が津波を止められると本気で思ってる馬鹿な男達とは違って、賢くて素直で、可愛い私の弟」
恍惚に浸りきっているナンシーに頭を撫でられ、少年の心は甘くとろけようとしている。後ろではホノカに伸びた鎖をライズが弾き飛ばして戦っているが、どうにも劣勢のようだ。加勢するべきかもしれない。ジェイビーにとってホノカもミナリも頼もしい仲間だ。ソウシマアタの塔では皆で協力すると誓った。それでも彼の身体は動かない。動くつもりがないのかもしれないし、動かせないと言った方が正しいのかもしれない。弟として躾けられた少年が姉である彼女の甘い声と柔らかい身体に抗えるはずもない。姉だけに許された彼の心の抜け穴。そこに常闇の力が流れ込む。“お姉様は、あの津波、止められないの?”もはや理性も眠りにつき、ジェイビーは甘えた口調で尋ねた。
「うーん、私の力とあの津波の主が持つ力は根源的には同じなの。でも微妙に違うみたいね。ジェイビーも見てたのでしょう? そこの兵士達が構えもなくゆらゆらとスコリエルを押し潰そうとしてるところ。私にはあんなことできないの。私の力が“一部の意思を奪って他の意思を暴走させる力”なら、あれは“意思を全て奪って操り人形にしてしまう力”ってとこかしら……とにかくね? あの津波を止めるには、多分だけどあの津波の中にある本体を直接叩くしかないの。でも誰もそんなこと出来ない。でも大丈夫よジェイビー。あなたは、私がこうして最後までぎゅーってしてあげるから」
「……聞こえましたか? ホノカ様」
『ああ。よく聞こえた。ありがとうジェイビー』
二人の間からホノカの声が響く。正確にはジェイビーが下げているパンパンに張った袋から。ジェイビーがそれを取り出すと、ナンシーは驚いて固まるしかなかった。今開発を進めているという小型電信機の試作機。その一つが今少年の手の中にあるのだ。
「そんなことだろうと思っていた」
言葉と共に処刑場に仕込まれた四本の鎖が飛び、ナンシーを空中で大の字に拘束する。吊り上げられる彼女に振り落とされたジェイビーは尻餅をつき、王が背中から持ち上げて支えた。少年が見上げた王の瞳は所々煤けてはいるが、意思の炎がしっかりと燃えている。
「おう……さまぁ……」
王は彼女が津波を止められるなどと信じていたわけではない。わざと力を少しずつ受け入れることで理性を保ち、彼女が口を割るのを待っていた。権謀術数渦巻く城の中で常に目を光らせていた彼が、彼女の嘘を見抜けないわけがないのだ。
「時間稼ぎをしていたのが貴方だけだと思っていたなら、大間違いだ」
ライズが宙を舞い、彼女を捕らえる鎖に炎を伝わせていく。彼女の背中には異端であることを証するように三つ角の模様が鈍い光を発している。火あぶりの刑に科せられた魔女とでも言おうか。大の字に広げられた身体には千切れそうな痛みに悲鳴をあげ、徐々に近づく炎に怯え震えて然るべき苦痛が与えられているにもかかわらず、彼女はそれを表情に出さない。
「そう。もう終わりですのね。でも滑稽でしたわ……初めからこうなることは決まりきっていたのに、私の手の内で必死になって無駄な足掻きを繰り返して、津波を止められると信じて。ただ、ホノカ様が言うことを聞かなかったのが意外でしたけれど、流石は伝説と言ったところでしょうか」
彼女の言葉にホノカがキッと見上げて睨み返す。話している間にも鎖を伝う火は手足のすぐ傍まで近づいた。彼女は苦痛を表に出さないが、全身で汗をかき呼吸の数も増えてきた。もう間もなく彼女は火達磨になってこの世界から消える。しかしその寸前、王はライズに火の進行を止めるよう命じた。
「宰相よ、教えてくれ。君は私を打倒し、この国を支配したかったのではないのか? 津波で国を飲み込もうなど、君の計画には無いはずだ。何故時間稼ぎなど」
「……この国を、支配する? そんなこと言いましたかしら。私はただ、楽しいことをしたかっただけですわ。平穏に過ごすより刺激に溢れていた方が皆活き活きしますもの」
彼女は一切余裕を崩さない。全裸で四肢を鎖に引っ張られ、火あぶりにあっていてもなお、その顔はどこかこの状況を楽しんでいる節が見える。
「いいことを教えてあげましょう。常闇の中って、何も見えないんです。まるで自分自身が常闇そのものになったようで、実際には常闇の一部でしかない。でもそんなの関係ありません。自分という境界がなくなって、すべてが一つになる。そこには闘争も怒りも憎しみもない。素晴らしいと思いませんか?」
“狂っている”と一言で表せられたならどんなに楽だろう。彼女はもはやこの世界の民ではない。異なる世界の常識を受け入れ信望してしまっている。さらに厄介なのは言葉が通じることだ。落ち着いた言葉づかいに含まれた狂気は想像より容易く人々に伝染する。こうして彼女が話している間にも、満身創痍で倒れている兵士達に常闇の力への渇望が生まれているかもしれない。優秀な媒介者として、彼女は本気でこの国を常闇に包むつもりのようだ。
「止め方がわかったところで、今から行っても間に合わないでしょうね。まぁ、最後まで私に付き合っていただいて、ありがとうございます。先にあちらでお待ちしておりますね。……またね。ジェイビー」
それからはごくわずか瞬間と言ってもいい程の時間だった。鎖に黒い靄を流し火を押し返したナンシーは、四肢を勢いよく引っ張って根元から鎖をちぎった。同時に、鎖の端からその実態が靄そのものへと変わり消えていく。彼女の手足も同様、蝕むように体へと侵攻していく。そこで銃声が響いた。駆け出したジェイビーが放った銃弾は靄よりも速く彼女の胸を打ち抜く。何故そうしたのか、本人にもわからない。ただ彼の中にある何かが身体を突き動かしたとしか言えない。その銃弾が何をもたらすのかさえ知れぬまま、やがて彼女の微笑みは靄となって霧散した。
ナンシーが消え、場内に燻っていた黒い靄が消滅した。心なしか先ほどまでよりも明るく見えるが、依然厚い雲が空を覆い、巨大な波が押し寄せてきていることに変わりはない。
ガクン、と膝を付いたジェイビーを支え、王は苦虫を噛み潰す。あの津波を止めるには操っている本体を破壊するしかない。しかし今からでは例え本体までたどり着いたとしても壊す前に国に被害が及ぶ。そもそも津波の中にあるというのに誰がたどり着けようか。
「じゃあ僕そろそろホノカの所にもどるから」
ホノカが後味の悪そうな顔で立ち尽くしていると、ミナリの冷たい言葉が飛んだ。メキュハクヒの槍を拾い空へ飛び立つライズの姿を見送りながら、彼は大きく鼻で息を吐いて首を振り地面に小さな細い筒を吐き出した。するとたちまちホノカの姿がバスタのものへと戻っていく。これには王も、ちょうど目を覚ましたコルチも顔に驚嘆の色を浮かべた。
「ったく、女の子にはもっと優しくしろよなぁ」
口をあんぐりあけているコルチをよそに、バスタは王の傍へ向かい両手をとる。王は初めこそ目を点にしていたものの、事情を理解したのか笑みを浮かべてバスタを見返した。「あの宰相すら騙すとは、大した女だ。挨拶がまだだったな。私はフランシング・スコリエル。この国の王だ」
「バスタです。バスタ・レースタロット。以後お見知りおきを。ところで王様。背中を見せてもらっても構いませんか?」
王を前に声色と口調を余所行きのものに替えた彼女の言葉の意図を彼は即座に理解したらしい。王は頷くとその場で猛々しい炎の刺繍が入った深紅のマントを外して落とし、ドサッとマントの周囲から砂埃が舞った。丈の短い上着を脱ぎ上着も取り払ってバスタに背を向ける。そこには、うっすらと煤けた色の左右対称の角模様が浮かび上がっていた。
「どうかな。まだ間に合えばいいが」
バスタは模様の端を指でこする。しかしこすればこするほど濃くなっていくのを見て、すぐに手を止めた。無理に手を加えるとまずいらしい。しかし同時に、その模様が完成していないこと――常闇の力が王の意思を完全に支配できる段階にないこと――がわかり、ホッと息をつく。
「まだ角二つです」
「そうか。ところで君はこの模様の意味を知っているのか?」
「いえ詳しくは……でもこの角が三つになるとヤバイって言うのはさっき塔の上で見ました」
王は頷き、脱いだ衣服を着なおしながら各自背中を確認しあうよう兵士達に告げた。大津波が全てを洗い流そうとしている今それは果たして意味のない行為であろうか。彼らにはわからない。ただ不安を抱えながらも、ライズが飛んでいった空を見上げ奇跡を待つしかなかった。