ースプリンシュディラの邂逅ー
「アクバーの中は好きに使ってもらって構わん。シュプリンシュディラまでは止まるつもりはねぇから、そのつもりでいてくれ。あぁ、あとそれまで飯もたいしたものは出ねぇ。その代わり酒なら腐るほどある」
ゴルデアの爛々とした光に照らされるアクバーの内部。動きに合わせてうねる廊下の両側には後方を見張る乗組員の寝室が設けられている。ホノカは興味深そうに辺りを見回し側の扉に手をかけたが、前のラジーマがすぐさまそれを制した。
「やめときな。中は酷い有様だ。酒とゲロまみれでとても見せられるものじゃねぇ」
扉の奥からえずく声が聞こえると、ホノカはドアノブから手を離す。奥の扉から一人の荒くれが赤に黄色の斑点が入ったまだらな髪を揺らしてやってくると、ホノカの後ろについた。客としてもてなしながらも、変な気を起こさせないための牽制だ。ホノカはラジーマと荒くれに挟まれ、大人しく奥の扉へと進んだ。
次に広がっていたのは、収容所だった。廊下の左右は無色水晶で遮られた部屋になっている。ゴルデアの灯りは先程の部屋よりもずっと弱く、眼を凝らさなければ水晶の向こう側でぼんやりと虚空を眺めている痩せた子供たちには気づかないだろう。事実ホノカが小さな悲鳴をあげたのも部屋の真ん中まで来たあたりだった。
「それだけ目が慣れるのが早けりゃ、夜も安心だわな」
ガッと笑うラジーマ。その顔は子供たちとは対照的だ。
「いや、ここはいったい……何でこんなに」
「ああ? 当然さぁ。俺たちゃガキを売って」
後ろの荒くれはそこまで言うと、ラジーマは彼の額を殴りつけた。
「余計な事言いやがって……売ってるって言っても勘違いしないでくれよ。俺たちは見世物一座もやってるんだ。だからこいつら全員、家族みたいなもんだ。まだ駆け出しだが人手は多い。ちょいと芸を仕込みゃたちまち大富豪よ」
大きく頷いて先を急ぐラジーマだが、お世辞にも“家族みたいなもの”には決して見えない。ボロ布で身体を包み、無造作に伸びた髪の先を口に入れる子供などは性別も顔色も判らないほどに薄汚れていて見るに耐えない。ラジーマの言葉が本気なら果たしてこの子にどんな芸を仕込むというのだろうか。
ホノカ達が少し進んだ先で左右の部屋の様子は大きく変わった。明るいゴルデアの光に照らされて温かみのある木材に囲まれた室内には子供たちが思い思いに過ごしている。頬を膨らます少年もいればすやすやと眠る幼児もいて、ここはさながら児童館だ。子供たちの服装もぼろきれかられっきとした衣類に変わっているが、どこかうす汚れて見える。これらの部屋と独房のような部屋との間には厚い仕切りが設けられていて、お互いの部屋を行き来するには廊下を通らなければならない造りになっていた。
「親分! ちょっと来てくだせぇ。また操舵室の戸が開かなくなっちまったんすよ」
前からやってきた男がそう告げると、ラジーマはホノカにこの部屋で待っているように言って駆け出した。
荒くれと沈黙を共有しつつ、残されたホノカが子供たちを眺めていると、子供の一人がホノカに向けて六本指の手を振った。ホノカが小さく振り返すと、その子も無邪気な笑みを浮かべて大きく手を振り跳ね回る。今自分がどんな境遇にいるのかも知らずに。
突如手を振っていた子が部屋の前方へと駆け出した。その先には子供たちが何かを囲んでいる。ホノカが廊下を歩いてその集まりを覗き込むと、真ん中には金髪の青年の姿があった。
「『ヘイゼン水路と八本足の怪物』」
青年のやさしい語り口に子供達は口を閉じる。
「昔々、民がクニを作るよりずっと前。この大陸にはいろんな生物がいました。壷みたいな頭の五本足、首の長い網目模様の一つ目、そして手足も目も口も無い、縄みたいな動物。本当にいろんなのがいました。
そのなかに、八本の足で這って歩く緑色の眼をした動物もいました。名前はピンポン。ピンポンたちは他の生き物より大食いで、大きな木や岩でもなんでも食べて暮らしていました。
そんな動物たちの暮らしが何百年も続いたある日のこと。空から新しい、いろんな種類の生き物が降りてきました。それは小さな身体に、二本の足と、器用な二本の手をもった、僕たちのずーっとまえのお爺さんやお婆さん。これが“民”です。新しく入ってきた彼らは、それまでいた動物たちにいじめられないよう、それぞれ集まって、助け合って暮らすことにしました。これが“クニ”のはじまりです。
さて、民が暮らし始めると、ずっとそこで暮らしていた動物たちは困ってしまいました。住処を追い出されたり狩られたり、そんな日が続いて大きい動物たちは姿を消していきました。
それはピンポンたちも同じでした。何でも食べようとするピンポンは、民にとってとっても迷惑だったのです。ピンポンはどこへ行ってもその大きな体のせいで民に見つかり、捕まえられたり殺されたり、とにかく痛い目にあっていました。
身を隠さなきゃ。そう考えた二匹のピンポンはまず大きな森に隠れました。でも癖で森の木を全部食べちゃったから、すぐに見つかってしまいます。
地上は危ないことがわかると、二匹のピンポンは海の中に逃げ込みます。ここなら民はいないし、水も飲み干せないほどあります。ピンポンは海の中に、空気の詰まった洞窟を見つけて、そこを家にして暮らすことにしました。
それから数百年。大きい動物たちはみんな、すっかり姿を消しました。大きい動物たちに襲われる心配がなくなった民達は、新しいクニを作ったり、クニを大きくすることに力を入れました。するとどうでしょう。こんどはクニ同士で喧嘩をするようになってしまったのです。
さぁここからが本題。その頃蔦のクニに、ヘイゼンと言う旅人がやってきました。彼はなんと全身灰色の毛むくじゃらで、ピンと縦に立った耳と柔らかい尻尾をぴこぴこと動かすことの出来る、この大陸に住むどの民とも違う特徴を持っていました。鼻と口の辺りが突き出ている彼は海の向こうにあるツチの国から来たと言うのですが、民は皆半信半疑です。それでもヘイゼンは構わずクニの側で土地を借りると、なんと道具を使わずに、その手で地面を掘り始めたのです。
“おうい、何やってるんだい”長老が声を掛けます。するとヘイゼンは“今から海まで水路を引いてきます”と平然と返すではありませんか。これには皆驚きました。蔦のクニから海までは普通に歩いても十五日はかかります。そんな無茶なと思っていた蔦のクニの民達でしたが、ヘイゼンの一生懸命な様子に心を打たれ、ヒトリ、またヒトリと水路作りを手伝うようになりました。
十日ほど経った夜、ヘイゼンは洞窟を掘り当てます。そこには水を飲む二匹のピンポンの姿がありました。その時ヒトリで作業をしていたヘイゼンは、へたに騒がずゆっくりと洞窟に入っていきます。
“やあ。僕はヘイゼン。”その声にピンポンは驚いて振り向きます。ピンポンにとっては数百年ぶりの民。話しかけられるなんて初めてのことです。一回り小さい方のピンポンがもう一匹を後ろに隠し、尻込みをしてヘイゼンとの距離をとります。
“心配しなくて良いよ。水を分けてもらいたいだけだから”そう言うとヘイゼンは作業を続け、あっという間に海までの路を作って引き返しました。
民達が見たこともないような仕掛けを施したヘイゼンがクニを後にすると、やがて水路に水が溢れ出しました。海の水を引き上げて皆が飲める水にする技術はここから生まれたのです。
数十年が経ち、蔦のクニから始まった地下水路はクニ伝いにどんどん延びていきました。しかしクニ同士の仲が次第に悪くなると、蔦の国は他のクニに繋がる水路をせき止めます。これには他のクニも怒って、地上では争いが頻繁に起こるようになりました。
一方ピンポンの洞窟は、蔦のクニが水をせき止めたせいで、どんどん水で満たされていきました。このままでは二匹のピンポンも、その時生まれていたちいさなピンポンたちも溺れてしまいます。
ピンポンは意を決して水路を遡りました。そして水路をふさぐ壁を見つけると突進して壊し、水が流れるようにしたのです。
それからピンポン達は民が水路に手を加えないよう、定期的に水路の中を泳いで回っているのです。
だから、みんなは古い地下水路に近づいちゃだめだよー? 今でもピンポンたちがいるかもしれないからね。いたずらっ子は食べられちゃうよ」
青年が話を締めくくると、子供たちは満足げな顔でパチパチと手を叩いた。拍手喝采だ。しかしホノカとその隣の荒くれは呆然と立って面食らっている。
「そのピンポンってのは、目は何色だ?」
荒くれが無色水晶の壁越しに尋ねると、青年は鼻で笑った。
「なんだ、そんなことも知らないのか。ま、紙劇場もない田舎育ちの筋肉馬鹿じゃしょうがないよなぁ」
青年は見下した態度で口を尖らせ、たった一言子供たちに話を聞かせていたそれとはまったく異なる印象の声で “緑だよ”と付け加える。するとホノカと荒くれの顔が一気に蒼ざめた。
「なんだ。無法者のくせに子供向けの作り話を恐がるなんて――情けないねぇ」
青年は二人の様子に冷ややかな笑みを浮かべて言い放つ。歯噛みする荒くれの横でホノカは水晶の壁に手を当て、青年に食い入るように顔を近づけた。
「俺達は今その地下水路の中を走っている。そしてさっき、緑色の目をした大きな怪物を見た……その話、多分作り話なんかじゃない。本当にあった事だ」
青年の顔からもわずかに血の気が引いた。続けて怪物との戦いを説明すると、青年は眼を見開き声もなく口をパクつかせた。顔には冷や汗が浮き出ている。自分で話しただけあって、その怪物が実在する恐怖をよくわかっているようだ。
「そんな、ど、どうしてくれるんだ! おまえのせいだぞ! お前のせいで僕はこんなところに…… どうしてくれるんだ!」
取り乱す青年。荒くれが水晶の壁に拳を打ち付けると、青年は押し黙って一歩引いた。殴った跡には小さな亀裂が走っている。
「ごちゃごちゃ抜かすな! 俺たちのガキを攫ったじゃねぇか。当然の報いだ」
「こ、子供を攫っただと? ハン! 民攫いはお前の方だろ! 僕はここから逃げてきた子供たちを匿ったってのに」
態度を崩さず言い返す青年はホノカを恨めしそうに睨みつけ、
「何様のつもりか知らないけど、君が良かれと思ってやった結果がこれだ! まったく――情けないね!」
とまくし立てたが最後の言葉は震えていた。誰を責めたところで捕われている事実は変わりようがない。青年の声は車内に空しく響くだけだ。
「子供を攫って売るロクデナシめ! 屑が! 腐れ低能共が!」
「やかましい!」
水晶を震わす怒声は前の扉から現れたラジーマのものだ。部屋中の誰もが彼に視線を向ける中、ラジーマは青年を激しい剣幕で睨みつけると、
「お前なんぞに俺たちの気持ちがわかってたまるかよ」
と吐き捨てた。そしてホノカに手招きをして扉の奥へと消えていく。ホノカと荒くれは顔を見合わせ、顔を背ける青年を一瞥して扉をくぐった。
鬱屈として薄暗い廊下の左右は灰色の壁で覆われており、扉の一つも見当たらない。重苦しい沈黙の中、ラジーマとホノカ、そして荒くれの三人は程なくして突き当りのはしごにたどり着いた。
「生きていくには仕方ねぇことなんだ。俺たちだって本当はこんなことしたくはねぇ。けどな」
はしごに手をかけたラジーマは言い聞かせるように、それでいて独り言のように呟いた。
「火の国じゃ争いは日常茶飯事だ。大人達は争いの中で死んでいく。なら親やクニをなくしちまったガキはどうすればいい? 何も悪くないガキどもが大人の都合で生活を奪われる。そんなのおかしいと思ったってそれが現実だ……俺たちゃガキどもに新しい生活を送らせてやれる親を探している。それまではこのアクバーの中で世話を見る。ガキにとっても、たったヒトリでのたれ死ぬよりずっとマシなのさ」
黙々とはしごを上るホノカの顔にやるせなさが浮かぶ。やがてはしごを上りきると、重厚な扉が開かれて絢爛なロビーへと出た。ゴルデアの彫刻が部屋の中央から一帯を眩く照らし、点在するふかふかのソファには荒くれ達がくつろいでいる。
「だから、ここにいる奴は全員家族みたいなものなんだ。例え民攫いと罵られても、俺は国中の家族のために、この仕事を続ける。さあさ、ここがあんたの部屋だ。先客がいるが勘弁してくれ。一番良い部屋なんだ」
門の扉が開かれ、ホノカは言葉を失った。その部屋は荒くれ達には決して似合わない、淡い桃色の装飾が施されていたのだ。壁も、絨毯も、天井も、家具やベッドに至るまで、まるで富豪の娘が駄々をこねて用意させた部屋のようだった。
ベッドの上では、花のような薄い黄色のドレスを着た子供が座ってホノカ達を見ていた。揺れる赤銅色の虹彩。目尻は下がっており、焼き菓子の生地を薄めたような頬の色と透き通るような銀髪はこの部屋を使うに相応しい。少し怯えた表情は囚われのお姫様を思わせる。さらにまだまだ伸びしろの感じられる体つきとくれば、数年後を期待しない男はいないだろう。
「コイツはウチの目玉商品――看板娘さ。口が利けねぇ分うるさくなくて良い」
ラジーマは鼻で笑うと、“ゆっくり休んでくれ”と言い、付き添いの荒くれと共に部屋を後にした。残されたホノカは扉を閉めてしばし辺りを見回した後、彼には少し小さい椅子に座って先客に笑顔を向けた。
「や、やあ。可愛らしい部屋だね。君によく似合ってる」
彼がいささか不自然な気さくさで話しかけるがラジーマの言ったとおり返事はなく、子供の目や仕草から“あなたは誰?”と言いたいであろうことを推察するしかない。その間の静寂は双方にとって気まずいもので、ホノカは取り繕うように言葉を漁った。
「ああ、えっと、俺はホノカ。それでその……ごめんね、急に同じ部屋だなんて言われても困るよね……友達を探しに城まで連れて行ってもらうんだ。ミナリって言うんだけど」
慌てて矢継ぎ早に話すホノカに、相手は困ったような顔でおろおろするばかり。やがてばつが悪そうに彼が口を閉じると、ドレスがふわりと立ち上がった。紙と金色の筆記具を小さな箱から取り出し、なにやら文字を書いている。
「いや、俺実は文字読めないんだ。だから筆談は」
しかし小さな手で差し出された紙には、ホノカにも読める字でこう書かれていた。
“わたしのなまえはジェイビー あなたがミナリさまのいってたおともだち”
紙を取る手が震えている。手本のような日本語の文字からジェイビーの顔に目を移したホノカは駆け寄るとちいさな両肩を掴んで詰め寄った。細い身体はビクッと跳ね、赤い瞳は浮かぶ涙の幕に揺れている。
「ミナリは、生きているんだな」
目を閉じて、こくんと頷いたジェイビーの頬を涙が伝う。慌てて手を離したホノカは距離をとり、脅かすつもりはなかったと自身の身体の前で押さえるように手のひらを見せた。
「ごめんよ。本当に。君の言うとおり、俺はミナリの友達だ。ずっと探してたもんだからつい」
恐る恐る筆記具を取り、さらさらと綺麗な日本語を書いて渡すジェイビーの目は震えている。“だいじょうぶです”と紙には書いてあるが、とてもそうは見えない。
気まずい沈黙の中、ホノカは椅子に腰掛け、ジェイビーは使い慣れた様子で筆記具を紙に走らせる。その文字を書くには不要な一面金色の装飾は、派手なようでいて落ち着いた気品を感じさせる。こんなものを持ち歩いている子供は誘拐犯のいい的と言えよう。実際ジェイビーがここにいるのも、まず筆記具に目をつけられたためだ。
“ミナリさまは あなたのことと ミナリさまがいたせかいのことを たくさんはなしてくれました ミナリさまは おしろにいるはずです”
はず?――差し出された紙にそうホノカが問う間にも、ジェイビーは既に新しい紙を用意して筆記具を走らせている。
“ミナリさまは きがついたら ふとどこかへ でかけられてしまうのです なので すぐに あえるかどうかは わかりません”
「何日か待つくらいなら、なんてことないさ」
軽い会話の後、ホノカは部屋の物色を終えた。一人で寝るには大きすぎる寝具。その脇の扉の奥には水釜と桶があり、ここで身体を洗えということらしい。箪笥にはものの見事に女物の服しかなく、手にとって広げたそれが派手な下着とわかると声をあげて押し戻した。
“そのくびの きれいですね”
「大事な相手から貰ったんだ」
「大事な相手か。羨ましいね。俺たちにゃまず見つかりっこねぇからな」
赤に黄色の斑点が入ったまだらな髪の荒くれが入ってくる。――コンコン、と遅すぎるノックが響き両手で支えるお盆には白磁のカップが三つ。注がれている飲み物は半透明な緑色をしていた。荒くれは足で扉を閉めると、二人が囲むテーブルにお盆を預けた。
「ほら、長旅で疲れただろう。遠慮はいらねぇからこれでも飲んでくつろいでるといい。さあ、ジェイビー様も」
それぞれの前にカップを置き、彼自身も床にどっかり腰を落としてあぐらをかく。ジェイビーは穏やかな笑みで荒くれに頷き、両手で取ったカップを傾ける。そんな二人の様子は誘拐犯と子供と言うより――
「まるで主人と召使いみたいだ。見た目は逆だけど」
ホノカの言葉に二人が目を丸くし、一方は豪快に、一方は声も無く笑う。
「恐れ多いがジェイビー様のような召使いがいれば留守中も気が楽だな。そういうあんたは屋敷に宿を借りに来た旅人ってところか。どのクニから?」
「信じられないかもしれないけど、海の向こうにある遠い国から来たんだ。」
「まて、嵐の壁を越えてきたのか?」
安穏としていた空気が一転彼らの戦慄が沈黙となって部屋を駆け回ったかと思うと、荒くれは鋭い目つきで問い、ホノカはたじろぎながら頷いた。荒くれは一度目を大きく開き、顔を近づけて声を潜める。
「いいか、あんたがオリゾだってことは誰にも言うなよ。あとその国のこともだ」
ホノカは声を潜める荒くれの迫力に押され、何故といった顔をしていることなど気にかける余裕もなかった。仰け反る彼に荒くれは身を引き、カップを一度呷ると長い溜息をついた。
「俺は三十日ほど前にな、そこに行ってたんだよ。クシミア様と共にな。そこでお前と戦った。覚えてないか? お前が叩き付けたブーメラン」
しかしホノカは首を縦に振らなかった。目が覚めたときにリゼエに答えたように、気絶していたからかその時の記憶は一切ないためだ。その答えに荒くれは肩を落とし頭を振った。
「ハッ、まあいいさ。とにかく、お前の命を狙う奴はわんさかいる。しばらくはそのままの姿でいろ。いいな」
ホノカは押し黙って頷き、豪奢な部屋は静まり返る。聞こえるのは遥か下で回る車輪の音と、機械の動く音。そしてジェイビーが金の筆記具を走らせる音だ。
「かれ は コルチさん わたし を たすけに きてくれた おしろ の へいし です だっしゅつ の きかい を さぐっているの よかったら あなたも てつだって くださいませんか」
三日後。アクバーはスプリンシュディラの街に止まった。三日三晩動かし続けた機械が熱で壊れないよう冷却すると共に、食料と水、そしてゴルデアを調達するためだ。アクバーを降りたホノカは辺りを見回すが、旧地下水路の光景というのは時間や場所を選ばない。
「夜まで好きにするといい。時間になったら迎えをよこす。楽しんできな」
街を見てみたいというホノカの申し出はあっさりと通った。しかも一人で自由に動いていいという待遇に他の荒くれたちは目を白黒させ、その間に彼は礼を言いながら階段の向こうへ姿を消してしまった。
「親分。いいんですかい? あんなこと」
数人がラジーマの周りに群がって声を上げるが、ラジーマは気にも留めていない様な様子だ。
「いいんだよ。あいつは城に行きたがってる。それにはここに戻ってくるしかねぇんだ。心配ないさ」
「でもよぉ」
「うるせぇなぁ。喋ってる暇があったらさっさと働きやがれってんだ!」
ラジーマは坑内に大声を響かせるとアクバーの中に戻っていった。残された荒くれ達は口々に文句を言いながら、方々へ散らばっていく。
「なぁ、やっぱり変だと思わねぇか」
コルチが階段を上る途中、丸刈りの荒くれが彼の肩を掴んだ。それに立ち止まって振り返ったおかげで、二人の後ろに続こうとした背の低い荒くれが余所見をしていたのか丸刈りの背中に顔をぶつけた。
「あのガキは高く売れるからともかく、あの新入りだけ贔屓されてるってのは、おかしいよなぁ。強いんならともかくとしてよぉ」
口を尖らせる丸刈りの後ろでは、背の低い荒くれが“早く行け”と喚いている。しかしコルチからは丸刈りの身体に隠れて彼の姿は見えなかった。元より気にしている様子もない。
「……確かに身体だけ見れば、俺たちより強いとも思えねぇ。あの杖さえ奪っちまえば、あいつ手も足も出せねぇんじゃねぇか?」
「杖? 杖がどうかしたのか?」
二人の会話が気になったのか、その背の低さを利用して丸刈りの身体と壁の隙間から割って出る。
「ザニシお前聞いてねぇのか? 向こうを出る前、あの新入りが怪物を杖で凍らせたんだよ」
「はぁ? そんなおとぎ話みたいなことあるわけねぇだろ」
「でもコルチが見たって。それに、城の近くでは火を自在に操る、ライズって奴がいるって聞いたぜ? 火を操るやつがいんなら氷を操るやつがいたっておかしかねぇよ」
丸刈りとザニシが言い争う中、コルチは呆れたように頭を掻いてその様子を見ていたが、長い溜息をつくと二人の胸を叩いた。
「しゃーねぇ。追うってんなら好きにしろ。でも、取引の準備が先ってのはわかってんな? なんてったって今日の相手はあのダスターゴ様だ。手違いのないようにな」
シュプリンシュディラの街は健全に賑わっていた。茶褐色の街並みは日の光を遍く広げ、彫刻になっている家々の壁は人々の目を楽しませる。布を巻きつけた杖を手に、大きな広場へと出たホノカはその和やかさに目を細めながら、中央にある巨大な噴水の縁に腰かけた。
ポケットに手を入れ、小さな石を掴んで後ろへ捨てる。コルチの話ではこの石には持ち主の居場所を知らせる小さな機械が入っており、水に沈めると機械が壊れる。それを利用しわざと壊すことで、城に待機している仲間に救援のタイミングと自分達の居場所を知らせるという作戦だ。しかし地下では信号が弱いため、アクバー内で壊しても一時的に信号が途絶えただけだと判断されかねないため、こうして地上に出て壊す必要があったのだ。
他の荒くれの話では、アクバーは様々な取引のために数日は留まるとのことで、事を起こすには都合が良い。
「それにしても」
ホノカの目に広がる安穏とした光景。遠くの草原の先で青い海が輝いている。近くに目を向ければ子供たちがはしゃぎながら追いかけっこをしている。この街もかつて戦火に巻き込まれたはずなのに、一度も争いのなかった水の国、マヤツミを思わせるような穏やかさがある。
「御機嫌よう」
声に彼が顔を上げると、顔を覗き込もうとしていた老紳士は姿勢を正し、立派な白い髭を撫でながら愛想のいい笑みを浮かべた。
「お邪魔だったかな? 考え事をしていたようだが……隣、いいかね?」
ホノカが促すように横にずれると、老紳士は軽く頭を下げて腰を下ろした。老紳士の着ている服はホノカの世界のタキシードに似ているが、右肩と左腰から伸びる外套のようなフリルが目立つ。それでもなお威厳を失わない姿はこの街の名士として遜色はない。
「初めて見る顔だが、旅人かな?」
「はい。遠い国から」
水の国にしろ元いた世界にしろ遠い国には違いないが、正直に言えない後ろめたさからか、ふいと顔をそらした。それでも老紳士は曖昧な答えや態度を問い詰めるでもなく、羨ましそうに目を細めて笑った。
「奇遇だねぇ。私も旅の途中だよ。これまで大陸中を駆け回ったものだ。ちょうどこの子達みたいにね」
老紳士が指した二人の足元ではちいさな丸っこい鳥が二、三羽、えっちらおっちらと歩いている。餌を探しているのか運動のつもりなのか、うろうろと同じところを歩き回る鳥達は風の向くまま気の向くままといった涼しい顔をしている。
「私は砂のクニの出だが、行ったことはあるかな?」
ホノカがふるふると首を振ると、老紳士はカラカラと笑った。
「火の国の手に落ちて久しいが、いいところさ。だが、当てのない旅の魅力に捕まってしまってね。故郷を奪われても、旅をしている間はその苦しみを忘れられるのだよ」
それから影がわずかに形を変えたとわかるほんの少しの時間、彼らは一言も喋らなかった。足元の鳥のチチチという囀りと、二人の後ろに聞こえる水音と、時おり響く子供たちの笑い声。始めこそ気まずそうに一軒の家に見つけた壁の染みをじっと見つめていたホノカも、シュプリンシュディラの街と民の営みが織り成す底知れぬ平穏の豊かさに浸っていた。
「こんな話を知っているかね?」
老紳士は体を動かさず、しかし隣の若き旅人に語りかけるように口を開いた。
「――三つ目の島をヒトリ渡り歩く。正確には一匹というべきか……彼には一本の赤い尻尾があり、それでいて二足に履いた長靴もまた赤く。
民にして獣の容貌を備えた男は空を仰いだ。自身の存在を、ヘイゼンの名を轟かせるかのように――」
老紳士の詩でも朗読するかのような演技がかった語り口など気に留める様子もなく、ホノカはハッと老紳士を見た。
「ヘイゼンって」
「やっとこっちを向いてくれたね」
小さく戸惑いの声をこぼすホノカに、老紳士は立派な髭の上からでもわかる悪戯っぽい笑みを見せながら満足げに頷いた。愉快そうにホノカの肩に手を回して叩く様は古来の友人へ向けるような馴れ馴れしさがある。
「君も旅人なら聞いたことくらいはあるだろう。憧れだよ。昔話だが、確かに実在していた。私も彼のように、海の向こうの島へ行ってみたくてねぇ。なんども挑戦したさ。だが残念ながら、今まで一度も向こうへ行けたことはない」
ホノカはもの言いたげな面持ちながら口を真横に噤んだまま、そんな様子など気にも留めない老紳士の話に耳を傾け続ける。
「“海の向こうは嵐が広がっているだけで、私が望むような島はない。あるとすれば、死後の世界だ”と、友人は皆一笑に付した。それでも、私は信じているんだ。きっと海の向こうにはこの街ような、平和で素晴らしい場所が待っていると」
遥か過去の記憶を手繰っているのか、まだ見ぬ遠い国に思いを馳せているのか。隣の肩をがしりと抱いた老紳士の細める瞳には火を磨りガラス越しに見たように輝いていた。
「ええ。きっと、綺麗で平和な国ですよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、前向きな気持ちが湧いてくる気がするよ」
老紳士の言葉が終わるや否や、遠くから響く子供の泣き声に足元の鳥たちが飛び立った。二人は機敏に体を起こし、咄嗟に駆け出した老紳士に続いてホノカも杖を掴んで後を追う。
程なくして走る二人の先に草原が広がり、そこを泣きながら逃げ惑う子供が一人。その後ろから、のどかな風土に似つかわしくない貴金属を無遠慮に身に纏った醜い三人の男が追いかけまわしている。ホノカは急いで間に割って入り子供を後ろへ逃がすと、男達の前へ立ちはだかった。
「邪魔だ! どきやがれぃ!」
ジャラジャラと金の鎖を腰に巻いた半裸の男が声を荒げる。見上げるほどに丸々太った男を後ろに二人従えているところを見るに、三人組のリーダーのようだ。体中に浮き出る筋肉を見せびらかせているのは、彼なりの威嚇なのかもしれない。
「あんな小さい子を追いかけて、何のつもりだ」
「何のつもりだとぉ?」
思いがけない質問だったのか、リーダーは気が抜けたように後ろの部下二人を交互に見ると不敵にも笑い出し、それに合わせて部下達も笑い声をあげた。とんだ世間知らずがいたもんだと言わんばかりに相手を馬鹿にした笑い声が草原を駆け巡る
「仕入れだよ。あれはきっと高く売れるぜ?」
「売り飛ばすつもりだったのか」
「勿論だ。だがお前が逃がしたせいで俺たちの食い扶持が減っちまった。それだけじゃねぇぞ。手ぶらで帰ったらダスターゴ様に何されるかわかったもんじゃねぇ。どうしてくれんだ?」
身勝手な恨み節とともに筋肉を見せつけながらじりじりと詰め寄る彼は気迫十分だがホノカは一歩も退く様子はなく、一触即発の空気が流れ始める。
「今晩はラジーマとの取引があるから、お仕置きはないかもしれないですよ?」
「うっせぇぞゴマ! 余計なこと言ってんじゃねぇ!」
部下の言葉は臨戦態勢のリーダーに水を差したにすぎず、その水も彼の一喝で一瞬で蒸発してしまった。再びホノカへ向きなおった彼は開きかけた相手の口にかまわず岩のような拳を繰り出す
次の瞬間、ホノカの前に現れた老紳士の肩にリーダーの拳が打ち付けられた。彼は勢いのままにに吹っ飛び、ホノカに抱えられながらもキッと相手を睨みつける。
「ぐっ、いい歳した大人が、よってたかって子供ヒトリを追い掛け回し、挙句の果てに老人に手を出すとは、いささか恥ずかしいな」
今の横やりは水を差したと言うよりも、火に油を注いだと言う方が適しているだろう。軽蔑するような老紳士の顔を前に彼の眼が座った。
「なんだその目は……ちっ、悪かったよ。ほら、手を貸すぜっ」
傍から見ればよろけた老紳士に手を貸しているようにも見える動きだが、ホノカはその腕をがしりと捉えた。ジロッと男の視線がホノカの腕をなぞりぶつかり合う。
「放せよ」
男の言葉にも力を緩めることなく、彼はビクとも動かない。
「いいんだな。今謝ったって遅いぜ」
「それはこっちの台詞と言いたいところだが、今退くならこれ以上手出しはしない」
二人の間で見えない火花が激しくぶつかり合う。ピリピリとした緊張感に耐え切れなくなったのか、やがて控えていたゴマが恐る恐る口を挟んだ。
「よ、よく見てみろよぉ。三対一だぜ? 勝てると思ってんのか?」
「当然だ」
突如ホノカの手とリーダーの腕のほんのわずかな隙間から強烈な水飛沫が噴き出し、男は驚き身を後ろに仰け反らせた。すぐさま後ろに控えていたゴマが彼の隙を庇うようにホノカへ殴り掛かるが、拳がホノカの体を捉える前に、彼が持つ杖の先端が脇を打ち据えていた。
「ぐあっ……えっ」
「てめぇ舐めたマネをごぉ!?」
指先から放たれた水の弾丸はもう一人の部下の口へと飛び、杖の先ではゴマの衣服が凍りつつある。ほんのわずかな間にこうもいいようにやられる部下を前にリーダー格の男は歯を食いしばりながら何度も舌打ちを繰り返し、かぶりを振りながら腰の鎖を解き始めた。
「あ、アニキ! ちょっと脇凍っただけですから! だからその必要は」
「ほうほう、はにきわほこでひていてくだつぁい」
不利な状況にもかかわらず、彼の部下達は目の前の敵ではなく頼りのリーダーを思い直させようと捲し立てる。それはさながら命乞いとも取れるほどに。しかしリーダーはすでに鎖を解き終わり、巧みにもその両端を部下二人の金の腕輪へと伸ばす。そして重い金属音とともに三つが繋がった。
「黙って振り回されろぉ!」
怒号と共に鎖に繋がった部下二人の丸々太った体を軽々と振り回し始める。それは言うなれば生ける鉄球。二種類の悲鳴を上げる武器を自在に操り、ホノカの前の空気を抉るごとに距離を詰めていく。
「君! 気をつけたまえよ!」
「平気です! 早く逃げて!」
背後の老紳士を気遣いながらゴマの巨体を杖の柄で受けようとするホノカ。しかしあまりの衝撃に体ごと弾き飛ばされ、老紳士の体を越え草の地面に身体を打ちつけた。
「アニキもう許してぇ……」
ゴマの必死の呼びかけも彼には届かず、標的を次の獲物へと移す。老紳士はもはや蛇に睨まれた蛙。腰が抜けたのか仰向けのまま後ずさる。
「あの世で悔い続けながら燃やされろ! ジジイ!」
ゴマの巨体が老紳士へ振り下ろされ、地面に少し埋まる。大きな土煙が上がる中、その中心を水流弾が二つ打ち抜いた。
「ほら、もう大丈夫……立てますか?」
ホノカは泥まみれになった老紳士に手を差し伸べる。ゴマの巨体が掲げられた際、彼は既に老紳士の下まで水の道を引いており、瞬く間にその身体を引き寄せたのだ。
「私が女性だったら、もっと優しくエスコートしてくれたのだろうな」
小さな不平を漏らしつつ老紳士が手を取って立ち上がる。同時にリーダーの屈強な体が土煙を破って二人へ迫る。彼もまた相手を仕留めた手ごたえがないとみるや、すぐさま後方に下がって様子をうかがっていたのだ。
「下がって」
ホノカは歩き出し水を鎧にして纏いつつ、拳に渦潮のような水流を迸らせる。リーダーもまた勢いを緩めない。やがて二人の拳と拳がぶつかり合い、空気が揺れた。
オリゾの拳から伝わった水がリーダーの腕を流れようとした刹那、リーダーは身を引いた。ただ我を失って暴れているように見えるが、戦いの中で敵の力を見極めて対処する実力は本物のようだ。オリゾの猛攻を受け止めては引きを繰り返すうちに二人は、ゴマたちの“鉄球”の場所に立っていた。
「お前ら! やれ!」
二人の間に金色の鎖がピンと張られ、瞬く間に両側からぐるぐるとオリゾの身体を締め付けていく。オリゾは力を振り絞って脱出を試みるが、どれだけ力を入れようと、水の力を増そうと鎖を壊すことができない。
「馬鹿め! それは世界で最も強靭とされるディアルマで造られている! 脱出不可能だぜ!」
高らかに叫ぶとリーダーはホノカの横を通り過ぎ、威圧するように邪悪な笑みを泥に塗れぶるぶると震える老紳士に向けつつ距離を詰める。しかし相手がふいに震えるのをやめて笑い出すと、彼もぴたりと足の動きを止めた。
「何がおかしい。それともおかしくなったのか?」
「こんなに泥まみれになったのはいつぶりかと思ってな」
笑って言いながら服についた泥を手で払おうとするが、手についた泥を塗る形になってさらに汚れてしまう。彼は手元に落ちていた杖から布を取り外していくつかの泥を拭うとその杖、姿を隠すものがなくなったメキュハクヒの槍を支えに立ち上がった。
「おじいさん逃げてください! 危ないですから!」
鎖から逃れようともがくオリゾに笑顔を見せながら、老紳士は軽く槍を構える。相手は面白いと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべ、彼目掛けて突進を仕掛ける。互いの持つ力がぶつかり合い、老紳士の体が宙を舞った。
「へっ。初めて武器を持ったジジイが、オレに適うはずねぇんだよ」
弾き飛ばされた老紳士を遠目に見て勝ち誇るリーダー。その顔が驚嘆に変わった。目は見開かれ、何か言いたげに口を動かしているが声は出ない。やがて彼の身体に霜が降り始め、程なくして彼の身体は生ける氷像へと姿を変えた。
「伊達に歳を重ねてないさ」
立ち上がって再び槍を構える老紳士の姿を見て、オリゾは自らの下から水を噴出させた。愕然としている二つの鉄球ごと身体を宙に浮かせ、氷像の上に落ちようとしている。
老紳士は咄嗟に構えを変えて槍を投げ、氷像の中心を捉えた。直後その上から降り注ぐ熱湯。しかしわずかに間に合わず、氷像は粉々に砕けて解けた。そしてドスンと地面が揺れる。老紳士が氷像のあった場所へ近づき覗き込むと、地面に落ちた衝撃で鎖の解けたホノカと、気絶した鉄球たちが転がっていた。
「ほら、大丈夫かね」
老紳士が差し伸べた手を取り、力なく立ち上がるホノカの顔は蒼ざめていた。
「……すみません」
「いいや、礼には及ばんよ。しかし酷く消耗しているようだ」
「貴方に人殺しをさせてしまった」
老紳士はヒト、という聞きなれない言葉に首をかしげ、細い目でホノカの顔を覗きこんだ。
「私のことなら気にするな。別に初めてでもない。それより君は、彼を助けようとしたな? 命を狙われたにもかかわらずその不思議な力を最大限に使って、こんなに身を削ってまで……どうしてか、教えてくれるかい」
老紳士の問いに節目になって口を噤み、しばらくして人差し指の付け根を唇の下から離した。
「きっと、罪滅ぼしなんだとおもいます。友人を助けられなかったことへの」
罪滅ぼし――老紳士はその言葉をかみ締めるように呟いて辺りを見回し、メキュハクヒの槍を見つけると泥を拭った布を巻きつけ始める。
「自分が英雄だとか言うつもりはありませんし、人を助けて過去を水に流そうってことでもなくて、ただ目の前で危機に瀕している人がいたらじっとしてられなくて」
遠くで二人を呼ぶ声が響く。街の入り口で、先程まで追われていた子供が手を振っている。気づいた二人が互いの顔を見合わせていると、子供が二人の下へ駆け寄ってきた。
「お兄さんたすけてくれてありがとー! もしかして、クシミアさま?」
「ううん、俺は……オリゾ。クシミアさまは、もっと強いよ」
ふーん、とホノカの顔をまじまじと見つめていたが、すぐに老紳士の方へとピョンと向きを変えた。
「じゃあ、おじいちゃんがクシミアさま?」
「あたしは……私はバスタ・レースタロット。ただのジジイじゃよ」
子供相手に茶目っ気を出したかったのか、老人らしく振舞おうと普段使わない語尾をつけているが、子供はまじまじと顔を見つめ返してくるだけだった。
ふいに子供が街の奥へと走り出し、ぴたっと止まって振り返ったかと思うと、大きく手を振ってまた走り出した。
「忘れようとしても、忘れられないものだな……さて、私もそろそろ腰を上げるとするか。また会うこともあるだろう。それでは、御機嫌よう」
そう言うと泥に汚れたバスタは杖をつきながら、街とは反対側へ足早に歩きだす。首から後ろに下げた小さな細い筒が名残惜しそうに揺れているのを眺めながら、ホノカも街の中へと歩き出した。
その日の夜、アクバーに戻ったホノカは他の荒くれ達に連れられ、街外れの屋敷へと入った。とにかく広いが粗末な造りでそこら中にガタが来ているのが目に見えて分かる、とても誰かが使っているとは思えないこの建物は表に出られない民達が取引するには絶好の場所だった。ホノカはコルチと二人の荒くれに連れられ、一人だけ別の部屋へと通された。
「ラジーマさんの近くにいなくていいのか?」
「“いなくていいのか”じゃねぇ! お前大事な取引先であるダスターゴ様の部下に手を出したじゃねぇか! 見てたんだぞ!」
「そうだそうだ! お前が出ると取引が台無しになっちまう! だからこうして閉じ込めてんだよ。手間かけさせやがって!」
コルチが口を挟む間もなく、丸刈りの荒くれとチビのザニシがまくし立てる。二人は一日ホノカを尾行し、昼間の戦いの一部始終を目にしていたのだ。コルチは二人の文句を神妙に聞くホノカに苦い笑いを浮かべつつ、部屋の戸を開けて振り返る。
「じゃあ、後は――ホノカ、お前杖はどうした」
ホノカが持っていた、布にくるまれた杖がない。彼の言葉に中の二人はきょとんとした顔を浮かべ、ホノカだけが慌てて辺りを見回し始める。しかしどれだけ探しても部屋の中にはなく、ホノカの顔がみるみる青ざめていく。“まさかお前、どこかに忘れたんじゃ”と言うコルチの声はすぐに丸刈りの叫びに遮られた。
「そういやお前の味方をしてたジジイ! お前と別れたときに持ってやがった! 絶対アレだ!」
ハッとした顔で丸刈りの方を見るホノカ。コルチは頭を抱えながら溜息をついた。
「わかったわかった。俺たちで探してみるから、お前はここにいろ」
コルチは戸を閉めると広間へ急いだ。既にラジーマの仲間達はダスターゴ一行を出迎える準備が出来ている。薄暗い室内の中央には料理が豪快に盛られた大きな机があり、ラジーマとダスターゴが向かい合わせに座る手はずになっている。小さな机も無数に用意され、それぞれボスの机を境に部下たちが座っていく。部屋の奥では煌びやかな青い布がゴルデアの光に照らされ、広間に着いたコルチがめくって覗き込むと今夜の主役が退屈そうに足を揺らしている。
「どうかな。彼女の様子は」
機嫌のいいラジーマが調子よくコルチの肩を叩く。
「問題ありません」
「よし。それにしてもホノカに外の警備を任せるなんて、驚きの采配だぞ」
昼の件がラジーマに知れればホノカの身が危ないことは明白だ。もっともホノカなら返り討ちにしてしまいそうだが、もっと穏便に事を済ませるためにコルチは手を回していたのだ。
「あいつは俺たちのやり方に疑問を抱いています。中にいたら何をしでかすかわからない。仲間達の目もありますし、新入りは新入りらしく見張りをさせたってわけです。あれだけ強けりゃ見張りには十分ですしね」
「その次に新入りなのはお前なんだが、お前は何かしでかさないとでも?」
目を丸くしたコルチは笑って肩をすくめる。ラジーマも笑って彼の肩を何度も叩いてから席へ戻った。
程なくして屋敷の大扉が開き、広間に光が溢れた。ダスターゴの一団はその権威を見せびらかすように、全員表面を磨いたばかりのゴルデアをちりばめた鎧を身にまとっている。光の塊が脇の机へとついていき、最後に、背の高い男が中央の席へと歩を進める。整った顔立ちは未踏の地に咲く気品溢れる白花のようで、ゴルデアの光に目が慣れてくると彼だけが唯一鎧と同格の美しさを持っていることがわかる。その男、ライン・ダスターゴは用意された椅子には座らず、立ったままラジーマに言い放った。
「昼間に何かあったようですが、取引は取引。さっそくモノを見せていただきましょうか」
高圧的な物言いだが、相手はゴルデアの産出を担う貴族。ラジーマのような表舞台に出られぬ輩が疑問を口に出来る筈もなく、ラジーマはそそくさと青い布の前へと躍り出た。
「えー、この度ダスターゴ様にご紹介しますのは、愛でてよし、食べてよしの愛玩奴隷でございます!」
「食べたのか」
ダスターゴの言葉に広間の全てが静止する。誰もがその身を強張らせて動かず、ラジーマも引きつった笑みのままその場で固まってしまう。
「食べたのか、と聞いている」
「めめめ、滅相もございません! ダスターゴ様のために用意したものを勝手にいただくなど……今のは、表現が前に出すぎたということでございます」
そうか。と言葉を紡ぎ、手で“話を続けろ”と促す。その所作は王の風格さえ漂わせた。
「唯一の欠点として声を失っておりますが」
「構わん。花に声など必要ない。この私に相応しく美しければ、それで良いのだ」
その言葉にラジーマの顔がぱあっと明るくなる。すっかり笑顔になって布の両端を掴み、“それではお見せいたしましょう”と布を取った、その瞬間――パクッ――とラジーマの姿が消えた。布を取った奥のそれに吸い込まれたといってもいいだろう。ゴルデアの光にくっきりと照らされた八本の足、緑の眼、コルチの三倍はあろうかという黒い身体。民の目には見るもおぞましいその姿が子供のピンポンであるなど誰が気に留められようか。
広間はたちまち阿鼻叫喚に包まれた。ダスターゴの部下達が次々と入り口へと駆け込む中、突然入り口で爆発が起こる。矢の形をした炎が無色水晶の窓を次々と破り、その中で死んだ部下の体を次々と盾にしながら窓の外へ逃れようとするダスターゴの後を、コルチは逃すまいと追いかけた。
広間の騒ぎはホノカ達にも聞こえていた。ホノカは見張りの制止を振り切って扉を破り廊下へと飛び出す。すぐさま鼻を突く煙の臭い。彼はマフラーで口を押さえ水の鎧を纏うと広間へ急いだ。
広間ではラジーマの部下もダスターゴの部下も苦しそうに倒れて身をよじっていた。部屋の所々が燃えており、散乱した酒や料理など気にしている場合ではない。彼は右手の平から燃えている箇所へ水を放出し、左手を掲げて屋根を突き破った。部屋に満ちようとしていた煙が屋根の穴から空へと抜けていき、程なくして屋敷の火事はおさまった。天井の穴とダスターゴの部下が着ている鎧のおかげで、すすけた壁に砕けた無色水晶とゴルデア、散らばった酒瓶や料理、壊れた机、うめき声を上げる民達といった酷い有様が見渡せる。
一番損傷が酷いのは入り口の大扉で、爆発の影響でひしゃげてしまっている。扉の隙間に開いた穴から外を覗きこんだオリゾは、すぐに扉と距離をとる。直後、扉は外からの衝撃で粉々に弾け飛んだ。
爆風の中から、人の形をした焔の塊が姿を現す。それは宙に浮いていて、目元を覆うドミノマスクや身に纏う衣服、背中のマントも焦げることなく燃え続けている。
焔の塊は火の粉を散らしながら、オリゾの足元でうめく部下に矢の形をした炎を放つ。しかし矢は目標に届く前にオリゾの放った水流にかき消されてしまった。
「うわっ、なんだよこれ。いったい何があったんだよ」
「親分! どこにいるんすかー! ってなんだアイツ!」
焔の塊はオリゾの後を追ってきた部下二人へ手をかざす。しかし炎の矢が放たれる前にオリゾが作った波が彼の背後を襲い、部屋の奥へと引き寄せられてしまう。両者が身に纏った火と水がぶつかり合い、内側からそれぞれに鎧を厚くし、表面で打ち消しあってゆく。二人の間に立ち上る水蒸気。取っ組み合いになり、お互いに攻撃を続けながらも致命打を与えられない。
オリゾの拳が相手の腹に入った。ぐっと声を漏らす焔の塊は自らの火の勢いを一気に強め、水の鎧を削っていく。その火は部屋中の物という物に燃え移り、あっという間に建物中を覆った。
オリゾは身を引き、出来うる限りの水を作って波を生み出し、部屋で倒れている民達を外へと流していく。部屋の中に二人になった時、二人の戦いに耐え切れなくなった建物が大きく揺らぎ始めた。天井から無数の燃え盛る柱が焔の塊の上に落ち、下敷きになるその様は火に薪をくべたように見えた。
「ミナリ!」
オリゾは水を放ちつつ、落ちた柱をどかしながら叫ぶ。しかし水は炎に触れる前に蒸発し、彼はその力で我が身を守ることで精一杯だった。大きな音を立てて屋敷が崩れ始めるも、落ちる全ては地に着く前に塵と化す。
ほぼ炎の中心にいたホノカがうめき声をあげながら目を開けると、夜空には輝く星々が広がっていた。服の煤や土を払いながら体を起こした彼に差し出される手。その男の顔にホノカは愕然とした。星明りに照らされながら優しく微笑む男は、驚きすぎて腰が抜けたように動かないホノカの手を掴み、その体を引き寄せて抱きしめる。ホノカの方が体は大きいにもかかわらず、男は見事に彼の体を支えしっかりと受け止めている。焼け野原の中心に立つ二人。男の囁き。それは明らかに男の声だが、男らしい声ではない。か細い印象を受けるが、繊細な音が先鋭に耳から入り込むその声は彼の脳を揺さぶる。
「みつけたよ。ホノカ」