ープロローグー
英雄は、死んで初めて英雄になる。
文字が掘り込まれた石看板を侍らせる大きな扉は、久しぶりの来客を歓迎するようにひとりでに開く。その先に広がる部屋は一面黒に染められており、仕組みのわからぬぼんやりとした光がかろうじて来訪者の視界を確保する。広さは数十人の子供達が走り回って余りあるものの、とても元気に体を動かす場所とは言えない。静かに本を読むにはちょうど良い雰囲気だが、それにしてもいささか暗すぎた。中には同じ方角へと向けられた石の椅子が整然と並べられ、待ちくたびれたようにホコリを被っている。
カツカツと響く足音。椅子はいくつかその表面を叩かれ腰を落とされるが、文句ひとつ上げずに身体を支える。やがて部屋を照らしていた光が静かに眠りについた。
――果てしなく広がるのは、目を強く閉じた時と全く同じ一面の黒。常闇と言ってもいい空間はいくら待てども目が慣れることはなく、その中にいて自分の身体を認識出来る者はいない。常に新鮮な闇。場所はおろか方角天地の区別もつかない黒そのものの内側。その空間を、一つの小さな球形が漂う。仄かに白みを帯びたそれは小刻みに振動しながら、どこに行くというわけでもなく。さながら親とはぐれた子供か、風に従いどこまでも飛ばされる枯れ葉か、不規則な速さと道筋で揺れ続ける。
やがて一面の黒が徐々に青みを持ち始めた。深海から海面へと浮かぶかのごとく明るくなり、どこまでも広がる薄い青の空間へと変わる。すると上から左右へ巨大な手が差し込まれ、周囲の水ごと球形をすくった。大きな瞳が手の皿の中でころころと転がる球形に愛おしそうに目を細める。
「みつけたよ。ホノカ」
意識が危険を感じたのか、無意識が身体を動かしたのか、魚田峰ホノカは引きつった顔でベッドから飛び起きた。息は荒く、彫りの深い顔に浮かんだ幾つもの小さな水玉が重力に身を任せて流れ、短髪の先端からは滴が落ちる。彼の眉の歪みはくっきりと胸筋が透けるほどに濡れたタンクトップによるものだ。枕元のデジタル時計は七月七日の九時を指しており、締めきったカーテンの外から時期外れの雨音が響く。
「ミナリ」
一つ溜息をつき、ホノカは友達の名前を呟いた。もう会うこともないであろう友達の名を。
――僕は水が好きなんだ。
彼が普早ミナリと出会ったのは、空に厚い雲が広がるひと月前の大学。アスファルトを激しく打ち鳴らす雨音に何を思うでもなく外を眺めていたホノカは、雨のリズムに合わせて踊る背の低い青年の姿に目を丸くした。同年代の男が恵みの雨を待ちわびた朝顔のように手を広げてくるくると踊る様は滑稽だが、それでいて彼は美しくもあった。雨に濡れた黒い髪はわずかな光を捉えては放ち、細い手足や体の線からは爽やかささえ窺える。しばらく魂を奪われたかのような不動で見つめていたホノカは目を瞬発的に大きく開くと、真っ赤な傘を片手に駆けだした。
差し出される傘に気づくと、普早ミナリは踊るのをやめ、くりくりとした目を彼に向ける。その表情は楽しいひと時を中断された怒りや、いたずらが見つかり叱られた時の落胆ではなく、友達と四葉のクローバーを見つけた時の喜びが浮かぶごくごく自然な笑みだった。
「あの、濡れてますよ」
パッと開かれた赤い花がミナリの代わりに雨を受けると、全身ずぶ濡れの彼はケラケラと笑う。
「わかってます。でも楽しくてつい」
雨のリズムに乗って屈託のない声が躍る。それは明らかに男の声だが、男らしい声ではない。か細い印象を受けるが、繊細な音が先鋭に耳から入り込み脳を響かせるその声は傾聴を誘う。そしてあまりにも純粋なその答えに、返事と言うには曖昧な音がホノカの口から漏れ、雨音に呑まれて消えた。彼のわずかに開いた口は発するべき音を待つ。手を後ろに回し、これから何が起きるのだろうという期待が見え隠れするミナリの目はやがて男の顔から手元へと移り、小さな口から大きく息を吐いたかと思うと手を取って駆けだした。
「広い海。流れる川。降り注ぐ雨。全部好き。水はどこまでも自由で、どこにでも流れて行ける」
昼間とは思えないほど薄暗い講義棟のロビー。投げられたタオルを受け取ったミナリは、目を細めながら雨を拭いつつ、歌うかのように言葉を紡ぐ。
「人間の身体は七割が水分。いわば残りの三割は、水を入れる瓶。この世界も同じ」
あらかた拭い終わると彼は湿ったタオルをたたみながら、持ち主のもとに歩み寄る。その慈愛に満ちた微笑み、そして態度と言動の異質に、ホノカの足は一歩後ずさった。
「僕だってそう。そして――」
「俺も、そう」
発せられなかった言葉の続きをホノカが語尾を上げて補うと、彼は目を細め、満足げな笑みで頷いた。
雨雲は飽きることなく大地に水の根を降ろし続け、自然は同じ日を繰り返す。その日から二人は学内での時間を共にした。雨になると決まって浴びに行くミナリが人の目に留まらない筈もなく、ホノカは見つける度に、やれやれといった顔で屋根のある場所へと引き連れる。
「生き物って、死んだらどこに行くか知ってる?」
ある日の図書館。一角に設けられたラウンジでの一言。窓辺に設けられたソファーに対面で腰かけ、頬杖をつくミナリの期待する目が、きょとんとした相手の顔の彫りをなぞる。ホノカは人差し指の付け根を唇の下に当て、
「そうだな、三途の川を渡って、閻魔様に裁いてもらって、天国か地獄に行くんだったか……そんな話を聞いたことがあったなぁ」
思い出すように言うその視線は左上からミナリの顔に留まる。にっこりと笑みを増した顔が自信のこもった視線を投げかける。
「それも正解かもしれないね。でも僕はこう思うんだ。生き物はね、その魂はおおきな海に行くんだ」
その声は得意げで、目を見張るホノカの手がゆっくりと口元を離れ、ポカンと開いた口が露わになる。
「海って言ってもこの世界の海じゃなくて、別の世界。多分真っ暗な場所だと思うんだけどね。そこに魂は還るんだよ。そしてそこで魂が作られる。ちょうどお風呂のお湯を洗面器ですくうような感じでね。だから一度こぼしてしまえば、二度と同じ魂を作ることは出来ない。すくってこぼして、その繰り返しなんじゃないかな」
自分で考えたのかという彼の問いには誇るような顔で大きく首を縦に振るミナリだが、すくうのは誰かという問いには微笑みで返した。
ぐずつき続ける空が広がる日を繰り返して半月が経ち、その日も相変わらず二人はロビーに設けられた長椅子の一つを陣取っていた。異なるのは、ミナリがいつも雨に濡れて踊る場所の側の木に合羽を着た事務員が立っているくらいだ。
「ホノカはヒーローだね」
ふと開かれたミナリの口から声が飛び出し、表面のでこぼことした白く冷たい壁に跳ね返る。言葉の意味がわからないと言うかのように、顔を覗き込むホノカの眉間には薄らと皺が生まれた。ミナリはそんな様子に顔を向けることなく、灰色の空を見つめながら続ける。
「僕はね、ずっと退屈だったんだ。降り注ぐ雨も、流れる川も、広い海もあったけど、刺激は無くなっていった。この水瓶の中の世界に満足しちゃってたんだ。そこにホノカが来て、新しい波紋を、新しい流れを作ってくれた。おかげで最近は毎日が楽しいよ」
涼しい顔で言ってのけるミナリとは対照的に、ホノカの頬は赤みを帯びる。顎に力が入りすぎたのか、その口は真横と言うよりわずかに上弦に近い。愛の告白に続きかねない彼の台詞に、ホノカは顔をそっぽへと逃がし、“お人よしとはよく言われるけど”と言葉を濁す。
ガラスの向こうでは、いつの間にか『雨天時遊戯禁止』と印字されたプラカードが木に縛り付けられ、二人に目を光らせていた。外に降る雨の勢いは滝に似て、二人の間から広がる沈黙は瞑想を促す。佇む二人の修行僧は、しばらくの間その表情と姿勢に落ち着いた。
「俺は、火が好きかな」
先に音を上げたのはホノカの方だ。その声にミナリの首が反応するが彼は顔を背けたままだ。ホノカは静止したまま言葉を継ぎ接ぎに縫い付ける。
「ほら、火はなんていうかこう、遠くに行けはしないけど、勢いがある……例えば、今燃えてる火と一秒後の火、同じに見えて違うんだ。これって人間みたいじゃないか?」
ようやく振り返るホノカの目が、きょとんとしたミナリの口からハッと息が吹き出るのを捉えた。彼の白い手がサッと口元を覆うが、尚も笑いが零れ続ける。その様子にフフッと鼻から笑うと、ホノカの言葉からぎこちなさが薄れた。
「人も同じでさ、昨日の俺と今日の俺もきっとちょっと違うんだよ。世界も同じ」
まるで手当たり次第に空気を取り入れ勢いを増す炎のように、一息で言ってのける。耐えられなくなったのかミナリが腹を抱えて笑い始めると、ホノカも一緒になって笑った。
翌日、ミナリが死ぬことになるなんて、その時誰が考えられただろうか。
たまにはどこかへ出かけようと、近所のショッピングセンターに誘ったのはホノカの方だ。珍しく晴れ間の見えたその日、火の手が上がった数か所の店舗の中に、不幸にも彼らのいた雑貨屋が含まれていた。逃げ惑う人々の混沌とした悲鳴と冷静に役目を果たす火災報知器が聴覚の席を奪い合う中、燃えながら倒れてくる陳列棚を前に、硬直するホノカの身体を突き飛ばしたミナリはあっけなく下敷きになった。水が好きだと語り雨に踊った彼の最期には一粒の滴さえ無く、場違いにもホノカの頬に一筋流れるだけだった。
「誰が、ヒーローなもんか……お前の方が、よっぽど……」
表に出た彼の厚いジーンズと皺だらけのシャツに、太い雨粒がいくつかの斑点を描いた。赤い傘が開かれると、無数の滴が地面との距離が遠ざかることを非難するようにビニールを叩く。
魚田峰ホノカは今朝の夢と悪夢じみた思い出を振り払うように大きくかぶりを振ると、溜息をつきながら仏頂面で街へと歩きだす。激しい雨の降る住宅街に人影はなく、時おり走る軽自動車が小さな水たまりの水を弾く。一度ホノカの足元に思いっきり水が跳ね、ボロボロのカバンに更に年季を入れたが彼は顔色一つ変えず歩き続けた。
やがて大きなT字の交差点に差し掛かり、機械仕掛けのように一定のリズムを保っていた足の動きがようやく止まる。側を流れる川の水には土の色が溶け、細い枝がなす術もなく下流へと運ばれていく。そのとんでもない水量と勢いは、バイクでさえ呑みこんで海へとツーリングしかねない程だ。向かいに赤く灯る歩行者信号の側の消防署に目をやったホノカは、嫌なことを思い出したのか即座に視線を脇へと追いやった。
少しして信号の下に人だかりが出来た頃、薄暗い街を照らすその色が変わり、彼の足元を小さな女の子が真っ先に駆けた。そこへ走りこむタンクローリー――危ない! ホノカの身体は言うよりも早く、女の子の身体を抱えると歩道に押し出す。その先にはハッとした顔で何かを言わんと口を開く女性の姿。しかし彼女の声を聴くよりも早く、スリップしたタンクローリーは勢いを殺しきれず、ホノカの身体を川の濁流へと投げ込んだ。
奇妙な放物線に不審を抱くより、まず目の前で人がはねられたことが信じられないといった絶句が、その場にいた人々を支配する。タンクローリーが横に滑りながらその巨体を歩道へと乗り上げて止まると、轟音に人々の身体がひとたび痙攣した。
その後の行動は様々だ。呆然と立ち尽くす者。パニックになって叫びながら走り出す者。震えた声で警察に電話をかける者。カメラアプリを起動してタンクローリーを囲む者。小さな無法地帯は十数分程続いたが、サイレンが遠くに響くと人は自然とその場から離れた。それでもこのT字の交差点が悪夢の現場であることに変わりはない。
必死の捜索もむなしく、彼の遺体が見つかることはなかった。その場に置かれた彼の私物から警察が身元を確認。事故の状況から、発見されたとしても生存の可能性は無いとして、親族から死亡報告が行われた。
魚田峰ホノカ。享年二十一歳。交通事故など決して珍しいものではないが、それでも彼の行動がニュースやワイドショーで報道され、SNS等で数日の間話題をさらったのは、彼が跳ねられる間際、右手の親指が立てられていたと言う目撃者の情報があったためだ。彼がいない今、それが本当だったか聞くことは出来ない。それをいいことに世間は美談を求め、作り上げた。自身の意思で危険を顧みず小さな命を救った、と。彼や助けられた女児の家には日夜報道関係者が集まり、事件に関して“小さな命を救った彼こそ英雄だ”と語った有力者は、たちまち人々の信頼を得た。
なにが英雄だ。死んだら終わりじゃないか。