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忘れやすい人々（後）

　　　　　◇

　僕らは言葉《ことば》を失《うしな》った。さっぱり話の趣旨《しゅし》が理解《りかい》できず、眉《まゆ》をひそめて顔を見合《みあ》わせた。

「どうしてですか？」

　ロイがしばらく考え込んだすえに尋《たず》ねた。

「貴族《きぞく》の方々(かたがた)ならば問題《もんだい》ありません。しかし、新しいことをおぼえられない方《かた》が、平民《へいみん》の中に数多《かずおお》くいらっしゃいます。おぼえられないというより、おぼえられても一週間程度(ていど)で忘《わす》れてしまう、と言ったほうが正確《せいかく》でしょうか」

　やっぱり理解できない。理解に苦《くる》しむと言ったほうがいいだろう。

「そういった方々を、我々(われわれ)は『忘《わす》れやすい人々(ひとびと)』と呼《よ》んでいます。そして、彼らは総《そう》じてゾンビ化《か》しやすい体質《たいしつ》であり、このレイヴンズヒルには、とりわけ多《おお》く住《す》んでいらっしゃいます」

　そこまで聞いて思いだした。聞《き》き取《と》り調査《ちょうさ》へ行った時に、ケイトから『ゾンビ化する人は忘れっぽいところがある』と耳にしたことを。ただ、その時は深刻《しんこく》な話だと受け取らなかった。

「もう少《すこ》し、くわしく説明《せつめい》してください」

「厳密《げんみつ》に言えば、一週間で忘れるのではなく、一週間ほど頭から離《はな》れると忘れてしまいます。ですから、複雑《ふくざつ》な工程《こうてい》があるもの、長《なが》い休《やす》みをはさむものは難《むずか》しいです。一《いち》からおぼえ直しになりますから。

　ただし、一週間以上(いじょう)前の話を残《のこ》らず忘れるわけではありません。それでは生活《せいかつ》がなり立ちませんから。なぜか彼らは、二十年以上前の話なら鮮明《せんめい》におぼえていて、その頃《ころ》の記憶《きおく》や、体にしみついていることは絶対《ぜったい》に忘れないのです」

　そんなことがあり得《え》るのだろうか。今の今まで、街の人達からそういった雰囲気を感じたことはないし、その話を耳にしたこともない。

　そうはいっても、深《ふか》く付《つ》き合《あ》ってる平民は……。ふとダイアンの顔が頭にうかんだ。その途端《とたん》、『一週間』という言葉が猛《もう》スピードで頭の中をかけめぐった。

　ストロングホールドへ出発《しゅっぱつ》したのは何日前だっけ。

「先《さき》ほど申《もう》し上《あ》げた通り、みなさんだけでやる分《ぶん》には全《まった》く問題ありません」

　パトリックの言葉が頭に入ってこない。はやる気持ちを抑《おさ》えられなくなった。隣《とな》りのスージーに話しかける。

「ここを出発したのって何日前だったっけ？」

「確か、日曜日の次《つぎ》の日でしたから月曜日ですよ」

　そうだ。出発前日(ぜんじつ)は日曜日だった。それから移動に二日《ふつか》かかって、ストロングホールドに到着《とうちゃく》してから四泊した。帰りも二日かかったから……、八日《ようか》でいいのだろうか。

「今日《きょう》は何《なん》曜日《ようび》？」

「……今日ですか？」

「今日は火曜日よ」

　スージーの代《か》わりにコートニーが答えた。少《すく》なくとも八日間ダイアンと顔を合わせていない。いや、出発前日に会ったかどうかおぼえてないから九日《ここのか》以上か。

　ダイアンの記憶から、自分《じぶん》のことが消《き》え失《う》せてるかもしれない。底《そこ》なしの不安《ふあん》と恐怖《きょうふ》が胸《むね》に広がっていく。あらゆる感覚《かんかく》が遮断《しゃだん》され、ロイが質問《しつもん》を始めても、はるか遠《とお》くで話しているようだった。

　どんどんと動悸《どうき》がヒドくなっていき、頭が働《はたら》かない。意識《いしき》が遠《とお》のくような、自分が自分でなくなるような感覚だった。

　こちらに向《む》かって、パトリックが何か言いかけた。けれど、居《い》ても立《た》ってもいられなくなり、気づいた時には部屋《へや》を飛《と》びだしていた。

　　　　　◇

　我《われ》を忘れて走った。一週間ぶりのレイヴンズヒルの街なみには目もくれず、体への負担《ふたん》など一顧《いっこ》だにせず、肌《はだ》にからみつく不安を振りはらうように走った。

　大通《おおどお》りを全速《ぜんそく》力《りょく》でかけぬけ、東南《とうなん》地区《ちく》の坂道《さかみち》に入る。この道を通るのは久《ひさ》しぶりだ。でも、僕はこの坂《さか》をおぼえている。

　この世界に初めて足をふみ入れた日。ダイアンとバスケットをかかえてのぼったことも、ゾンビと遭遇《そうぐう》したことも、忘れることはないだろう。

　なのに、それをおぼえていられない人々がこの世界にいる？　そんなバカげたことが、理不尽《りふじん》なことがあっていいのだろうか。

　あっという間に、ベーカリーが見えてきた。不思議《ふしぎ》と疲《つか》れは感じていなかった。無意識《むいしき》に疲労《ひろう》軽減《けいげん》の能力を使っていたのかもしれない。

　ぶしつけを承知《しょうち》で裏口《うらぐち》から無断《むだん》で入った。ちょうど厨房《ちゅうぼう》で休憩《きゅうけい》中だったトーマスを見つける。相手からキョトンとした目を向けられた。

「ダイアンはいますか？」

「……ダイアンなら、カーニバルの準備《じゅんび》で昼から出かけています」

　一ヶ月後にせまったカーニバルの話題《わだい》は、最近《さいきん》ちょくちょく耳にしていた。

「どこにいるかわかりますか？」

「役所《やくしょ》の広場《ひろば》あたりじゃないでしょうか」

「もし彼女が帰ってきたら、自分が来たと伝《つた》えておいてください」

　役所の広場と言われてもピンと来なかったものの、返答《へんとう》を待たずにベーカリーを飛びだした。

「あの！」

　ところが、あわてて追いかけてきたトーマスに呼《よ》び止《と》められた。

「……どちら様でしたっけ？」

　愕然《がくぜん》とする言葉を投げかけられた。目の前が真《ま》っ暗《くら》になり、世界から取り残されたような気分《きぶん》だった。

　困惑《こんわく》した表情《ひょうじょう》に他人《たにん》行儀《ぎょうぎ》な態度《たいど》。話していた時から違和《いわ》感《かん》はあった。交流《こうりゅう》が深かった相手でもないのに、ここまでダメージがあるのか。

　ベーカリー到着でやわらいだ胸《むな》さわぎが勢《いきお》いを取り戻す。

　ショックを受けている場合じゃない。まだ希望《きぼう》は残されている。ダイアンと顔を合わせていない期間《きかん》は、トーマスほど長くない。

「……ウォルターです」

　自身(じしん)を勇気《ゆうき》づけるように声を振りしぼった。

「ウォルター様ですか。では、そう伝えておきます」