鍋
香りの不可思議な話です。
今は珍しくなくなりましたが、アロマディフューザーをご存知でしょうか?
ホテルや美容室、ブティックなどに使われてますが、入店するときにフワッといい香りのするあれですね。いくつかのアロマ原料を組み合わせてお店に合った香りを作り、アロマディフューザーで熱したり空気を送り込んで香りを拡散させます。
専門業者扱ってまして、勤めていた会社の経営するお店で使ってました。
その業者の人に聞いたのですが、あらゆる香りを再現出来るそうで、アメリカでは戦地に向かう兵士の訓練用に、戦場の香りを再現して香りに慣れさせるそうです。
火薬や車の焼けた匂い、倒壊した建物から昨日まで人々の暮らしていた家の生活必需品や洋服の焼け焦げた匂い、そして人の肉や血が焼けて溶ける匂い…
混ぜ合わさった香りは、ベテラン兵士でも精神的にダメージを受けるそうです。
嗅覚は人の五感で最も敏感なのかもしれません。
これは、学校給食を作っていたダブルワークのアルバイトから聞いた話です。
給食センターを本職にしていた彼は、ある学校に赴任します。少子化といっても数百人の給食を作るのですから大変です。時間も限られています。献立表の確認が終わると早速作業に入りました。
数人のチームで調理するのですが、効率をあげるために整理整頓はちゃんとしていて、どこに大釜や焼き物の調理器具サラマンアダーなどの配置、調味料の配置などは皆が把握してます。
慣れた作業、材料の準備も確認済みです。もうすぐ完成という所で彼は少し離れた場所にあるスープなどに使う寸胴型の鍋が床にあるのに気がつきました。
赤茶げた錆びた鉄製の寸胴鍋。小さな子供なら入れそうなサイズに見えたそうです。
「誰だこんな所に」
几帳面な人の多い職場では珍しい事の様で、ちらっとか見なかったようですが、今時鉄製のズンドウ鍋とは珍しいな。としかその時は思わなかったようです。
無事に給食を作り終え配給し、学校の生徒達が食べ終えて食缶が返却され、後片付けの途中でふと思い出して赤茶げたズンドウ鍋があった方を見ると、何もなく「誰かが片付けたんだろう」と思ったそうです。
そして帰路に着く途中、携帯電話がなくなっているのに気がつきました。明日から違う学校に赴任するので、今日のうちに忘れ物を取っておこうと学校に戻りました。
用務員に鍵を開けてもらうと給食室に向かいます。季節は秋、時刻は夕方頃だったと言っていました。
厨房に入ると、しっかりと火の元確認して帰ったにも関わらず、コンロにズンドウ鍋が置かれて大型ガスコンロが燃えているように見えました。そう昼間見た、あの赤茶げたズンドウです。
「まさか??」
急いでコンロに向かおうとして彼は強烈な匂いを嗅いだそうです。
それは調理師として匂いにも敏感な彼が嗅いだことのない、肉や魚の生ゴミとプラスチックや鉄を一緒に火にくべたような強烈な悪臭だったそうで、思わずむせかえった彼は、まともに目も開けれない状態でした。
その時、寸胴鍋の置かれたガスコンロは火がついていなかったのです。
でも、熱せられた鍋からはグツグツという音と、わずかに空いた寸胴の蓋から蒸気も見えます。
そして、少し近ずくと蓋の隙間から人の頭の毛と頭皮が見えた気がしました。
小さい子供ならすっぽり入れそうな寸胴鍋。
「まさか子供が?」
彼は吐きそうになるのを堪えて鍋の蓋を外そうとしましたが、どうにもそれ以上近づけません。
悪臭にむせ返り厨房を出た彼は、そのままにしておけないと振り返りました。
しかし、そこは見慣れた調理場で、何も変わった所はなかったそうです。もちろん強烈な悪臭もしません。いや少しだけ、髪が焦げたような臭いがしたかもと言ってました。
後日、その話をかなり年上の上司に話をすると、その上司の顔色が変わり突然怒り出したそうです。
「誰にもその話はするな!忘れるんだ!」
何かを知ってそうな素振りの老人は、グッと口を結んだままでした。
彼は律儀にもその話を今の今まで黙って誰にも言わなかったそうです。
その学校は廃校になり、彼を怒鳴りつけた老人の上司も今は亡くなっています。ただ あの時の強烈な悪臭は今も忘れられない。 と彼は言っていました。
後日談なのですが、母の入所している老人ホームに、90歳を超えた一人の老人から、こんな話を聞きました。
「事故だったと思うしか無かった」老人はそう言うと、プラスチックカップのお茶をすすった。
母親に介護が必要になり、老人ホームも決まって月に数回の面会に行くようになった。
自然と施設の老人たちとも会話をするようになり、空調の効いた談話室で母親と一緒にその男性の話を聞く羽目になった。
(老人お話は長い→同じ話が永遠とリピートされる→K・N・Y・空気なんて読まない→適当な相槌と話を切り上げるタイミングが難しい→帰りが遅くなる)
一瞬でシュミレーションした私は、誰かが話しに割って入るのを期待しながら、老人の次の言葉を待った。
「まだ弟は5歳だったんだ、私と違ってかわいい顔立ちをしていてね。将来は兵隊さんになって米国をお兄ちゃんとやっつけるとか言ってたな」
どうやら太平洋戦争中の話のようです。
「終戦間際になって、空襲があってね。アメリカは日本の民間人も戦争の武器を作るのに協力している。その武器でアメリカを攻撃するつもりだ。だから民家も全て焼き払う必要があるのだ。と本気で思ってたらしい」
時々少しむせながら、老人は少し遠い目をします。
「そこで、あの空襲さ・・・」
私が知る限り、日本の敗戦が濃厚になった1945年。執拗にアメリカが繰り返した焼夷弾による空襲で、特に1945年の3月のいわゆる東京大空襲では1日で10万人の民間人が被災したと言われる。
「力の無いものに、そこまでする必要があったのかね」
老人がため息混じりに語るのも、大空襲では、まず逃げ場が無いように焼夷弾で広範囲に街を囲むように火の海にして、それからじわじわと逃げる隙間もなく爆弾を落としていくという手段が取られた。
民間人に対する虐殺だが(歴史上の戦争犯罪)と声を上げる人は少ない。
「私は奇跡的に助かった。でも弟を助けられなかった」
まだ学生だった当時の老人は、空襲警報を聞くと急いで身支度を整えた。訓練であったようにバケツリレーの係として使命を果たすためだ。父親を戦争で亡くしていた一家は、工場勤務の母親と3人でつつましく暮らしていたそうだ。もちろん、その頃の日本に工業製品を作る余裕なんてなかったはずだが。
母親も留守で、幼い弟を一人にしておけないと思った老人は、庭に出ると物置にあった寸胴の鍋に弟を押し込んだ。鉄製のモノは全て徴収される中、母親がいつか飲食店をやるんだと隠し持っていた大型の鍋だった。家族の決め事で、空襲警報が鳴ったら自分は役目を果たしに出掛け、母親が物置きに隠れた弟を連れにくるはずだったが、その母親も焼夷弾に焼かれて亡くなっていた。
「戦争が終わったら、この鍋で美味いものいっぱい作るかんね」
母親の口癖だったが、その夢は結局、最後まで叶わなかった。
空襲で母親も失った老人は、母の意思を継ぎ調理人になるが、それはだいぶ後の話だ。
「いいか。お兄ちゃんが呼びにくるまでこの中にいるんだ」
弟は小さく頷くと鍋の中で丸くなった。
「その後は、あまり覚えていないんだ・・・」
焼夷弾による空襲が始まると、バケツリレーどころかほうぼうに火の手が上がった。逃げ場を求めて大人たちが駆け回っている。
「これは大変だ」
老人は弟の事を考え、直ぐに引き返した。ただ行く手にも爆弾が落とされ、帰る道もわからなくなってしまった。上空では轟音を轟かせた爆撃機が飛び、地上はまるで地獄絵のようだったと老人は言う。
「火だるまっていうのかね。あと身体の半分が吹っ飛んでしまった死体とかね。瓦礫に挟まれて、そのまま焼かれた人もいたな」
老人は煙にむせ返り、身体の数カ所にやけどを負いながらも周囲を見回しながら火の手の少ない方へと走った。弟の安否はもちろん気にはなったが、そう言ってられる余裕はなかった。
ほとんど息も絶え絶えに、老人は空襲を生き延びた。
次の日、焼け野原になった街を自宅のあった方へと帰るが、燃えつきた物と焼け焦げた大人の死体以外に、何も見つけられなかったと老人は言った。
「生きたまま弟は焼かれてしまったんだ・・・。逃げてくれていればと思ったのだがね。弟と一緒に死んでも本望だった」
老人は悔しそうに言いましたが、自分の母親から後で聞いた話では、その老人の家族は毎日のようにホームに来るそうで、たぶん3人の子供と、5,6人の孫がいるはずだと聞かされました。
地獄を生き延びて、幸福な家庭を築き、懸命に生きてきた男がいる。
「生残った者の宿命でしょうか、我々は生かされているんです。死者はこう言います((懸命に生きてくれ!))と」人生の大先輩の老人に、私は講釈をたれます。
「そうだね。その通りかもしれないね」
老人は、しっかりとした足取りで立ち上がると、私と母のいるテーブルから立ち去りました。
それから数週間後、母の面会に老人ホームに行くと、あの老人が数日前に亡くなったと聞きました。
「アンタに話が出来てよかったと言ってたよ」と母。
その死に顔は穏やかだったと老人ホームの人に聞きました。
この話が、給食を作ってる調理士の話に関係あるのかは、私にはわかりません。
ただ、老人はこう言うと思います。
「懸命に生きてくれ」と。