5 黒瑪瑙は沈黙する
「何? もう行った?!」
翌日、イチと今後の事を話すために執事のオズワルトにイチの様子を聞くと、オズワルトははい、と澄ました顔で答えた。
昨日、アルバートとイチが美術館に行っている間にタウンハウスを整え、最低限滞在できる様にしてくれた彼は、アルバートに抱きかかえられながら帰って来たイチを見てすぐに客室へ誘導した。
イチを寝かし執務室に戻ったアルバートに茶を出してくるが、老齢な執事はイチの様子が気になるらしい。
「美術館で、如何なさいました?」
やんわりとしながらも気を張っているイチが倒れるとは余程の事があったのだろう、オズワルトが心配そうに聞いてくる。アルバートは脳裏に掠める記憶をなるべく思い出さないように気をつけながら、まぁな、と言葉を濁した。
「長旅の疲れが出たのでしょうか」
「まぁ、そんな所だ。大事にしてやってくれ。さて、領地から持って来た仕事でもするか」
いそいそと執務机に座ろうとソファから腰を上げたアルバートの前を塞ぐようにしてオズワルトがさっと立つ。
「アルバァトさまぁ?」
「何だ、今から仕事だ」
「確かに、お仕事の出来る方だと存じております。しかしながら気持ち良くお仕事に向かう方ではない事も良く存じ上げております。……イチ様に何をなさったのです」
髪を掻き上げて何も、と言おうとするのだが、脳の片隅に追いやっていたイチの柔らかい唇の感触を思い出し、一瞬、躊躇した。間髪入れずにオズワルトが目を剥く。
「まさかっ! 紳士に有るまじき事を!」
「する訳無いだろう! 公共の場だ!」
「過去貴方が仕出かした振る舞い、胸に手を置きそれでも違うと言えますか?!」
「誓ってそこまではしていない!」
「では何をしたのです!」
「………キスをしただけだ」
アルバートが仕方なく吐くとロマンスグレーのの毛が総毛立つ勢いで、貴方という人は!! と詰られた。
「あの様な深窓のご令嬢に向かって! 何をやっているのですか!!」
「知っていたのか」
イチが女性だと気付いているのは自分だけだと思っていた。が、オズワルトも気付いていたのた。
「当家に到着した際、馬車から降りる時によろめかれたので」
「足が弱いのか? 俺の前でもよくつまづいて、ある時抱き止めた。だからイチが女性だと気付いたのだ」
さもありなん、とオズワルトは慇懃に頷くと、手を胸に当てじとりと目を細める。
「アルバートさまが気付かれたのは存じ上げております。ですから昨日もお屋敷の中で粗相があってはいけないと私共の方でイチ様のお部屋をお守りしておりました」
「お前! 俺を何だと思っている!」
「アルバート様でございます! 今までの所業、よもや忘れたとは言わせませんよ?!」
ぐぐぐぐっとお互い睨み合うがオズワルトは主人に相手ても引く事をしない。
「イチ様は当家にてお預かりしております、大切な、大切な、お客様です。確かにあの様に愛らしく、可愛らしく、黒瑪瑙を細めてニッコリと微笑まれるとくらくらとしてしまう事は分からなくもありませんが、鑑定が終わりましたら速やかに自国へお帰りになる方です。今までのように軽々しく手折って良い華ではありません! その事、重々承知の上、自重なさって下さい!」
口を挟ませぬよう一息に言い放った執事に、アルバートはぐっと口を詰まると静かに言った。
「重々承知の上だと言ったら?」
「……アルバート様」
ぎりぎりと睨んでいた執事の目が見開いた後、瞬時にすっと引く。正しい距離を取り、こちらを見つめた。
「正気ですか」
「あれに魅入られれば誰でもそうなる」
「そうだとは言っても」
「俺はこの件に関しては引かんぞ」
「ジェラルド家はどうなさいます、貴方様が居なければ立ち行きません」
「兄上が居るだろ、嫡男だ」
「ロジャー様は……。」
長年ジェラルド家に勤めているオズワルトからしたら兄に思う所があるのだろう。
ジェラルド家嫡男であるロジャー・ジェラルドは幼少の頃から音楽の才に溢れ、ちやほやと褒め称えられたのをきっかけに趣味ではなくその道に没頭するようになった。かろうじて寄宿学校は卒業したが、その後父の手伝いをするでもなくひたすらピアノと向き合っている日々。普段は演奏をしに各地を飛び歩いていてジェラルド家に寄るのは一年に数回という放蕩息子という立ち位置だ。
だが、アルバートと中では兄は世間が思うような人ではない。
「お前達は知らないだけで兄上は出来る人だぞ?」
「アルバート様」
「それに俺は約束したからな」
「何を」
執事はアルバートのふふん、という幼き頃よく見た悪戯っ子そのものの顔を見た。
「兄上は遊びを堪能されたら帰って来られる。家も継ぐさ」
アルバートの告白に、まさか、とオズワルトが目を見張る。
「信じる信じないはともかく、兄上とはそう言う約束だ」
アルバートは悪びれずに肩をすくめると「とにかくそう言う事だから、イチの事は頼む」と今度こそ執務机に座って猛然と書類を読み出したのだった。
それなのに、だ。
「イチの事は頼むと言った!」
「はい、頼まれましたのでこの様に」
「どう言う事だ」
「イチ様は今日は一人で行きたいと仰られましたので」
「ドダリー卿に狙われているのだぞ!」
「ええ、私もそう進言致しましたらば、本日はバックヤードから出ないから大丈夫だと」
「馬鹿なっ、それだとメイという得体の知れない学芸員と四六時中一緒になるじゃないか!」
「アルバート様と一緒よりは大丈夫だと仰られたので」
「なっ……馬車を用意しろ!」
「無駄だとは思いますが」
「いいから用意しろ!」
アルバートの憤怒の形相に、仕方ないですね、でも自業自得ですからね? と釘を刺して執事は馬車を用意させた。
昨日と全く同じ道を半分の時間で走らせて大英美術館に着くと、バックヤードの扉は閉まっていた。
アルバートがステッキで声高に叩くと、灰褐色の頭がひょいと覗いた。リチャード・メイだ。
「おや、ミスター・ジェラルド、如何なさいました? 昨日の鍵ならばハジメ様がお持ち下さいましたよ?」
「……ミスター・ナリタだ。昨日の今日でファーストネームは失礼だろう」
「有難くも友人と認めてくださいましたので、大丈夫ですが」
名前呼びを咎めると、メイは細い目をぱちばちと瞬いて飄々とのたまってくる。
親しすぎるだ! と嫉妬にまみれた言葉を何とか飲み込んで低い声を絞り出す。
「……イチを出してくれ。話が有る」
「今日は勘弁して欲しいとの事ですよ?」
「イチに聞いているんだ!」
メイは仕方がないですねぇ、と肩を竦めると、バタンと扉を閉め、鍵を掛けた。
「おいっ!」
閉められた扉を強引に開けようとすると、今、聞いてきますからお待ちください、と扉の向こうで声がして、足音が去って言った。
聞いてくるからといって、閉め出しは失礼だろう! と待っていると、足音が直ぐに戻ってきた。しかし開ける気配がない。
ハジメ様は今日はお会いしたくないそうで、お引き取り下さいねぇ、と言って足音が去ろうとしている。
「待ってくれ、少しの時間でいいんだ!」
一目も憚らず叫ぶと、足音が戻ってきて、貴重品を触っているので集中したいそうです、ではお預かりします。と慇懃な声が有り、今度こそ何を言っても扉は開く事はなかった。
とても聞くに耐えない罵詈雑言を放ってアルバートが去ったのを察したメイは、バックヤードにある地下倉庫に下がると、数枚の浮世絵を広げているイチにアルバートが来て去って行った事を告げた。
イチはルーペを目に当て、浮世絵から目を離さず、ありがとうございます、とだけ言うと、変わらずにそのまま集中している。
メイはその姿にくすりと微笑むと、何か有りましたら上に上がってきて下さいねぇ、とだけ言って下がって行った。
イチはそれには返事をせずにただひたすらに目の前の葛飾北斎作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と相対していた。
同じものが四枚、部屋一杯に広がる大机の手前に均等に並べられている。
画面一杯に立つ巨大な波の線を何度もルーペで見ながらなぞるのだが、ああ、と呟くと身体を起こして机の上にルーペを置き、部屋の隅にある椅子に身を投げ出す。
やがて椅子の上に脚を折り畳んで小さくなると、ぎゅっと膝小僧に顔を埋めた。
漆黒の髪から覗く耳を、薄っすらと赤らめながら。
葛飾北斎作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は大英美術館に所蔵して有り、現在でも見る事が出来ます。