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4 黒瑪瑙は翻弄される

 



 一通り喋り終えたイチが満足そうにいそいそと展示品を正しい順番に並び替えている。

 アルバートは垂れてくる前髪を何度も搔き上げながらため息を吐いた。

(流石に俺でもあのトークを長時間は聞いていられん)

 勘弁だ、と思いながらも嬉々として話すイチの黒瑪瑙(くろめのう)は今までになく煌々と輝いていて、やはりアルバートを魅了してくるのだ。

(イチは声色も愛らしいから音楽として捉えて聞き流す、とでもするか?)

 大変失礼な事を思いながら一旦ガラスケースに鍵を掛け、二階にあるブースから階段を降りようとした時だった。

「イチ、こっちだ」

「アル?」

 降りようとした階段踊り場の先にドダリー卿が居た。丁度階段に向かって歩いてくる所だった。

 アルバートは有無を言わさずイチの手を取って足早に歩きだした。長い廊下を抜け、先程とは反対側の階段を下がっていく。

「アル、どうしたのです」

 一緒になって付いてくるイチは、少し小走りなっている。

「ドダリー卿が来ている」

「彼の方が……どうして」

 イチの顔がさっと青ざめたのを見て、アルバートは更に足を早めた。

 一般的には休館日になっているこの日に、入館できるのはドダリー卿がこの美術館に資金提供をしているからだろう。個人的嗜好はどうであれ、美術を好んでいるのは確かだ。


 それにしても色々な部屋や回廊を足早に歩くのだがら身を隠す場所は中々に無い。展示物はどれも見やすく配置されており、死角になる場所が無いのだ。

 とうとうグランドフロアまで下がってきて、巨大な円柱と壁の間にあるバックヤードへの扉が見えた所だった。

 二階の回廊から、ドダリー卿の姿が見えた。

 アルバートはチッと舌打ちすると、イチに声を掛ける。

「イチ」

「……はい」

 息を切らしながら、アルバートを見上げた黒瑪瑙を捉えながら腕を掴み、円柱の影に隠れた。そして腰に手を添えて抱き寄せる。

「アル?!」

 突然の事に身を固くするイチに、シッと耳元で囁き黙らせた。

「ドダリー卿がこちらを見ている」

「は、はい」

 息を呑みながらじっとしているイチの乱れた横髪をすいて耳にかけてやる。身をすくめるイチに、アルバートは出来れば強張るな、と小声で協力を仰いだ。

「実はドダリー卿を黙らせる秘策を思い付いた」

「……なんです?」

「俺と恋人同士になっている事にするんだ」

「なっ」

 イチは黒瑪瑙の瞳を目一杯開いて、こちらを見ている。アルバートは想像通りの顔を見て喉でくくっと笑ってしまった。

「アル!」

 顔を真っ赤にして咎める瞳もまた魅力的だ。

 そっと頬に手をやると、途端に不安げに揺らぐ瞳も。


 もっと見せて欲しい。

 俺にしか見せない瞳を。


「ドダリー卿に見られている内に証拠を見せつけておこう」

「証拠って」

「これだよ」

 頬の手を(おとがい)に掛けてくっと上を向かせた。

「待っ」

「シッ、振りだけだ」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、振りだけ。目を閉じて」

 黒瑪瑙の瞳の中にはアルバートしか写っていない。その瞳が揺らぎながら、迷いながら、白磁の様な白い瞼を閉じた。

 その様にアルバートはゾクッとする。

 素直に閉じてしまう黒瑪瑙。


 こんな〝娘〟見た事が無い。


 そう思った瞬間、たがは外れた。

「いい子だ、イチ」

 言うが早いかアルバートは小桃色の唇を塞いだ。



 んっ……やぁ……と言った小さなくぐもった悲鳴は聞かなかった事にした。胸に置かれていた細腕がドンと叩いたが抱き締める力を強めて動けなくする。

 頤の手を首筋に沿って移動させ、もっと深く貪る事が出来る様にすると、イチは大人しくなった。と同時に腰を支えていた腕にずしっとした重さが掛かる。

 その変化に気付いて唇を離すと、アルバートはイチ諸共円柱に寄っかかってぺろっと自身の唇を舐めた。

「しまった、やり過ぎた」

 意識を飛ばしてしまった相手が崩れ落ちない様に支えながら二階を探ると、ドダリー卿の姿は居なくなっていた。

「良し」

 牽制は届いたと見て良いだろう。

 だがその代わり、イチをよくよく説き伏せないと難しい状況になった。

 アルバートはイチを横抱きにすると、首が落ちないよう体勢を整えて歩き出す。

(どう、説明するかな)

 男と偽っているイチの唇を奪った事によって、事態が複雑化したのは間違い。

「しまった、キスする前に女だと気付いてると言えば良かった」

 それよりも先に愛を告げるべきです! と進言してくれる執事は側に居なかった。

 しまったしまったと言いながら、愛しい人を大事そうに運ぶ。

 力なくアルバートに預けているイチの身体は思った通りに柔らかく、間違いなく女性の身体であった。

 先日の舞踏会のテラスでよろめいたイチを支えた時、偶然脇に手を入れて支えた。柔らかな脇腹と共に不自然に相反した硬い胸の境を丁度触ったのだ。胸を何かで巻いている事を察し、アルバートはイチが女性である事に気づいたのだった。



 バックヤードへの扉を肘で開けて狭い通路をゆっくりと歩く。

 管理室にいたメイにイチの体調が不良になった事を告げ、明日体調が戻ったらまた此処に来させる事を約束した。

「すまない、鍵が胸のポケットに入っていて取り出せないのだか」

「いいですよ、明日持って来て頂ければ」

「だから無用心過ぎないか?」

「何度も言いますが人を見る目は養っております。それにしても美しい! このしどけなく眠っている様は……ジョン・シンガー・サージェントを知っていますか? また新進気鋭の若手画家なのですが、彼の書く絵画の中にこの様な美しい寝顔の君がいるのですよ。秀作です、それに匹敵する程のあどけなさ。ぜひ本人に見せてあげたいですねぇ」

「見せん」

「了見の狭いお人だ」

「なんとでも言うがいい」

 メイはアルバートの物言いに片眉を上げ、コホンと咳払いをすると、バックヤードから表へと出る扉を開けてくれた。

「ではまた明日。お付き添いの有無はどちらでも構いませんが、ご本人に了承を得てくださいね」

「むろん、また明日もくるに決まっている」

「そうなるといいですね」

 当然のようにいうアルバートにメイは肩をすくめて頷くと、では、と扉を閉めた。

 アルバートは失礼なやつだ、と閉じられた木目を一睨みしてから待っていた自家の馬車に近付く。御者が慌ててドアを開けながら、心配そうにイチの様子を見やった。

 大事ない、と言うと、ほっとした様子で、なるべくゆっくりやります、と頷き、二人が中へ入ったのを見届けてドアを閉め、持ち場へ戻っていった。

 アルバートはイチを起こさない様にゆっくりと座る。

 体勢を整え、ステッキで小さく二回ドアを叩くと、馬車はゆっくりと走り出した。

 揺れる車内の中、膝に抱きながら愛しい人の髪を撫でると、その黒髪は直ぐにアルバートの指をすり抜けてしまう。

(美しい豊かな髪であっただろうに…)

 国は違えど女性の髪は大切にされている筈だ。こんなに短くするなど、どんな思いで切ったのか。


 何故、男として来たのか。

 何故、偽らなけれならなかったのか。

 何故、髪を切らねばならぬ程の思いを抱えているのか。


 短くも艶やかな漆黒の髪に口付けをすると、物思いに耽る。

 明日イチと話して、理由を聞こう。そして性別を偽っている事に気付いていると言おう。

 アルバートはそう心に決め、ゆるやかに進む馬車の中、また思考の波に身を委ねた。



ジョン・シンガー・サージェント

(1856-1925)

最後の肖像画家といわれる。

イタリア・フィレンツェに生まれ、パリを経てロンドンに居住を移す。

代表作として、

「マダムX」

「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」

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