3 黒瑪瑙は喋る
翌日、アルバートとイチは倫敦に向かう馬車の中に居た。社交シーズンが終わり居住をカントリーハウスに移した直後なので、美術館に行く為にはまずタウンハウスのある倫敦まで戻らなければならない。
イチは英国貴族の習慣を詳しく知らされてなかった為、倫敦から離れどんどんと郊外に連れて行かれる事にも不安を感じていたらしい。
「正直、勾引かされたかと思いました。でもお屋敷に着いた時、執事さまが私の名前を正確に言って下さったので安心しました」
「それでか」
おそらくイチはほっとし、執事にあの笑顔を振る舞ったのだろう。先日玄関ホールでの執事に緩んだ顔に納得した。
「今、タウンハウスには最低限の人間しかいない、追って家の者が来るまで簡易なもてなししか出来ないな」
「とんでもない、無理を言いまして申し訳ありません」
丁寧にお辞儀をして詫びるイチに、人が居ない方が何かと都合がいいか、と呟く。
「え?」
「いや、何でもない。そろそろ着くぞ」
馬車はドミニオン劇場の角を曲がり、しばらくしてブルームズベリー・ストリートを左折し大英美術館の脇に止まった。
「悪いがバックヤードから入る、いいか?」
「イエス、アル」
名前呼びが定着したな、と口元で笑いアルバートは先に降りる。続いて降りてくるイチにエスコートの手を差し出して、きょとんとされた。
「一人で降りられますが」
「これは失敬」
習慣で出してしまった手を慌てて下げる。
アルバートがばつ悪げに帽子の鍔を握ると、イチはまたあの魅惑的な顔でふふっと笑った。
「おかしなアルですね」と黒瑪瑙を緩く細めながら、ゆっくりと慎重に馬車を降りていった。
バックヤードに通されて収蔵品の目録を渡してきた大柄な学芸員は、まずは慣例通りアルバートに向かって話しかけてきた。
「本日は足を運んで頂きありがとうございます、ミスター。リチャード・メイと申します。日本から鑑定士様が居らしているとの事をですが」
「アルバート・ジェラルドだ。こちらが美術鑑定士のミスター・ナリタ」
「ハジメ・ナリタです。よろしくお願い致します」
紹介され名乗ったイチを見て、メイはおぅ、と感嘆の声を上げる。
「なんて素敵な黒瑪瑙お持ちだ! まるでハトシェプストのきりりとしたお顔立ちにネフェルティティのオニキスの輝きが合わさって、少年の様な少女の様な、なんとも危ういオリエンタルの美の集約……ああ! なんと美しい!」
あまりにのめり込んだメイの様子に、アルバートは思わずイチを背中に隠す。イチも驚いたのかぎゅうと腕を掴んできた。
「あ、あの、優先的に見なければならないものから見て行きますが」
アルバートの背中の影からなんとか要件を言うイチ。メイはその声にすっと前のめりの上体を起こすと、失礼しました、とすました顔をした。
「バックヤードにもだいぶ所蔵してありますが、出来れば表に出ている閲覧品から見て頂きたいのです。こちらへどうぞ」
正気に戻ったメイは、慇懃にこちらへ、と狭い廊下を抜けて扉から展示品の所へと案内する。
閲覧しすいように広く幅がとってあるガラスケースの前に立つと、メイが腰に付けた鍵の束から使って慎重に開けた。
イチはざっと展示品を見渡すと頷き、メイへと振り向く。
「暫く時間がかかります、その間ケースを開けたままになりますがよろしいですか?」
「もちろんです。では終りましたらこちらに鍵をかけてバークヤードへ声を掛けて下さい」
「おい、鍵を預けてもいいのか?」
数あるリングから一つの鍵を差し出すメイに、アルバートは思わず声をかけた。いくらなんでも無用心すぎるだろ、という非難の目にメイはすんと鼻を鳴らす。
「これでも人を見る目は養っております。世界有数の美術品と同等の価値の有る方をお連れの方に、こちらの品は必要ありませんからね」
ニヤリと笑って去って行くメイ。なんだか面白い人ですねぇとイチが呟くと、理解不能だ、とアルバートは額に指を当てて首を振った。
メイを見送った後、イチは気を取り直して膝をついた。ガラスケースの中に有る展示品を一つ一つ見定めて行く。
アルバートは先日ドダリー卿に言っていたイチの言葉を思い出した。
「イチ、俺はここに居て大丈夫なのか?」
「ええ、アルが退屈でなければ」
「気が散るとか言ってなかったか?」
ああ、とイチは手に持っている黄瀬戸の茶碗を置くと、アルに向かってにこっと笑う。
「彼の方がいらっしゃれば気が散って見る事が出来ないので、そう言わせて頂きました。アルは大丈夫です」
そう言って、今度は黒い茶碗を手に取った。
アルバートは内心面白くなかった。イチに認められているのは嬉しいが。
(信頼は得ている、が、友人以上には見られていない……まぁ、当たり前か)
イチは一通り展示品を手に取り、アルバートには分からない文字でメモを取っている。
「どうだ?」
「こちらに贋作はありませんでした。ただ」
イチは細い首を少し倒して、流麗な眉を微かにひそめた。
「?」
「いろいろと表記が間違っていて……あと箱書がないのです」
「箱書?」
「この茶碗達を入れていた各々の木箱が有るとおもうのですが、それが展示されていなくて。箱書きは言うなれば、展示されている茶碗の身分証のようなものなのです。全てを展示する事は叶わないかもしれませんが、せめてこれだけでも」
イチは朱色の茶碗と黒色の茶碗を少し手前に置いた。
「こちらで第三代にお目にかかるとは思いませんでした。第九代も一緒に置かれているので、目利きの方がご用意されたとは思うのですが」
「イチ、分かるように説明してくれ」
アルバートの困惑した声に、イチは失礼しました、と慌てて言った。
「こちらの朱色の方が第三代樂吉兵衛作、赤楽の茶碗になります。そしてこちらの黒い茶碗が第九代樂吉右衛門作、黒楽茶碗。どちらも名工の作です。一代から三代までは特別な物になりまして、この九代はまだ若い物なのですが、三代以来の名工と謳われていましてーー云々」
「……イチ、分かった。分かったから」
「ーー三代以前のものは私共でも中々見ることが叶わず華族様方や大大名のお歴々方がお待ちの様でして、まさかこちら様で手に取る事が出来るとは……。そもそも樂茶碗とは一釜に一つしか焼くこと叶わず、気入らなければせっかく焼けた茶碗もその場で割ってしまうとの事で、私としては駄作であっても名工の駄作ならば是非手に取って見たいと思うのですがーー云々」
「イーチッ!」
「はっ、し、失礼いたしました」
ぱっと顔を赤らめてしまったという顔をした。
「イチ」
「は、はい」
「君が優秀でアンティークを愛している事はよく分かった。だがな」
はい、と犬であれば耳を畳んで尻尾を丸めている体でイチは神妙にしている。
おそらくイチの悪癖なのだろう。
気を付けてはいたものの、思わず出た、といった所か。しかし反省しているのは分かるがこれだけは言って置かなければならない。
「正直、あのメイという学芸員と同じぐらい引くぞ? 俺だから良いものの、他の貴族達の前では絶対に自重しろ。後で何言われるか分からん」
イエス、アルと応えて更にしゅんとなってしまった。その様はアルバートに強烈な庇護欲を沸かせ、どうしてくれようと手をこまねいていると、黒瑪瑙はそっと上目遣いに聞いてくる。
「あの……では、アルの前では良いですか?」
その哀しそうな潤んだ瞳に吸い込まれ、思わず頷きそうになりながら、いや、まて、と言われている事を天秤に掛け、アルバートは頭の中で瞬時にリスクを計算する。
「う……まぁ……俺がいい、と言った時ならば、な」
歯切れ悪く答えると、ぱあっと今までに見た事のない子供の様な笑顔になった。なったはいいが、そこからが止まらなかった。
「ありがとうございますっ。私、幼い頃から骨董が好きでして、いつもおに……お父様の隣で一緒に見させて頂いておりました。色々な綺麗な物達が私に語りかけてくれる様でして、勿論新しき物には新しい良さが有るのですが、古い物にはまた格別な良さがあり、歴史を感じ、いろいろと調べて参りますとまた次々と興味深い事が分かりましてーー」
「イーチッ! 俺は今、良いと言ってはいない!」
そう訴えるのだが嬉々として喋る黒瑪瑙の耳に入っておらず怒涛のように喋り始める。アルバートは暫くの間、全く興味のないアンティークの話を延々と聞かされるのであった。
現在、大英美術館に第三代、第九代の楽茶碗が所蔵されている訳ではありません。あしからずご了承ください。