10 黒瑪瑙は告白する
ドダリー卿の家令に見送られ赤煉瓦の屋敷を出ると、リチャード・メイはにこやかに笑いながら二人に話しかけてきた。
「一先ず良かったですね、ミスター・ジェラルド、レディ……何とおよびすれば?」
イチが応える前にちらっとこちらを伺ったので、アルバートは好きにしたらいいと横を向く。
イチは苦笑すると、メイに改めて向き合った。
「ミスター・メイ、性別を偽っていた今迄のご無礼、お許しください。初めまして、市・成田と申します。どうぞ、イチとお呼びください」
「レディ・イチ、ですか。オリエンタルな響き……素晴らしい! チャイニーズ・キャラクターでは何と書くのです?」
「ミスター・メイ、漢字が読めるのですか?」
イチは驚いてメイを見つめる。
「いえいえ、読めません。読めませんがあの形に魅力を感じるのです。まさにオリエンタルな形……貴女の漢字もぜひ知りたい!」
「イチ、教えなくていい」
「え? でも」
「いいから」
横から口を挟んで来たアルバートを見て、メイは拳を口に当て、くくっと身体を震わす。
「っくく、レディ・イチ、大丈夫です。もし宜しければ明日にでもまた美術館でお会いした時に。それで宜しいですか? ミスター・ジェラルド」
メイの問いかけに、アルバートはうんともすんとも言わなかった。もちろんメイはそんなアルバートにわかりました、退散しますと何度も頷く。
「くふふ、いや、楽しみました。では、また明日に。あ、レディ、北斎の件、ありがとうございました。詳しくはまた」
そう言ってメイは先に馬場の方へ行ってしまった。
残されたアルバートとイチの間にはまた沈黙が落ちる。
アルバートは息を吐くと、イチ、少し歩こうと誘った。
イチもはい、と今度は逃げずに頷いた。
ドダリー卿タウンハウスの真向かいはハイドパークになっており、アルバートとイチは大通りを小走りに渡ってパークへの小道に入って行った。
少し内側に入るだけで都会の喧騒がなくなる。広大な敷地にあるパークの遊歩道を歩きながら、アルバートは物思いに耽った。
結局、自分は何の役にも立たなかった。
舞踏会の時も、招待状の時も、そして今も。
無意識にぎりっと歯軋りをすると、イチが横ですみません、と言った。
「別に、貴女に怒っている訳ではない。いや、怒りたくもなるが……自分が不甲斐ないだけだ」
「アル……」
遊歩道に備え付けてあるベンチにアルバートはイチをエスコートした。胸に入れていたハンカチーフを敷いて促すと、イチは礼を言ってそっと腰掛ける。
もう男だと偽らなくて良くなったイチは、座り方も少しだけ変えていた。
足を開いて座っていたのが両膝が揃っていて、手も握り拳ではなく、太腿の辺りで軽く重ねている。
ただそれだけで、紛う事なき女性に見えた。
男性の服を着てるが故に、見えはしない身体の線が強調されている様な気がして、アルバートには目に毒だった。
いろんな想いが錯綜する。しばらく川辺を見るともなしに見ていたが、重いため息をつきながら余りイチを見ないように前を向いて吐き出した。
「何故、一人で行ったんだ」
「私だけで、と書かれていたので」
「対策を立てると言った」
「……貴方に……迷惑を掛けたくなかったので…」
「……」
アルバートは爆発しそうな思いを、自身の拳を握る事で耐えた。
どうしたら分かってもらえるのか、怒りで狂いそうになる。
熱い気持ちを抑える為に、一言一言がとてつもなく重くなった。
「イチは」
「はい」
「今、鑑定している浮世絵が、紛失したらどうする」
「探します」
打てば響くような応えにアルバートはため息をついた。自分の想いは全然届いていない。こちらがどんな想いでいたのか、イチにはまったく届いていないのだ。
どうすれば届く? どうすればもうあんな行動を起こさないように考えてくれるんだ……。
イチへの言葉はいつだってスムーズにいかない。大事な事ほど特にだ。
アルバートはうつむき、膝に置いた拳を握りしめながら問う。
「探している間に、この世で一番大切な浮世絵が、ビリビリに破かれているかもしれないとは、思わないのか?」
「……思います」
「復元も出来ない状態で、もしかしたらテムズ川に捨てられているかもしれない、と、君を探し当てた時にそうだったら自分を許す事ができないと思った俺の気持ちが……分かるか?」
「……」
イチはおもむろに立ち上がった。
アルバートの前に立つと、座っているアルバートの頭を胸に抱いた。ブラウンの髪に頬をうずめる。
アルバートは震えていた。イチはずっと、アルバートの震えが止まるまで黙って抱いていた。
やがてアルバートはイチを少しだけ離し、自分も立ち上がって今度はイチを掻き抱いた。
イチもまた、背中に手を添えた。
「イチ」
「はい」
「約束を、守って欲しいんだ」
「……はい」
「貴女の国ではどうか知らないが、俺の国では愛する人の言葉は、一旦は、何を置いても信じるんだ」
「はい」
「貴女が手紙を朝見せると言ったら、俺は貴女が見せるまでいくら自分が確認したくても見ない。そう、骨の髄まで教育されているんだ」
「……はい」
「もう、二度と……」
絞り出すような言葉に、アル、とイチは囁いた。
「……はい。もう、二度と、約束を違える事は致しません。……ごめんなさい」
最後の言葉は、男性のイチではなく、女性のイチとしての言葉だった。
柔らかく、優しく、そして甘い。
アルバートはイチの顔を上げさせた。
目を捉えて、いいか、と聞いた。
思えば、確認するのは初めてだ。
イチはその美しい|黒瑪瑙《くろめのう。を一瞬揺るがせたが、やがてアルバートの翠眼をじっと見つめ、そっと、その瞳を閉じた。
アルバートのキスは、今までで一番、短く、確かめるようなキスだった。
まるで、お互い初めてキスをするみたいに。
こつ、と額と額が触れ合って、そっとイチが目を開くと、魅惑的な翠色の瞳がほっとした様に微笑んでいた。
この瞳が、いけない、とイチは思う。
いつもいつも私を捕らえて離さない。
吸い込まれそうなエメラルドの瞳、冷たく見たり、ふっと緩んで笑ったり、真剣な眼差しであったり、情熱的な色を持った時は特に鮮やかに輝く。
何度いけない事だと思ったか。
相手は英国貴族男爵家の方、次男とは云え平民のしかも外国の人間が親しくなるべきでなはない。兄の代わりに髪まで切って……とても女性とは言えない自分が、アルの隣に立つだなんて。
美術館でキスをされた時は動転した。
アルは男の人が好きなのか、と。そうならば自分は諦めて帰ればいい。本当の自分を告げればアルは興味を無くし、何事もなく帰国出来る。そう言い聞かせたのに。
鑑定は手につかず、アルを問いただし、男性が好きなのではないという言葉に目を見張って喜んだ。でも。
アルの事を思えばこの想いは無くさなければならなかった。いろんな事にかこつけて顔を合わせない様にした。今度、会ってまた目が合ったらもう、誤魔化す事は出来ない。
それなのに、アルは。
まるでプロポーズされたみたいだった。
左手に落ちたキスは……身体に染み込んだ。
「イチ、俺と一緒に生きて欲しい」
アルバートは黒瑪瑙の両頬を捉えて真摯に言った。漆黒の瞳が不安そうに揺れている。
「私は……平民です」
「何も問題は無い」
「日本人です」
「自国民でないといけない決まりはない」
「仕事が終われば、帰る身です」
「俺が付いていく」
「アル! いけません!」
目を見張るイチに、大丈夫だ、とアルバートはゆっくり微笑む。
「兄上に話をつけてある。兄上が戻るまでは俺が代わりを務めているが、戻られたら好きにして良いと言質を取ってあるんだ。後一ヶ月もすれば戻られる。丁度イチが帰る前だ。お役ご免となれば何処へでも行ける」
「でも」
まだ何かあるのか? と片眉を上げると、イチは瞳を影らせて髪が、と言った。
アルバートはゆっくりと頬の手を耳から髪へと移動させる。指に触る滑らかな黒髪を愛おしむ様に。
「髪はすぐ伸びるよ」
「でも」
「短くても、長くても、変わりない」
変わりなく、綺麗だ。そう囁いてやると、イチの耳がしゅっと赤くなった。
顔を見ると首元までうっすらと薄紅色に染まっていた。そんなイチは初めて見た。
「イチ、可愛いな」
「……お戯れを」
「俺が本気なのはもう知ってるだろ?」
「……」
「イチ、返事をくれ」
イチの言葉を取らなければ、ここから先に進めない。
イチは長い間目を伏せて居たが、やがてそっとアルバートを見た。
美しい黒瑪瑙が潤みながらゆっくりと優しく緩む。
「私も、あなたを、愛しています」
甘く、柔らかい声が、言ったか言わないかの所でアルバートは言葉ごと奪った。
イチがここに居る。自分の腕の中に。
為すがままに翻弄されているイチの唇をゆっくりと離すと、少し強めに抱いた。
肩口で、苦しいです、と息も絶え絶えに言われたが、暫く緩める事は出来なかった。
イチの存在を実感できるまで。
アルバートはずっと、抱き締めたままだった。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
(1841-1919)
フランス、印象派の画家。
クロード・モネ、エドゥワール・マネ、エドガー・ドガとも親交があった。
代表作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏馬」、「舟遊びの人々の昼食」
作中に出てくるのは
「ジャンヌ・サマリーの肖像」
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番外、準備中です。しばしお待ちを^_^