9 黒瑪瑙は夜叉となる
イチを迎え入れ居間の長椅子に座らせたドダリー卿は、居間の奥にある小部屋に入るとうやうやしく小ぶりの木箱を持ってきてローテーブルに置いた。
「先日、懇意にしているコレクターから日本のコレクターから直接買い付けたという物を見せてもらってね。由緒のあるものだそうだ。オニキスのお眼鏡にかなうかな?」
絶対の自信があるのだろう。ドダリー卿は口元をゆるませながら向かいにゆったりと座り、イチの動向を見ている。
イチは手袋を外すと、木箱を封じてある組紐を丁寧に解いた。両手で蓋をとり、シルクの白布に包まれた中身を取り出す。
「……濃茶用の茶入ですね。唐物茄子茶入。お尻にかけてふっくらと膨れている様が可愛らしいです。箱書きも由緒のあるもので、間違いなく本物かと思います。が、一点、残念な点が」
イチの流れるような物言いに気分良く口髭を撫でていたドダリー卿は、まさか! と大きな声を上げた。
「割れている箇所もなく、釉薬の流れも瑞々しいほどの美しさだ。完璧な器に不備などないはず! 君の目は節穴か?」
「いいえ、茶入は閣下の言う通り、美しい品です。問題はそれを包む茶巾。マイロード、この美しい器を包んでいた袋はいかがなさいました? 紐がついており、美しい紋様が描かれていたかと思いますが」
「紐付きの袋? ああ、あの薄汚れたボロ切れなら用をなしていなかったので捨てたが」
「捨てた?!」
イチは思わず立ち上がった。
「閣下、それはまことですか?!」
「ああ、ぼろぼろで、包んでいるだかいないのだかわからないくらいのただの布切れだったから」
「ああっ!! これだから茶道を嗜んでいない国の方にお売りする際はその用途をきちんと説明せよと組合から通達が出ていたはずなのに……!!」
イチの面相が夜叉のように変わり、美しい黒髪はさながら総毛立つようなオーラに包まれた。その恐ろしくも美しい様にドダリー卿が息を呑んでいると、イチはおもむろに卿の手首を掴むとぐいっと引っ張って目の前の茶入を見るように身を乗り出させた。
「いいですか、閣下、よくよく耳を傾けて覚えてください」
目を見開き射るように睨んでくる黒瑪瑙に思わずこくこくと頷くドダリー卿。イチは細く長いため息を吐き、歯軋りでも聞こえてきそうなほどの唇を引き締めたかと思うと、怒気を含んだ声で一気に喋り出した。
「茶入はその器だけでは用を成さないのです。茶入、その茶入れを包む〝仕覆〟そしてその二つを守る木箱に箱書きを添えて茶道具の一品となる。お茶を入れる際の作法の一つに仕覆をご紹介する旨もありますし、仕覆の紐の結び方で茶道の流派も分かり、歴々どの流派で使われていたのかも知れる貴重な布を貴方はっ! あろう事か捨ててしまったと? それでも美術コレクターと言えますか! 収集家の風上にもおけない行為です!!」
「し、知らなかったのだ、私は、あの布がそのような用途だとは」
イチのあまりの剣幕にドダリー卿は仰け反り、言い訳を言おうとすると、ぎろりと目で圧をかけられる。はうっと声を上げた卿の心臓は凍り付かんばかり。
「知らなかったのなら買い入れた業者に聞けばよいでしょう? 本当に好きな方なら梱包されている包み紙さえも取って置いて保管します。閣下の美術的価値というのは美しければよろしいのですか? それを包んでいる物は関係ない、中身だけを愛でれば良いと? ナンセンスです。美術を愛する者はそれに付随する全てを愛する気概なくしてコレクターとは言いません。英国のコレクターがこれほどの浅い知識しかなかったとは……すぐに美術館に戻って箱書きの有無を確認しないと。もしかしたら捨てられているかも」
「まっ、まってくれっ! 他の品も見ていってくれっ! もし間違った収集の仕方をしていたら目も当てられない」
「閣下は正しい知識をきちんと覚えてくださいますか?」
「た、頼む! 知らずして影で笑われる事こそ我が身の恥。教えてくれっ!」
「さすがです、マイロード。では基本的な所で茶碗と掛け軸を見せて頂けますか? その代わりといってはなんですが、私に変な色目は金輪際使わぬようお願いしたいのですが」
「誓って近寄らぬ。そもそも、近寄れぬよ……うぅ、かゆい……まさか君がレディだったとは」
「閣下?」
「話は後だ、うぅ! キンバリー! 水と薬を! そして……彼女にはお茶を入れて差し上げろ」
扉のすぐそばに控えていたのだろう、キンバリーと呼ばれた家令があわててドダリー卿の世話をし、イチにもお茶を入れた所で玄関のチャイムが鳴ったのだった。
もちろん、家令がお茶を入れている間、ドダリー卿は怒涛のようなイチのうんちくを聞かされ続けた事になる。
「大体の顛末はこんな所だよ、ミスター・ジェラルド」
ドダリー卿は大きくため息をつきながら額に濡れたハンカチを当てている。
「大変申し訳ないのだが、この通り体調が優れなくなってしまってね……招いておいて恐縮だが、迎えも来たようだ……今日は帰って頂いてもいいかね? マイ、いやミスター、いや、レディ・オニキス」
その言葉にアルバートはいきり立った。
「ドダリー卿! イチに何をしたのです! 場合によっては私は貴方に手袋を叩きつけるっ」
イチが女性だと分かるような無体な事でもしたのかと決闘の為に手袋を外せば、卿は力無く首を振りその意志は無用だと手を上げる。
「ああ、ミスター・ジェラルド、君の心配する事は何もない。ただ、彼女に手首を掴まれただけだ。だがそれで私は彼が、彼女だと分かってしまったのだよ……」
「どういう事です?」
未だ臨戦体制を崩さず、イチを庇うように前に立つアルバートに卿は苦笑する。
「私の、悪癖は知っているだろう? 女より男の方を好むと。まあ、それには元々そちらの方が好きだというのもあるが……私は女性に触ると何故か肌が反応を起こすのだよ……ほら、この通り」
そう言ってドダリー卿はカフスを外して腕を見せると、鳥肌と言わんばかりのブツブツの肌に赤い親指ほどの斑点がぽつぽつと広がっていた。
「私が弱ったのをいい事に、この方はまたとてつもなく長い美術談義をし始めてだね……まあ、申し訳ないが、私の手には余るお人だ。引き取って貰えるだろうか」
済ましてお茶を飲んでいた黒瑪瑙はティーカップを置くと優雅に立ち上がり、アルバートの隣に並んだ。
「大変美味しいお茶とお茶菓子をありがとうございました。私としましては卿の勉強の為にはまだまだお話足りたいので残念です。もし宜しければまた体調が回復した時にでも有意義な時間を一緒に過ごせたらと思うのですか?」
イチはにっこりと微笑んでドダリー卿に伺うと、いや、うん、その、と卿は引きつった顔をした。
「今後の美術に関する相談はキュレーター・メイに問い合わせるとするよ。今日はどうもありがとう。レディ・ナリタ」
ドダリー卿からの言質をきっちりと取り、満足そうに頷いたイチは隣に立つアルバートを見上げる。
「来て下さってありがとうございます、アル。ミスター・メイも。ご心配をおかけしました」
出ましょう、とイチは目で合図し、ドダリー卿へ帰宅の挨拶をすると、三人は屋敷を後にした。