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8.5 黒瑪瑙は失踪する

 



「やぁ、時間通りにきてくれるなんて、貴方はとても誠実なんだね、マイオニキス」


 大英美術館の正面階段を降りていくと、見計らったように黒塗りの馬車がついた。紋章は無く、いわゆるお忍びという奴だ。

 御者が開いた扉から会釈したドダリー卿は、ねっとりと笑いながらこちらへ、と自身は降りずにイチを誘導する。


 どこへ行くにも必ずイチの側にいてエスコートしてくれていたアルバートとの違いを見つけ、イチは思わず微笑んでしまった。

「喜んでくれて嬉しいよ、マイオニキス」

「……私もです、マイロード」

 貴方への微笑みではない、とは言わずにイチは口をつぐんで目線を窓へ向けた。


 今ごろ、あの人は怒っているだろうな。


 黙っていれば目鼻立ちの整ったハンサムな英国紳士なのに、口を開けば次から次へと話題に欠かない。喜怒哀楽が激しいアルバートの憤怒の顔が浮かび上がって目を伏せる。


「何も憂う事はないよ、オニキス。門外漢の輩とは一線をかいた高尚な話をしようじゃないか。私が集めたコレクションもぜひ見てもらいたい」

「光栄です、マイロード」


 ああ、またか、とイチは内心のため息を飲み込みながらほろ苦く笑んだ。

 美術コレクターにありがちな収集品の見せびらかしは、古今東西どこにいても変わりはない。

 取引先ならまだしも、こういった招かれざる客からの申し出を今後断る為にイチは腹をくくった。


 右手に大きな公園を見ながら、馬車はゆっくりと止まる。ドダリー卿のタウンハウスに着いたのだろう、速やかに開かれた馬車の扉をくぐると、目の前のドアが内側から開いた。


「ようこそ、我が屋敷へ。さあ入って」


 手袋越しに背中を軽く押されて、屋敷への階段を上がらされる。やや強引とも取れる行為にイチは眉をしかめたが、やはり何も言わなかった。


 その従順とも取れるイチの様子に、ドダリー卿はにたりと笑って頷く。


「さあ、まずはこちらへ。私のコレクションをお見せしようじゃないか。親密な語らいはその後でも遅くないしね」


 そう言ってイチの細い肩を捕まえると、ドダリー卿は自慢の居間へと連れて行った。




 ****



 イチが消えた、と連絡が入ったのは正午を過ぎて間も無くだった。

 詳細を話すので大英美術館に来て欲しいとのメイからの走り書きのメモに、アルバートが単騎で馬を走らせて最速に到着した時には、メイがバックヤードの外扉の前で右に左にと動きながら待っていた。


「リチャード・メイッ!」

 アルバートが馬上から飛び降りてメイの胸倉を掴むと、彼は顔を引きつらせて叫んだ。

「お怒りは後で幾らでも受けます、ミスター・ジェラルド! まずは中で説明させて下さい! 時間がない!」

 イチを思っての言葉にアルバートは何とか溢れ出る怒りを収める。

「……状況を聞かせてくれ」

 胸元から手を下げて睨む様に言うと、メイも体裁を整えながら、とにかくこちらへ、とバックヤードに招き入れた。


 前回通った細長い廊下を歩き、ある扉の前に立つとメイは錠前の鍵の束を取り出して開ける。薄暗く急な螺旋の階段を降りて行くと開けた場所に出て、メイがスイッチを入れて電気を灯すとぼわっと灯りが点いた。

 部屋一杯に広がる大机の上に、大波が書いてある日本の絵らしきものが三枚と一枚に分かれている。

「イチはこれを見ていたのか?」

 集中しなければいけない案件があると言っていたのはこれか、と見やる。

「ハジメ様は葛飾北斎の浮世絵に贋作が紛れているのでは、と仰っていました。四枚ある内の一枚にそれらしき匂いがする、と」

 アルバートは三枚と一枚を見比べるがどれも変わりなどない様に見える。

 三枚の方には、〝true〟のメモ。

 もう一方の一枚には、達筆な字で悩んで書いたであろう文字が並ぶ。


 〝真ではないが……後程説明します〟


 細く、美しい字体にイチのたおやかな手を思い出し、アルバートは自身の拳を握り締める。

 落ち着いた字体、乱れていない室内。

 イチが捕われたのではなく、自らの意思を持って出て行ったのが分かる。

 とならば、向かった場所は一つしかない。


「ドダリー卿の所へ行く」


 誰に言うでもなく宣言すると、メイが私も連れて行って下さい、と乗馬の為の手袋をはめた。

「腕は強くないですが、一人より二人です」

 真摯な目を受けてアルバートは頷く。

 手早く浮世絵を片付けたメイは足早に地下扉に鍵をかけ、アルバートを誘導し表へ出た。


 二人、馬場へ走り、馬鞍を装着するのもそこそこに駆け出す。

「ミスター! ドダリー卿宅にはこちらの方が早い!」

 メイは意外にも器用に馬を操りながらアルバートを先導する。大通りから地元民でしか分からない路地に入り、右へ、左へとくねりながら駆け抜けていく姿はとても引きこもりの学芸員とは思えない。落ち着いたらメイの出自も聞かねばと思いつつ背中を追う。


 建物の壁と壁にかかった洗濯紐の間を潜り抜け、もう一つ曲がった先にはドロワーズが何枚もかかって居て視界を(さえぎ)った。

「うわっぷっ」

 メイは承知のなのかさっと潜っていくがアルバートはバサバサとハットに手をやり落とさない様に苦心しながら潜り、一つ引っかかってドロワーズが付いてきた。

「なにすんだい!ドロボーー!!」

 響き渡るどら声に振り向き、「すまん!」と肌着を投げる。受け取った年配のご婦人が目を見開き、顔を真っ赤にして悲鳴混じりの嬌声が聞こえて来たが気にしない事にした。今は、それどころでは無い。


 メイが迷う事なく疾走していくのに舌を巻きつつアルバートは離されないよう食らいついて行く。

 やがて視界が開けてハイドパークという川に沿った大きな公園が見えてきた。アルバートたちは通行人たちにぶつからぬよう、声をかけながら突き当たりを右へ曲がり北上する。

 右手に見覚えのある白い石と赤煉瓦で埋め尽くされた外観の屋敷が見えて来て、メイにドダリー卿宅が近い事を伝えると、メイ自身も分かっているという様に頷いた。

 ドダリー卿のタウンハウスの手前にある共有の馬場に馬を預けると、アルバートは足早に卿宅の正面玄関に向かう。メイも遅れず付いて来て、私が先立ちます、と胸に手を当てた。

 訝しげに視線を投げると、ドダリー卿は大英美術館に懇意な方なのです、と静かに告げる。

「バックヤードにも脚を伸ばされるので、面識があるのです。思う所があるミスターよりかは扉が開く可能性が高いかと」

 任せてください、という眼差しにアルバートは頷き道を譲る。

「なるべく扉が開く様に交渉してみますが、もし家令が渋るようならば私を押しのけて中に入って下さい」

 私は尻もちをついてもいいので、と本気とも冗談ともつかぬ言い方をしてメイはにやりと笑った。



 メイは拳で重厚な扉を二回、ノックした。

 家令らしき声が中から聞こえる。

「大英博物館キュレーターのリチャード・メイです。ドダリー卿に折り入ってお話があって来ました。お取り次ぎを願います」

 メイの声に、家令が暫しお待ちを、と言って離れていく。いくらかもしないうちに足音が有り、扉は開かれた。

「主人がお待ちです。お連れ様……ミスター・ジェラルドもご一緒にどうぞ」

 アルバートと分かった上で招き入れる家令の態度に、メイと二人、何事かと顔を見合わせるが、取り敢えず中に入るのが先決と頷き足を踏み入れた。


 案内された書斎風の居間には、口髭を生やしたドダリー卿と、イチが居た。

 だが、様子がおかしい。

 ドダリー卿が長椅子に端に寄っ掛かり、頭痛でもするのか額に手を当て、具合が悪そうに身体を投げ出している。

 イチはその横にある一人がけのソファに浅く座り、優雅にお茶を飲んで居た。

 アルバートとメイは逆の予想をして走りに走って来たのだが、これはどういう事だと顔を見合わせた。

「ああ、ミスター・ジェラルド、よく来てくれた。ミスター・メイも」

 うろんとした顔でアルバートとメイをみたドダリー卿は、力無く笑った。

「実はオリエンタルの至宝と美術談義をしたくて招待状を出し来て貰ったのだが……少し、私には手に余る……いや……高度過ぎる話になってしまってね……どうしたものかと、思っていたのだよ……」

 その言葉にアルバートとメイは状況を正確に把握し、一人はげそっとなり、一人は目を輝かせた。その様子にドダリー卿は力無く微笑む。


「ああ……やはり君たちはオニキスの理解者なのだね。いやはや、私も愛好家としての自負はあったのだがね……お手上げだったよ」


 ドダリー卿が息も絶え絶えに語り出した事の端末は、驚きと共にあのイチが? と信じがたい気持ちになる事柄だった。



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