気持ち
「その後に私が新橋さんに確認した事を覚えておられますか?」
「その後?」
僕は少し考えた。
記憶の思考回路を繋ぎ合わせる。
「江利香さんの持ち物です」
僕が思い出す前に、もしくは、思い出すと同時に、彼女はサラッと答えを言い放った。
「あぁーー見覚えあるかどうかってやつですね?」
「そうです」
「あの確認がどうかしたんですか?」
「成人してからは江利香さんにお会いになられてなかったんですよね?」
「えぇ、まぁ…」
「おかしいと思いませんか?
少なくとも貴方は江利香さんに二年は会って居なかったのに、その二年の間で江利香さんが外に持ち歩いていた物が全て貴方の見覚えある物ばかりだという事が」
何がおかしいのかさっぱり分からない。
「どういう事ですか?」
「やっぱり貴方は馬鹿の極みですね」
吐き捨てる様に毒ついた後、彼女は立ち止まり、空を仰いだ。
それに反応して、何歩か先で僕も立ち止まり、振り返る。
「白夜さん?」
「あれは、貴方へのメッセージーーとも取れるでしょう。
彼女は最初からあの嵐の日を自殺する日に決めていたんでしょうね。
そもそも彼女ーー江利香さんの中では悪天候の中で起きた不慮な事故死にするつもりだったんです。
誰にも迷惑をかけないようにする為に。
そこに要らぬ手を加えたのが藤浪亮治さんだったんですね。
彼はアパートに帰る際、橋から飛び降りる江利香さんを偶然にも目撃してしまった。
藤浪さんは考えた筈です。
天候は嵐。
もし、翌日になって江利香さんの死体が見つからなかったらどうしようか?
死体が見つかったとしても、この状況で自殺と分かるのだろうか?
どっちにしろ、この日に職場に江利香さんが出勤してたのは事実ですから。
その帰り道に失踪や殺人などの疑いがかかれば、捜査が長引き、職場にも世論からの責任問題を問われるかもしれない。
だったら、これが自殺だと分かるように現場を工作しようとーー」
「ちょっと待ってくださいよ、白夜さん」
僕は白夜叶愛の言葉を遮った。
「随分と見てきた様な口振りで話しますけど、人一人が眼の前で自殺したのを見ながらそんな冷静な判断が本当に藤浪亮治に出来たんでしょうか?」
「………」
「白夜さん?」
僕の再度の呼びかけ。
白夜叶愛はそれにやっと反応を示し、その視線の先を空から僕に移した。
「案外、人ってそんなもんですよ。
いざという局面を迎えた時、対峙するべき問題を簡単に放置し、自らの保身に走ります。
藤浪亮治さんは寧ろ逆でしたがーー問題との向き合い方を彼は間違えたんですね」
「向き合い方を…ですか…」
「さて、話を戻しますがーー江利香さんの持ち物ですよ、新橋さん。
彼女自身は不慮の事故に見せかけたかった訳ですから、自殺と断定出来るような明確な証拠を残そうとはしませんでした。
でもただ一人、幼馴染の貴方にだけは、その心の内の本音を伝えて起きたかったんでしょう。
貴方にだけ分かるはずのメッセージを江利香さんは残していたんです」
「僕にだけ…?」
聞き返しながら、僕は少しずつこの事件の真相を理解しつつあった。
いや、そんなつもりになっていただけかも知れない。
白夜叶愛の真っ直ぐな眼に飲み込まれそうになりながら、僕は彼女の言葉に耳を傾けた。
僕の予想を遥かに越えた真実に耳を傾けた。
「南條哲さんに確認したんですが、彼女、あの日だけ、鞄が違ったそうなんですよ。
分かります?江利香さんはあの日だけ、自分の持ち物を全て、貴方が見知っているものに取り替えていたんですよ」
「それって…」
「貴方に何かを伝えようとしていた事に間違いはありません。
そして、その伝え方は自分が死んだ後、自分の持ち物が貴方に伝わるーーつまり、死ぬ事前提のメッセージでした。
だとすれば他殺だという推理は見当外れ。
不慮の事故だなんて以ての外です。
そこに彼女の意思が働いてる以上、自殺だと考えた次第です。
あぁ、そうそうーー訊かれる前にお答えしておきますが、江利香さんが自らの持ち物を全て貴方の知っている物に変えている事と傘が発見されなかった事実は結びつける事が出来るんですよ。
恐らく傘だけ、二年前の物がなかったんです。
だから傘だけは持っていけなかった。
それが何よりものあなたへのみ限定したメッセージだという事を裏付けています」
「僕に一体何を…」
「二十年間、誰よりも長く、誰よりも近くに居たから、気付いて欲しかったんじゃないですか?
誰に相談しても、中途半端な回答が返ってきたり、恋人と過ごすから無理と拒絶されたりして、江利香さんはきっと社会という歯車の中で孤独を感じていた筈です。
そんな中で貴方に頼りたくなっても分からない気はしません」
「でも江利香は僕に頼る前にーー!」
「ですから、貴方の夢を知ってたから…じゃないんですか」
「え…?」
「小説家になる夢。その邪魔は出来ないと思っていたんじゃないでしょうか。
貴方は少なからず、そういう理由で貴方から恋心を引いた女性を知っている筈です」
舞の事だ。
木下舞。
僕の元恋人。
彼女も別れ話の際に確かにそんな話をしていた。
僕の夢を邪魔したくなかった、と。
僕の夢を応援してる、と。
言葉を見失い立ち尽くす僕。
白夜叶愛はそんな僕に一枚のノートを差し出した。
僕が見つけてきた江利香のノートだった。
「これはお返ししておきます。
江利香さんは貴方の夢を知っていました。
応援してました。
それは死後を以ってしても変わらない想いでしょう。
そして、江利香さんは貴方が自分の死を不審に思った時、必ずこのノートを手にしてくれると考えていました。
貴方なら自分の死の謎を解き明かしてくれると考えていました。
こんな事、今更言っても遅いだけで、不躾で、差し出がましいようですがーー」
一呼吸置く。
心地良い風が通り抜け、彼女、白夜叶愛のその長い黒髪を優しく撫でる。
「江利香さんは貴方に恋心を抱いていました。
その事にちゃんと向き合ってあげてください」
僕はノートを受け取った。
なんて答えていいのかも分からないまま、ノートを受け取り、緩む涙腺から涙が溢れないように必死に堪えた。
それに気付けない程、僕の眼の前に居る名探偵は愚かではない。
“そんじょそこらの探偵とは格が違う”と、彼女は自認してるのだから。
白夜叶愛は踵を返し、僕に背中を向けて歩き出す。
僕達の目的地は逆方向である。
彼女は目的地から遠ざかる歩を止める事なく、背中を向けたまま言った。
「やはりこの先は新橋さんにお任せしておきます。夢見さん一家には新橋さん一人で報告に上がってください」
「はーー?ちょ、ちょっと白夜さん!」
ピタッと、もう大分離れた所で立ち止まる白夜叶愛。
彼女は上半身を捻って、髪を風に靡かせながら振り向く。
「急な用事が出来たものでーー
依頼料は新橋さんにツケておきます。
またいつかお会いしましょう、では」
言いたい事だけ言うと、彼女は再び前を向いて歩き出した。
調査報告を僕に投げるか、普通ーー
まぁでも、捜査過程の成り行きで、僕も“白夜探偵事務所の新橋”と名乗っているのだからそれもアリなのかも知れない。
もしかすると、この状況を彼女は最初から想定していたのかも知れない。
唐突な僕への調査協力も、今日の推理ショーも、彼女なりの依頼人と“依頼人の周りの人”、つまりは、“僕の事”を考えて設定してくれたものなのかも知れない。
限りなく探偵の範疇を越えた、常軌を逸した行動である。
全く以って、どこまでも見透かした名探偵だ。
彼女が僕に捜査協力を押し付けたのは彼女の職務怠慢だーーなんて言って締め括るつもりでいた僕の小説は、彼女の粋な計らいでそのエンディングも形を変えられてしまったのだった。