出会い
ーー“あれ”から3日が過ぎたある日。
僕、新橋尚弥は“白夜探偵事務所 所長”と肩書きが載った名刺を机の上に置き、そこに書かれた“白夜叶愛”という探偵の名前と睨めっこしながら、ある問題に対し頭を抱えていた。
結末から言えば、付き合ってもう一年経つ彼女にフラれてしまったのが原因だ。
と、言っても話の展開が急すぎて、これだけでは現状と全く話が繋がらない。
その上に、僕が伝えたい事は何一つ伝わらない事だろう。
なので、順序立てて今一度説明しよう。
話は約一時間前に遡る。
早朝という程でもない今朝、午前九時頃。
付き合ってもう一年になる彼女、木下舞が僕の家に突然訪ねてきた。
舞は明るい茶色の長髪でウェーブがかった髪型。
派手っぽい印象などはなく、むしろ落ち着いた大人っぽい雰囲気がある。
僕はいきなり現れた恋人をボロアパートのワンルームに迎えいれ、木製の丸机を挟む格好で向かいあって座った。
彼女は座る前にコートを脱ぎ、綺麗にたたんで自分の横に置く。
コートの下は意外に軽装で、お洒落をしてきているのが見てとれた。
普通なら、当たり前かもしれない。
恋人の家に訪ねてくるのだ。
お洒落もしている事だろう。
ただし、付き合って一年ともなってくると、これも少し違ってくる。
勿論、恥ずかしくない程度に飾りはするかもしれないが、普通に家に訪ねるだけならまず、お洒落といったお洒落はしない。
人にもよるかもしれないが、僕達の場合はそうだった。
そして、僕は普段よりお洒落をした舞の服装を見た瞬間から、なんとなく嫌な予感はしていた。
ーーいや、連絡もせずに訪ねてきた瞬間からである。
僕は舞が座るのを確認してから、口を開いた。
「で?どうしたの?急に」
「……」
舞は黙っている。と、言うよりかは何かを言いたそうにして口ごもっているかのように感じた。
僕は一度、深呼吸をして間を整える。
「ね、珍しいよね、舞の方から連絡も何もなしに急にこっちに来るなんて…」
出来る限り、明るく言ってみる。
だが、効果は見て取れない。
それどころか何故か俯いてしまう。
「舞?」
恐る恐る伺うように呼びかけてみると、舞が鼻をすする音が聞こえ、僕はこの時、初めて気付いた。
泣いているーー
「え、ちょ、どうしたの?舞?」
僕は慌てて机の下に置いてあったティッシュの箱を持って、舞の横に移動する。
僕が差し出したティッシュを舞は取ろうとはしなかったので、僕は何も言わずに舞の傍らに箱を置いた。
舞はグスっと鼻を一度すすり、右手の人差し指で軽く眼に堪えてた涙を押さえるようにして拭った。
そして、隣に来ていた僕から少しだけ距離をとって、僕に言った。
「尚弥君…私達…別れよ」
「は…?」
思わず、そう声が漏れた。
「え?ちょ、ちょっと待って待って待って」
言いながら僕は立ち上がり、彼女から背を向けた。
ーーちょっと待ってくれ。何なんだ、この状況は!?
彼女が突然、訪ねて来たと思えば、いきなり泣き出し、そして、いきなり別れよう?
何の冗談なんだこれは!
ちょっとしたパニックに頭を抱える僕。
ーーいや、落ち着け、新橋尚弥。
まずは彼女の話を聞こうじゃないか。
心の中で自分をなだめ、再び大きな深呼吸をしてから彼女の前に座り直す。
机を間に挟まず、だ。
「ごめんごめん、えっと…なんでかな?」
と、理由を訊く。
僕にはそれを聞く権利があるはずだ。
彼女は言いにくそうに俯き、僕の眼を見ない。
「舞…何か理由があるんだろ?教えてくれよ」
出来る限り、柔らかい口調で話す。
すると、舞は明らかに、今にも涙が溢れそうになっているのを我慢しているかのような表情と声で口を開いた。
「尚弥君…浮気してるよね…」
はい?ーーと、危うく心の中から声が漏れる所だった。
「え、なんで?なんでそう思うの?」
咄嗟に出た言葉も、心の内の反応とは対して変わらなかったが。
舞は俯き加減のまま、やはりこちらの眼を見ようとせずに話しだす。
「尚弥君がプロの小説家を目指して頑張ってるのは知ってるし、私もそれを応援したいと思った…今でも、思ってる…」
「…うん」
「だから、そういう職業を理解したいとも思って…作品を作るっていう事は凄くデリケートな事だと思ったから…」
「…うん、それで?」
話の区切り区切りでますます泣きそうになってる彼女に、相槌を打ちながら、次の言葉を待つ。
ーー最早、こちらが泣きたい。
「それで、それでね…だから…会えない時間が増えても、それはそれだけ尚弥君が頑張ってるって事だから我慢しなきゃって思ってたの…」
「いやでも、それは言ってくれれば…」
「分かってる。尚弥君は優しいから、私の為に時間作ってくれるよね…でもそう思ったらますます我儘なんて言えなかった…」
ここからどうすれば、僕の浮気という話に繋がっていくのか、皆目、見当がつかない。
「でも…私、心配で…」
「何が?」
「私が連絡したら、小説の邪魔になるかもしれない、でも…私が連絡してない間に他の女の人と連絡してるんじゃないかって…」
「そんなまさか」
「だから…探偵を雇ったの…」
「は、はい?なんで…」
「自分から尚弥君に訊いたら嫌われると思ったの!付き合いだした時から束縛とかされるのはあり得ないって言ってたじゃん!だから、私がこんな重い女なんて思われたくなかった…」
「ちょっと待って、だからってなんで探偵?」
「バイト先の常連さんが紹介してくれたの…探偵に頼めば、私から尚弥君に訊かなくて済むし、調査結果が白なら全部黙っていればバレないって…」
因みに、彼女のアルバイトは喫茶店の店員だ。
つまり、そこの常連がどうやら舞に“探偵”という手段を教えたようだ。
「それで?」
「探偵さんに会って…色々相談したの。
そしたら、すぐにでも調査した方がいいって…」
「頼んだんだ?」
「うん…」
「で、僕が浮気していた、と」
「正確にはナンパしてたって…如何にも清純派って女性に声かけてたって…」
そう、舞が言ったこの言葉。
それは紛れもないあの三日前の出来事だった。
つまり、あの時、既に舞が雇った探偵に、僕はあるはずのない尻尾を掴まれていた訳だ。
「尚弥君…そういう女性がタイプって言ってたし…」
「いや、まぁ…言ったことはあるけど…」
「証拠のボイスレコーダーも聴かせてもらったの…」
「そんなものまで…」
「だから…もう、別れよ…私達」
「いや、ちょっと待ってよ、誤解だって!」
「男の人は言い訳をする時、必ず誤解っていう言葉を使うって聞いたの…!」
「誰に!」
「探偵さん」
この時、僕は既にキレていた。
眼の前で泣き声で話す恋人にではなく、調査の範疇から出て、いらない事までペラペラと彼女にふきこんでくれたその探偵にだ。
「ねぇ、その探偵の名前は?」
「ごめんなさい…」
「は?」
“ごめん なさい”さん?変わった名前だな!
そう言おうとして口を噤む。
今はそんな売れない芸人みたいなボケをかますタイミングではない事位、僕だって分かっているのだ。
「教えるなって言われてるの…」
「はぁ?なんで?」
「ごめんなさい…」
同じ言葉の反復。
こうなってしまえば、舞は話さないだろう。
そして、こうなってしまえば女性は聞く耳を持ってはくれない。
結局、僕はこの別れ話を受け入れるしかなかった。
「わかった。別れよう」
そう答えてからは何を話したのか殆ど記憶に残っていない。
終始、泣いて話していた舞をアパートから送り出した後、僕は大きな溜息をついた。