偶然の本質
未練という程の事でもないが、それを、一つの恋愛が終わった時の後味に例えようとするのなら、それは確かに苦味だっただろう。
それも、少し遅れてやってくる、タチの悪い苦味。
恋人のーーいや、だった。
恋人だった、舞と別れてからの二日間、僕は一日目に墓場で白夜叶愛とまさかの再会を果たした。
二日目には二人で喫茶店にてコーヒーを嗜む程の仲になったーーと言えば、語弊があるが、それもこれも、江利香の自殺事件の調査、という名目つきでの話だ。
僕がそう呑気な事をしている間に、舞はと言えば、既に新しい意中の人を見つけ、既に恋仲にまで発展したそうだ。
この女性特有と言っても過言でない、切り替えの早さには、恐れ入る。
先日の涙はなんだったんだ、と訊いたところで「あの時はあの時」と一蹴されて終わりだろう。
僕のこれまでの人生の数ある失恋を掘り返して鑑みても、その予測は大きく的を外しはしないはずだ。
是非、見習いたい。
僕も中々密度濃い二日間を過ごしていたつもりだったが、たった二日間で交際にまで発展したなんて話を聞かされれば、何も進展していない僕よりも、ずっと、充実した、情熱に満ちた二日間を過ごしたに違いない事だろう。
もう一度言う。
別に、未練という程の事でもないのだ。
ないのだが、やはり別れて間も無く、元カノに彼氏が出来る、と言った事実は後味の良いものではない。
嘆息。
なんともしようがない、後味の悪さだ。
「流石にそれは私に言われても解決のしようがありませんよ?」
全ての元凶ーーとでも言うのか。
いや、それは失礼千万に値するので言い方を改めよう。
全ての物事の始まり、そのきっかけとなった彼女、探偵、白夜叶愛が平坦な口調でそう言った。
白い机に白い椅子のワンセット。
どちらも高級そうで風格が滲みでている。
そこに座り、僕を見る白夜叶愛が何だかいつにもまし、威厳を放って見える。
彼女の探偵事務所の一室だ。
僕は立ち尽くした状態で、先ほどから彼女と見合っている。
「ですよね。いや、分かってるんですけど、僕これ、今回に限っては本当に何の比もありませんからね?」
「ーーでしょうね」
でしょうね。ってあなた。
再び嘆息。
これがどうして溜め息を吐かずにいられるものか。
そうしていると、彼女はその机の引き出しを開け、一つの封筒を取り出した。
A4サイズと言ったところか。厚みはそれほどないように見える。
彼女はその封筒を机の上に置き、封筒の表面に手を触れる。
「ぎゃーぎゃー、ぎゃーぎゃーと鬱陶しいので、ではまず先に、“そちらの件”からお話し致しましょうか」
彼女の鋭い眼光に今にも刺されそうな気分で、「そちらの件?」と、僕は彼女の言葉を繰り返していた。
そもそも、僕が彼女とこうして向き合っているのは今朝の、彼女からの電話がかかってきたところまで遡る。
今朝ーー僕の枕元で携帯が鳴った。
それも、まさかの非通知。
その着信で起きた、と言うわけでもないが、寝起きよろしく、それさながらの、しがれ声で電話に出た。
「はいーー」
『………』
「もしもし?」
『………』
イタ電か?
「おーい、どちらさんで…」
『あ、すいません、白夜叶愛です』
「白夜さん?!」
僕は飛び起きた。
「え、どうしたんですか?いきなり…ってか僕の携帯番号よく知ってましたね」
『受け付け記録にあったので…』
「あぁ、なるほどーーそれで?どうしたんですか?こんな朝早くから」
言いながら時計を見る。
午前11時。
朝早くない。
全然、早朝でもなんでもなかった。
なんなら昼前。
“今朝”という表現が正しいのかどうかも怪しくなってくる時間帯。
『朝早く…ですか?』
案の定、ツッコミが入る。
そりゃそうだ。
「あ、いや…」
『では、早朝に唐突の御電話で申し訳ないのですが…』
「あ、いや、違うんです、ごめんなさい。
僕、今起きたばっかりで勘違いしちゃって…」
『それでですね、朝早く、からするようなお話でもないんですが一刻も早くお伝えしたい用件がいくつか出来てしまったので、早朝、で申し訳ないのですが、これから一度、こちらの事務所に来ては頂けないでしょうか?
朝一番、から不躾かも知れませんが』
ーーなるほど。
彼女の毒舌ーーもとい饒舌はこういう嫌味を込めた器用な立ち回りも出来るらしい。
朝早く、早朝、朝一番、と、こちらの揚げ足を取りまくりである。
「あ、いや、その前に、朝早くってのは僕の言い間違いなんで、許してください」
『許すも何も、朝早いですからね、今』
口調があざとい。
それは思っていない時の言い方でしかない。
「いや、もう十一時じゃないですか。
全然早くないですよ。
言葉間違ったんですって」
『間違えたなんてとんでもない!
十一時と言えば早朝じゃないですか。
いくら新人で三流の作文並みの小説しか書けない素人とすら平に並ぶ無名の作家さんだからと言って、現時刻を表す言葉を選び間違えるなんて事があるわけないじゃないですか。
さぞかし、語彙も豊富でしょうに』
「いや、僕が悪かったですから、それ本当やめましょうって…」
罵詈雑言もいいところだ。
おまけに何だか口調が楽しそう。
こちらとしては、寝起きから耳が痛い。
三流とか、作文並みの小説とかーー
実は意外と傷つく。
そもそも、僕は彼女に一度だって僕の職業を話した事がないのに、何故、彼女は当たり前のように僕の職業を知っているのだか。
恐らくは自慢の推理から導き出した答えなのだろうが、それもどこかで確認はしたい。
「あ、それで、事務所に伺えばいいんですか?」
彼女からの毒舌が返ってくる前に言葉を繋げた。
『えぇ。そうしてもらえると助かります』
彼女からも普通の返事が返ってきて、話題は元に戻った。
『詳しい住所は以前渡した名刺の裏に書いてあります。駅二つ程跨ぎますが、駅を降りた後はそう遠くもないと思います』
「わかりました。じゃあーー」
もう一度時計を確認する。
駅二つとなると三十分以上は見ておいた方がいいだろう。
「じゃあ、二時間後位に。
一時までには着くように行きます」
『分かりました。では、お待ちしてます』
そこで通話は終了。
向こうから早々と切断された。
もう今更だが、こういう人である。
最初に出会ってから一週間となる今日。
その最初を含めば、墓場と喫茶店でまだ三回しか会って居ないはずだが、彼女の人間性は少しずつ理解しつつあった。
いや、そんな気がしているだけかも知れないが。
実際のところ、彼女自身についてはまだ何も知らない訳なのだからーー
僕はそれから、すぐに服を着替え、出かける準備を整えるなり、ボロアパートを出て、階段を駆け下り、駅まで徒歩で向かった。
交通手段を持っていないので歩くしかない。
ついでに言えば走る気にもなれず、時間は余裕を持って伝えてあるので、ゆっくり行く事にした。
電車の時間に間に合う程度に。
白夜探偵事務所。
電車で駅二つ、二十五分程。
駅からは近いと言われていたので名刺の地図を頼りに歩く事、四十五分。
それなりに時間がかかった。
そして、それなりにーーと言うか、全然近くなんかなかった。
あの毒舌女探偵めーー
と、一人で言っていても始まらないので、到着時間に余裕を持たせておいた事だけは本当に良かったと過去の自分に感謝した。
春の半ば、涼しい位の季節に、かなりの汗をかきながら、僕は到着した目的地を見上げた。
四階建ての綺麗なビルだった。
出入り口先に“白夜探偵事務所”と書かれた看板が出ており、金の梟の絵が描かれている。
自動ドアをくぐり、そのフロアを見渡す。
一階は待合室を兼ねたロビー、受け付けになっていて、すぐ正面の壁に受け付けのカウンターテーブルが弧を描く形で設置されていた。
受け付けは無人で、“只今留守にしております”の立て札がカウンターの上に立てられていた。
それでいいのか、と思ったが、待合室を兼ねたこのロビーのソファで、座って、僕の訪問を待っていた白夜叶愛曰く、「上階のセキュリティーシステムは万全を喫してるので問題ありません」ーーだそうだ。
白夜叶愛は僕が来るなり、手にしていた本を閉じ
「お待ちしてましたよ」
と、声をかけてきた。
いつも通りの白づくめ。
今日は白いティーシャツに白いロングスカートと言った、部屋着の様なラフな格好だった。
「白夜さん…全然近くないじゃないですか!」
これだけは会ったら一言目に言うと決めていた。
白夜叶愛はいつもさながらの惚け顔で、眼を見開く。
「では、行きましょうか」
僕のツッコミは無視して立ち上がり、歩き出した。
問答無用という事だろうが、僕には言い分がある!
名刺の裏に地図を載せるなら距離をわかる様に書いておいて欲しい。
ーー結局、口に出せないまま、彼女の後に続くのが僕な訳だが。
続けて、エレベーターで二階、三階へと上がっていく。ーー階段は建物の裏側、外にむき出しになっている螺旋状の非常階段しか存在しないらしいーー
二階は相談室、三階は依頼室と用途別に分けていると、エレベーター内で白夜叶愛の説明を受けた。
相談を受けるだけ、もしくは簡易な依頼などの場合は二階で片付け、三階は長期に至る依頼、難事件、捜査資料が膨大になり得るもの、などを扱う部屋としているのだそうだ。
一般の依頼は大体二階までで処理されるという。
どちらとも、興味のある部屋ではあったが今回は素通りし、僕は現在、白夜探偵事務所の四階へと足を踏み込んでいた。
四階はプライベートルームという事らしく、よほどの限られた人間しか入れない。ーーと言うか、入れないそうだ。
四階に着くと、赤い高級そうな絨毯が敷き詰められた廊下に降り立ち、少しだけ歩を進める。
土足でいいのか、と遠慮すらしてしまう程、綺麗な絨毯だ。
左側の壁、一つ、二つ、三つーーと、扉を通過してから、僕を先導していた白夜叶愛が四つ目の、他の扉とは際立った存在感の高級そうな、濃茶の扉の前で立ち止まる。
扉には金のプレートが付けられており、プレートには白い文字で“白夜叶愛”と彫られている。
そのプレートの少し上に金色の梟の装飾もあった。
そう言えば、最初に、桜並木の下で会った時も彼女の名刺入れに金色の梟の装飾があった事を思い出す。
梟が好きなのかな…ーー
口に出す暇もなく、扉が開かれる。
「どうぞ」
招かれるままーー
誘われるまま、彼女の手が指す方へ、部屋の中へと進入する僕。
数歩進んでから、後ろから彼女、白夜叶愛も部屋の中へと入ってくる。
真っ白い、毛並みの良さげな絨毯。
両側の壁一面を覆い尽くす本棚、そこにびっしりと並べられた本の数々。
そして正面奥に堂々と出入り口と向き合うように配置されている真っ白い机と椅子。
彼女らしい。
と、言えば彼女らしい。
イメージ通り。
と、言えばその通りだ。