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九 赤の男・青の男

 睦は、その世界をひどくゆっくりした景色で見ていた。


 駆け寄りながら大槌を振り上げる男。


 その獰猛かつ素早い動きに、何もかもが一瞬で終結するかに見えた──直後。大槌は頂点高くで動きを止める。

 陰陽術の場の中に入ったため、男もまた動きを封じられてしまったのだと睦は気づいた。

 声にならない悲鳴を心の中であげ、その大槌の男を見ようとした。しかし、まばたきも出来ないでいるため、外気にさらされすぎた目が視界をぼやけさせる。


「ああ、おぬしがあの『大槌の怪物』か……まあ、男に用はない、そのまま自分の頭の上に自慢の大槌を落として死ね」


 おぞけの走る言葉が落とされ、勝ち誇った陰陽術の男は嫌がる姫を連れ去ろうとした。


 次の瞬間。


「大槌で死ぬのは……」


 何故、その声が聞こえたのか。

 動けないはずの場所で、声も出せないはずの場所で。

 睦は。

 その声を聞いた。


「大槌で死ぬのは……お前だ、この毒蛇野郎!」


 ブンッ、と持ち上げられたままの大槌が振り降ろされる音がした。

 グシャッと何かが砕ける音がした直後、睦は自分の身体が自由になったことを知った。かかしのように立っていた伴の者たちも、よろけるように動き出す。


 そして睦はようやく身体を起こすことが出来た。まだあちこち強張っている気がする。握りしめたままの短刀の指を、まだはがせないのがその証拠だった。


「おう、お前も戦ったか、時を稼いだか……おかげでまたあの姫さんは無事だ」


 上から、声が投げかけられる。睦はまだ地面に座り込んだままだった。

 ドシンっと側に大槌が置かれた衝撃で、睦は自分の身体が軽く上下に揺らされたのを感じ、その振動を振り切って彼女は顔を上げた。


 最初に見えたのは、茜色の空。

 遠くに焦点を合わせすぎていて、睦は目を一度まばたいた。そして一度ではすまないことを知る。カラカラに乾ききっていた目はまばたきをするたびに涙が溢れて、ようやく閉じられる喜びを謳歌してしまったからだ。


「うっ……」


 ちゃんと見えないために、睦は呼ぼうとした。その名を呼ぼうとしたのに、喉がカラカラに乾いていて、一言発しただけで喉の奥がくっついてしまったような錯覚にかられる。


 顔をさげ、睦はようやく短剣から手を離した。そして袖で顔を隠しながら、何度も咳き込んだ後に、涙混じりに何とかこれだけを男に伝えることが出来た。


「おかえり、なさい、まし」


 すると頭上の声は一度止まり、しばらく沈黙し、次に笑うような吐息をついてこう言った。


「おう、いま帰ったぞ」


 顔をまだきちんと見られていなかったが、睦はもうその言葉だけで十分だった。


 そこにいるのは、間違いなく有象だった。



 ※



「まだ来てはなりませぬと、私は文で申し上げたはずです」


 有象の護衛もあって、その後は何の問題もなく山荘までたどりつくことが出来た次の日の昼過ぎ。

 睦たちを待っていたのは──鹿崎と、鹿崎の説教だった。


 姫はそれを泣きながらも、甘んじて受けていた。睦は、ひたすら姫の代わりに平伏する。側仕えとして、彼女は愚かだった。鹿崎からの返事の文を読んだ姫の様子を、もっとちゃんと見ておくべきだったのだ。

 姫は、とにかく鹿崎に会いたがっていた。あの文が、本当に山荘に招くものであったのならば、姫はきっともっと喜びをいっぱいに表現したことだろう。そうあればいいと睦も思っていたために、彼女の方が嬉しさで目隠しされていた。


「本当に……ご無事で安心致しました」


 長い長い説教の後に、それでも心底ほっとしたような声を鹿崎が口にするものだから、睦もそこでようやく安堵することが出来た。姫のことが心配でしょうがなかったのだ、と。


 睦たちが山荘に向けて旅立った後、東の屋敷から諸々の件で鹿崎に文が送られた。文は早馬で睦たちの車を追い越して鹿崎の手に届く。そこには、姫たちを山荘に送り出したことも書かれていた。

 二の皇子こそ討ち果たしたものの、まだ恨みを持つ残党が散り散りになりながらも残っている。

 その中で鹿崎が一番気にしていたのが、敵側の陰陽術の男である。「毒蛇」の異名を取るその男は、敵を縛ることを得意としており、一度などは有象も縛られて危うかったという。その時は、鹿崎が近くにいたために事なきを得たが。


 とにかく鹿崎は、残党の中でその陰陽術の男を一番気にしていた。そこへ姫が山荘へ向かったという文が届いたものだから、彼は心配して有象を走らせた。

 最初は馬を使ったらしいが、彼と彼の大槌の重さのために早々につぶれてしまい、有象は文字通り自分の足で走り続けることになった。

 あの時、有象が陰陽術を破ることが出来たのは、鹿崎に青い肌守りを借りていたからだ。鹿崎はその中に、七年かけて練り上げた札を入れていたのである。それは、陰陽術の捕縛から少しばかり身を守るもの。しかし、鹿崎が七年かけてなお未完成のものだった。

 だが、それでも有象は動いた。大きく動く必要はなかったと、彼は言った。既に大槌は振り上げており、ほんの少し前に倒せば勝手に落ちていくところにあったと。

 それを聞いて睦は、笑うべきところなのか分からずに困ってしまったが。


 説教が終わった後、泣き疲れて姫が眠ってしまったのを確認して、睦はそっと部屋を出た。

 日はまだ高い。彼女もまだ多くの疲れや痛みを身体に残してはいたが、まず最初に行きたいところがあったのだ。

 娑魔児神の社である。

 睦は短刀を、有象が渡す時に包んでいたボロ布でくるんでその手に抱えていた。この場所でまた、四人で生きて再会することが出来たことの感謝の祈りを捧げたいと思った。


 社に入ろうとして、彼女は足を止めた。その真ん中に、有象が横になって眠っていたのだ。

 睦はそのまま帰ろうかと思った。東の地で聞いた、恥ずかしい思い出が甦ってしまったせいである。

 しかし、その気持ちを押しとどめる。あんな別れ方をしたことを、後悔したではないか、と。


 睦は社にそっと足を踏み入れ、娑魔児像の前に布に包んだままの短刀を置いて、いつもそうしていたように指の間に指を挟んで手を合わせた。


 神に、亡き夫に、亡き家族に、睦は静かに祈り感謝を捧げた。

 長い間、彼女はそこに座っていた。祈りが終わり、合わせていた手を離してなお、座り続けていた。


 待って、いたのかもしれない。


「つくづく、その短刀に縁があるのう」


 有象が寝たふりをやめてくれるのを──睦は待っていたのかもしれない。


 ゴロリと大きな身が寝返りを打つ音と共に、初めてこの社の中で有象が声を発した。

「あの日」と、睦はそれに応えた。


「あの日……夫の背に突き立っていた短刀です」


 社の外の木々を、風が小さく鳴らす。落葉樹は葉を落とし、冬がもう本当にすぐそこまで来ている乾いた音がする。


「夫を傷つけた刃ではありましたが、二度も姫様をお守りする役に立てました……きっと夫が手助けをしてくれたのでしょう」


 振り返らずに、睦は言葉を続けた。娑魔児像は優しい顔をしていないというのに、睦の目にはいまとても慈愛に満ちたものに映った。


「ならば、ずっと持っておれ……裏切らずに死んだ者は、未来永劫お前を裏切らぬ」


 言葉に彼女は振り返っていた。

 有象は背を向けて横になったまま、どんな顔をしているのか睦には分からなかった。

 未来永劫自分を裏切らない夫を、彼女は胸に抱いている。そして有象もまた、胸に裏切らない誰かを抱いているのだと強く感じた瞬間だった。

 広く大きな背を見つめて、睦は彼の方へ半分だけ身体の向きを変えて座り直す。


 片側で神と夫に、もう片側で有象に、睦は言葉も紡げなくなって、ただただ頭を下げたのだった。



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