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八 戻り道

 戦いが始まり、鹿崎と有象がいなくなってしまうと、睦は毎日娑魔児神の社へと祈りを捧げに通った。


 この地からも大勢の男たちが兵として出立したこともあって、その社から日々女性の祈りの声が絶えることはなかった。みな自分の夫や身内の無事を願っている。

 その中で睦は、夫でも身内でもない男二人の無事を祈った。姫も通いたがっていたが、姫が出るとなるとなると物々しい護衛が必要になるため、社の祭事などの特別な時以外は睦が代わりを勤めた。


 別れの際に、睦は随分と恥ずかしい姿を有象に見せたため、出陣式の時に彼女は姫と共に屋敷の中から見送った。恥ずかしさがその身に貼り付いたままで、とても顔を見せられなかったのだ。

 けれど、いまはそれを後悔していた。有象はただ旅に出たのではなく戦いに行ったのである。もしも彼に何かあったら、きっと睦は別れの日のことをずっと後悔するだろう。

 だからこそ睦は、娑魔児の像に亡き夫を重ねて祈った。どうかお守りくださいませ、と。


 水の張られた田の広がっていた暑い季節もやがて終わり、見事な実りを迎える頃に──その知らせは届いた。


 桂の君が、ついに高御座たかみくらに座した、と。


 高御座とは、すめらぎだけが座ることの出来る玉の座である。鹿崎は戦いに勝利するだけではなく、療養中の皇から桂へとその地位を移す芸当までやってのけたのである。


 後に睦が知ったことであったが、それは正確には順序が逆だった。

 彼らが東に旅立つ前、鹿崎は都から逃れて山荘に入るやいなや、信用のおける高位の貴族を頼みに、療養中の皇に文を送っていたのだ。そして皇を、二の皇子の知らぬ別の場所にすぐに避難させた。

 この時点で、皇は既にこちら側だった。そして東から挙兵した折りに桂の君と引き合わせ、官軍の御旗を手に入れた。これにより、二の皇子は完全に賊軍と成り果てたのだ。


 しかし、これを甘んじて受け入れる二の皇子ではなく、味方の離反を止めるために彼らもまた偽の御旗を掲げ、両軍は互いに譲らず激突することとなる。

 ここでも鹿崎は、手練手管で相手側の有力な勢力を少しずつ切り崩し、敵の軍を減らすと同時に味方を増やすという、一騎当千の働きをした。

 そして都を取り戻すと同時に、皇の証書を後ろ盾に共に桂の君を即位させた。それにより、自らを官軍と信じていた二の皇子の軍の戦意をへし折ったのだ。

 軍が外部と内部から崩壊する中、二の皇子は最後まで抵抗を続けたが──ついに露と消えた。


 全てうまくいったという報告に、睦は姫とともに手を取り合って喜んだ。すぐさま彼女は娑魔児神の社へとお礼を申し上げるために出かけた。

 戦いに出ていた男たちが稲の刈り入れのためもあってか足早に帰ってくる。


 屋敷の門が騒がしくなる度に、睦はそこに鹿崎や有象がいるのではないかと窺い見た。

 けれども彼らは、稲刈りが終わって冬が近づいてなお帰って来なかった。鹿崎から届いた姫への文は、「まだ都は荒れておりますゆえ、いましばらくそちらでお待ちください」というものだった。


 それでも待ちきれない姫が、睦の袖を引っ張ってこう言った。


「わたくし、あの山荘で鹿崎を待ちたいの。お願いする文は、もう鹿崎に送ったわ」

「そうでございますか。よい返事が来るとよろしいですね」


 睦もそれは名案だと思った。あそこならば都もそう遠くはない。ほんの一目でも無事な姿が見られるのではないかと思った。


 しばらくの後、ついに鹿崎から文が届く。姫ははらりとそれを紐解いて、食い入るように見つめていた。

 睦も胸を高鳴らせながら言葉を待った。


「良い……ですって」


 姫は文を閉じながら、静かに言った。

 睦は「そうでございますか。ではすぐに旅の支度をしましょう」と、嬉しくていそいそと支度を始めたのだった。



 ※



 護衛の伴と車を屋敷から借り、姫と睦は東の地を発った。

 車のおかげで、往路とは比べ物にならないほど楽な道のりだった。姫が物憂げにため息をつく姿は、すっかり大人びているように見える。

 鹿崎を待つ間にも、彼女は女として美しく成長を続けていた。再びまみえた時に、どれほど鹿崎がその美しい成長を喜ぶだろうかと、睦はその日をとても楽しみにしていた。


「姫さま、あの山でございます」


 休憩の折に車から降り、睦は姫に山を指して見せた。鹿崎の山荘のある山だ。


「まあ、もうそう遠くはないのね」と、姫の表情も晴れやかになった。「ええ、ええ……明日には着くと聞きました」と睦も嬉しくなって同意した。


 しかし、その日の夕方近く。小さな峠を越えて、このまま下れば宿場というところで事件は起きた。

 突然車が止まり、辺りが静寂に包まれる。車だけが違うところに連れ去られたのではないかと思うほど、何の音も聞こえなくなった。

 恐ろしくなって睦がそっと前のすだれから覗き見ると、牛も護衛の男たちもみな動きを止めていた。指先ひとつ動かぬその姿は、本当に時が止まったようだった。しかし、その髪は風に揺れている。きちんと時が刻まれている証拠だった。


 黄昏の空が真っ赤に染まった不吉な景色の中で、睦と姫だけが取り残されていた。

「やあれ、麗しの姫君はこちらであらせられるか?」

 その世界の中で、カアと一声カラスが鳴く。バサバサと飛び立つ羽音と共にねっとりとした男の声が、車のすぐ真横から響いた。

 陰陽術を極めている者であることに、睦は気づいた。鹿崎に話を聞いていたおかげだろう。

 すぐに発動しない術で男たちを縛ったということは、車が来ることを早い段階で知り、準備していたに違いない。


 睦は己を奮い立たせようとした。いま動ける者は、彼女より他にいなかったのだ。


「ぶ、無礼者!」


 前の簾が上げられ、睦は背後に姫をかばうように男を見た。いや、見えなかった。西日を背負った男の顔は暗い影で塗りつぶされていたからだ。

 ただ、その口だけがにやぁっと大きく動いたのが分かった。


「嫌がる女人の悲鳴ほど、美しきものはなし」


 狭い車の中、伸ばされる手から逃れられる場所もない。残忍な響きを持つ声と共に、手が睦へと伸ばされる。それが彼女の視界いっぱいに広がろうとした次の瞬間。


「ぎゃあああっ!!」


 男は悲鳴と共に手をひっこめていた。

 懐から短刀を引き抜いた睦が、その腕をがむしゃらに切りつけたからだ。

 有象から返された、あの短刀だった。守り刀として、睦はずっと腰につけていた。


「おのれ、女ぁ!」


 血で汚れた手が、再び車へと入ってくる。睦は短刀を振り回そうとして──動けなくなった。

 本当に文字通り身体がビクとも動かなくなり、彼女はそのまま固まった。そして思い出す。彼女もまた、伴の者たちと同じ術をかけられたのだと。


 にゅうっと伸びた手が、睦の着物を掴む。姫が金切り声をあげるのが聞こえ、術をかけられているのが自分だけだと理解した。

 理解しか出来なかった。睦は振り返ることも出来ず、かといって男に抵抗することも出来ずに車から引きずり出され、地に放り投げられたのだから。固い地面にしたたかに身体を打ち付ける痛みが襲うが、やはり声も出せない。

 人形のように座った体勢のままごろりと転がった睦は、地面に陰陽術の札がほんの少し土から出ているのを見た。 

 綿密に計算されて配置されただろう術の札を、一枚でも切ることが出来れば、睦の身は動くようになったのかもしれない。

 だが実際、まだ手にある短刀をぴくりとも動かせない。


 姫、姫と心の中でいま怖い思いをしているだろう、大事な主人に呼びかけながら、睦はただ地面に頭を押し付けているにすぎなかった。


「いやあっ!」と姫の悲鳴があがる。

 このまま太陽が山に隠れて夜が訪れるように、何もかもが不幸に塗りつぶされてしまうのだと睦が絶望を覚えた時──それは聞こえた。


 ズシッ、と。


 地面に押し付けるような形だった彼女の耳に、重い振動が届いたのだ。

 ズシ、ズシッと続けて耳元で地面が震える。

 睦は、まだ夕日が眩しい西の方を向いて倒れていた。

 峠道は、つづら折り。まっすぐ遠くまで見通せるわけではない。


「やめてぇ! 睦ー! むつー!!」


 いたわしい姫の甲高い叫びが、車の中から響き渡った。

 一瞬、その重い振動は動きを止める。


 直後。


 ズシッという音は、速さを増した。


「たすけてぇ……かざきぃぃぃぃ!!」


 車から姫が引きずり出される影が、睦にかかる。

 それは、渾身の姫の悲鳴だった。

 睦は左の耳でその哀れな声を、右の耳で重い振動が徐々に近づいてくる音を同時に聞いた。


「嗚呼、本当にこの美しい姫はいい悲鳴をあげる」


 くくくと、男が残酷な笑みを浮かべた直後。


 長い長い影が──ひとつ睦にかかった。


「おう、姫さんよ! いい悲鳴だ!」


 陰陽術の男と同じようなことを怒鳴りながら、一人の男が影の先に立っていた。


 沈みゆく太陽を背負うその姿を、睦の目はかろうじて映した。


 見えたのは、顔ではない。


 大きな槌を肩に担いだ、影のような姿だけだった。



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