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七 別れの前

 それは──あの日以来、初めて睦の元にやってきた別れだった。


 姫と睦はこのまま桂の君の生家に身を寄せ、鹿崎と有象は挙兵に合わせて都へ攻め上る、ということで既に鹿崎の心は決まっていたのだ。


 男たちの命をかけた戦いが、まさに戦場いくさばで始まろうとしている。血なまぐさいそこに、どうして睦は自分も一緒に行くことが出来ると思っていたのか。


 ただ、あの日からずっと一緒だったから、この突然の終わりが物寂しくてしょうがなかった。

 それは姫も同じことだったようだ。鹿崎に何度も連れて行ってと願っては断られて涙する、を繰り返す。いくら姫を愛しいと思っている彼であっても、いや思っているからこそとても連れて行けるものではない。


「ああ、睦や睦。どうしたら良いの? もうそう遠くなく鹿崎は行ってしまうのよ。鹿崎がおとうさまたちのように消えてしまったら、わたくしはどうすれば良いの?」


 姫のその涙と不安は、睦には痛いほど分かった。悲しい別離を体験して、まだそれほど日はたっていない。治りきっていない傷の痛みを思い出し、しくしくと姫は嘆く。


 ついに睦は決意して鹿崎の元を訪ねた。彼に姫を一緒に連れて行ってくれるよう頼みに行った──わけではなかった。


「鹿崎様……発たれる前に、どうか姫と華燭かしょくともしていただけませんでしょうか」


 それは共に部屋のあかりに火を灯す──婚姻の儀式のことだった。お披露目の宴などの外に知らしめるものではなく、実質的な婚姻の作法。

 その火が自然と消えるまで二人で語らい、消えたら床に就く。

 睦も三年前、夫と共に火を灯した。


「それは……私が全てを終えて帰ってからと思っております」


 鹿崎の返事はもっともなものだと、彼女もよく分かっている。何もかも解決し、桂の君が次の一の皇子として立てば、姫はこれまで通り一の皇子の身内として良い暮らしが保障されるし、鹿崎もまた良い位に取り立てられ、何の心配もなく結婚を許されるだろう。


「必ず勝って帰って来られる自信が、きっと鹿崎様にはおありでしょう。それならば、姫にもそのお力をどうかお分けくださいまし。私の頭では、これくらいのことしか思いつくことが出来ないのです」


 畳に手をつき、睦は鹿崎に伏して願った。しばしの後、彼はこう答えた。


「私も男です。自尊心も持ち合わせております……ですので、華燭の件は帰ってからと心に決めておるのです」


 ため息をつきながらそう告げられると、睦も身が縮む思いだった。やはり余計なことであったと、心がくじけてしまいそうになっていた。


「けれど……いたずらに姫を不安に苦しめるのは本意ではありません」


 だが、鹿崎の言葉には続きがあった。伏して自分の指先を見つめていた睦は、はっと耳をもっと澄ませた。


「華燭はなりませんが、一度姫とゆっくり話をして分かっていただきます。あらぬ誤解が出ぬよう、睦殿も部屋に控えてもらえますか?」


 彼女はその言葉が嬉しくて思わず顔を上げ、もう一度伏せて心からの感謝を伝えた。


「貴女を共に連れて来て……私も良かったと思っておりますよ。これからもずっと、姫の心の支えになってください」


 ねぎらいの言葉は、睦の今後を請け合うような響きを持っていた。いまの睦は、夫も失い家族も失った何の後ろ盾もない女に過ぎない。

 友人の妻であり、妻になるものの側仕えである彼女に、鹿崎は今後のことは心配をしなくていいと言外に告げてくれているのだ。ありがたいことだと彼女は思った。



 そして、その日の宵に、姫の部屋に鹿崎は現れた。彼が宣言した通り、ゆっくりとした語らいは夜半過ぎまで続く。

 時折、睦が見ないふりをしなければならない落ち着かない場面もありはしたが、姫が幸せそうに微笑んでいたので彼女もまた良かったと胸をなでおろしたのだった。



 ※



 別れの前日までに、睦は肌守りを二つこしらえていた。


 近くに娑魔児神の大きな社があると聞き、祈願に出かけたのである。

 さすがは東武者の地。炎を背負う戦いの神が、とても立派にまつられていた。

 その社で受けた戦勝祈願の書かれた木の札を、着物の端切れで袋を作っておさめた。色は赤と青。


 青の肌守りは、姫が鹿崎に渡すために頼まれたものだ。赤は──有象のためである。彼が大切だった人の代わりに、睦が渡すつもりだった。

 有象もまた、縁をつなげた大事な人である。大きくて頼りになり、彼女の辛いことを笑い飛ばしてくれた人に、彼女は生きていて欲しいと祈った。


 カンカンと庭で金槌の音がする。明日の出立の前に、有象はそこで大槌の手入れをしていた。彼女は縁まで出て、そこに座って彼の仕事が終わるのを見守った。

 有象は大槌に楔を打ち込んでいた。柄と頭が決してずれぬよう離れぬよう、鉄の楔を打ち込んで締める。その後で、彼は重いそれを持ち上げて何度が振る。


「おなごには、面白いものではないだろう」


 仕上がりが気に入ったのか、有象はそれをずしんと己の肩に載せ、縁に座る睦を振り返った。


「いいえ、大事なものです。あなたとその大きな槌には何度も助けていただきました」


 彼女は有象が担ぐそれを、目を細めて見つめた。すると、珍しく彼は睦から目をそむけて唸るようにこう答える。


「俺は……お前を助けたわけではないのだ」


 だから、睦も微笑んでこう答えた。


「はい、存じております」


 有象が、時を止めたように動きを止める。それからゆっくりと時を戻し、睦の方を見る。


「私は、どなたかの代わりとしてきっとここにいるのです……そして、あなたのために祈りたいと思っていた方と同じように、私もまたあなたに生きて欲しいと祈っております」


 有象を見つめる睦の心は、とても静かだった。風ひとつない、白波ひとつ立たない真昼の湖のようだった。


 懐から赤い肌守りを取り出して、睦は縁に置く。

 そして両手を静かに着き、彼女は身を伏した。


「ご武運を……心よりお祈り致しております」


 有象は何も答えなかった。長らく伏した後、睦はゆっくりと頭を上げ、彼を見ないように立ち上がって障子の中へと戻ろうとした。


「待て……」と呼び止められる。


 足を止めて彼女が振り返ると、有象が驚いた顔をしていた。自分が呼び止めておきながら驚くとはどういうことなのか。


「いや待たなくてい……いや待て」


 彼は、少し混乱しているようだ。消えた方が良いのか残った方が良いのか分からずに、睦はそのまま立ち尽くす。どすんと地面が揺れたのは、彼が担いでいた大槌を下したからである。


「……それは、何だ」


 長い長い沈黙の後、頭をかきながら有象が縁に置いた赤い袋を指す。


「娑魔児さまの肌守りでございます。戦いで一度だけ身を守ってくださるというものです……どうか懐に入れておいてくださいませ」


「娑魔児……ああ、山荘にもあったあれか」


 思い出すように彼が言葉を紡ぐ。


「よく娑魔児様の前で寝ておいででしたね」


「寝ているところを勝手に入ってくる方が悪い」


 小さく睦が笑うと有象が言い返して来た。えっと、睦が違和感を覚える瞬間だった。


「起きて……いらっしゃったのですか?」


 カアッと睦は、頬が熱くなるのが分かった。いつも気持ちよさそうに寝続けていたので、そういうものだと思い込んでしまっていた。何か変なことを聞かれたのではないかと思うと、恥ずかしくなって障子の向こう側へと隠れた。


「あ、待て」


 今度は、睦は待たなかった。頬を手で押さえながら奥へ、奥へと逃げる。


「待てと……言っている、だろう……が……」


 後ろから聞こえる有象の声が小さくなり──消えて失せるまで睦は逃げたのだった。


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