六 吾妻
睦の錯覚は──結果的には笑えない結末となった。
門でのにらみ合いは熱を増し、ささやかな刃傷沙汰へ発展してしまったのである。
この屋敷の主が遅れて現れ、事態は収拾するかに見えた。
しかし、彼が放った言葉は「ありったけの塩まけいっ!」という豪快な一言であった。どっと周囲から歓声があがる。
「我が妹は、一の皇子の吾妻の君なるぞ。他の男に開く門なし!」
とどめのその言葉を聞いた睦は、迂闊にもほんの少し笑ってしまった。鹿崎が、何故葵姫を大義名分にこの屋敷に入ったか、その言葉がよくよく教えてくれたからである。
都から誰かが訪ねてきても、一の皇子かその遣い以外には門は開かぬということを、きっと鹿崎は知っていたのだろう。「女」が訪ねることで、その面倒を回避したのである。
東と吾妻をかけていることも、睦の心を柔らかくほぐした。都で東者と言えば「田舎者」の別称のようなものだった。それを一の皇子は「我が妻」という意味を込めて「吾妻」に直したのだ。東を馬鹿にする者は、我が妻を馬鹿にする者であると。
そこに睦はこの家の誇りを見た。正妻として都へ迎えることは出来ないものの決して薄情なことはせず、妻の一人として確かに目をかけているのだと。
それがどこか嬉しくて、笑みを浮かべた後に睦はひとしずく涙を落とした。
この屋敷の吾妻の君もまた、夫を亡くしたばかりの女性であると思い至ったからだった。
※
夜は宴となった。
鹿崎の狙いは見事に当たり、屋敷の主は己の甥に当たる桂の君を神輿に乗せることを喜んで受け入れ、更にこの一帯の勇猛なる東武者たちを束ねて挙兵することまで約束した。この屋敷の人間にとっても、二の皇子は仇とみなされたのである。
睦は本当に胸をなでおろした。これで姫が危険な目に遭うこともぐっと減るだろう。そして、あの日多くの人が抱いた無念も、きっと晴らせるのではないかと思った。
大広間での宴では睦も姫の側に控えることが出来たし、有象も東武者たちに気に入られ、下座ではあるが酒を酌み交わしている。
障子の開け放たれた庭では、力自慢の武者たちが有象の大槌を持ち上げようとしては歓声をあげた。
そこで杯を片手に有象が下り、もう片方の手で大槌を持ち上げるものだから、やんややんやの大賑わいとなる。
「鹿崎殿、あの力自慢は一体どこで見つけたのだ」
この屋敷の主も武を愛する東男として、有象の怪力は気になるところなのだろう。睦は姫の側でどきりとした。女の身からは立ち入って聞けないと思っていたことが、それだった。
「南の果てに安久という小国がございました」
鹿崎は口元から杯を離し、ちらりと庭を一瞥した後、この屋敷の主に向かって語り始めた。
「知らん……南は戸羽より先は化外の地であるからな」
「左様。ですが、化外の地にも人は住み、化外の地であっても人同士の争いはあるものです」
そして鹿崎は語り出す。すぐに睦は彼が「ございました」と言った意味が分かった。この世にもはや安久の国というものは存在しないということを。
有象の国は、隣国に滅ぼされた。滅びの炎の中で有象は一人、大槌を振るいけだもののように戦っていたという。
化外の地まで旅をしていた鹿崎は、そのけだものに目を奪われた。
大槌の柄が有象より先に限界を迎え、へし折れる。そうすると次に有象はそこら中の硬い物を掴み、それで敵を殴り伏せた。硬い物が砕け散ると己の拳を砕く勢いで振るい、拳が血まみれになると肘も足も頭蓋も、全身の使える骨という骨を惜しげもなく使い果たそうとした後──倒れ伏した。
この男を殺すのは惜しいと鹿崎は思い、護衛の武人たちを走らせて彼を助けかくまった。
目覚めた有象は、鹿崎をひどく罵ったという。興奮していて敵を殺すか自分が死ぬか以外、考えられない状態だったため、鹿崎は彼に賭けを持ちかけた。
「お前が私に勝てば、どこにでも行くがよい」と。
「それはまた、無謀な賭けに見えるな……おっと許せ鹿崎殿」
館の主はとても強そうには見えない鹿崎を上から下まで眺めた後に笑い、笑ったことに対して詫びた。彼もまた「そう言われることには慣れています」と皮肉を返すものだから、これには睦が笑ってしまいそうになった。
何故なら鹿崎にそれを慣らしたのは、誰あろう睦の夫だったからだ。今にして考えると夫は東武者のようなところがあったと、ふと睦は思いを馳せる。
「私めは陰陽術が使えますゆえ、あの身を縛り付けて勝ちと致しました……あらかじめ用意をしておかねば勝てませんでしたが」
陰陽術は、すぐに発動する術ではない。占術と呪術に分かれており、どちらも入念な準備が必要となる。
助けた有象の意識が戻る前に、鹿崎は呪術の準備をしておいた。何も賭けを申し出るためではない。起き上がっていきなり暴れられては困ると思った彼の、自己防衛のひとつだった。
それが結果的には役に立ち、賭けの報酬として鹿崎は彼に「式」の術をかけた。
有象が勝手に戦い勝手に死なぬように、鹿崎は主従という形で彼をこの世に縛り付けたのだ。
睦にとっては、胸の痛い話だった。
国こそ失ってはいないものの、自分と似た境遇を彼もまた辿ってきたことを知ってしまった。昼間、本人に問いかけるような愚かな真似をしなくて良かったと思った。
けれど、と睦は庭を見る。大槌を肩にかけうまそうに杯をあおっている有象がそこにはいた。
けれどそんな男に、睦は自刃を止められたことを思い出したのだ。お前が誇れと笑われた。生きて誇れ、と。
彼もまた生きて誰かを誇りに思っているのかもしれないと、睦は彼の嘘のない笑顔を見て思った。
「睦、大丈夫?」
姫に心配されるまで、睦は自分の目から涙が溢れていたことに気づかなかった。
「目に何か入ってしまったようでございます。洗って参ります」と睦はみっともない顔を袖で隠して席を立つ。
庭の端の井戸の側に、すぐに使える水をためておく手水場がある。灯篭の灯りを頼りに、睦は薄暗いそこへとたどり着いた。柄杓で水をすくい、浸した布で目元を拭う。
あの日以来、いくつもの理由で彼女の目は涙を流した。目もさぞや塩辛い思いをして疲れていることだろう。
ほう、と息をついて近くの縁に腰かける。わいわいと楽しげに人の騒ぐ声を聞きながら、睦は先ほど聞いた鹿崎と有象の出会いのことを思い出していた。
さすがにもう泣くわけではなかったが、心に深く染み入ってくるそれを彼女は止めることが出来なかった。
そんな時に、
「また泣いておるのか?」
有象が「飽きないものだ」と笑いながら近づいてくるものだから、睦はとても驚いてしまった。さすがに大槌は置いてきたようだが。
「な、泣いてなどおりませぬ」
それは嘘ではない。確かに、いまこの時は泣いてはいなかった。ただ、目の赤さは残っているかもしれないので、ここが薄暗い場所でよかったと思うばかりである。
「そうか? では……これはもう返しても良いな」
有象は、おもむろに懐へ手を突っ込み、ぼろ布に包んだ何かを差し出した。
中身が分からないまま受け取りそれを開くと、中から出て来たのは──短刀だった。
刹那。
ざわっと睦の背に悪寒が走った。これが何か分かった。はっきりと分かった。
睦があの日、夫の背から引き抜いて、蛮人に突き立てた短刀だ。これを最後に彼女は、自分自身に突き立てようと思ったが出来なかった。
「持っていろ。それは、お前に縁の深いものだろう」
背筋を震わせながらも、睦はその柄を強く握りしめた。そうしていると、少しずつ心の臓が落ち着いてくる。大きな衝撃がゆっくりと睦から離れていくのが分かる。
どんな形であれ、この刀が夫のことを思い出させてくれるのだと深く噛みしめた。
そして、これは有象からの信頼の証だと理解した。睦がもう、これを自分自身に突き立てないと信じられたからこそ、返されたのである。
「別れる前に返せて良かったものだ」
だが、最後を締めくくった有象の言葉は睦の首筋にまた、ひやりとした夜風を感じさせた。
有象は立ち去ってゆき、彼女は長い間短刀とそれを包んでいた布を握ったまま、その背を見送ったのだった。