四 旅路
睦は、姫と共に山荘を出た。
女二人だけではない。鹿崎と有象も一緒である。
市女笠と旅装束で杖を持って歩き始めた睦は、心配になりながら隣の姫を見た。自分より遥かに歩き慣れていない姫には、辛い旅路になるのではないかと心配だったのである。
山荘を出るきっかけとなったのは、鹿崎のこの一言からだった。
「桂の君を、お訪ねしようと思っております」
「桂のあにさまを、ですか?」と姫は首を傾げた。
そこで睦は分かった。鹿崎は二の皇子に対抗するために、その男をこちら側の神輿に乗せようとしているのだと。
桂とは姫の言葉の通り、彼女の兄に当たる。兄と言っても、姫の父である一の皇子が東部へ行啓された際の落とし胤であった。
しかし、相手は東の豪族の娘に過ぎなかったため、一の皇子は自分の子であることはお認めになったものの、都へは引き取られなかった。田舎で奔放に育った娘だったことと身分の低さで、都暮らしは肩身が狭かろうという配慮があったという。
皇子はその家に十分な援助をしたおかげで、いまでは東方でも非常に大きな勢力になったと、睦も宮中の噂話で聞き及んでいた。
そして同時に、どうして鹿崎が姫を担ぐことを「最悪の手段」と言ったのかも睦はゆっくりとだが理解した。
桂がどういう人間なのか、睦は知らない。鹿崎は分からないが、おそらく姫も知らないだろう。会ったことがないからだ。
桂の家が、この話に乗る気があるのかないのか。こればかりは実際に会ってみるまで分からない。
もしも桂が味方にならなければ、最後にして最悪の手段がこの葵姫である。確かに血筋はしっかりしているものの、いままでこの国に女性の皇はいない。その因習を破ってまで味方をしてくれる者が、一体どれほどいるのか睦には想像が出来なかった。
姫を長い旅路に同行させることについては、鹿崎も悩んだようだ。しかし、都に近いあの山荘はいつまで安全かも分からず、置いていくこともままならない。
運悪く二の皇子の手に落ちようものなら、己の子に姫を添わせるという手段で、誰からも文句のつけようのない皇の地位を手にされてしまう。
そんなことは、睦もまた許せなかった。
追手の届かないところまで出れば、車も用意出来るでしょうという鹿崎の言葉を頼りに、女たちも旅へと同行することになった。
有象は大きすぎて目立つために網代笠を被り、背中に大きな荷箱を背負うことで、見事な荷運びの強力姿になっていた。なるほどよく似合うし疑われにくいと睦は思った。
本人は非常に馬鹿馬鹿しそうではあったが、鹿崎に命令されれば彼が拒めるはずもなかった。
歩みは必然的に一番遅い姫に合わせることとなる。「俺が担いで行く方が速いぞ」と有象が退屈そうに鹿崎に告げる。確かにそれは速いだろうし、姫の身体の負担も和らぐだろう。
だが、当の姫は鹿崎に向かって首を横に振る。睦ですらかろうじて大丈夫な有象を、姫が怖がらないわけがなかった。抱えるということは、身体を触られるということでもある。未婚の姫には、それも耐えがたいことだろう。
あの日の睦はこの男に担ぎ上げられたが、あの時は我を忘れた状態であったし、すぐに気を失ったためにほとんど覚えていなかった。
この中では、鹿崎が一番世間に顔を知られているだろう。都にいた期間も長く、人前にその顔を晒していたのだから。編笠を被ってはいるものの、その点が一番心もとないと本人も言っていた。
鹿崎が「髭でも伸ばしておけばよかったですな」と笑うものだから、姫は「それはおやめになって」と本気で止めに入っていた。
睦が「冗談でおっしゃってますよ」と耳打ちすると、「そういう意地悪な鹿崎は嫌いよ」と真っ赤になってしまった。それでまた鹿崎は笑うし、睦も笑いをこらえなければならなかった。
不安が後ろからついてくる旅路ではあったが、微かな幸せの粒を拾い集めながら睦たちは東へと向かった。
だが、決して平坦な道のりではなかった。二日目にして、姫の足袋は赤く染まる。歩き慣れていない姫は鼻緒ずれがひどく、これでは歩けないだろうと無人の社を宿にすることにした。
「おいたわしや」と睦は姫の足を綺麗に洗って手当をした。鹿崎は姫の鼻緒の強さの調整をし、有象は壁を背に居眠りを始めた。
「鹿崎、私を置いていっても良いのよ。こんなことでは足手まといだもの」
足の痛みと自分のひ弱さに、姫はめそめそと泣き出した。すっかり心が弱くなっているのが睦の目にも分かった。
そんな姫に鹿崎はこう語り掛ける。
「姫、傷ついた肌は次は強く生まれ変わります。何度肌が破れても、やはり何度も生まれ変わるのです。きっと旅が終わる頃には、姫の足は草履などに負けないものになっているでしょう」
頭のいい男らしい慰めに、睦は感心した。しかし、姫は自分の足が醜くなるのではないかと恐れていた。
「どんなおみ足であっても、この鹿崎が必ず姫様をお幸せに致します」
側に控えている睦でさえ赤面する言葉が投げかけられる。見た目によらず鹿崎は随分と情熱的な男であるようだ。
姫はもっと赤面して、袖で顔を隠してしまった。
翌朝、睦が目を覚ますと背負子が出来上がりつつあった。大きな手からは想像もつかないほど器用に有象が竹とかずらで組み上げてゆく。
「まあ、それは姫様のためですか?」
と睦はつい嬉しくなって声をかけていた。鼻緒ずれが治る間だけでもこれで進めれば、姫もきっと楽になるのではないかと思った。それに背負子であれば、殿方に触られているという抵抗感は減るだろう。
「いや、鹿崎への嫌がらせだ」
しかし、有象の返事は笑いに満ちていた。「え?」と睦は首を傾げるた。
「俺の大荷物を背負うのがいいか、あの姫さんを背負うのがいいか、どっちか選ばせてみようと思ってな」
大きな声でこらえきれないように有象が笑い出すものだから、睦もあの頭のよい鹿崎が困っているところを想像して、ふふと笑ってしまった。
「聞こえているよ有象、勿論姫の方を背負うに決まっているだろう」
社の中から有象の声で目覚めたらしい鹿崎が、うるさそうに頭を押さえながら出てくる。
「おお、頭でっかち、勇ましいことじゃないか。おなごは一度背負えば大槌のように重いと言って下ろせないぞ」
そんな鹿崎の頭をもっと抱えさせるほどの豪快さで、有象はなおも笑う。主従関係という遠慮は、この男にはないのだなと睦は思った。
姫には聞こえていないだろうかと社の中をそっと覗くと、掛布代わりに掛けている着物が小さく震えていた。あまりに有象の物言いがはっきりしすぎていて、姫には大層居心地が悪そうだ。
「急ごしらえのかずら縄だ……せいぜいやわな肩に食い込ませて擦り切れるといい」
笑う有象の宣言通り、姫を背負子に乗せて歩き出した鹿崎は、両肩にくっきりとかずら縄のすれ跡をつけたのだった。
翌日から再び姫は歩き出したので、背負子は無用の長物と化したが、鹿崎に嫌がらせが成功したおかげか、とても有象は機嫌が良かった。
そして──有象の機嫌は、そこからまた奇妙な方向へと上がってゆく。
「ああ……鹿崎よ鹿崎」
有象は大きな手を打ち振った。
夕暮れの峠道。
残念ながら、人目につかない宿を求めることは難しそうだと、一行が野宿の心配をしている頃だった。
有象は足を止めて、どすんと背中の大きな荷箱を下ろす。
「おいでなすった」
笠の前を手でぐいと押し上げながら、彼は下へと目を凝らす。峠道を駆け上ってくる騎馬の姿が木々の間にちらりと見える。ひいふうみい、それはおよそ七騎ほど。まだ少し遠目で睦には敵かどうかさえも判別出来ない。
「殺気立って上ってくるぞ……覚悟はしておけ」
「急ぎの用件を運ぶだけの馬にしては数がいますね……葵姫、睦殿、木陰へ」
荷物を担いでいた肩をほぐす有象の横で、鹿崎が女二人を安全なところへ下がるように言う。
「ああ? 俺に言わせれば、鹿崎も木の陰に入るべきだろう。お前の刀では童にも負けるわ」
ばん、と大きな手が地に置かれた大きな荷箱の上に乗せられる。そのままぐいとふたを開け、有象はぐいっとそれを取り上げた。
中から出て来たのは──大槌。
あの日、土壁を叩き壊した武器であり、有象の剛力の象徴だった。
「さあて、有象はこれより大工となり、見事すべての釘を打ち付けて見せようぞ」
夕暮れで西の空が赤く染まる中、有象は頭の上で大槌を一度大きく振り回したのだった。