三 祈る女・寝る男
大槌の横に、大男がひっくり返っていた。
お社の真ん中。娑魔児神の像の前で、大男──有象が大口を開けて眠っていたのだ。
睦たちが連れて来られた場所は、鹿崎ゆかりの山荘だった。下男下女が数人いるに過ぎない寂しいところではあるが、日々の暮らしには困らず、睦はとてもありがたく思っていた。
その山荘の隣の敷地に小さい社があると聞かされて、睦は神と亡き夫に祈りを捧げるため、一人訪れたところだった。
外からの日が差し込む以外薄暗く涼しげなそこは、確かに昼寝にはもってこいの場所だろう。神の目の前であることを除いては。そんなことなど、まったく気にしていない大らかな寝姿だった。
娑魔児は、炎を背負った勇ましい神である。そのため戦などがある時、必ずこの神に祈りを捧げてから出立する。武人であった夫と語らうには、これほどふさわしい神もいないと睦は思った。
だが、その前で熊が寝ている。本物の熊であれば、怯えて逃げ去るしかないのだが、この有象という男は鹿崎の式である。恐れる必要はないと分かっている。それでも睦は、おそるおそるお堂の中へと入って行った。
よく眠っているようなので邪魔することも忍びなく、彼をよけて睦は祭壇の前へと座った。そして指の間に指を挟み、両の指を一直線に並べる形で手を合わせて目を閉じる。
彼女の夫、獅郎がまぶたの裏に浮かぶ。
夫のことを睦が知ったのは、三年ほど前のことだ。十七の頃。
葵姫の側仕えとしてずっと宮中で暮らしていた彼女は、姫に送られる多くの文に頭を悩ませる日々だった。当時十三の姫は既に大変愛らしく、その噂をとても隠しておくことは出来なかった。噂が噂を呼び、花に文に毎日次から次へと送られてくる。
一の皇子の姫ということで、無体な真似をする狼藉者はその時点ではいなかったものの、あまりの過熱ぶりにいつか何か起きるのではないかと睦は心配をしていた。
その時、姫の護人として近衛府から選ばれたのが──獅郎である。
「この無骨で戦うしか能のない男であれば、姫の護人にしても心惑わされることはあるまい」と彼の上官、左近衛府から太鼓判を押された男だった。
獅郎の仕事は、もっぱら夜の警護だった。姫の住まう葵殿に夜近づくと、獅子に噛み殺されるという噂が立った時には、睦も何と頼もしい方が来てくれたと安心して眠ることが出来るようになった。
冬に入ったある日、冷える夜は辛かろうと睦は彼に温かい茶と、袋に入れた温石を盆に載せて縁から差し入れた。
翌朝、空になった椀とすっかり冷えた温石が盆の上に戻されていた。それから睦は、毎夜獅子のために盆を用意した。
冬が終わる頃、父が睦の部屋を訪ねて来た。「お前に縁談が来ている」と。誰かと聞いたらあの獅子だという。武人で雅さには欠けるが一の皇子の覚えもめでたい。おまえももう十八だ。これは良い縁談だろうと諭された。更に、結婚後も姫に仕えられると聞いては、睦が断る理由などありはしなかった。
夫となった獅郎は快活な男であった。
時折難しい顔で黙り込むことはあったが、睦が茶を煎れると「俺はおまえの茶は好きだぞ、睦。冬の庭で、あんなにうまい茶を毎夜飲むことが出来た俺は、何と幸せだろうと思っていたものだ」と、笑いながらいつも彼女を褒めた。睦は夫のために茶を煎れるのが、とても好きになった。
お茶と一緒に楽しめるようにと甘菓子を作ったら、とても食べるのに苦労していて、あの時は本当に悪いことをしたと睦は思った。代わりに塩菓子を用意すると、夫はそれはもう喜んだ。
おかげで、睦はいろいろな塩菓子が作れるようになった。葵姫もそのうちいくつかを気に入り、時折睦にねだりもした。
逆に、夫は時折甘菓子を持ち帰ってくれるようになった。鹿崎にもらったといつも言っていたので、後に鹿崎本人に「いつも甘菓子をいただきありがとうございます」と礼を述べたところ、鹿崎は手で口を押さえて笑い出し、夫はあらぬ方を見て頭を抱えるという惨状が出来上がってしまった。
夫の心遣いが汲めなかった自分に悲しくなりながら、鹿崎が帰った後に夫に謝ると、「よい、よい。お前に甘菓子を買うような男と思われたくなかったのだ」と困った顔で許してくれた。
夫はよく鹿崎の話をした。
幼い頃から共に育ち、しかしまったく違う方向に育った二人。その仲の良さを、どこか自分と姫に置き換えて睦は聞いていた。男と女では、関係性の柔らかさはまったく違ってはいたが。
一年半ほど前、鹿崎が旅に出ると聞いて、仲の良い夫が家で小さな宴席を作った。あの時の睦は大忙しで目が回るほどだった。ようやく他の客が帰り、家には鹿崎だけが残り、男二人で月を縁から見上げながら杯を交わしていた。
「お酒のおかわりをお持ちしましょうか」と声をかけると、鹿崎が振り返ってこう言った。
「いや、お茶をいただけるでしょうか。この男がいつも、睦殿の茶を褒めて聞かせるのですよ。茶の味も分からぬ粗忽ものかと思っていましたので驚いているのです」
それは、ひどく睦を驚かせた。家で褒めてくれているだけでなく、友達にまで自慢していたというのだ。
「こやつに、お前の茶は勿体ない。煎れてやらんでよい」
そう夫がふざけて返すものだから、睦は恥ずかしく思いながら逃げるように下がった。いつもよりもっともっと気を付けてお茶を煎れた。鹿崎は雅な男であるから、睦のお茶が口に合わないかもしれないと心配したのだ。
震える手でお茶を二人に差し出すと、夫が一口つけ、「相変わらず睦の茶はうまい」と言った。しかし、この時ばかりは彼女は鹿崎の反応が気にかかった。
月夜の下、椀から一口茶を飲んだ鹿崎は、「ほう」と言った。「確かにこれは……獅郎には勿体ない」と笑ったので、夫に「ぬかせ」と怒られていた。そして二人は茶を飲みながら笑い、睦は安堵した。
何と美しく穏やかな日々であったか。鹿崎は旅立ち、夫と睦の生活は変わりなく続いた。
睦は昼間に姫の側に上がり、夫は夜の仕事も多い。そのため、なかなか子宝には恵まれなかったが、夫婦穏やかにこのまま一緒に生きていくのだと、睦はほんの少し前まで信じて疑っていなかった。
「随分早く……お逝きになってしまわれて、睦は寂しゅうございます」
目を開けて、彼女は娑魔児像を見上げる。炎を背負うその像の姿は何と勇ましく強そうに見えるのか。
あの日の夫の背中もまた、この神のように勇ましかった。幾多の蛮人を斬り倒し薙ぎ払い、葵殿で逃げ惑う彼女たちを逃がそうと奮戦した。
夫はいくつもの深い傷を負い、裏手にある土間の厨まで彼女らを逃げ延びさせた。敵が来ない内に夫の傷をどうにかせねばと睦が動きかけた時、願いも空しく蛮族がそこへ入ってきてしまった。
五人斬り、しばしの後にまた現れた七人を斬り、斬られ。更に三人を斬り倒し、数えきれないほどの傷を負ったところで、さっきまでぜいぜいと繰り返されていた夫の呼吸が、聞こえなくなった。
遅れてきた一人が厨に入ってきた時──睦は夫の背に刺さる短剣を抜いた。
「もうしばし、私はそちらには参れないようです。あなた様もお寂しくさせますが、お待ちくださいますか? せめて、葵姫さまがお幸せになったことくらいは土産話にしとうございます」
まだありありと、あの日のことは思い出せる。辛くもあるが悲しくもあるが、いまは生きて姫に尽くそうと思う睦だった。
合わせていた手を、ゆっくりと解く。
じっと娑魔児神を見つめ、そこに夫の面影を感じることを心の支えにして、彼女はそっと立ち上がった。
振り返ってドキリとする。そこには、有象がまだ横になったままだった。夫のことを考えていて、すっかり彼のことを睦は忘れてしまっていたのだ。
よく見ると、彼はまだ眠っている。それにほっと胸をなでおろして、彼女は静かにお堂を出た。
それから毎日睦は社を訪れたが、その度に有象が眠っているので、次第に気にせずに祈りを捧げるようになったのだった。