表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

二 青の男・紅の姫

「改めて、久しぶりですな……睦殿」


 食事をし、また眠り次に目覚めた頃に、その男──鹿崎は部屋にやってきた。


 波浮はぶの島の波浮の国。この島は海に浮いていて、神の心次第で違うところに流れてゆくと言われている。いまは大陸のほど近くに、ひっそりと浮いていた。

 大陸とは交易が盛んで、物のやりとりの他に、人の行き来も盛んだった。鹿崎もこの国の中と外を見に行くということで、一年と半分ほど前に旅に出ていた。


 鹿崎は線の細い美しい男だった。光に透かすと青みがかったまっすぐな黒髪を結い、同じく光の下でよく見ると緑に見えるこげ茶の目を持っている。年は睦の夫と同じ二十五。夫の幼馴染でもあった。

 結婚する際に鹿崎を夫から紹介されたが、睦は何の変哲もなくただ黒いだけの自分の髪と目が恥ずかしくて、彼の顔をよく見られなかった。

 それを後から夫に話すと、「よいよい、あやつを見るな。目が腐る」と笑って杯を傾けていた。


 そんな鹿崎を、睦は今日初めて真っ直ぐと見た気がする。もうあの頃のような恥じらいは彼女の中にはない。とは言っても、それはまだほんの二年ほど前の出来事に過ぎない。

 だが、それは月日のせいではなかった。数日前のあの鮮烈な悲劇が彼女の感情を低い位置に留めていた。


「獅郎のことは、とても残念でした」


 その感情が、彼の一言によって更に大きく下へ落ちそうになった。それでも泣かずに済んだのは、あの熊のような男の言葉が頭にこびりついていたおかげだろう。

 震える唇を、睦は開いた。夫のことを嘆くためではなかった。


「姫様は……お元気でしょうか」


 波浮の国、第一皇子の三の姫。よわい十六、名は葵。

 光に透かすと紅色の黒髪と瞳を持つ、波浮人形のように愛らしい姫である。睦の母が乳母をしていたこともあって、睦はずっと姫に仕えていた。

 武人の夫が二の門に住まいを構える許しを得ていたおかげで、結婚後も市女笠いちめがさを被り毎日姫の元へと通っていた。


「葵姫は、心細くされてはおりますが……お元気であらせられます。睦殿に会いたがっておられましたので、身体が楽になりましたらお会いになられると良いかと」


 鹿崎の言葉に、睦は心底安堵した。


 しかし、その後に聞かされた言葉は、何ひとつ安堵出来ないものばかりだった。


 美しい波浮の都は、異国の者の手によって滅茶苦茶にされてしまった。三の姫の兄弟姉妹、父親の一の皇子もその妻も、みなもうこの世にはいないというのだ。それは睦の家族や、姫の他の側仕えたちも同様であった。

 すめらぎは、遠方で療養中で無事ではあるが、余命いくばくもないと噂は流れてきていた。実質、この国を取り仕切っていたのは、一の皇子だ。

 更に、


「異国の蛮人を手引きをしたのは……二の皇子であると確信を持っております」


 この重々しい真実が、睦の心に石を投げ入れる。女の身では、政治の駆け引きなど何も分かりはしない。しかし、弟が兄を殺す恐ろしい出来事があったことくらいは分かった。

 その目的が、兄憎しなのか、あるいは皇の地位欲しさなのかは睦には関係がない。どんな理由にせよ、その恐ろしいことに巻き込まれて彼女の夫は死んだのだ。


「おそらくこれから二の皇子は兵を挙げて都を取り戻し、己の物にすることでしょう」


 鹿崎は、これからその企みと戦うことを睦に告げた。

 彼女はただ、葵姫の身だけを案じていた。もしかしたら、鹿崎が生き残りの姫を担ぎ上げて、戦いの矢面に立たせるのではないかと思ったからだ。


「それは、最悪の手段です。私も決して使いたいわけではありません」


 わずかに不安の残る返事ではあったが、睦は「くれぐれも」と願い上げることしか出来なかった。

 もしも、何か本当に危険が迫るのであれば、姫と共にどこかの大きな尼社あまやしろに行くことも考えていた。この世に未練のない女たちの最後の拠り所だった。


「ところで……」と、鹿崎が咳払いをした。


「もう有象には会ったでしょうが……」


 その名に、睦はどう反応していいか分からなかった。どこの誰かも知らない男である。鹿崎が連れて来たのだから敵ではないということしか、彼女が分かることはない。


「あれは、私が波浮の島の南の果てで『式』にした者です」


「はあ……」


 鹿崎には武の才はないが、文と陰陽術の才があった。「あやつはとても頭がよい」と睦は夫から何度も話を聞かされていた。

 陰陽術に優れた者は、人や人あらざるものを『式』として使うことが出来る。実際、小鬼を式として使役している陰陽師もいると噂に聞くが、人前にはほとんど出されないため目にすることはまずない。

 相手が人の場合は、表面上は主従関係を取っていることが多く、式であると宣言されなければ周囲が知ることは難しい。

 しかし、鹿崎の式だということは、あの熊のような男は、ある意味で一番安全ということでもある。鹿崎がしてはならないと告げたことを、あの男は決してすることは出来ないからだ。


 ただ、少し不思議には思った。

 あれほどの剛の者が、どうして他人の式になることを決めたのか。だが、それは余計な詮索だと、睦が頭の中から振り払おうとした。


 その時、


「本当は、有象は……獅郎と戦わせるために連れてきたのです」


 鹿崎は、美しくも人の悪い笑みを浮かべた。「え?」と睦は話についていけずに首を傾げる。そこで突然、夫の名前が出てくるとは思ってもみなかった。


「獅郎は、本当に昔から腕っぷしだけは強くて、私を大層馬鹿にしたものです。あれはもう、腹の立つことでした。私がどれほど学問に打ち込み、陰陽術を学んでも、獅郎にとって一番重要なものは腕っぷしであり、それのない私は顔だけで女をたぶらかすしか能のない者と思っているようでした」


 滑らかに、そして少しふざけるように鹿崎は言葉を紡ぐ。睦の知らない夫の過去が、鮮やかに目に浮かぶようだった。


「有象を式にした時に思いました。獅郎と戦わせてみようと。有象ほどの剛力は、国中探してもなかなかおりますまい。さぞや獅郎も苦戦したことでしょう。私より先に嫁をもらった仕返しも、まだしておりませんでしたしな」


 薄く鹿崎が笑うと、睦もそれにつられて少しだけ笑った。

 彼は睦の夫を笑って弔おうとしているのだと、伝わってくる。置き去りにしてきたままの屍も、それ以前に夫の死そのものを、鹿崎が口惜しく思っていないはずがなかった。

 それが睦への慰めなのは、深く伝わってくる。


「仇は……必ず取りますよ」


 最後に告げられた言葉に、睦は深く頭を下げた。夫は本当に良い友人を持ったと心から感謝したのだった。



 ※



「睦、睦……元気になったのね」


「姫様こそよくぞご無事で」


 多少の身体の痛みは残るものの、動き回れるようになった睦は、何はとりあえず葵姫のところへと参じた。

 少しやせたのではないだろうかと心配しつつも、抱き合って互いの無事を喜んだ。そして、互いに萱草色かんぞういろの袴姿であることを切なく思い慰め合った。忘れ草の色は、別れを悼む色。互いに多くの大事な人を失ったのだ。

 痛ましく葵姫が涙を浮かべるので、睦はつられそうになったが、そっと袖で姫の涙を拭った。


「鹿崎様を頼みにして、上を向いて参りましょう……姫様。本当にもし、どうしても辛くお耐えになれないという時には、共に尼社へ参りましょう。わたくしはどこまでもついて参ります」


 姫の背中をとんとんと叩き、いつも側におりますと心から伝える。

 宮中で姫は、多くの側仕えにかしずかれていた。しかし、いま姫のために心を砕ける女が自分だけなのだと理解すると、睦は心を強く持たなければならないと思った。


「わたくしも、尼社にゆくことを考えたのだけれど……」


 姫は心苦しげに、溜息交りの言葉を綴る。どうかなさいましたかと顔を覗き見ると、悲しみと困惑が入り混じった表情で彼女は睦を見る。微かに紅の混じる黒い瞳。


「鹿崎様が……」


 はふ、と本物の溜息が姫から漏れる。


「鹿崎様が、喪があけたら私の妻になって欲しいので、尼社にゆくのはやめてもらえないか、と」


 この時の睦の心に生まれたのは、ほんの少しの空白と、その後を追いかけてくるような笑いの波だった。つい袖で口元を隠しつつ、睦は笑った。

 何と人の心をかき回す御方だろうかと思ったのだ。

 勿論、彼が言った言葉は本気だろう。だが、何も悲しみにくれている姫にそれを言う必要はない。

 鹿崎は、あえて言ったのだ。

 それは姫を愛しく思い、悲しみを紛らす意味もあったのかもしれない。姫に顔を上げさせて、未来の道を見せようとしたのかもしれない。

 結果として、彼の言葉により姫は戸惑い迷っている。迷っている間は、ほんの少し悲しみから離れられるに違いなかった。いまの睦が、こうして笑ってしまったように。


「お迷いなさいませ、姫様。尼社にゆこうと思えば、いつでもゆけます」


 彼女らの命は、鹿崎の手腕にかかっている。鹿崎が滅べば、彼女らも決して無事では済まない。

 それに、彼は睦の夫の仇を討ってくれると言った。

 ならばその一蓮托生の舟に乗り、姫と共に鹿崎の波に運ばれるのも良いかと思った。


 もはや、一度睦は死を決意した身だ。この身を、姫を守るために使えるということを幸せに思おうと、もう一度袖で口元を隠し小さく笑ったのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ