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一 戦火

 波浮はぶの国。九百と三年目の春の日。

 花も盛りの雅な都は──無残な炎に包まれた。


 その夜、むつは自分たちをかばうように立った夫の背に、無情に突き立つ短刀を引き抜いた。

 そうするより他なかった。

 多くの人と物が壊れ、燃える音と臭いが充満する地獄のような場所に居合わせながら、よわい二十の彼女はかよわい女の手足しか持たず、何の力もなかった。


 睦の夫は身体が大きく、背後の彼女が何をしているか、きっと相手には見えないだろう。

 後は、無我夢中だった。

 近づいてきた男が、彼女の夫を邪魔なカカシのように横に押しやろうとした瞬間、夫の身体の脇から飛び出して、目の前の身体に短刀を突き立てた。どこに当たったかなど分かりはしない。ただ、野蛮な咆哮をあげた男の手に乱暴に弾き飛ばされて、彼女の身体は宙を飛んだ。

 腹に短刀を突き立てたまま、男は大股で睦に近づいて来て見知らぬ言葉でがなり立てる。

 動かなければと、睦は思った。

 けれど恐怖と痛みが、彼女の指先を固めてしまっていた。だが、目だけは動かすことが出来た。

 夫の背後の壁で、小さくなってブルブルと震えている姫の姿が見えた。着物の袖で美しい顔を半分隠し、この恐ろしい世界から必死に心だけでも逃げようとしている。

 彼女の目の動きを、異国の男も追った。そして、ニタアと笑った。腹に短刀を刺したままその男は、睦よりも明らかに価値のあるものを見つけた顔で、姫の方へと手を伸ばす。

 お助け、せねば。

 冷たくなった自分の指先を拳にした。もはや、彼女に残された武器はそれしかなかった。


 無防備に背を向ける男に、睦が非力にも殴りかかろうとした──刹那。


 ドゴォッという音と共に、壁に衝撃が走った。大きな土壁の塊がまるで小石のようにすっ飛んだかと思うと、異国の男を吹き飛ばす。もう何もしゃべることの出来なくなった身体が、肉塊となって床にドシィンと落ちた。


葵姫あおいひめ、ご無事でいらっしゃいますか!」


 もうもうと立ち上る埃の中。ぽっかりと空いた壁の大きな穴から、男の声が投げかけられる。睦の知っている声だった。その声に、震えるばかりだった姫がピクリと反応する。


鹿崎かざき……鹿崎、鹿崎!」


 か細い少女の悲鳴が響く中、壁の穴の中から男が現れる。


「葵姫……よくぞ、よくぞ生きて」


「ああもう駄目かと……鹿崎」


 その男に泣いてすがる少女の姿を見て、ようやく睦は己が生き延びたことを知った。そして同時に、すべての現実が自分の上に降りかかってくるのを感じた。


「お前……獅郎しろうか」


 姫を抱き寄せた男は、素早く周囲を確認すると、立ち尽くす睦の夫の背を見て言った。

 睦の全身を、冷たい氷が駆け抜けてゆく。姫が生き残ったこと以外、何もかもが悪いことだと理解した。


 震える声で、睦は言った。


「夫はもう……死んで、おります」


 妻と大事な主君の姫を守って、夫は既にこと切れていた。もしも生きているならば、恐ろしい異国の男が近づく間、彼が身動きひとつしないなどありえない。その自慢の体躯と力強い刀によって、必ずや彼女らを守ってくれただろう。

 睦は、夫の背から短刀を抜く時には、もうそれに気づいていた。気づいていたからこそ、彼が命がけで守った姫を自分自身で守ろうとしたのだ。


 姫がいなければ、とっくに睦は死んでいただろう。抜いた短刀を己に突き立てていただろう。

 ああと、彼女は口の中で呟いた。もはや姫の身を睦が案じる必要はない。この心強い男に任せればいい。

 逆に彼女はさっきの狼藉でとても強く身体を打っていて、きっと足手まといになってしまうだろう。

 それならいっそ、と。

 近くに倒れ伏す異国の男の腹に、まだ突き立ったままの短刀を見つける。いっそあれでと、睦はそれに手を伸ばそうとした。身体が痛く、這いずるようにしか動けない。


 ようやく彼女の手が、短刀にかかろうとした時。


「おおう、いまどき立ち往生の出来る強者つわものに出会えるとは、この国も捨てたものではないな」


 ズシィンっという振動と共に、壁の穴から誰かが入ってくる。睦の目に映ったのは、床にめりこまんばかりの大きな鋼の頭を持つ大槌おおづち。それを追いかけるように、大きな足が踏み込んでくる。


「んぁ?」


 床に這いずるようにしていた彼女からすると、遥かに高い位置から野獣のような目に見降ろされ、睦は動けなくなる。


有象うぞう、睦殿を担げ。ここから出る!」

「むつ? ああ、この女か?」


 大きな手が伸びてくる。彼女は反射的に逃れようとした。


「置いていってくださいまし、置いていってくださいまし」


 逃れた先で、短刀を掴もうとした。その身があまりに簡単に後ろに引き戻される。触れた短刀にすがって己の身を止めようとしたが無情にもそれは異国の男の身から抜ける。短刀を握ったまま、睦は大きくその身を担ぎ上げられた。


「行くぞ」


 鹿崎の号令で、睦は自分の身が夫から遠ざかっていくのを知った。


「あなた、あなた、私もおそばに……あなた!」


 やぶれかぶれに暴れた彼女の手の短刀は奪い取られ、「暴れるな、うるさい」と一言聞こえたその直後──睦の世界は真っ黒に塗りつぶされた。



 ※



 睦が目を覚ました時、そこは見知らぬ屋敷の中だった。


 上等の布団の中に横たわったまま、彼女はしばらくここがどこであるか、そして自分が誰であるか分からなかった。

 しかし、その直後に甦る炎と埃と血の記憶が、睦を覚醒させる。はっと起き上がろうとして、全身のあまりの痛みに再び伏してしまう。


 生き延びて、しまったのですね。


 それを実感すると、ほろほろと涙があふれてしまう。こんなに悲しいまま取り残されてしまうなら、死んでしまえればどんなに良かっただろうかと思った。


「めそめそするな、鬱陶しい」


 この部屋にいるのが自分一人だと、睦はどこか信じていた。床はひとつしかなかったし、誰かがいる気配もなかった。

 声は彼女が横たわる足元の方から聞こえて来ていて、おそるおそる痛む身体を持ち上げながら、睦はそちらの方を見た。


 大きな男がいた。

 赤茶けたざんばらの髪に黒々とした目。日に焼けた肌は傷だらけ。まるで熊のような獰猛な顔をしており、袖の引きちぎれた着物からは丸太のような腕が伸びている。あぐらをかいている袴から伸びた足もまたこれまで睦が見たこともない大きさだった。


 そして大きな口を開ける。すぅっと部屋中の空気を吸い込むように息が吸われたのを感じた。


「お前の旦那は、お前を守り切った!」


 言葉は、大きな音の波となって睦の皮膚を打った。


「あんなに立派な往生はない。嫁のお前が誇ってやらないで、誰が誇るのだ!」


 大きな口を開いて、ギラつく目を隠すことなく、それでも男は笑っていた。右の膝に肘をつき、身体を斜めに倒した姿で、血塗られた過去を笑い切る。

 思わず睦は、ぽかんとして男を見ていた。度肝を抜かれたと言っていいだろう。


「誇ったらメシを食え。たらふく眠れ。食って寝れば、時は進む。時を進めろ。前に進め。お前にはまだ仕事がある」


 ぽかんとした空白の部分に、男はガツンガツンと言葉を投げ込む。


 それらを睦が持て余していると、


「起きたぞー! メシ持ってこいー!!」


 屋敷全体を揺るがすほどの大声が睦の全身を貫いたため、彼女は再び頭が真っ白になってしまったのだった。



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