エッセイとはなんなのか
そもそもの話である。
なんとなく、こうだろうな、という理解はあるものの、正しく説明してみせよと言われると言葉に窮する。
この作品のジャンルを設定する際に調べているはずなので、どこかで書いたかもしれないが、初心の大事さに気づいたついでに改めて確認してみようと思う。
エッセイとは…
『自由な形式で、通常はある1つのテーマをめぐって書かれた散文』(コトバンク/知恵蔵の解説 より引用)
お、だいたい思っていたのと合っていた。
しかももう少し詳しく読むと、語源はフランス語の「試み」らしい。
脱線や寄り道、回り道を厭わない「自由な思考の試み」。
なにそれカッコイイ。
日本では「エッセイ」というと随筆のことであり、文学のいちジャンルとして確立されている、ともある。
確かに私も、エッセイを日本語にせよと言われれば「随筆」と答えるだろう。
けれど、個人的には「散文」のほうが好みだ。
文があちらこちらに散っている様が表現されていて、まさに自由な思考の試みっぽいではないか。
そしてここにきて私は「随筆」の正しい説明ができないことに気がついた。
なんとなく、恥を晒すのを覚悟で言うと、昔の日記っぽいもの…とイメージしている。
エッセイが日記ではないのだから、随筆も日記ではないのだろうなと考えればわかりそうなものだが…。
もしかしたら、いわゆる日本の三大随筆(「枕草子」「方丈記」「徒然草」)を始めとした類似のものを「昔の人が書いた日記っぽいもの」と認識しているからかもしれない。
私は若い頃に読んだある書籍の影響で、何事にも理由やきっかけ、経緯などがあると思っている。
言葉の意味を取り違えていることにも、それらがあるのだ。
それらはきっと、生活していく上では不要のもので、間違っていることに気づき修正するだけで充分だろう。
けれどそんなどうでもいいような間違いのきっかけに思い至ったとき、私はそれを面白いと感じ、だから散文はやめられないと思うのだ。
余談だが、世間に公開する以上なるべく誤字や誤用は避けたいと思っている…思っては、いる…ので、「十分」と「充分」についても使用前に調べた。
「十分」は数字を使っていることからも数量的、「充分」は感覚的な尺度であるらしい。
飲食で言うと、腹八分目までの食事は十分とまではいかないが、これ以上食べると苦しくなるのでもう充分である、ということだそうだ。(参考「マイナビニュース」)
エッセイに限らないが、こうやって言葉を調べながら文を書くのも面白いものだ。
意味や用法を再確認したり間違いに気づいたり。
さすがに「十分」と「充分」などは基本的すぎるだろうか。
けれど私などは「十分」だと時間の「じゅっぷん」とも読めるし、「充分」のほうが字面が格好いいからこちらを使いたい…くらいにしか思っていなかったのだ。
…笑い話として聞いていただけたら幸いである。
それで話を戻して…、だいぶ戻るのでもういいかとも思うが、一応今回のタイトルに絡んでいることなので続けようと思う。
「随筆」の意味である。
随筆とは…
『ある題目をめぐって,親しみやすい散文で筆のおもむくままに語るという形式で書かれた文章』(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 より引用)
やはり昔の人の日記ではなかった。
そしてここまできたらもう「散文」も確認してしまおうか、という気にもなるもので。
散文とは…と調べて「文章形式の一つ」という解説に、まあそうだろうなと思う。
しかしその先を読んで、恐ろしいことを知ってしまった。
文法的な正確さが要求される…とは!
よくよく解説に目を通していくと、詩のような韻律や字数の制限をもたない、要は通常の文章であるらしいが。
そんな、文法的な正確さを要求されながらでは、自由な思考の試みなんて難しいぞ…!?
意味が通じればいいではないか。
と、ここでまた思い至るのだが、意味が通じているということは文法的にも正確と言っていいのではないだろうか。
いろいろな文法があり、自分では知らずとも、何かの文法に当てはまっているのでは…?
次の一歩は「正確な文法」を調べることだろうか。
さすがにその一歩は底なし沼に足を突っ込みそうなのでやめておこう。
自由な思考で、筆の赴くままに、正確な文法で…っ(難)