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ポテチが膨らむ高さまで

作者: 朝霧ナギ
掲載日:2026/10/08

 僕の名前は佐伯という。

 二十八歳。システム部。社内での通称は「サーバー室の人」。名前を覚えられていないわけではない、と信じたいが、去年の忘年会で部長に「ええと……佐藤くん?」と言われたので、たぶん覚えられていない。

 趣味は、休日に部屋のカーテンを閉め切って、積みゲーを崩すこと。もしくは崩さずに眺めること。彼女いない歴は年齢と同じで、最近はもう、それを数える行為そのものに飽きている。

 そんな僕の人生に、ある日、日向陽菜が落ちてきた。



    ◇



 七月の初め、会社の歓送迎会だった。

 僕はいつものように、座敷のいちばん端、柱の陰という、店の構造上もっとも存在感が消える席を確保していた。烏龍茶を両手で持ち、誰にも話しかけられないよう、全力で壁の一部になっていた。

 そこに、ドサッと誰かが座った。

 金色の髪。耳にじゃらじゃら光るピアス。爪には、ラメの入ったショッキングピンクのネイルに、なぜか小さなクマが乗っている。営業部の日向さんだった。社内でいちばん声が大きく、いちばん笑い声が響き、いちばん僕とは別の惑星に住んでいる人だ。


「ねー、ここ座っていい? あっちマジうるさくてさー」


 座ってから聞くのは質問ではなく宣言だと思うが、僕は「あ、はい」と言った。それ以外の語彙が、緊急停止していた。


「てかさ、サエキっちってさ」


 サエキっち。

 二十八年の人生で、僕に「っち」をつけた人類は初めてだった。


「休みの日、何してんの?」

「……ゲーム、とか」

「へー! あたし山!」

「やま」

「そ、山登り。こないだも八ヶ岳行ってきた。マジ最高だった」


 意外すぎて、脳の処理がタイムアウトしかけた。山。このギャルが、山。もっとこう、ナイトプールとか、そういうところに生息している人だと思っていた。

 会話を続けなければ、という謎の義務感が、僕の口を勝手に動かした。


「……山の上だと、ポテチの袋、膨らむんですよね。気圧で」


 言ってから、死にたくなった。なんだその雑学。なぜ今それを。

 ところが、日向さんの目が、ぱあっと輝いた。


「それ!!!」


 座敷じゅうが振り向くくらいの声だった。


「それ、マジで面白いんだって! パンッパンになんの! 枕みたいになんの! あたし毎回見て爆笑してんの! え、サエキっち見たことある?」

「いや、知識として、知っているだけで……」

「えー見よ! 行こ! 十月の頭、涸沢(からさわ)と奥穂(おくほ)! 一緒に行くはずだった友達、彼氏とディズニー行くとか言い出してさー、マジ裏切りなんだけど。サエキっち空いてる?」


 予定は、いつも空いている。というか、僕のカレンダーアプリは、ほぼ祝日表示のためだけに存在している。


「いや、僕、運動とか、全然……」

「だいじょぶだいじょぶ! 歩けば着くから! 山って、歩けば着くようにできてんの!」


 そこで日向さんは、急に真顔になった。


「ただし! いきなり三千メートルはマジで危ないから、練習してからね。七月、八月、九月で一回ずつ。三回とも来れたら、十月連れてく。来れなかったら、ナシ」


 ギャルの口から出たとは思えない、まっとうな安全管理だった。

 なぜ断らなかったのか、今でもよくわからない。たぶん、人生で誰かに「行こ!」と誘われたのが、小学校の遠足以来だったからだ。



    ◇



 三日後、僕は登山用品店にいた。

 店員さんに足のサイズを測られ、何足も履かされ、斜めの板の上を歩かされた。つま先が当たらないか、かかとが浮かないか。靴を買うのに、こんなに真剣に自分の足と向き合ったのは初めてだった。


「新しい靴は硬いので、慣らしで近所を歩いてくださいね」


 言われたとおり、二週間、通勤に履いていった。

 チノパンに、ごつい茶色の登山靴。駅の階段で、ソールがゴッ、ゴッ、と工事現場の音を立てる。システム部の後輩に「佐伯さん、今日どこか現場ですか」と真顔で聞かれた。現場ではない。サーバーのログを見ているだけである。

 その間、日向さんは、昼休みのたびにシステム部の島にやってきた。


「サエキっちー! ザック買った? 何リットル?」

「さ、三十……」

「いいじゃん! あとレインウェア上下ね! 上だけとかマジ死ぬから! あとヘッデン!」

「へっでん」

「ヘッドライト! あと行動食ね、これ超だいじ。あと保険! 山岳保険、絶対入って!」


 彼女がシステム部に来るたび、フロアの空気が三度上がり、僕の周囲の席の人たちが、そっと僕を二度見した。何かを誤解されている気がする。誤解されても困らない人生なのが、我ながら悲しかった。



【七月 高尾山・稲荷山(いなりやま)コース】


 集合場所の高尾山口駅で、僕は最初の衝撃を受けた。

 日向さんのザックが、ボロボロだったのだ。

 もとは鮮やかな赤だったらしい生地は日に焼けて色褪せ、あちこちに擦り切れた跡があり、補修のパッチが三枚も貼ってある。ストックのグリップは手の形に黒ずみ、登山靴のつま先は岩に削られて、革が白くなっていた。

 ギャルなのに、装備が歴戦の傭兵だった。

 一方の僕は、全身が新品だった。ザックのタグすら切っていなかった。値札が、ぶらぶら揺れていた。


「サエキっち、それ取りな。値段バレてる」

「……すみません」

「てか、ピッカピカじゃん! 新入生じゃん!」

「……日向さんのそれ、何年使ってるんですか」

「ザック? 七年かな。高校の山岳部からだから」

「さんがくぶ」

「そ。ギャルだけど山岳部。ウケるっしょ」


 ウケるというか、情報の整合性が取れなかった。僕の中の「ギャル」フォルダと「山岳部」フォルダが、互いにアクセス権限を拒否し合っていた。

 七月の低山は、地獄の釜だった。

 登山口に一歩入った瞬間、湿気が顔にべたりと貼りついた。蒸し風呂の扉を開けたときの、あのむわっとした空気。木々に覆われた尾根道は日陰のはずなのに、空気そのものが熱を持っている。

 セミが鳴いていた。一匹や二匹ではない。全方位から、立体音響で鳴いていた。ミンミン、ジージー、カナカナ。音の壁に、四方から押されている感じがした。

 五分で、全身から汗が噴き出した。

 十分で、Tシャツが背中にべったり貼りついた。

 二十分で、メガネが汗ですべり落ちてきた。押し上げても、また落ちてくる。鼻の上に、小さな滝ができていた。

 木の根が、階段みたいに地面から浮き出ている。それをまたぐたびに、太ももがじわっと熱くなる。


「サエキっち、歩幅、大きすぎ」

「……はい?」

「階段の半分くらいの気持ちで。ちまちま、ちまちま。大股で歩くのは、山ではイキってる人のやることなの」


 半信半疑で、歩幅を半分にした。よちよち歩きのペンギンみたいになる。屈辱的だった。

 なのに、不思議なことに、耳の後ろで暴れていた心臓が、少しだけおとなしくなった。


「……なんか、ちょっと楽です」

「でしょ! 山は、ちまちま歩いた人が勝つの」


 三十分後、後ろから、楽しげな話し声が近づいてきた。


「それでね、うちの孫がね」

「あらやだ、うちもよ」


 おばあちゃんの集団だった。五人。全員、七十代に見えた。全員、色違いの帽子をかぶっていた。

 彼女たちは、ペンギン歩きの僕を、世間話をしながら、軽やかに、一人ずつ抜いていった。最後の一人が、すれ違いざまに、ちらっと僕を見た。


「若い人、がんばってねえ」


 がんばってね、と言われた。二十八歳が、七十代に。

 僕は、その後ろ姿を見送りながら、静かに、人類の進化について考えた。



    ◇



 山頂に着くと、急に視界がひらけた。

 湿った森を抜けた瞬間、風が吹いてきた。汗で濡れたシャツの背中に、その風が当たる。ひやっ、とした。全身の毛穴が、いっせいに「ありがとう」と言った気がした。

 山頂の茶屋で、日向さんがとろろそばを二つ頼んだ。

 冷たいそばの上に、真っ白なとろろがたっぷりかかっている。箸ですくうと、とろろがつるんと糸を引く。すすると、ひんやりした喉ごしのあとに、そばの香りが鼻に抜けた。汗でしょっぱくなった口の中が、すうっと洗われていく。

 信じられないくらい、おいしかった。


「……これ、下界で食べたら、たぶん普通のそばですよね」

「そう! それが山の魔法なの。山で食べると、全部三倍おいしくなんの」

「三倍」

「でも疲れも三倍だから、プラマイゼロ!」

「それ、魔法じゃなくて、等価交換です」

「ウケる! なにそれ!」


 日向さんは、そばをすすりながら、ピンクのクマのネイルでピースした。


「サエキっち、一回目、合格!」

「……七十代に抜かれましたけど」

「あの人たち、たぶん高尾山に千回登ってるから。ノーカン!」



【八月 丹沢(たんざわ)・塔ノ岳(とうのだけ) 大倉尾根(おおくらおね)】


「通称、バカ尾根ね」


 大倉のバス停で、日向さんは言った。


「なんでそんな名前なんですか」

「バカみたいに長いから!」


 本当に、バカみたいに長かった。

 標高差、約千二百メートル。高尾山の、約三倍。その道のりが、ひたすら階段でできていた。

 木の階段。石の階段。木と石の混ざった階段。丸太を土に埋め込んだ階段。ところどころ、段差が一段だけ異様に高い階段。登っても登っても階段。階段が終わったと思ったら、その先にまた階段。

 無限ループのバグかと思った。開発者を呼んでほしかった。

 八月の太陽は、容赦なかった。木陰のない区間に出ると、頭のてっぺんを、直接フライパンで焼かれているみたいだった。汗が額から目に流れ込んできて、しみる。拭いても拭いても、しみる。

 そして、そこで僕は、人生最大の文化的衝撃を受けた。

 高尾山は人が多すぎて、すれ違う人と挨拶なんてしていなかった。ところが、ここは違った。

 すれ違う人、すれ違う人が、全員、挨拶をしてくるのだ。


「こんにちはー」

「こんにちは!」

「こんにちはぁ」


 おじいさんも、大学生も、ものすごい速さで駆け下りていくトレイルランナーも。みんな、目を合わせて、当たり前のように声をかけてくる。

 僕は、パニックになった。

 知らない人からの、挨拶。僕の人生において、知らない人から声をかけられるのは、だいたい宗教の勧誘か、道を聞かれるか、あるいは「すみません、そこ私の席です」のどれかだった。


「こ、こん、こんちには……」


 噛んだ。


「サエキっち、こんちには、て」


 日向さんが、腹を抱えて笑った。階段の上で、ストックにすがりついて笑っていた。


「山ではね、すれ違ったらみんな挨拶すんの。誰でも。どんな人でも」

「……どんな人でも」

「そ。偉い人も、普通の人も、ギャルも。こんにちは、って言って、すれ違うだけ」


 次の人とすれ違うとき、僕は意を決して言った。


「こ、こんにちは」

「こんにちは! 暑いですねえ」


 返ってきた。普通に、笑顔で、返ってきた。

 なんだこれは、と思った。なんだこのバグは。いや、こっちが仕様なのか。



    ◇



 山頂まであと少しの花立山荘(はなたてさんそう)に着いたとき、僕のHPは、ほぼゼロだった。

 太ももは、もう自分のものではなかった。誰か別の人の脚を、レンタルで借りて動かしている感じがした。しかも、その脚が明らかに不満を持っていた。


「サエキっち、ここ、かき氷あるよ」

「かきごおり」


 その単語だけで、僕は生き返った。

 山小屋のベンチで食べたかき氷は、ガリガリした氷の粒が舌の上で溶けて、甘いシロップと一緒に、喉の奥を冷たく滑り落ちていった。頭がキーンとした。キーンとしながら、もう一口食べた。またキーンとした。

 振り返ると、さっき登ってきた尾根が、はるか下まで、うねうねと続いていた。その向こうに、相模湾が、銀色の板みたいに光っていた。


「……あそこから、登ってきたんですか」

「そうだよ。サエキっちの足で」

「……僕の足、今、他人の足になってますけど」

「あはは! それ、明日もっと他人になるよ。筋肉痛で」



    ◇



 塔ノ岳の山頂に着いたとき、僕は文字どおり、地面に倒れ込んだ。

 仰向けになると、空が回っていた。夏の積乱雲が、ゆっくり形を変えながら流れていく。背中の下の地面は、日差しで温まっていて、少しだけ心地よかった。

 日向さんが差し出してきたスポーツドリンクが、喉を滝のように落ちていった。


「これ登れたら、涸沢までの登りは行ける。荷物重くなるし、空気薄くなるけどね」

「……あの」

「ん?」

「ポテチ、膨らみましたか」


 日向さんは、にやっと笑った。


「持ってきてない」

「え」

「ポテチは、本番まで封印」

「なんでですか」

「サエキっちが初めて見る膨らんだポテチは、三千メートルで見なきゃダメなの。これは掟」

「掟」

「そ。あたしが今決めた」


 ふざけているのに、日向さんは本気の顔をしていた。

 僕は、よくわからないけれど、その掟は守ろうと思った。



    ◇



 翌日、会社の階段で、僕は生まれたての小鹿になった。

 一段降りるたびに、太ももの前側に電気が走る。手すりにしがみつき、一段、また一段。後ろから来た総務の女性が、そっと僕を追い抜いていった。


「佐伯さん、大丈夫ですか?」

「……山です」

「やま?」

「……山に、やられました」


 総務の女性は、不思議そうな顔をして去っていった。

 その日の昼、日向さんがシステム部に来て、小鹿状態の僕を見て、爆笑した。フロアじゅうに響き渡る声だった。周りの人たちが、また僕を二度見した。



【九月 山梨・乾徳山(けんとくさん)】


「ここで、三点支持を覚えます」


 徳和(とくわ)の登山口で、日向さんは言った。

 乾徳山。標高二〇三一メートル。山頂の直下に、鎖場と岩場がある。三千メートルの穂高に向けた、最後の練習だった。


「さんてんしじ」

「両手両足、四本のうち、三本は必ず岩についてること。動かすのは一本ずつ。穂高はこれのもっと高くて長いやつがあるから、ここで体に覚えさせて」


 九月の山は、七月や八月とは、空気が違った。

 登山口の沢沿いを歩くと、水の音が涼しい。森の中はひんやりとして、少し湿った土と、落ち葉と、きのこみたいな匂いがした。汗はかく。でも、真夏みたいに、汗に全身が溺れるような感じはない。かいた汗が、ちゃんと風に乾かされていく。


「秋の山、最高でしょ」

「……はい。今のところ、生きてます」

「その基準、低すぎない?」


 森を抜けると、急に視界がひらけた。国師ヶ原(こくしがはら)という、広い草原だった。

 そこからさらに登った扇平(おうぎだいら)には、ススキの原が広がっていた。風になびいて、銀色の波みたいに、ざわざわと揺れている。その向こうに、乾徳山の岩の頂が、ごつごつと空に突き出していた。

 ススキの中に、月見岩という大きな岩があった。そこで振り返った瞬間、僕は息をのんだ。

 富士山だった。

 雲の上に、巨大な富士山が、どーんと浮かんでいた。教科書の写真でも、銭湯の壁画でもない。本物が、そこにいた。思っていたより、ずっと大きかった。視界の真ん中を、堂々と占領していた。


「……でかい」

「でかいよね! ここ、富士山の特等席なの」


 日向さんは、富士山に向かってピースした。それから、ちょっとだけ黙った。


「……ここ来ると、なんか、楽なんだよね」

「楽」

「うん。なんでもない」


 日向さんは、すぐにいつもの声に戻った。


「さ、行こ! 鎖場、すぐだよ!」


 僕は、その「なんでもない」が少しだけ気になった。でも、聞き返す語彙を持っていなかった。



    ◇



 鳳岩(おおとりいわ)は、垂直に近い一枚岩だった。

 ほぼ真上に向かって、岩の壁がそそり立っている。そこに、太い鉄の鎖が、上から一本、だらりと垂れていた。


「……これを、登るんですか」

「登るんです!」

「……垂直ですよ」

「ほぼ垂直ね。完全な垂直じゃないから大丈夫!」


 何が大丈夫なのかは、説明されなかった。

 まず、日向さんがお手本を見せた。鎖に手をかけ、岩のくぼみに靴を押しつける。体を壁から少し離し、足の裏全体で岩を踏む。右手、左足、左手、右足。一本ずつ動かして、するすると登っていく。

 ピンクのクマのネイルが、鎖と岩のあいだを、迷いなく渡っていく。


「サエキっちー! 鎖に頼りすぎないでね! 鎖は補助! メインは足!」


 僕は、鎖をつかんだ。

 鉄の感触が、手のひらに冷たく食い込む。思っていたより、ずっと重くて、ずっとごつごつしていた。引っ張ると、ジャラッ、と低い音がした。

 岩に、靴を押しつける。

 岩は、ざらざらしていた。靴底のゴムが、岩の表面にキュッと食いつく感触が、足の裏から伝わってくる。

 右手を、一つ上へ。

 体重を、右足に移す。

 左足を、少し上のくぼみへ。

 心臓が、バクバクいっている。下を見ると、さっきまでいた地面が、思ったよりずっと下にあった。見なければよかった。


「上だけ見て! 次、左手、その出っ張り!」


 左手を伸ばす。岩の出っ張りをつかむ。指先に、岩の冷たさと、ざらつきが伝わる。

 腕が、ぷるぷる震えていた。生まれたての小鹿の、腕バージョンだった。


「腕で登らないで! 足で立つの! 足が階段、手は手すり!」


 言われて、気づいた。僕は、全身の体重を、腕だけで支えようとしていた。

 足に、体重を乗せる。膝を伸ばす。すると、体が、ふっと上に持ち上がった。腕の震えが、少しおさまった。

 なるほど、と思った。足が階段で、手は手すり。

 それから先は、一手ずつ、一手ずつ。

 右手。右足。左手。左足。

 岩の形を見る。どこに足を置けるか考える。置いてみる。体重を乗せる。乗った。次。

 途中から、怖さが、少しずつ、別のものに変わっていった。

 何に変わったのかは、よくわからなかった。ただ、目の前の岩と、手足の感触と、次の一手のこと以外、頭から全部消えていた。



    ◇



 岩の上に這い上がったとき、僕は、しばらく四つん這いのまま動けなかった。

 腕が、しびれていた。膝が、笑っていた。心臓が、まだ全力疾走していた。

 でも。

 顔を上げると、また、富士山がいた。

 さっきよりも高い場所から見る富士山は、さっきよりも、もっと大きかった。雲が、その裾をゆっくりと流れていく。九月の空は、八月よりも、少しだけ青が澄んでいた。


「……登れました」

「登れたね!」


 日向さんが、両手を広げて駆け寄ってきた。そして、ピンクのクマのネイルで、僕と思いきりハイタッチした。

 パチン、と、乾いた音が、山頂に響いた。

 手のひらが、じんと痺れた。

 日向さんの手のひらは、思っていたよりずっと硬かった。指の付け根に、分厚いたこがある。

 ギャルの手ではなかった。いや、ギャルの手で、そして、山の手だった。

 女性とハイタッチしたのは、人生で初めてだった。



    ◇



 山頂で休憩していると、僕のザックの雨蓋(あまぶた)から何かがはみ出しているのに、日向さんが気づいた。

 行動食のグミの袋だった。

 それが、ほんの少しだけ、ぷくっと膨らんでいた。


「あ、これ……」


 僕が手に取ろうとした瞬間、日向さんが、ものすごい速さで、その袋を両手で覆い隠した。


「見ちゃダメ!!」

「え」

「それ、ちょい膨らみ! ネタバレ! ちょい膨らみは見ちゃダメなの!」

「……ネタバレ」

「初めての膨らみは、三千メートルのポテチで見るって決めたじゃん! 掟!」


 日向さんは、グミの袋を僕のザックの奥深くに押し込み、さらにその上からレインウェアを詰めて、封印した。


「よし! これで見えない!」

「……日向さん、この掟、そんなに大事なんですか」

「大事!」


 日向さんは、真剣な顔で言った。


「最初の一回ってさ、一回しかないじゃん。だから、いちばんいいとこで見てほしいの」


 僕は、何も言えなかった。

 ただ、ザックの奥で、グミの袋がこっそり膨らんでいるのを想像した。見てはいけないものが、自分の背中にある。少しだけ、わくわくした。



【出発前】


 出発の一週間前、僕は日向さんに、一つのファイルを送った。

 エクセルで作った、登山計画書だった。

 一枚目のシートに、日程、ルート、各区間のコースタイム、宿泊先、メンバーの氏名と緊急連絡先。二枚目に、装備リスト。チェックボックス付き。三枚目に、エスケープルート。体調不良や天候悪化のときに、どこから下りるか。

 四枚目に、中止基準。


「前日の予報で、稜線の風速十五メートル以上、または降水確率五十パーセント以上なら、奥穂は中止。涸沢から下山」


 条件付き書式で、該当するとセルが真っ赤になる。予備日も、一日入れてあった。

 山について調べていくうちに、わかったことがある。山の事故の多くは、無理をしたときに起きる。天気が悪いのに進んだとき。疲れているのに引き返さなかったとき。予定どおりに帰らなきゃ、と焦ったとき。

 だから、引き返す基準を、先に決めておく。

 それなら、僕にもできる。僕の仕事は、毎日、障害が起きたときの手順を決めておくことだからだ。

 昼休み、日向さんがシステム部の島に駆け込んできた。


「サエキっち、これ何!? 天才じゃん!?」


 天才、と言われたのは、人生で初めてだった。


「長野県って、北アルプスは計画書の提出が必要なんですよね。あと、山岳保険にも入りました。言われたとおり」

「マジ完璧! あたしいつも計画書、スマホのメモに三行で書いてるもん!」

「……それは、改善したほうがいいと思います」

「はい! 改善します!」


 日向さんは、敬礼した。


「あとね、ここの中止基準のとこ、めっちゃいい。天気悪かったら、ちゃんとやめよ。山は逃げないから」

「……はい」

「でも晴れたら、行くよ。三千メートル」


 日向さんは、にっと笑った。


「サエキっち、三回とも来たね。合格。十月、連れてく」


 フロアの空気が、三度上がった。周りの席の人たちが、そっと僕を二度見した。今回は、二度見されても、あまり気にならなかった。



    ◇



 その夜、僕は、部屋のカーテンを開けた。

 いつもは閉め切っている窓の向こうに、東京の夜空があった。黒い画用紙に、白い点をまばらに打ったみたいな、寂しい空だった。

 日向さんは、三千メートルの空は全然違う、と言っていた。

 床には、パッキング途中のザックが転がっている。七月の高尾山で、値札がぶら下がっていた、あのザックだ。今は、肩ベルトに少しだけ、汗の跡がついている。

 奥のほうには、乾徳山から持ち帰ったグミの袋が、まだ入っていた。封印したまま、なんとなく食べられずにいたのだ。

 平地の空気に押されて、袋は、元どおりのふにゃっとした形に戻っていた。

 僕はスマートフォンを手に取り、カレンダーアプリを開いた。

 十月のページ。祝日の表示しかなかったそのページの、最初の金曜日から日曜日にかけて、僕は文字を打ち込んだ。


「涸沢・奥穂高」


 金曜日には、入社以来はじめて、「私用」で有給を入れた。

 祝日以外の文字が、十月のページに入った。

 たった六文字なのに、画面が、少しだけ明るくなった気がした。



    ◇



 十月、最初の金曜日。上高地のバスターミナルに降り立った瞬間、鼻が驚いた。

 空気が、冷たいのに、甘い。濡れた土と、苔と、針葉樹の樹液みたいな青い匂いが混ざっていて、ひと息吸うごとに、鼻の奥がすうっと冷える。ミントガムを噛んだあとに冷水を飲んだときの、あの感じ。七月の高尾山の、あのむせかえる湿気とは、まるで別の惑星の空気だった。

 僕の部屋の空気とは、明らかに成分が違った。僕の部屋の空気は、たぶん二酸化炭素と、カップ麺の残り香と、孤独でできている。


「空気って、味、するんですね……」

「でしょー!? 東京の空気、排気ガスとタピオカの味じゃん」


 計画書は、ネットで提出済みだった。それでも念のため、印刷した控えを、バスターミナルの登山相談所のポストに入れた。日向さんが「サエキっち、ほんと抜かりないよね」と笑った。抜かりがないのではない。抜かりがあると不安で眠れない性格なだけだ。

 梓川(あずさがわ)の水は、嘘みたいに透明だった。透明すぎて、そこに水があることを脳が一瞬信じない。川底の白い石が、ひとつひとつ数えられる。


「サエキっち、手ぇ入れてみ」


 言われるまま、しゃがんで手を突っ込んだ。

 三秒で後悔した。

 冷たいというより、痛い。指の骨を直接つかまれたような冷たさで、五秒後には、指先の感覚がまるごとどこかへ出張していた。


「それ、北アルプスの雪どけとか湧き水が集まってきた水だから!」

「……先に言ってください」

「言ったらやんないじゃん!」


 日向さんは、腹を抱えて笑った。その笑い声が、川の音と一緒に、谷に響いていく。

 河童橋(かっぱばし)の上に立つと、真正面に、灰色の巨大な岩の壁がそびえていた。上のほうは、うっすら雲をかぶっている。


「あれが穂高! 明日、あのてっぺんにいるよ!」


 僕は、壁を見上げた。首が痛くなるくらい見上げた。乾徳山(けんとくさん)の鳳岩(おおとりいわ)なんて、あれに比べたら、ブロック塀だった。

 あれは、登るものではない。PCの壁紙に設定されるものだ。それも、デフォルトの、誰も変更しないやつ。


「……冗談、ですよね」

「冗談で三千メートル登る人いないっしょ!」



    ◇



 最初の三時間は、拍子抜けするほど平らだった。

 梓川沿いの林道を、ひたすら歩く。足元は砂利で、一歩ごとにザリ、ザリ、と小気味いい音がする。カラマツの林は、緑にうっすら黄色が混じりはじめたところで、ところどころ、気の早いカラマツが、細い針みたいな葉をちらちら降らせていた。

 髪に刺さる。服に刺さる。気づくと僕の黒いフリースは、金色の小さな針がところどころに刺さって、さながら安っぽいラメ加工だった。


「サエキっち、キラキラじゃん! ギャル化してんじゃん!」

「……不本意です」


 すれ違う人は、ここでも全員、挨拶をしてきた。バカ尾根で学習済みの僕は、今回は噛まずに言えた。三回に一回は。

 明神(みょうじん)を過ぎ、徳沢(とくさわ)に着く。日向さんが当然のように売店に吸い込まれていき、ソフトクリームを二本持って出てきた。


「はい!」

「登山って、ソフトクリーム食べながらするものなんですか」

「徳沢では食べる。これは掟」

「掟、多くないですか」

「山は掟でできてんの! あたしと、日本中の登山者の胃袋が決めた!」


 濃いミルクの味が、乾いた喉にべったりと貼りつく。冷たさが、食道を下りていくのがわかる。めちゃくちゃおいしかった。

 僕は思った。バカ尾根に比べたら、登山、楽勝では?

 あとで振り返ると、この瞬間が、僕の人生で最も楽観的だった十分間である。



    ◇



 横尾(よこお)で梓川を離れ、橋を渡ったところから、山は本性を現した。

 道が、急に石だらけになった。それも、きれいに並んだ石ではない。大きいの、小さいの、尖ったの、苔でぬるっとしたの、乗った瞬間にグラッと揺れる性格の悪いやつ。それらが、無秩序に、上へ上へと積み重なっている。

 太ももが重くなる。最初は「ちょっと疲れたかな」程度だった。三十分後には、太ももの前側に、誰かが熱々の鉄板を一枚ずつ貼りつけていく感覚になった。一歩踏み出すたびに、鉄板が一枚。ジュウ。

 小屋泊まりの荷物は、バカ尾根のときの倍近い重さだった。ザックのベルトが肩に食い込む。しかも、標高が上がるにつれて、空気がじわじわ薄くなっていく。息を吸っても、肺の上半分までしか入ってこない。心臓が、耳のすぐ後ろでドクドク鳴っている。うるさい。黙ってほしい。

 汗が、背中とザックのあいだで、ぬるい池になっている。

 本谷橋(ほんたにばし)を渡ってからの登りは、僕の人生で最も長い二時間半だった。バカ尾根より長く感じた。


「……なんで来たんだろう」

「うんうん」

「……帰りたい」

「うんうん」

「日向さん、ヘリって呼べませんか。有料でいいので。ボーナス全部出すので」

「呼べるけど、疲れた人は乗せてくんないよ?」

「疲れて死にそうな人は」

「死にそうな人は、そんなに喋んない!」


 日向さんは、僕の後ろから、まったく息を切らさずについてきていた。鼻歌まで歌っていた。人類として、何かが根本的に違う。


「てかサエキっち、歩幅! 高尾で教えたじゃん!」


 言われて気づいた。僕はいつの間にか、大股で、ぐいぐいと、イキった歩き方をしていた。


「……パニックで、記憶がロールバックしてました」


 歩幅を半分にする。よちよちペンギン。後ろから来た小学生くらいの男の子に、普通に抜かされた。彼は「こんにちは!」と元気に挨拶して、軽やかに去っていった。七月は七十代に、十月は小学生に。僕は全世代に抜かれていく。

 それでも、心臓の音が、少しだけ静かになった。鉄板の追加ペースも、ちょっとだけ落ちた。

 休憩のたびに、僕は石に座り込んだ。そのたびに、日向さんがピンクのクマのネイルで、ジップロックから何かを取り出して、僕の手のひらに落とした。

 塩飴だった。

 舌の上で、しょっぱさと甘さが同時にじゅわっと広がる。汗で失われた何かが、体の中に急速に補充されていくのがわかる。こんなに塩がおいしいと思ったのは、生まれて初めてだった。


「ちなみにさー」

「はい」

「サエキっちが『帰りたい』って言った回数、数えてる」

「数えないでください」

「十九回!」

「数えないでくださいって」

「あと、『死ぬ』が八回!」

「……カテゴリ分けもしないでください」



    ◇



 そして、最後の斜面を、四つん這いに近い姿勢で登りきったとき。

 僕は、口を開けたまま、固まった。

 目の前に、巨大なすり鉢があった。

 直径が一キロはありそうな、ゆるやかにくぼんだ谷。氷河が何万年もかけて削った地形、カールだと日向さんが教えてくれた。

 その斜面一面が、燃えていた。

 ナナカマドの赤は、ただの赤ではなかった。熟れたトマトの赤、郵便ポストの赤、夕焼けの赤、日向さんのネイルのショッキングピンクに近い赤。全部違う赤が、斜面のあちこちで、まだらになって混ざっている。そのあいだを、ダケカンバの黄色が、レモン色に光りながら縫っていて、さらにその下を、ハイマツの深い緑が、ビロードみたいに埋めている。

 まるで巨人が、絵の具のチューブを全部まとめてわしづかみにして、山肌にぶちまけたみたいだった。しかも、ぶちまけたあとに「まあ、いいか」と手を拭かなかった感じの、遠慮のない色だった。

 僕のモニターは、一六七七万色を表示できる。

 でも、そのどれとも、違った。

 そのすり鉢を、ぐるりと、灰色の岩の壁が取り囲んでいる。今朝、河童橋から首が痛くなるほど見上げた穂高を、今度は反対側から見上げていた。その壁が、手を伸ばせば触れそうな近さで、ずらりと並んでいる。

 そのふもとに、テントが何百張りも並んでいた。赤、黄、オレンジ、青、緑。カラフルなグミを、地面にばら撒いたみたいだった。

 グミ。乾徳山で封印された、あのグミを思い出した。


「……日向さん」

「ん」

「これ、ネットで画像、見たことありましたけど」

「うん」

「全然、違います」


 声が、ちょっと震えていた。太ももの鉄板のことは、完全に忘れていた。

 日向さんは、満足そうに、にっと笑った。


「でしょ! 山の写真ってさ、だいたい詐欺なの。本物のほうがヤバいから。逆詐欺!」



    ◇



 山小屋のテラスで飲んだ缶ビールは、人生で一番おいしかった。

 練習の山はぜんぶ日帰りで、日向さんは「日帰りは下りで足にくるから、お酒は小屋泊まりのときだけ」と言って、飲ませてくれなかった。帰りの電車では、いつも二人とも爆睡していた。だからこれが、二人で飲む最初の一本だった。

 プシュッと開けた瞬間、炭酸の泡が、山の冷たい空気の中に、しゅわしゅわ弾ける。ひと口目が喉を通るとき、冷たさと苦みと炭酸が、乾ききった体の中に一気に染み渡っていく。体じゅうの細胞が、いっせいに「あ゛ー」と言った気がした。


「……本谷橋からの二時間半、全部このための下ごしらえだったんですね」

「わかった? 山って、ビールをおいしくするための装置なの!」


 乾杯の缶が、カコン、とぶつかった。

 女性と乾杯したのは、人生で初めてだった。会社の飲み会では、いつも乾杯の瞬間、僕のグラスは誰のグラスにも届かない位置にある。

 隣のテーブルでは、六十代くらいの夫婦が、湯気の立つおでんをつつきながら、「去年は雪が早くてね」「あんた、ここで転んだでしょ」「転んでない、座っただけだ」と言い合っていた。向こうでは、大学の山岳部らしい若者たちが、地図の上で明日のルートを指でなぞりながら、なぜか全員カップヌードルのシーフード味を食べていた。

 その中の一人が、日向さんのボロボロのザックを見て、目を見開いた。


「あの、それ、もしかして……」

「あ、これ? 高校のとき、インハイ出たときのやつ!」

「インハイ!?」


 若者たちが、どよめいた。

 日向さんは、照れもせず、ピースサインをした。ネイルのクマが、稜線の上に残った最後の光を受けて、きらっと光った。

 山岳部だったことは聞いていた。インターハイは、初耳だった。僕はビールの缶を握ったまま、また情報処理が追いつかなくなっていた。



    ◇



 問題は、夜だった。


「今日、混んでるんで、ちょっと狭いですけど、お二人はこちらでお願いしますね」


 受付のスタッフさんが、とても爽やかに言った。

 案内されたのは、壁とカーテンで仕切られた、二人用の小さな区画だった。仕切りがあるのは、隣のグループとのあいだだけ。僕と日向さんのあいだには、何もない。布団は二枚。ただし、隙間はゼロだった。


「……はい?」

「おっけー! サエキっち、壁側と通路側どっちがいい?」

「…………」

「サエキっち? おーい? フリーズしてる?」


 してた。完全に、していた。ブルースクリーンだった。

 消灯後、僕は人生最大の静止を求められた。

 仰向けで、両手を体の脇にぴったりつけ、気をつけの姿勢で横たわる。呼吸の音すら殺す。寝返りなど、もってのほかだ。ミイラだ。僕はミイラになるのだ。三千年くらい、このまま動かないのだ。

 隣で、日向さんが「おやすみー」と言った。

 そして、三秒で寝た。

 本当に、三秒だった。すう、すう、という寝息が聞こえてくる。

 僕は、天井を見つめた。暗闇の中で、天井の木の板がぼんやり見える。隣から、ほんのり、日焼け止めとシャンプーと、汗と、山の匂いが混ざった匂いがした。

 心臓が、本谷橋のときより、うるさかった。

 そのとき。

 日向さんが、寝返りを打った。

 ゴスッ。

 彼女の肘が、僕のみぞおちに、正確にクリーンヒットした。


「ぐふっ」

「……むにゃ……ポテチ……」


 寝言だった。

 続けて、彼女の足が、布団の境界線を越えて、僕の脛に乗ってきた。重い。登山で鍛えられた脚は、想像の三倍重かった。

 さらに、仕切りの向こうから、地響きのようないびきが始まった。カーテン一枚では、音までは仕切れない。

 ゴォォォ……、ゴッ、ゴッ……、フシュー。

 一定ではない。しばらく止まって、僕が「……生きてる?」と心配になった頃に、倍の音量で再開する。休符の多い前衛音楽だった。

 あとで知ったが、テラスで「転んでない、座っただけだ」と主張していた、あのおじさんだった。

 肘。足。いびき。

 ロマンスの気配は、一ミリもなかった。あったのは、純粋な物理攻撃だけだった。

 僕は、ミイラの姿勢のまま、声を殺して笑った。布団が、小刻みに震えた。



    ◇



 寝られる気がまったくしなかったので、僕は、日向さんの足をそっと持ち上げて脱出し、外に出た。

 扉を開けた瞬間、寒さが、顔を殴ってきた。

 昼間の、汗で湿った暖かさが嘘のように、空気がキンと張りつめている。鼻から吸うと、鼻毛が凍るんじゃないかと思った。ダウンジャケットのチャックを、あごの先まで上げる。

 そして、見上げた。

 空が、うるさかった。

 星が、多すぎるのだ。東京の夜空は、黒い画用紙に、白い点をまばらに打ってあるだけだ。ここの夜空は、違う。光の粉を、黒い布の上に袋ごとひっくり返したみたいだった。ぶちまけたあとに、かろうじて黒い隙間が残っている、という比率だった。

 天の川が、本当に川の形をしていた。白くけぶった帯が、穂高の岩壁の上から、反対側の稜線まで、空を斜めに横切っている。

 実在したんだ、と、僕は本気で思った。教科書と、ゲームの背景にしか、存在しないものだと思っていた。


「……帰りたく、ないな」


 誰に言うでもなく、口からこぼれた。言ってから、自分で驚いた。


「……サエキっち?」


 後ろで、声がした。

 振り向くと、日向さんが、ダウンにくるまって立っていた。首から下げたヘッドランプの明かりの中で、寝ぐせの金髪が片側だけ爆発している。


「起きたら、いないからさー。トイレかと思ったら、ずっといないし」

「……すみません。眠れなくて」

「あたしのせい?」

「……肘と、足と、いびきのせいです。いびきは、日向さんじゃないですけど」

「あはは、マジごめん! あたし寝相、山岳部でも伝説だったんだよね」


 日向さんは、僕の隣に立って、空を見上げた。

 しばらく、二人とも、黙っていた。

 吐く息が、白く、星の手前で消えていく。

 僕は、ずっと気になっていたことを思い出した。九月の乾徳山。月見岩で富士山を見ながら、日向さんがこぼした、あの一言。


「……日向さん。乾徳山で、『ここ来ると楽』って言ってましたよね」

「え、覚えてたの」

「はい。聞き返す語彙が、あのときは無くて」


 日向さんは、少し笑って、それから、ゆっくり言った。


「んー。山ってさ、見た目、関係ないじゃん」

「見た目」

「あたしさ、こんなんだから、どこ行っても『ギャルだー』って顔されんの。会社でも、取引先でも。あ、こういう子ね、って。べつに嫌じゃないんだけど、たまにちょっと疲れる」


 ネイルのクマが、星明かりで、かすかに光っていた。


「でも山ではさ、みんな、こんにちはって言うだけじゃん。あとは、自分の足で登るだけ。ギャルでも陰キャでも、同じ岩を、同じように登んの。誰も代わってくれないし、誰にも邪魔されない。だから、楽」


 陰キャ、と、さらっと言われた。でも、なぜか、全然、刺さらなかった。

 僕は、バカ尾根の挨拶を思い出した。きょうの上高地の挨拶も。おじいさんも、大学生も、トレイルランナーも、小学生も。誰も、僕を二度見しなかった。誰も、僕の名前を間違えなかった。ただ、まっすぐ目を見て、こんにちは、と言って、すれ違っていった。


「……僕、山に来てから、人生の合計より多く挨拶されてます」

「あはは! 何回?」

「数えてません」

「数えなよ! あたし、サエキっちの『帰りたい』数えてたのに!」


 そのとき、流れ星が、すっと、ひとつ落ちた。続けて、もうひとつ。

 願い事を考える暇もなかった。とっさに頭に浮かんだのは「肘が飛んでこない寝床」だった。



    ◇



「明日、三時半起きね!」


 寝る前に、日向さんは言っていた。


「三時半は、もう夜です」

「起きればわかるから!」


 小屋に戻った瞬間、メガネが真っ白に曇った。冷えきったレンズに、中の温かい空気がまとわりついたのだ。何も見えない。手探りで布団に戻ったあと、いつの間にか眠っていたらしい。

 起こされた。真っ暗だった。

 ヘッドランプの光の中に浮かび上がった日向さんの顔は、なぜか、メイクが完璧だった。三時半なのに。いつ塗ったのか。物理法則を超えている。

 体は布団に溶けていて、太ももの鉄板は、一晩寝かせてしっかり冷えて固まっていた。起き上がろうとした瞬間、両脚がそろって悲鳴を上げた。階段を下りるとき、手すりにしがみつく僕の姿勢は、完全に生まれたての小鹿だった。


「サエキっち、小鹿じゃん! バンビじゃん! かわいー!」

「……人生で、かわいいと言われたのも初めてです」

「マジで? じゃあ今日、初めて記念日いっぱいじゃん!」


 テラスに出る。息が真っ白だ。手袋の中でも、指が冷たい。テント場のあちこちで、ヘッドランプの光がちらちら揺れている。蛍みたいだ。

 誰もが、同じ方向、穂高の岩壁を見上げている。

 背中側の東の空が、ゆっくり、ゆっくり、白んでいく。その光を受けて、目の前の空も、群青から紫へ、紫の端っこから桃色へと、少しずつ溶けていく。星が、ひとつずつ消えていく。ログアウトしていくみたいに。

 そして、ある瞬間だった。

 いちばん高い頂の、てっぺんの岩に、ぽっ、と火がついた。

 ほんとうに、マッチを擦ったみたいに。

 その火は、見る間に、隣の峰へ、さらに隣の岩稜へと、燃え広がっていった。上から下へ、炎がゆっくり降りてくる。灰色だったはずの岩壁が、熟れた柿のオレンジに、それから、溶けた鉄みたいな赤に染まっていく。

 下には、きのうの紅葉の赤。上には、燃えている岩の赤。それがひとつながりの炎になって、すり鉢全体を包んでいた。


「モルゲンロート。朝焼けの、山バージョン」


 日向さんが、いつもの半分以下の声量で言った。

 周りの誰も、喋らなかった。カシャ、カシャというシャッター音と、誰かの「……すご」という、ほとんど息みたいな声だけが聞こえた。

 僕は、自分の頬が濡れていることに気づいて、慌ててメガネを押し上げ、フリースの袖で拭いた。

 なんで泣いているのか、わからなかった。悲しくもない。嬉しいのとも、ちょっと違う。ただ、何か大きすぎるものを目に入れてしまって、体の処理が追いつかず、オーバーフローした分が、目から出てきた、という感じだった。

 横を見ると、日向さんも、鼻をすすっていた。せっかくの完璧なマスカラが、ちょっとだけ、にじんでいた。


「……日向さん、何回も見てるんですよね」

「何回見ても、こうなんの」



    ◇



 天気は、快晴だった。風も弱い。僕が作った計画書の中止条件のセルは、一つも赤くならなかった。

 穂高岳山荘(ほたかだけさんそう)までの道は、ザイテングラートという名前の、岩の尾根だった。


「ドイツ語で『支尾根』って意味ね。乾徳山でやった三点支持、覚えてる? 今日はあれの本番」


 覚えていた。でも、正直、怖かった。

 乾徳山の鳳岩は、せいぜいビル数階分の高さだった。ここは違う。足元の岩の隙間から、はるか下のテント場が見える。さっきまでいたグミの群れが、もうゴマ粒くらいに小さい。風が吹くたびに、体がふわっと持っていかれそうになる。

 僕は、岩にしがみついた。

 岩は、ざらざらしていた。紙やすりの荒いやつみたいな手触りで、手のひらにしっかり食いつく。朝日を浴びた面は、ほんのり温かかった。日陰の面は、まだ夜の冷たさを残していて、触れると指先がきゅっと縮む。

 前を行く日向さんは、まるで重力の設定が違うみたいだった。

 岩に手をかける。体がすっと上がる。次の手がかりを、見もせずにつかむ。ピンクのクマのネイルが、灰色の岩の上を、迷いなく渡っていく。


「サエキっちー、右足、そこの出っ張り! そうそう! で、左手、その割れ目!」


 ひとつ、手がかりをつかむ。右足を、出っ張りにかける。体重を乗せる。ぐっと、体を持ち上げる。

 足が階段で、手は手すり。乾徳山で覚えた動きを、体がちゃんと思い出していた。

 もうひとつ。左手を、あの割れ目に。左足は、あの平らなところ。

 それを繰り返しているうちに、僕の頭の中で、何かが、カチッと切り替わった。

 これ、パズルだ。

 どこに手をかけるか。どの岩に足を置くか。目の前の岩をひとつずつ「読んで」、体で答えを出していく。答えが合っていると、体がすっと上に運ばれる。間違っていると、足がずるっと滑って、心臓がひゅっと縮む。

 正解すると、ちょっと嬉しい。

 いや、違う。

 これは、ゲームだ。

 それも、僕が今までやってきた、どのゲームよりも、解像度が高い。グラフィックは現実で、物理演算は本物で、コントローラーは自分の体そのもので、セーブもロードもない。だからこそ、一手一手を丁寧に選ぶ。一手ごとに、景色という報酬が開放されていく。

 乾徳山で、怖さが「何か別のもの」に変わりかけた。その正体が、今わかった。

 気づくと、頭の中から、全部が消えていた。

 サーバーの障害アラートも、未読のチャット四十二件も、部長の「ええと、佐藤くん?」も。

 あるのは、次の一手だけ。


「……楽しい」


 思わず、口からこぼれた。

 上で、日向さんが振り返って、目を丸くした。


「え、いまなんて?」

「……楽しい、です」

「きのう『帰りたい』って三十二回言ってた人とは思えないんだけど!?」

「最終的に、三十二回だったんですか」

「でも夜、星見ながら『帰りたくない』って一回言ってたから、差し引き三十一回!」

「……聞いてたんですか」

「聞こえた!」

「それは、盗聴です」

「あたしの肘のぶんもカウントしようか迷ったんだよね」

「それは、日向さんの攻撃ログです」



    ◇



 穂高岳山荘の脇から、いよいよ山頂への最後の登りが始まる。

 いきなり、鉄のハシゴと鎖が現れた。ほぼ垂直の岩場に、ハシゴがボルトで打ち込まれている。


「下は見なくていいよ。上だけ見て!」

「見ないでって言われると見たくなるのが人間だって、知ってます?」


 見た。見なければよかった。

 一段、一段。鉄のハシゴは冷えきっていて、手袋越しでも、冷たさが骨まで来る。握りしめると、金属がギッと鳴る。風が耳元で、びょう、びょうと唸る。ザックが風を受けて、背中を軽く引っ張る。


「いま僕、自分の握力を信じてます。人生でいちばん、握力を信じてます」

「いいね! その調子で信じてて! 握力の推し活して!」


 ハシゴを登りきる。

 岩だらけの稜線が、空に向かって、まっすぐ伸びていた。もう周りに、自分たちより高いものが、ほとんどない。

 空が、近い。

 青が、濃い。東京の空の青を、何倍にも煮詰めたような、インクみたいな青だった。

 息が切れる。空気が薄いのがわかる。十歩歩いて、立ち止まって、深呼吸。それでも肺が満タンにならない。でも、苦しさの種類が、きのうとは違った。

 きのうのは「やめたい」苦しさで、きょうのは「まだ行ける」苦しさだった。

 そのときだった。

 岩の陰から、何かが、ひょこっと出てきた。

 鳥だった。茶色と白のまだら模様で、丸っこくて、ずんぐりしている。鳩を少し太らせて、足に白いもこもこのズボンを履かせたような鳥。


「雷鳥!! うっそ、ヤバ、ラッキー!! なかなか会えないんだよ!!」


 日向さんが、小声で絶叫するという、物理的に矛盾した技を繰り出した。

 雷鳥は、二人のことなど、一切気にしていなかった。岩の上を、ひょこ、ひょこ、と歩く。立ち止まって、何かをつつく。また歩く。

 途中で一度だけ、こちらを見て、「グゥ」と、カエルみたいな、ちょっと間の抜けた声で鳴いた。

 そして、何事もなかったように、岩の向こうへ消えていった。

 標高三一〇〇メートル。僕が三か月練習して、ハシゴにしがみつき、握力を信じ、肺をぜいぜい言わせて、やっとたどり着いた場所を、あの鳥は、近所のコンビニに行くみたいな顔で歩いていった。


「……日向さん。いま僕、鳥に負けた気がします」

「勝てるわけないじゃん! 向こう、地元民だよ!?」

「地元民」

「しかも、たぶん、あの子もサエキっちと同じで、休日ずっと家にいるタイプ」

「……雷鳥に、親近感がわきました」



    ◇



 奥穂高岳(おくほたかだけ)。三一九〇メートル。

 山頂の小さな祠(ほこら)の前に立ったとき、僕は、その場でゆっくり、ぐるりと、三百六十度回った。

 北に、天を突き刺すような、鋭い槍の穂先が見えた。槍ヶ岳(やりがたけ)。ほんとうに槍の形をしていて、僕は「名前をつけた人、見たまんまだな」と思った。そこから自分たちのいる場所まで、ギザギザの岩の稜線が、恐竜の背骨みたいにうねりながら続いている。

 西には、どっしりと構えた笠ヶ岳(かさがたけ)。名前のとおり、笠をかぶった人みたいな形をしている。名前をつけた人、やっぱり見たまんまだ。

 南東には、遠く、遠く、雲の海の上に、小さな三角形が、ぽつんと浮かんでいた。


「あれ、富士山ね」

「……嘘でしょう。乾徳山からは、あんなに大きかったのに」

「日本でいちばん高い山が、ここからだと『あんな小さいの』になんの。ウケるっしょ」


 足元を見下ろした。

 きのう、あれだけ苦しんで登った涸沢(からさわ)のカールが、手のひらに乗りそうなくらい小さく見えた。テントは、もう色の点ですらない。赤と黄色の、ぼんやりしたにじみ。

 あそこから、来たのだ。

 いや、もっと言えば。

 七月の高尾山から、来たのだ。七十代に抜かれ、バカ尾根の山頂で倒れ、乾徳山の鎖で腕を震わせ、エクセルで計画書を作り、河童橋からPCの壁紙みたいな壁を見上げて「冗談ですよね」と言った。

 ソフトクリームの掟を守り、鉄板を太ももに貼られ、ペンギン歩きで小学生に抜かされ、塩飴に救われ、肘と足といびきの三連撃を食らい、満天の星の下で初めて誰かとちゃんと話し、朝焼けで泣き、岩のパズルを解き、鳥に負けて。

 ぜんぶ、自分の足で。

 サーバー室の人が。「ええと、佐藤くん」が。カーテンを閉め切った部屋の住人が。

 今、日本で三番目に高い場所に、立っている。

 風が、ゴウッと吹き抜けていった。汗で湿ったシャツの背中が、一瞬で冷たくなる。ぶるっと、震えた。

 それすら、なんだか、気持ちよかった。


「さて!」


 日向さんが、ボロボロのザックの中に、手を突っ込んだ。


「二か月の封印を解きます! 本日の、メインイベントです!」


 取り出したのは、ポテトチップスの袋だった。

 パンパンだった。

 松本駅のコンビニで買ったときは、ふにゃっとして、空気がちょっと入っているだけの、普通の袋だった。それが今、張り裂けそうなほど膨らんで、四隅までピンと張りつめて、ほとんど小さな枕になっている。

 指で押すと、ぽよん、と押し返してくる。生き物みたいだった。

 乾徳山のグミの「ちょい膨らみ」なんて、比べものにならなかった。

 僕は、吹き出した。

 止まらなかった。

 知識としては、知っていた。気圧が下がれば、密閉された袋の中の気体は膨張する。ボイルの法則だ。高校の化学だ。歓送迎会で、僕自身が苦し紛れに口走ったことだ。

 でも、知っているのと、見るのとは、全然違った。

 三一九〇メートルの空の下、ピンクのクマのネイルに挟まれて、パンパンに膨らんだうすしお味の袋は、どうしようもなく、間抜けで、可笑しかった。

 笑いすぎて、岩に手をついた。腹筋が痛い。きのうから酷使された太ももが、笑いの振動でまた悲鳴を上げる。それがまた可笑しくて、笑う。

 人生で、こんなに声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。

 隣にいた知らないおじさんが、こちらを見て、袋を見て、つられて笑い出した。その隣にいた若いカップルも笑い出した。山頂の祠の前で、見知らぬ大人たちが、膨らんだポテチの袋を囲んで、げらげら笑っていた。


「ほら! これ見るためだけに登ってもいいっしょ!」

「……いいです。全然、いいです。これは、三か月練習する価値があります」

「でしょ! 掟、守ってよかったでしょ!」

「……はい。守ってよかったです」


 ついでに、僕も自分のザックを漁ってみた。

 日焼け止めのチューブが、パンパンに膨らんでいた。

 何も考えずに、キャップを開けた。

 ぶにゅっ。

 勢いよく中身が飛び出して、僕の顔面に、まっすぐ直撃した。メガネまで、真っ白になった。


「…………」

「ぶっっ」


 今度は、日向さんが崩れ落ちた。


「真っ白……! サエキっち、真っ白……! メガネまで……! ヤバい、お化け……! ちょ、写真撮らして……っ」

「やめてください。ボイルの法則の被害者です。何も見えません」

「ボイルって誰!? ウケる!!」


 ティッシュでメガネを拭き、顔にべったりと日焼け止めを貼りつけたまま、僕はポテチの袋を受け取った。

 そっと、端をつまんで、引っ張る。

 ぽふん。

 間の抜けた音がして、袋の中の空気が、三一九〇メートルの青い空に、逃げていった。

 うすしお味は、しょっぱくて、ザックの中で押されて少し割れていて、塩の粒が指にざらりとくっついて、最高においしかった。

 食べ終わった空き袋は、日向さんが差し出したジップロックに入れて、ぴったり封をした。


「ゴミは持ち帰り。これも掟」



    ◇



 昼過ぎには山荘に戻り、午後はテラスで、雲が谷から湧き上がってくるのを、ぼんやり眺めた。予定を詰め込まないのも、計画書のうちだった。

 その夜は、計画書どおり、穂高岳山荘に泊まった。

 相部屋の布団と布団のあいだには、一人ずつ衝立が立っていた。

 ……はずだった。


「すみません、ここだけ衝立が一枚足りなくて。お連れさん同士なので、大丈夫ですよね?」


 スタッフさんが、申し訳なさそうに言った。足りない一枚は、ちょうど僕と日向さんのあいだだった。


「だいじょぶでーす!」

「だいじょぶじゃないです」


 僕の声は、日向さんの返事に、きれいにかき消された。

 消灯後。日向さんは、また三秒で寝た。

 ゴスッ。

 二晩連続で、みぞおちの、寸分違わず同じ場所だった。


「ぐふっ」

「……むにゃ……ぽふん……」


 寝言が、一日でアップデートされていた。

 流れ星に願った「肘が飛んでこない寝床」は、叶わなかった。

 僕は、暗闇の中で、少しだけ笑った。ミイラの姿勢は、もうやめていた。

 翌朝、ザイテングラートを慎重に下り、涸沢で、あの夫婦がつついていたおでんをやっと食べ、上高地までの長い長い道を戻った。下りは、登りとは別の筋肉が泣いた。太ももの前側の鉄板は、膝の上に移動して、今度はアイロンになった。



    ◇



 下山の日の夜。帰りのバスの中で、僕はスマートフォンで地図を眺めていた。

 太ももは、もう鉄板どころではなかった。鉄筋コンクリートだった。バスの座席から立ち上がるたび、変な声が出る。たぶん明日の朝、会社の階段で、確実に生まれたての小鹿になる。システム部の後輩には、また「現場ですか」と聞かれるだろう。

 今度は、「うん、ちょっとね」と答えてやろうと思った。

 指は、勝手に、地図をなぞっていた。

 山頂から見た、あの鋭い槍の穂先。そこに続く、恐竜の背骨みたいな、ギザギザの稜線。


「……日向さん」

「んー……」


 隣で、日向さんは寝かけていた。窓に頭をもたせかけて、金髪が、バスの振動でかすかに揺れている。


「槍ヶ岳って」

「うん」

「ポテチ、もっと膨らみますか」


 日向さんの目が、ぱちっと開いた。


「……槍、奥穂より十メートル低いから、ちょびっとだけしぼむ」

「……そうなんですか」

「うん。それでも行く?」


 僕は、少し考えた。

 膨らむかどうかは、もう、どうでもよかった。


「……行きたいです」


 日向さんは、しばらく、僕の顔を、じっと見つめた。

 それから、歓送迎会のときと同じくらい、いや、それ以上に、ぱあっと、顔じゅうで笑った。


「ようこそ、こっち側へ!」


 それから、ピンクのクマのネイルで、僕の肩をばしばし叩いた。


「じゃ、来月も行こ! まずは雪が来る前に、近場で足慣らしね! 予定、空けといてよね、サエキっち!」


 僕は、少し考えてから、答えた。


「……予定は、いつも空いてます」

「知ってる!」


 日向さんは、また、窓の外の暗闇に響くくらいの声で笑った。

 窓の外は、もう真っ暗だった。でも僕の目の奥には、燃える岩壁と、白く流れる星の川と、ひょこひょこ歩く地元民の後ろ姿が、まだはっきりと焼きついていた。

 ザックの中では、ポテチの空き袋を入れたジップロックが、平地の空気に押されて、くしゃっと縮んでいた。中には、三一九〇メートルの薄い空気が、まだ閉じ込められている。

 その夜、僕はカレンダーアプリの十一月のページを開いた。祝日しか並んでいなかったそのページに、予定がひとつ、入った。

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― 新着の感想 ―
山が実感を持って染み込んできます。暑さと筋肉と美味しさと色。空気の味と紅葉の暴力的な美しさと夜空の高さと朝焼けと。そしてそれらを体感するために一番大事な生命を守る登り方(撤退基準は大切だ)。 素晴らし…
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