ポテチが膨らむ高さまで
僕の名前は佐伯という。
二十八歳。システム部。社内での通称は「サーバー室の人」。名前を覚えられていないわけではない、と信じたいが、去年の忘年会で部長に「ええと……佐藤くん?」と言われたので、たぶん覚えられていない。
趣味は、休日に部屋のカーテンを閉め切って、積みゲーを崩すこと。もしくは崩さずに眺めること。彼女いない歴は年齢と同じで、最近はもう、それを数える行為そのものに飽きている。
そんな僕の人生に、ある日、日向陽菜が落ちてきた。
◇
七月の初め、会社の歓送迎会だった。
僕はいつものように、座敷のいちばん端、柱の陰という、店の構造上もっとも存在感が消える席を確保していた。烏龍茶を両手で持ち、誰にも話しかけられないよう、全力で壁の一部になっていた。
そこに、ドサッと誰かが座った。
金色の髪。耳にじゃらじゃら光るピアス。爪には、ラメの入ったショッキングピンクのネイルに、なぜか小さなクマが乗っている。営業部の日向さんだった。社内でいちばん声が大きく、いちばん笑い声が響き、いちばん僕とは別の惑星に住んでいる人だ。
「ねー、ここ座っていい? あっちマジうるさくてさー」
座ってから聞くのは質問ではなく宣言だと思うが、僕は「あ、はい」と言った。それ以外の語彙が、緊急停止していた。
「てかさ、サエキっちってさ」
サエキっち。
二十八年の人生で、僕に「っち」をつけた人類は初めてだった。
「休みの日、何してんの?」
「……ゲーム、とか」
「へー! あたし山!」
「やま」
「そ、山登り。こないだも八ヶ岳行ってきた。マジ最高だった」
意外すぎて、脳の処理がタイムアウトしかけた。山。このギャルが、山。もっとこう、ナイトプールとか、そういうところに生息している人だと思っていた。
会話を続けなければ、という謎の義務感が、僕の口を勝手に動かした。
「……山の上だと、ポテチの袋、膨らむんですよね。気圧で」
言ってから、死にたくなった。なんだその雑学。なぜ今それを。
ところが、日向さんの目が、ぱあっと輝いた。
「それ!!!」
座敷じゅうが振り向くくらいの声だった。
「それ、マジで面白いんだって! パンッパンになんの! 枕みたいになんの! あたし毎回見て爆笑してんの! え、サエキっち見たことある?」
「いや、知識として、知っているだけで……」
「えー見よ! 行こ! 十月の頭、涸沢と奥穂! 一緒に行くはずだった友達、彼氏とディズニー行くとか言い出してさー、マジ裏切りなんだけど。サエキっち空いてる?」
予定は、いつも空いている。というか、僕のカレンダーアプリは、ほぼ祝日表示のためだけに存在している。
「いや、僕、運動とか、全然……」
「だいじょぶだいじょぶ! 歩けば着くから! 山って、歩けば着くようにできてんの!」
そこで日向さんは、急に真顔になった。
「ただし! いきなり三千メートルはマジで危ないから、練習してからね。七月、八月、九月で一回ずつ。三回とも来れたら、十月連れてく。来れなかったら、ナシ」
ギャルの口から出たとは思えない、まっとうな安全管理だった。
なぜ断らなかったのか、今でもよくわからない。たぶん、人生で誰かに「行こ!」と誘われたのが、小学校の遠足以来だったからだ。
◇
三日後、僕は登山用品店にいた。
店員さんに足のサイズを測られ、何足も履かされ、斜めの板の上を歩かされた。つま先が当たらないか、かかとが浮かないか。靴を買うのに、こんなに真剣に自分の足と向き合ったのは初めてだった。
「新しい靴は硬いので、慣らしで近所を歩いてくださいね」
言われたとおり、二週間、通勤に履いていった。
チノパンに、ごつい茶色の登山靴。駅の階段で、ソールがゴッ、ゴッ、と工事現場の音を立てる。システム部の後輩に「佐伯さん、今日どこか現場ですか」と真顔で聞かれた。現場ではない。サーバーのログを見ているだけである。
その間、日向さんは、昼休みのたびにシステム部の島にやってきた。
「サエキっちー! ザック買った? 何リットル?」
「さ、三十……」
「いいじゃん! あとレインウェア上下ね! 上だけとかマジ死ぬから! あとヘッデン!」
「へっでん」
「ヘッドライト! あと行動食ね、これ超だいじ。あと保険! 山岳保険、絶対入って!」
彼女がシステム部に来るたび、フロアの空気が三度上がり、僕の周囲の席の人たちが、そっと僕を二度見した。何かを誤解されている気がする。誤解されても困らない人生なのが、我ながら悲しかった。
【七月 高尾山・稲荷山コース】
集合場所の高尾山口駅で、僕は最初の衝撃を受けた。
日向さんのザックが、ボロボロだったのだ。
もとは鮮やかな赤だったらしい生地は日に焼けて色褪せ、あちこちに擦り切れた跡があり、補修のパッチが三枚も貼ってある。ストックのグリップは手の形に黒ずみ、登山靴のつま先は岩に削られて、革が白くなっていた。
ギャルなのに、装備が歴戦の傭兵だった。
一方の僕は、全身が新品だった。ザックのタグすら切っていなかった。値札が、ぶらぶら揺れていた。
「サエキっち、それ取りな。値段バレてる」
「……すみません」
「てか、ピッカピカじゃん! 新入生じゃん!」
「……日向さんのそれ、何年使ってるんですか」
「ザック? 七年かな。高校の山岳部からだから」
「さんがくぶ」
「そ。ギャルだけど山岳部。ウケるっしょ」
ウケるというか、情報の整合性が取れなかった。僕の中の「ギャル」フォルダと「山岳部」フォルダが、互いにアクセス権限を拒否し合っていた。
七月の低山は、地獄の釜だった。
登山口に一歩入った瞬間、湿気が顔にべたりと貼りついた。蒸し風呂の扉を開けたときの、あのむわっとした空気。木々に覆われた尾根道は日陰のはずなのに、空気そのものが熱を持っている。
セミが鳴いていた。一匹や二匹ではない。全方位から、立体音響で鳴いていた。ミンミン、ジージー、カナカナ。音の壁に、四方から押されている感じがした。
五分で、全身から汗が噴き出した。
十分で、Tシャツが背中にべったり貼りついた。
二十分で、メガネが汗ですべり落ちてきた。押し上げても、また落ちてくる。鼻の上に、小さな滝ができていた。
木の根が、階段みたいに地面から浮き出ている。それをまたぐたびに、太ももがじわっと熱くなる。
「サエキっち、歩幅、大きすぎ」
「……はい?」
「階段の半分くらいの気持ちで。ちまちま、ちまちま。大股で歩くのは、山ではイキってる人のやることなの」
半信半疑で、歩幅を半分にした。よちよち歩きのペンギンみたいになる。屈辱的だった。
なのに、不思議なことに、耳の後ろで暴れていた心臓が、少しだけおとなしくなった。
「……なんか、ちょっと楽です」
「でしょ! 山は、ちまちま歩いた人が勝つの」
三十分後、後ろから、楽しげな話し声が近づいてきた。
「それでね、うちの孫がね」
「あらやだ、うちもよ」
おばあちゃんの集団だった。五人。全員、七十代に見えた。全員、色違いの帽子をかぶっていた。
彼女たちは、ペンギン歩きの僕を、世間話をしながら、軽やかに、一人ずつ抜いていった。最後の一人が、すれ違いざまに、ちらっと僕を見た。
「若い人、がんばってねえ」
がんばってね、と言われた。二十八歳が、七十代に。
僕は、その後ろ姿を見送りながら、静かに、人類の進化について考えた。
◇
山頂に着くと、急に視界がひらけた。
湿った森を抜けた瞬間、風が吹いてきた。汗で濡れたシャツの背中に、その風が当たる。ひやっ、とした。全身の毛穴が、いっせいに「ありがとう」と言った気がした。
山頂の茶屋で、日向さんがとろろそばを二つ頼んだ。
冷たいそばの上に、真っ白なとろろがたっぷりかかっている。箸ですくうと、とろろがつるんと糸を引く。すすると、ひんやりした喉ごしのあとに、そばの香りが鼻に抜けた。汗でしょっぱくなった口の中が、すうっと洗われていく。
信じられないくらい、おいしかった。
「……これ、下界で食べたら、たぶん普通のそばですよね」
「そう! それが山の魔法なの。山で食べると、全部三倍おいしくなんの」
「三倍」
「でも疲れも三倍だから、プラマイゼロ!」
「それ、魔法じゃなくて、等価交換です」
「ウケる! なにそれ!」
日向さんは、そばをすすりながら、ピンクのクマのネイルでピースした。
「サエキっち、一回目、合格!」
「……七十代に抜かれましたけど」
「あの人たち、たぶん高尾山に千回登ってるから。ノーカン!」
【八月 丹沢・塔ノ岳 大倉尾根】
「通称、バカ尾根ね」
大倉のバス停で、日向さんは言った。
「なんでそんな名前なんですか」
「バカみたいに長いから!」
本当に、バカみたいに長かった。
標高差、約千二百メートル。高尾山の、約三倍。その道のりが、ひたすら階段でできていた。
木の階段。石の階段。木と石の混ざった階段。丸太を土に埋め込んだ階段。ところどころ、段差が一段だけ異様に高い階段。登っても登っても階段。階段が終わったと思ったら、その先にまた階段。
無限ループのバグかと思った。開発者を呼んでほしかった。
八月の太陽は、容赦なかった。木陰のない区間に出ると、頭のてっぺんを、直接フライパンで焼かれているみたいだった。汗が額から目に流れ込んできて、しみる。拭いても拭いても、しみる。
そして、そこで僕は、人生最大の文化的衝撃を受けた。
高尾山は人が多すぎて、すれ違う人と挨拶なんてしていなかった。ところが、ここは違った。
すれ違う人、すれ違う人が、全員、挨拶をしてくるのだ。
「こんにちはー」
「こんにちは!」
「こんにちはぁ」
おじいさんも、大学生も、ものすごい速さで駆け下りていくトレイルランナーも。みんな、目を合わせて、当たり前のように声をかけてくる。
僕は、パニックになった。
知らない人からの、挨拶。僕の人生において、知らない人から声をかけられるのは、だいたい宗教の勧誘か、道を聞かれるか、あるいは「すみません、そこ私の席です」のどれかだった。
「こ、こん、こんちには……」
噛んだ。
「サエキっち、こんちには、て」
日向さんが、腹を抱えて笑った。階段の上で、ストックにすがりついて笑っていた。
「山ではね、すれ違ったらみんな挨拶すんの。誰でも。どんな人でも」
「……どんな人でも」
「そ。偉い人も、普通の人も、ギャルも。こんにちは、って言って、すれ違うだけ」
次の人とすれ違うとき、僕は意を決して言った。
「こ、こんにちは」
「こんにちは! 暑いですねえ」
返ってきた。普通に、笑顔で、返ってきた。
なんだこれは、と思った。なんだこのバグは。いや、こっちが仕様なのか。
◇
山頂まであと少しの花立山荘に着いたとき、僕のHPは、ほぼゼロだった。
太ももは、もう自分のものではなかった。誰か別の人の脚を、レンタルで借りて動かしている感じがした。しかも、その脚が明らかに不満を持っていた。
「サエキっち、ここ、かき氷あるよ」
「かきごおり」
その単語だけで、僕は生き返った。
山小屋のベンチで食べたかき氷は、ガリガリした氷の粒が舌の上で溶けて、甘いシロップと一緒に、喉の奥を冷たく滑り落ちていった。頭がキーンとした。キーンとしながら、もう一口食べた。またキーンとした。
振り返ると、さっき登ってきた尾根が、はるか下まで、うねうねと続いていた。その向こうに、相模湾が、銀色の板みたいに光っていた。
「……あそこから、登ってきたんですか」
「そうだよ。サエキっちの足で」
「……僕の足、今、他人の足になってますけど」
「あはは! それ、明日もっと他人になるよ。筋肉痛で」
◇
塔ノ岳の山頂に着いたとき、僕は文字どおり、地面に倒れ込んだ。
仰向けになると、空が回っていた。夏の積乱雲が、ゆっくり形を変えながら流れていく。背中の下の地面は、日差しで温まっていて、少しだけ心地よかった。
日向さんが差し出してきたスポーツドリンクが、喉を滝のように落ちていった。
「これ登れたら、涸沢までの登りは行ける。荷物重くなるし、空気薄くなるけどね」
「……あの」
「ん?」
「ポテチ、膨らみましたか」
日向さんは、にやっと笑った。
「持ってきてない」
「え」
「ポテチは、本番まで封印」
「なんでですか」
「サエキっちが初めて見る膨らんだポテチは、三千メートルで見なきゃダメなの。これは掟」
「掟」
「そ。あたしが今決めた」
ふざけているのに、日向さんは本気の顔をしていた。
僕は、よくわからないけれど、その掟は守ろうと思った。
◇
翌日、会社の階段で、僕は生まれたての小鹿になった。
一段降りるたびに、太ももの前側に電気が走る。手すりにしがみつき、一段、また一段。後ろから来た総務の女性が、そっと僕を追い抜いていった。
「佐伯さん、大丈夫ですか?」
「……山です」
「やま?」
「……山に、やられました」
総務の女性は、不思議そうな顔をして去っていった。
その日の昼、日向さんがシステム部に来て、小鹿状態の僕を見て、爆笑した。フロアじゅうに響き渡る声だった。周りの人たちが、また僕を二度見した。
【九月 山梨・乾徳山】
「ここで、三点支持を覚えます」
徳和の登山口で、日向さんは言った。
乾徳山。標高二〇三一メートル。山頂の直下に、鎖場と岩場がある。三千メートルの穂高に向けた、最後の練習だった。
「さんてんしじ」
「両手両足、四本のうち、三本は必ず岩についてること。動かすのは一本ずつ。穂高はこれのもっと高くて長いやつがあるから、ここで体に覚えさせて」
九月の山は、七月や八月とは、空気が違った。
登山口の沢沿いを歩くと、水の音が涼しい。森の中はひんやりとして、少し湿った土と、落ち葉と、きのこみたいな匂いがした。汗はかく。でも、真夏みたいに、汗に全身が溺れるような感じはない。かいた汗が、ちゃんと風に乾かされていく。
「秋の山、最高でしょ」
「……はい。今のところ、生きてます」
「その基準、低すぎない?」
森を抜けると、急に視界がひらけた。国師ヶ原という、広い草原だった。
そこからさらに登った扇平には、ススキの原が広がっていた。風になびいて、銀色の波みたいに、ざわざわと揺れている。その向こうに、乾徳山の岩の頂が、ごつごつと空に突き出していた。
ススキの中に、月見岩という大きな岩があった。そこで振り返った瞬間、僕は息をのんだ。
富士山だった。
雲の上に、巨大な富士山が、どーんと浮かんでいた。教科書の写真でも、銭湯の壁画でもない。本物が、そこにいた。思っていたより、ずっと大きかった。視界の真ん中を、堂々と占領していた。
「……でかい」
「でかいよね! ここ、富士山の特等席なの」
日向さんは、富士山に向かってピースした。それから、ちょっとだけ黙った。
「……ここ来ると、なんか、楽なんだよね」
「楽」
「うん。なんでもない」
日向さんは、すぐにいつもの声に戻った。
「さ、行こ! 鎖場、すぐだよ!」
僕は、その「なんでもない」が少しだけ気になった。でも、聞き返す語彙を持っていなかった。
◇
鳳岩は、垂直に近い一枚岩だった。
ほぼ真上に向かって、岩の壁がそそり立っている。そこに、太い鉄の鎖が、上から一本、だらりと垂れていた。
「……これを、登るんですか」
「登るんです!」
「……垂直ですよ」
「ほぼ垂直ね。完全な垂直じゃないから大丈夫!」
何が大丈夫なのかは、説明されなかった。
まず、日向さんがお手本を見せた。鎖に手をかけ、岩のくぼみに靴を押しつける。体を壁から少し離し、足の裏全体で岩を踏む。右手、左足、左手、右足。一本ずつ動かして、するすると登っていく。
ピンクのクマのネイルが、鎖と岩のあいだを、迷いなく渡っていく。
「サエキっちー! 鎖に頼りすぎないでね! 鎖は補助! メインは足!」
僕は、鎖をつかんだ。
鉄の感触が、手のひらに冷たく食い込む。思っていたより、ずっと重くて、ずっとごつごつしていた。引っ張ると、ジャラッ、と低い音がした。
岩に、靴を押しつける。
岩は、ざらざらしていた。靴底のゴムが、岩の表面にキュッと食いつく感触が、足の裏から伝わってくる。
右手を、一つ上へ。
体重を、右足に移す。
左足を、少し上のくぼみへ。
心臓が、バクバクいっている。下を見ると、さっきまでいた地面が、思ったよりずっと下にあった。見なければよかった。
「上だけ見て! 次、左手、その出っ張り!」
左手を伸ばす。岩の出っ張りをつかむ。指先に、岩の冷たさと、ざらつきが伝わる。
腕が、ぷるぷる震えていた。生まれたての小鹿の、腕バージョンだった。
「腕で登らないで! 足で立つの! 足が階段、手は手すり!」
言われて、気づいた。僕は、全身の体重を、腕だけで支えようとしていた。
足に、体重を乗せる。膝を伸ばす。すると、体が、ふっと上に持ち上がった。腕の震えが、少しおさまった。
なるほど、と思った。足が階段で、手は手すり。
それから先は、一手ずつ、一手ずつ。
右手。右足。左手。左足。
岩の形を見る。どこに足を置けるか考える。置いてみる。体重を乗せる。乗った。次。
途中から、怖さが、少しずつ、別のものに変わっていった。
何に変わったのかは、よくわからなかった。ただ、目の前の岩と、手足の感触と、次の一手のこと以外、頭から全部消えていた。
◇
岩の上に這い上がったとき、僕は、しばらく四つん這いのまま動けなかった。
腕が、しびれていた。膝が、笑っていた。心臓が、まだ全力疾走していた。
でも。
顔を上げると、また、富士山がいた。
さっきよりも高い場所から見る富士山は、さっきよりも、もっと大きかった。雲が、その裾をゆっくりと流れていく。九月の空は、八月よりも、少しだけ青が澄んでいた。
「……登れました」
「登れたね!」
日向さんが、両手を広げて駆け寄ってきた。そして、ピンクのクマのネイルで、僕と思いきりハイタッチした。
パチン、と、乾いた音が、山頂に響いた。
手のひらが、じんと痺れた。
日向さんの手のひらは、思っていたよりずっと硬かった。指の付け根に、分厚いたこがある。
ギャルの手ではなかった。いや、ギャルの手で、そして、山の手だった。
女性とハイタッチしたのは、人生で初めてだった。
◇
山頂で休憩していると、僕のザックの雨蓋から何かがはみ出しているのに、日向さんが気づいた。
行動食のグミの袋だった。
それが、ほんの少しだけ、ぷくっと膨らんでいた。
「あ、これ……」
僕が手に取ろうとした瞬間、日向さんが、ものすごい速さで、その袋を両手で覆い隠した。
「見ちゃダメ!!」
「え」
「それ、ちょい膨らみ! ネタバレ! ちょい膨らみは見ちゃダメなの!」
「……ネタバレ」
「初めての膨らみは、三千メートルのポテチで見るって決めたじゃん! 掟!」
日向さんは、グミの袋を僕のザックの奥深くに押し込み、さらにその上からレインウェアを詰めて、封印した。
「よし! これで見えない!」
「……日向さん、この掟、そんなに大事なんですか」
「大事!」
日向さんは、真剣な顔で言った。
「最初の一回ってさ、一回しかないじゃん。だから、いちばんいいとこで見てほしいの」
僕は、何も言えなかった。
ただ、ザックの奥で、グミの袋がこっそり膨らんでいるのを想像した。見てはいけないものが、自分の背中にある。少しだけ、わくわくした。
【出発前】
出発の一週間前、僕は日向さんに、一つのファイルを送った。
エクセルで作った、登山計画書だった。
一枚目のシートに、日程、ルート、各区間のコースタイム、宿泊先、メンバーの氏名と緊急連絡先。二枚目に、装備リスト。チェックボックス付き。三枚目に、エスケープルート。体調不良や天候悪化のときに、どこから下りるか。
四枚目に、中止基準。
「前日の予報で、稜線の風速十五メートル以上、または降水確率五十パーセント以上なら、奥穂は中止。涸沢から下山」
条件付き書式で、該当するとセルが真っ赤になる。予備日も、一日入れてあった。
山について調べていくうちに、わかったことがある。山の事故の多くは、無理をしたときに起きる。天気が悪いのに進んだとき。疲れているのに引き返さなかったとき。予定どおりに帰らなきゃ、と焦ったとき。
だから、引き返す基準を、先に決めておく。
それなら、僕にもできる。僕の仕事は、毎日、障害が起きたときの手順を決めておくことだからだ。
昼休み、日向さんがシステム部の島に駆け込んできた。
「サエキっち、これ何!? 天才じゃん!?」
天才、と言われたのは、人生で初めてだった。
「長野県って、北アルプスは計画書の提出が必要なんですよね。あと、山岳保険にも入りました。言われたとおり」
「マジ完璧! あたしいつも計画書、スマホのメモに三行で書いてるもん!」
「……それは、改善したほうがいいと思います」
「はい! 改善します!」
日向さんは、敬礼した。
「あとね、ここの中止基準のとこ、めっちゃいい。天気悪かったら、ちゃんとやめよ。山は逃げないから」
「……はい」
「でも晴れたら、行くよ。三千メートル」
日向さんは、にっと笑った。
「サエキっち、三回とも来たね。合格。十月、連れてく」
フロアの空気が、三度上がった。周りの席の人たちが、そっと僕を二度見した。今回は、二度見されても、あまり気にならなかった。
◇
その夜、僕は、部屋のカーテンを開けた。
いつもは閉め切っている窓の向こうに、東京の夜空があった。黒い画用紙に、白い点をまばらに打ったみたいな、寂しい空だった。
日向さんは、三千メートルの空は全然違う、と言っていた。
床には、パッキング途中のザックが転がっている。七月の高尾山で、値札がぶら下がっていた、あのザックだ。今は、肩ベルトに少しだけ、汗の跡がついている。
奥のほうには、乾徳山から持ち帰ったグミの袋が、まだ入っていた。封印したまま、なんとなく食べられずにいたのだ。
平地の空気に押されて、袋は、元どおりのふにゃっとした形に戻っていた。
僕はスマートフォンを手に取り、カレンダーアプリを開いた。
十月のページ。祝日の表示しかなかったそのページの、最初の金曜日から日曜日にかけて、僕は文字を打ち込んだ。
「涸沢・奥穂高」
金曜日には、入社以来はじめて、「私用」で有給を入れた。
祝日以外の文字が、十月のページに入った。
たった六文字なのに、画面が、少しだけ明るくなった気がした。
◇
十月、最初の金曜日。上高地のバスターミナルに降り立った瞬間、鼻が驚いた。
空気が、冷たいのに、甘い。濡れた土と、苔と、針葉樹の樹液みたいな青い匂いが混ざっていて、ひと息吸うごとに、鼻の奥がすうっと冷える。ミントガムを噛んだあとに冷水を飲んだときの、あの感じ。七月の高尾山の、あのむせかえる湿気とは、まるで別の惑星の空気だった。
僕の部屋の空気とは、明らかに成分が違った。僕の部屋の空気は、たぶん二酸化炭素と、カップ麺の残り香と、孤独でできている。
「空気って、味、するんですね……」
「でしょー!? 東京の空気、排気ガスとタピオカの味じゃん」
計画書は、ネットで提出済みだった。それでも念のため、印刷した控えを、バスターミナルの登山相談所のポストに入れた。日向さんが「サエキっち、ほんと抜かりないよね」と笑った。抜かりがないのではない。抜かりがあると不安で眠れない性格なだけだ。
梓川の水は、嘘みたいに透明だった。透明すぎて、そこに水があることを脳が一瞬信じない。川底の白い石が、ひとつひとつ数えられる。
「サエキっち、手ぇ入れてみ」
言われるまま、しゃがんで手を突っ込んだ。
三秒で後悔した。
冷たいというより、痛い。指の骨を直接つかまれたような冷たさで、五秒後には、指先の感覚がまるごとどこかへ出張していた。
「それ、北アルプスの雪どけとか湧き水が集まってきた水だから!」
「……先に言ってください」
「言ったらやんないじゃん!」
日向さんは、腹を抱えて笑った。その笑い声が、川の音と一緒に、谷に響いていく。
河童橋の上に立つと、真正面に、灰色の巨大な岩の壁がそびえていた。上のほうは、うっすら雲をかぶっている。
「あれが穂高! 明日、あのてっぺんにいるよ!」
僕は、壁を見上げた。首が痛くなるくらい見上げた。乾徳山の鳳岩なんて、あれに比べたら、ブロック塀だった。
あれは、登るものではない。PCの壁紙に設定されるものだ。それも、デフォルトの、誰も変更しないやつ。
「……冗談、ですよね」
「冗談で三千メートル登る人いないっしょ!」
◇
最初の三時間は、拍子抜けするほど平らだった。
梓川沿いの林道を、ひたすら歩く。足元は砂利で、一歩ごとにザリ、ザリ、と小気味いい音がする。カラマツの林は、緑にうっすら黄色が混じりはじめたところで、ところどころ、気の早いカラマツが、細い針みたいな葉をちらちら降らせていた。
髪に刺さる。服に刺さる。気づくと僕の黒いフリースは、金色の小さな針がところどころに刺さって、さながら安っぽいラメ加工だった。
「サエキっち、キラキラじゃん! ギャル化してんじゃん!」
「……不本意です」
すれ違う人は、ここでも全員、挨拶をしてきた。バカ尾根で学習済みの僕は、今回は噛まずに言えた。三回に一回は。
明神を過ぎ、徳沢に着く。日向さんが当然のように売店に吸い込まれていき、ソフトクリームを二本持って出てきた。
「はい!」
「登山って、ソフトクリーム食べながらするものなんですか」
「徳沢では食べる。これは掟」
「掟、多くないですか」
「山は掟でできてんの! あたしと、日本中の登山者の胃袋が決めた!」
濃いミルクの味が、乾いた喉にべったりと貼りつく。冷たさが、食道を下りていくのがわかる。めちゃくちゃおいしかった。
僕は思った。バカ尾根に比べたら、登山、楽勝では?
あとで振り返ると、この瞬間が、僕の人生で最も楽観的だった十分間である。
◇
横尾で梓川を離れ、橋を渡ったところから、山は本性を現した。
道が、急に石だらけになった。それも、きれいに並んだ石ではない。大きいの、小さいの、尖ったの、苔でぬるっとしたの、乗った瞬間にグラッと揺れる性格の悪いやつ。それらが、無秩序に、上へ上へと積み重なっている。
太ももが重くなる。最初は「ちょっと疲れたかな」程度だった。三十分後には、太ももの前側に、誰かが熱々の鉄板を一枚ずつ貼りつけていく感覚になった。一歩踏み出すたびに、鉄板が一枚。ジュウ。
小屋泊まりの荷物は、バカ尾根のときの倍近い重さだった。ザックのベルトが肩に食い込む。しかも、標高が上がるにつれて、空気がじわじわ薄くなっていく。息を吸っても、肺の上半分までしか入ってこない。心臓が、耳のすぐ後ろでドクドク鳴っている。うるさい。黙ってほしい。
汗が、背中とザックのあいだで、ぬるい池になっている。
本谷橋を渡ってからの登りは、僕の人生で最も長い二時間半だった。バカ尾根より長く感じた。
「……なんで来たんだろう」
「うんうん」
「……帰りたい」
「うんうん」
「日向さん、ヘリって呼べませんか。有料でいいので。ボーナス全部出すので」
「呼べるけど、疲れた人は乗せてくんないよ?」
「疲れて死にそうな人は」
「死にそうな人は、そんなに喋んない!」
日向さんは、僕の後ろから、まったく息を切らさずについてきていた。鼻歌まで歌っていた。人類として、何かが根本的に違う。
「てかサエキっち、歩幅! 高尾で教えたじゃん!」
言われて気づいた。僕はいつの間にか、大股で、ぐいぐいと、イキった歩き方をしていた。
「……パニックで、記憶がロールバックしてました」
歩幅を半分にする。よちよちペンギン。後ろから来た小学生くらいの男の子に、普通に抜かされた。彼は「こんにちは!」と元気に挨拶して、軽やかに去っていった。七月は七十代に、十月は小学生に。僕は全世代に抜かれていく。
それでも、心臓の音が、少しだけ静かになった。鉄板の追加ペースも、ちょっとだけ落ちた。
休憩のたびに、僕は石に座り込んだ。そのたびに、日向さんがピンクのクマのネイルで、ジップロックから何かを取り出して、僕の手のひらに落とした。
塩飴だった。
舌の上で、しょっぱさと甘さが同時にじゅわっと広がる。汗で失われた何かが、体の中に急速に補充されていくのがわかる。こんなに塩がおいしいと思ったのは、生まれて初めてだった。
「ちなみにさー」
「はい」
「サエキっちが『帰りたい』って言った回数、数えてる」
「数えないでください」
「十九回!」
「数えないでくださいって」
「あと、『死ぬ』が八回!」
「……カテゴリ分けもしないでください」
◇
そして、最後の斜面を、四つん這いに近い姿勢で登りきったとき。
僕は、口を開けたまま、固まった。
目の前に、巨大なすり鉢があった。
直径が一キロはありそうな、ゆるやかにくぼんだ谷。氷河が何万年もかけて削った地形、カールだと日向さんが教えてくれた。
その斜面一面が、燃えていた。
ナナカマドの赤は、ただの赤ではなかった。熟れたトマトの赤、郵便ポストの赤、夕焼けの赤、日向さんのネイルのショッキングピンクに近い赤。全部違う赤が、斜面のあちこちで、まだらになって混ざっている。そのあいだを、ダケカンバの黄色が、レモン色に光りながら縫っていて、さらにその下を、ハイマツの深い緑が、ビロードみたいに埋めている。
まるで巨人が、絵の具のチューブを全部まとめてわしづかみにして、山肌にぶちまけたみたいだった。しかも、ぶちまけたあとに「まあ、いいか」と手を拭かなかった感じの、遠慮のない色だった。
僕のモニターは、一六七七万色を表示できる。
でも、そのどれとも、違った。
そのすり鉢を、ぐるりと、灰色の岩の壁が取り囲んでいる。今朝、河童橋から首が痛くなるほど見上げた穂高を、今度は反対側から見上げていた。その壁が、手を伸ばせば触れそうな近さで、ずらりと並んでいる。
そのふもとに、テントが何百張りも並んでいた。赤、黄、オレンジ、青、緑。カラフルなグミを、地面にばら撒いたみたいだった。
グミ。乾徳山で封印された、あのグミを思い出した。
「……日向さん」
「ん」
「これ、ネットで画像、見たことありましたけど」
「うん」
「全然、違います」
声が、ちょっと震えていた。太ももの鉄板のことは、完全に忘れていた。
日向さんは、満足そうに、にっと笑った。
「でしょ! 山の写真ってさ、だいたい詐欺なの。本物のほうがヤバいから。逆詐欺!」
◇
山小屋のテラスで飲んだ缶ビールは、人生で一番おいしかった。
練習の山はぜんぶ日帰りで、日向さんは「日帰りは下りで足にくるから、お酒は小屋泊まりのときだけ」と言って、飲ませてくれなかった。帰りの電車では、いつも二人とも爆睡していた。だからこれが、二人で飲む最初の一本だった。
プシュッと開けた瞬間、炭酸の泡が、山の冷たい空気の中に、しゅわしゅわ弾ける。ひと口目が喉を通るとき、冷たさと苦みと炭酸が、乾ききった体の中に一気に染み渡っていく。体じゅうの細胞が、いっせいに「あ゛ー」と言った気がした。
「……本谷橋からの二時間半、全部このための下ごしらえだったんですね」
「わかった? 山って、ビールをおいしくするための装置なの!」
乾杯の缶が、カコン、とぶつかった。
女性と乾杯したのは、人生で初めてだった。会社の飲み会では、いつも乾杯の瞬間、僕のグラスは誰のグラスにも届かない位置にある。
隣のテーブルでは、六十代くらいの夫婦が、湯気の立つおでんをつつきながら、「去年は雪が早くてね」「あんた、ここで転んだでしょ」「転んでない、座っただけだ」と言い合っていた。向こうでは、大学の山岳部らしい若者たちが、地図の上で明日のルートを指でなぞりながら、なぜか全員カップヌードルのシーフード味を食べていた。
その中の一人が、日向さんのボロボロのザックを見て、目を見開いた。
「あの、それ、もしかして……」
「あ、これ? 高校のとき、インハイ出たときのやつ!」
「インハイ!?」
若者たちが、どよめいた。
日向さんは、照れもせず、ピースサインをした。ネイルのクマが、稜線の上に残った最後の光を受けて、きらっと光った。
山岳部だったことは聞いていた。インターハイは、初耳だった。僕はビールの缶を握ったまま、また情報処理が追いつかなくなっていた。
◇
問題は、夜だった。
「今日、混んでるんで、ちょっと狭いですけど、お二人はこちらでお願いしますね」
受付のスタッフさんが、とても爽やかに言った。
案内されたのは、壁とカーテンで仕切られた、二人用の小さな区画だった。仕切りがあるのは、隣のグループとのあいだだけ。僕と日向さんのあいだには、何もない。布団は二枚。ただし、隙間はゼロだった。
「……はい?」
「おっけー! サエキっち、壁側と通路側どっちがいい?」
「…………」
「サエキっち? おーい? フリーズしてる?」
してた。完全に、していた。ブルースクリーンだった。
消灯後、僕は人生最大の静止を求められた。
仰向けで、両手を体の脇にぴったりつけ、気をつけの姿勢で横たわる。呼吸の音すら殺す。寝返りなど、もってのほかだ。ミイラだ。僕はミイラになるのだ。三千年くらい、このまま動かないのだ。
隣で、日向さんが「おやすみー」と言った。
そして、三秒で寝た。
本当に、三秒だった。すう、すう、という寝息が聞こえてくる。
僕は、天井を見つめた。暗闇の中で、天井の木の板がぼんやり見える。隣から、ほんのり、日焼け止めとシャンプーと、汗と、山の匂いが混ざった匂いがした。
心臓が、本谷橋のときより、うるさかった。
そのとき。
日向さんが、寝返りを打った。
ゴスッ。
彼女の肘が、僕のみぞおちに、正確にクリーンヒットした。
「ぐふっ」
「……むにゃ……ポテチ……」
寝言だった。
続けて、彼女の足が、布団の境界線を越えて、僕の脛に乗ってきた。重い。登山で鍛えられた脚は、想像の三倍重かった。
さらに、仕切りの向こうから、地響きのようないびきが始まった。カーテン一枚では、音までは仕切れない。
ゴォォォ……、ゴッ、ゴッ……、フシュー。
一定ではない。しばらく止まって、僕が「……生きてる?」と心配になった頃に、倍の音量で再開する。休符の多い前衛音楽だった。
あとで知ったが、テラスで「転んでない、座っただけだ」と主張していた、あのおじさんだった。
肘。足。いびき。
ロマンスの気配は、一ミリもなかった。あったのは、純粋な物理攻撃だけだった。
僕は、ミイラの姿勢のまま、声を殺して笑った。布団が、小刻みに震えた。
◇
寝られる気がまったくしなかったので、僕は、日向さんの足をそっと持ち上げて脱出し、外に出た。
扉を開けた瞬間、寒さが、顔を殴ってきた。
昼間の、汗で湿った暖かさが嘘のように、空気がキンと張りつめている。鼻から吸うと、鼻毛が凍るんじゃないかと思った。ダウンジャケットのチャックを、あごの先まで上げる。
そして、見上げた。
空が、うるさかった。
星が、多すぎるのだ。東京の夜空は、黒い画用紙に、白い点をまばらに打ってあるだけだ。ここの夜空は、違う。光の粉を、黒い布の上に袋ごとひっくり返したみたいだった。ぶちまけたあとに、かろうじて黒い隙間が残っている、という比率だった。
天の川が、本当に川の形をしていた。白くけぶった帯が、穂高の岩壁の上から、反対側の稜線まで、空を斜めに横切っている。
実在したんだ、と、僕は本気で思った。教科書と、ゲームの背景にしか、存在しないものだと思っていた。
「……帰りたく、ないな」
誰に言うでもなく、口からこぼれた。言ってから、自分で驚いた。
「……サエキっち?」
後ろで、声がした。
振り向くと、日向さんが、ダウンにくるまって立っていた。首から下げたヘッドランプの明かりの中で、寝ぐせの金髪が片側だけ爆発している。
「起きたら、いないからさー。トイレかと思ったら、ずっといないし」
「……すみません。眠れなくて」
「あたしのせい?」
「……肘と、足と、いびきのせいです。いびきは、日向さんじゃないですけど」
「あはは、マジごめん! あたし寝相、山岳部でも伝説だったんだよね」
日向さんは、僕の隣に立って、空を見上げた。
しばらく、二人とも、黙っていた。
吐く息が、白く、星の手前で消えていく。
僕は、ずっと気になっていたことを思い出した。九月の乾徳山。月見岩で富士山を見ながら、日向さんがこぼした、あの一言。
「……日向さん。乾徳山で、『ここ来ると楽』って言ってましたよね」
「え、覚えてたの」
「はい。聞き返す語彙が、あのときは無くて」
日向さんは、少し笑って、それから、ゆっくり言った。
「んー。山ってさ、見た目、関係ないじゃん」
「見た目」
「あたしさ、こんなんだから、どこ行っても『ギャルだー』って顔されんの。会社でも、取引先でも。あ、こういう子ね、って。べつに嫌じゃないんだけど、たまにちょっと疲れる」
ネイルのクマが、星明かりで、かすかに光っていた。
「でも山ではさ、みんな、こんにちはって言うだけじゃん。あとは、自分の足で登るだけ。ギャルでも陰キャでも、同じ岩を、同じように登んの。誰も代わってくれないし、誰にも邪魔されない。だから、楽」
陰キャ、と、さらっと言われた。でも、なぜか、全然、刺さらなかった。
僕は、バカ尾根の挨拶を思い出した。きょうの上高地の挨拶も。おじいさんも、大学生も、トレイルランナーも、小学生も。誰も、僕を二度見しなかった。誰も、僕の名前を間違えなかった。ただ、まっすぐ目を見て、こんにちは、と言って、すれ違っていった。
「……僕、山に来てから、人生の合計より多く挨拶されてます」
「あはは! 何回?」
「数えてません」
「数えなよ! あたし、サエキっちの『帰りたい』数えてたのに!」
そのとき、流れ星が、すっと、ひとつ落ちた。続けて、もうひとつ。
願い事を考える暇もなかった。とっさに頭に浮かんだのは「肘が飛んでこない寝床」だった。
◇
「明日、三時半起きね!」
寝る前に、日向さんは言っていた。
「三時半は、もう夜です」
「起きればわかるから!」
小屋に戻った瞬間、メガネが真っ白に曇った。冷えきったレンズに、中の温かい空気がまとわりついたのだ。何も見えない。手探りで布団に戻ったあと、いつの間にか眠っていたらしい。
起こされた。真っ暗だった。
ヘッドランプの光の中に浮かび上がった日向さんの顔は、なぜか、メイクが完璧だった。三時半なのに。いつ塗ったのか。物理法則を超えている。
体は布団に溶けていて、太ももの鉄板は、一晩寝かせてしっかり冷えて固まっていた。起き上がろうとした瞬間、両脚がそろって悲鳴を上げた。階段を下りるとき、手すりにしがみつく僕の姿勢は、完全に生まれたての小鹿だった。
「サエキっち、小鹿じゃん! バンビじゃん! かわいー!」
「……人生で、かわいいと言われたのも初めてです」
「マジで? じゃあ今日、初めて記念日いっぱいじゃん!」
テラスに出る。息が真っ白だ。手袋の中でも、指が冷たい。テント場のあちこちで、ヘッドランプの光がちらちら揺れている。蛍みたいだ。
誰もが、同じ方向、穂高の岩壁を見上げている。
背中側の東の空が、ゆっくり、ゆっくり、白んでいく。その光を受けて、目の前の空も、群青から紫へ、紫の端っこから桃色へと、少しずつ溶けていく。星が、ひとつずつ消えていく。ログアウトしていくみたいに。
そして、ある瞬間だった。
いちばん高い頂の、てっぺんの岩に、ぽっ、と火がついた。
ほんとうに、マッチを擦ったみたいに。
その火は、見る間に、隣の峰へ、さらに隣の岩稜へと、燃え広がっていった。上から下へ、炎がゆっくり降りてくる。灰色だったはずの岩壁が、熟れた柿のオレンジに、それから、溶けた鉄みたいな赤に染まっていく。
下には、きのうの紅葉の赤。上には、燃えている岩の赤。それがひとつながりの炎になって、すり鉢全体を包んでいた。
「モルゲンロート。朝焼けの、山バージョン」
日向さんが、いつもの半分以下の声量で言った。
周りの誰も、喋らなかった。カシャ、カシャというシャッター音と、誰かの「……すご」という、ほとんど息みたいな声だけが聞こえた。
僕は、自分の頬が濡れていることに気づいて、慌ててメガネを押し上げ、フリースの袖で拭いた。
なんで泣いているのか、わからなかった。悲しくもない。嬉しいのとも、ちょっと違う。ただ、何か大きすぎるものを目に入れてしまって、体の処理が追いつかず、オーバーフローした分が、目から出てきた、という感じだった。
横を見ると、日向さんも、鼻をすすっていた。せっかくの完璧なマスカラが、ちょっとだけ、にじんでいた。
「……日向さん、何回も見てるんですよね」
「何回見ても、こうなんの」
◇
天気は、快晴だった。風も弱い。僕が作った計画書の中止条件のセルは、一つも赤くならなかった。
穂高岳山荘までの道は、ザイテングラートという名前の、岩の尾根だった。
「ドイツ語で『支尾根』って意味ね。乾徳山でやった三点支持、覚えてる? 今日はあれの本番」
覚えていた。でも、正直、怖かった。
乾徳山の鳳岩は、せいぜいビル数階分の高さだった。ここは違う。足元の岩の隙間から、はるか下のテント場が見える。さっきまでいたグミの群れが、もうゴマ粒くらいに小さい。風が吹くたびに、体がふわっと持っていかれそうになる。
僕は、岩にしがみついた。
岩は、ざらざらしていた。紙やすりの荒いやつみたいな手触りで、手のひらにしっかり食いつく。朝日を浴びた面は、ほんのり温かかった。日陰の面は、まだ夜の冷たさを残していて、触れると指先がきゅっと縮む。
前を行く日向さんは、まるで重力の設定が違うみたいだった。
岩に手をかける。体がすっと上がる。次の手がかりを、見もせずにつかむ。ピンクのクマのネイルが、灰色の岩の上を、迷いなく渡っていく。
「サエキっちー、右足、そこの出っ張り! そうそう! で、左手、その割れ目!」
ひとつ、手がかりをつかむ。右足を、出っ張りにかける。体重を乗せる。ぐっと、体を持ち上げる。
足が階段で、手は手すり。乾徳山で覚えた動きを、体がちゃんと思い出していた。
もうひとつ。左手を、あの割れ目に。左足は、あの平らなところ。
それを繰り返しているうちに、僕の頭の中で、何かが、カチッと切り替わった。
これ、パズルだ。
どこに手をかけるか。どの岩に足を置くか。目の前の岩をひとつずつ「読んで」、体で答えを出していく。答えが合っていると、体がすっと上に運ばれる。間違っていると、足がずるっと滑って、心臓がひゅっと縮む。
正解すると、ちょっと嬉しい。
いや、違う。
これは、ゲームだ。
それも、僕が今までやってきた、どのゲームよりも、解像度が高い。グラフィックは現実で、物理演算は本物で、コントローラーは自分の体そのもので、セーブもロードもない。だからこそ、一手一手を丁寧に選ぶ。一手ごとに、景色という報酬が開放されていく。
乾徳山で、怖さが「何か別のもの」に変わりかけた。その正体が、今わかった。
気づくと、頭の中から、全部が消えていた。
サーバーの障害アラートも、未読のチャット四十二件も、部長の「ええと、佐藤くん?」も。
あるのは、次の一手だけ。
「……楽しい」
思わず、口からこぼれた。
上で、日向さんが振り返って、目を丸くした。
「え、いまなんて?」
「……楽しい、です」
「きのう『帰りたい』って三十二回言ってた人とは思えないんだけど!?」
「最終的に、三十二回だったんですか」
「でも夜、星見ながら『帰りたくない』って一回言ってたから、差し引き三十一回!」
「……聞いてたんですか」
「聞こえた!」
「それは、盗聴です」
「あたしの肘のぶんもカウントしようか迷ったんだよね」
「それは、日向さんの攻撃ログです」
◇
穂高岳山荘の脇から、いよいよ山頂への最後の登りが始まる。
いきなり、鉄のハシゴと鎖が現れた。ほぼ垂直の岩場に、ハシゴがボルトで打ち込まれている。
「下は見なくていいよ。上だけ見て!」
「見ないでって言われると見たくなるのが人間だって、知ってます?」
見た。見なければよかった。
一段、一段。鉄のハシゴは冷えきっていて、手袋越しでも、冷たさが骨まで来る。握りしめると、金属がギッと鳴る。風が耳元で、びょう、びょうと唸る。ザックが風を受けて、背中を軽く引っ張る。
「いま僕、自分の握力を信じてます。人生でいちばん、握力を信じてます」
「いいね! その調子で信じてて! 握力の推し活して!」
ハシゴを登りきる。
岩だらけの稜線が、空に向かって、まっすぐ伸びていた。もう周りに、自分たちより高いものが、ほとんどない。
空が、近い。
青が、濃い。東京の空の青を、何倍にも煮詰めたような、インクみたいな青だった。
息が切れる。空気が薄いのがわかる。十歩歩いて、立ち止まって、深呼吸。それでも肺が満タンにならない。でも、苦しさの種類が、きのうとは違った。
きのうのは「やめたい」苦しさで、きょうのは「まだ行ける」苦しさだった。
そのときだった。
岩の陰から、何かが、ひょこっと出てきた。
鳥だった。茶色と白のまだら模様で、丸っこくて、ずんぐりしている。鳩を少し太らせて、足に白いもこもこのズボンを履かせたような鳥。
「雷鳥!! うっそ、ヤバ、ラッキー!! なかなか会えないんだよ!!」
日向さんが、小声で絶叫するという、物理的に矛盾した技を繰り出した。
雷鳥は、二人のことなど、一切気にしていなかった。岩の上を、ひょこ、ひょこ、と歩く。立ち止まって、何かをつつく。また歩く。
途中で一度だけ、こちらを見て、「グゥ」と、カエルみたいな、ちょっと間の抜けた声で鳴いた。
そして、何事もなかったように、岩の向こうへ消えていった。
標高三一〇〇メートル。僕が三か月練習して、ハシゴにしがみつき、握力を信じ、肺をぜいぜい言わせて、やっとたどり着いた場所を、あの鳥は、近所のコンビニに行くみたいな顔で歩いていった。
「……日向さん。いま僕、鳥に負けた気がします」
「勝てるわけないじゃん! 向こう、地元民だよ!?」
「地元民」
「しかも、たぶん、あの子もサエキっちと同じで、休日ずっと家にいるタイプ」
「……雷鳥に、親近感がわきました」
◇
奥穂高岳。三一九〇メートル。
山頂の小さな祠の前に立ったとき、僕は、その場でゆっくり、ぐるりと、三百六十度回った。
北に、天を突き刺すような、鋭い槍の穂先が見えた。槍ヶ岳。ほんとうに槍の形をしていて、僕は「名前をつけた人、見たまんまだな」と思った。そこから自分たちのいる場所まで、ギザギザの岩の稜線が、恐竜の背骨みたいにうねりながら続いている。
西には、どっしりと構えた笠ヶ岳。名前のとおり、笠をかぶった人みたいな形をしている。名前をつけた人、やっぱり見たまんまだ。
南東には、遠く、遠く、雲の海の上に、小さな三角形が、ぽつんと浮かんでいた。
「あれ、富士山ね」
「……嘘でしょう。乾徳山からは、あんなに大きかったのに」
「日本でいちばん高い山が、ここからだと『あんな小さいの』になんの。ウケるっしょ」
足元を見下ろした。
きのう、あれだけ苦しんで登った涸沢のカールが、手のひらに乗りそうなくらい小さく見えた。テントは、もう色の点ですらない。赤と黄色の、ぼんやりしたにじみ。
あそこから、来たのだ。
いや、もっと言えば。
七月の高尾山から、来たのだ。七十代に抜かれ、バカ尾根の山頂で倒れ、乾徳山の鎖で腕を震わせ、エクセルで計画書を作り、河童橋からPCの壁紙みたいな壁を見上げて「冗談ですよね」と言った。
ソフトクリームの掟を守り、鉄板を太ももに貼られ、ペンギン歩きで小学生に抜かされ、塩飴に救われ、肘と足といびきの三連撃を食らい、満天の星の下で初めて誰かとちゃんと話し、朝焼けで泣き、岩のパズルを解き、鳥に負けて。
ぜんぶ、自分の足で。
サーバー室の人が。「ええと、佐藤くん」が。カーテンを閉め切った部屋の住人が。
今、日本で三番目に高い場所に、立っている。
風が、ゴウッと吹き抜けていった。汗で湿ったシャツの背中が、一瞬で冷たくなる。ぶるっと、震えた。
それすら、なんだか、気持ちよかった。
「さて!」
日向さんが、ボロボロのザックの中に、手を突っ込んだ。
「二か月の封印を解きます! 本日の、メインイベントです!」
取り出したのは、ポテトチップスの袋だった。
パンパンだった。
松本駅のコンビニで買ったときは、ふにゃっとして、空気がちょっと入っているだけの、普通の袋だった。それが今、張り裂けそうなほど膨らんで、四隅までピンと張りつめて、ほとんど小さな枕になっている。
指で押すと、ぽよん、と押し返してくる。生き物みたいだった。
乾徳山のグミの「ちょい膨らみ」なんて、比べものにならなかった。
僕は、吹き出した。
止まらなかった。
知識としては、知っていた。気圧が下がれば、密閉された袋の中の気体は膨張する。ボイルの法則だ。高校の化学だ。歓送迎会で、僕自身が苦し紛れに口走ったことだ。
でも、知っているのと、見るのとは、全然違った。
三一九〇メートルの空の下、ピンクのクマのネイルに挟まれて、パンパンに膨らんだうすしお味の袋は、どうしようもなく、間抜けで、可笑しかった。
笑いすぎて、岩に手をついた。腹筋が痛い。きのうから酷使された太ももが、笑いの振動でまた悲鳴を上げる。それがまた可笑しくて、笑う。
人生で、こんなに声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
隣にいた知らないおじさんが、こちらを見て、袋を見て、つられて笑い出した。その隣にいた若いカップルも笑い出した。山頂の祠の前で、見知らぬ大人たちが、膨らんだポテチの袋を囲んで、げらげら笑っていた。
「ほら! これ見るためだけに登ってもいいっしょ!」
「……いいです。全然、いいです。これは、三か月練習する価値があります」
「でしょ! 掟、守ってよかったでしょ!」
「……はい。守ってよかったです」
ついでに、僕も自分のザックを漁ってみた。
日焼け止めのチューブが、パンパンに膨らんでいた。
何も考えずに、キャップを開けた。
ぶにゅっ。
勢いよく中身が飛び出して、僕の顔面に、まっすぐ直撃した。メガネまで、真っ白になった。
「…………」
「ぶっっ」
今度は、日向さんが崩れ落ちた。
「真っ白……! サエキっち、真っ白……! メガネまで……! ヤバい、お化け……! ちょ、写真撮らして……っ」
「やめてください。ボイルの法則の被害者です。何も見えません」
「ボイルって誰!? ウケる!!」
ティッシュでメガネを拭き、顔にべったりと日焼け止めを貼りつけたまま、僕はポテチの袋を受け取った。
そっと、端をつまんで、引っ張る。
ぽふん。
間の抜けた音がして、袋の中の空気が、三一九〇メートルの青い空に、逃げていった。
うすしお味は、しょっぱくて、ザックの中で押されて少し割れていて、塩の粒が指にざらりとくっついて、最高においしかった。
食べ終わった空き袋は、日向さんが差し出したジップロックに入れて、ぴったり封をした。
「ゴミは持ち帰り。これも掟」
◇
昼過ぎには山荘に戻り、午後はテラスで、雲が谷から湧き上がってくるのを、ぼんやり眺めた。予定を詰め込まないのも、計画書のうちだった。
その夜は、計画書どおり、穂高岳山荘に泊まった。
相部屋の布団と布団のあいだには、一人ずつ衝立が立っていた。
……はずだった。
「すみません、ここだけ衝立が一枚足りなくて。お連れさん同士なので、大丈夫ですよね?」
スタッフさんが、申し訳なさそうに言った。足りない一枚は、ちょうど僕と日向さんのあいだだった。
「だいじょぶでーす!」
「だいじょぶじゃないです」
僕の声は、日向さんの返事に、きれいにかき消された。
消灯後。日向さんは、また三秒で寝た。
ゴスッ。
二晩連続で、みぞおちの、寸分違わず同じ場所だった。
「ぐふっ」
「……むにゃ……ぽふん……」
寝言が、一日でアップデートされていた。
流れ星に願った「肘が飛んでこない寝床」は、叶わなかった。
僕は、暗闇の中で、少しだけ笑った。ミイラの姿勢は、もうやめていた。
翌朝、ザイテングラートを慎重に下り、涸沢で、あの夫婦がつついていたおでんをやっと食べ、上高地までの長い長い道を戻った。下りは、登りとは別の筋肉が泣いた。太ももの前側の鉄板は、膝の上に移動して、今度はアイロンになった。
◇
下山の日の夜。帰りのバスの中で、僕はスマートフォンで地図を眺めていた。
太ももは、もう鉄板どころではなかった。鉄筋コンクリートだった。バスの座席から立ち上がるたび、変な声が出る。たぶん明日の朝、会社の階段で、確実に生まれたての小鹿になる。システム部の後輩には、また「現場ですか」と聞かれるだろう。
今度は、「うん、ちょっとね」と答えてやろうと思った。
指は、勝手に、地図をなぞっていた。
山頂から見た、あの鋭い槍の穂先。そこに続く、恐竜の背骨みたいな、ギザギザの稜線。
「……日向さん」
「んー……」
隣で、日向さんは寝かけていた。窓に頭をもたせかけて、金髪が、バスの振動でかすかに揺れている。
「槍ヶ岳って」
「うん」
「ポテチ、もっと膨らみますか」
日向さんの目が、ぱちっと開いた。
「……槍、奥穂より十メートル低いから、ちょびっとだけしぼむ」
「……そうなんですか」
「うん。それでも行く?」
僕は、少し考えた。
膨らむかどうかは、もう、どうでもよかった。
「……行きたいです」
日向さんは、しばらく、僕の顔を、じっと見つめた。
それから、歓送迎会のときと同じくらい、いや、それ以上に、ぱあっと、顔じゅうで笑った。
「ようこそ、こっち側へ!」
それから、ピンクのクマのネイルで、僕の肩をばしばし叩いた。
「じゃ、来月も行こ! まずは雪が来る前に、近場で足慣らしね! 予定、空けといてよね、サエキっち!」
僕は、少し考えてから、答えた。
「……予定は、いつも空いてます」
「知ってる!」
日向さんは、また、窓の外の暗闇に響くくらいの声で笑った。
窓の外は、もう真っ暗だった。でも僕の目の奥には、燃える岩壁と、白く流れる星の川と、ひょこひょこ歩く地元民の後ろ姿が、まだはっきりと焼きついていた。
ザックの中では、ポテチの空き袋を入れたジップロックが、平地の空気に押されて、くしゃっと縮んでいた。中には、三一九〇メートルの薄い空気が、まだ閉じ込められている。
その夜、僕はカレンダーアプリの十一月のページを開いた。祝日しか並んでいなかったそのページに、予定がひとつ、入った。




