第003食:寂れた港町と海神の怒り
海の幸は、気まぐれだ。
昨日までの豊穣が、一夜にして怒りの荒波に変わることもある。
だが、食いしん坊の少年は知っている。海のご機嫌を直す一番の方法は、
最高の「ご馳走」を捧げることだということを。
これは、怒れる海の魂を、一杯の料理で鎮めてしまった、奇妙な英雄たちの物語。
一行がたどり着いたのは、潮風が香る活気あふれる港町「汐見」だった。玄蔵の醤に合う最高の魚介を求めるには、うってつけの場所だ。市場には威勢のいい声が飛び交い、新鮮な魚介がところ狭しと並べられている。
「うっひょー! すっげー! どれもこれもぴっちぴちだ!」
クウガは目を爛々と輝かせ、市場の喧騒へと飛び込んでいった。
「こら、クウガ! 勝手に屋台のものを食うんじゃないぞ!」
シンの叫びも虚しく、クウガはあっという間に人波に消えていく。アヤはそんな二人を微笑ましく眺めながら、早速、この町の特産品や相場の調査を開始していた。
ところが、その平穏は、翌日、唐突に終わりを告げた。
夜明けと共に、それまで穏やかだった海が、まるで獣のように牙を剥いたのだ。空は鉛色に曇り、黒い荒波が港に打ち付ける。漁師たちは誰一人、船を出すことができなかった。
そんな日が、三日三晩続いた。市場から新鮮な魚介は消え、町の活気は嘘のように失われてしまった。
「海神様がお怒りなんじゃ…」
港の長老が、絶望に顔を歪めて呟く。原因不明の海の荒れように、人々はただ祈ることしかできなかった。
そんな中、クウガは一人、荒れ狂う波打ち際に立っていた。
彼は、打ち付ける波しぶきをぺろりと舐めると、難しい顔で首を傾げた。
「うまい! けど、すっげーしょっぱい! …じゃなくて、怒ってる味がするな、これ。なんだか、腹の底で冷たい鉄の塊が『邪魔だ』って叫んでるみたいな、そんな不機嫌な味だ」
「お前はまたそんな訳の分からないことを…」
呆れるシンをよそに、クウガは断言した。
「この海、腹の底で何かがカンカンに怒ってるぞ。すっげー不機嫌な味だ」
その言葉を、アヤは聞き逃さなかった。彼女はすぐに情報収集に走り、やがて一つの噂を掴んでくる。
「この港の沖合には、旧文明の鉄の船が沈んでいるそうですわ。それが、今回の荒波で動き出し、海の『気』を乱しているのではないかと…」
つまり、ゴーストだ。アヤの瞳が、儲け話を見つけた商人の色に変わる。
「もし、その船を引き揚げられれば、一攫千金ですわね!」
「そんな危険なことできるわけないだろ!」
シンが真っ青になって反対する。
アヤとシンが言い争っている間も、クウガは真剣な顔で海をじっと見つめていた。
「なあ、シン。怒ってるやつを黙らせるには、どうすればいいと思う?」
「え? そゃあ、話を聞くとか、謝るとか…」
「違うぞ、シン」
クウガは、にっと笑った。
「腹いっぱいうまいものを食わせてやればいいんだ!」
そう言うと、クウガは荷馬車から、あの迷惑な豊作で手に入れた巨大野菜と、玄蔵の工房でもらった奇跡の醤を取り出した。
「ちょっ、お前、何を!?」
シンが止める間もなく、クウガは巨大なカブをまな板代わりに、野菜をざくざくと切り分け、大きな樽の中で醤と豪快にかき混ぜ始めた。即席の「海の幸のための漬物」だ。
『ほう、面白い! 契約者よ、海の魂に供物を捧げるか! 我輩がその祈りを増幅させてやろう!』
「頼むぜ、ラミエル!」
クウガは完成した巨大な漬物を、仲間たちに手伝わせて、荒れ狂う海へと放り込んだ。
「海よ! これ食って、機嫌直せーっ!」
漬物が海に消えた瞬間、海面が淡い金色の光を放ち、ごぼりと大きく泡立った。ラミエルの力が、クウガの捧げた「ご馳走」を、海のゴーストの元へと届けていたのだ。
海の底で、旧文明の遺物が発していた不機嫌なエネルギーの波長が、極上の旨味成分によって中和されていく。
すると、嘘のように、荒れ狂っていた波が静まり始めた。分厚い雲の隙間から太陽の光が差し込み、鉛色だった海は、穏やかな瑠璃色へとその姿を変えた。
港の人々が呆然とする中、さらに信じられない光景が広がる。
静けさを取り戻した海面に、無数の魚たちが、まるで一行に感謝を捧げるかのように、きらきらと鱗を輝かせながら飛び跳ね始めたのだ。見たこともないほどの、大漁の兆しだった。
「うおおおおお! 海神様が…海神様が、お怒りを鎮めなさったぞ!」
最初に叫んだのは、港の長老だった。その震える指が、穏やかになった海と、そこに躍る無数の魚たちを指し示す。一人、また一人と、その奇跡を目の当たりにした人々が、堰を切ったように声を上げた。それはもはや歓声というよりも、絶望の底から這い上がった者たちの、魂の咆哮だった。
「海が…笑ってる…」
誰かが呟いた。人々は泣き、抱き合い、その場に膝をついて天を仰いだ。さっきまで死んだように静まり返っていた港は、瞬く間に熱狂の渦に飲み込まれていく。屈強な漁師たちが、子供のようにおいおいと泣きながら、我先にと自分たちの船へと駆け出した。錆びついたはずの滑車が、希望の音を立てて回り始める。
地鳴りのような歓声の中心で、シンはただ呆然と腰を抜かしていた。「ありえない…ただの漬物だぞ…?あいつ、一体何をしたんだ…」常識という名の物差しが、目の前でへし折られていく感覚に、彼の頭は完全に追いついていなかった。
一方、アヤは扇子を固く握りしめ、その瞳に商人の炎を燃え上がらせていた。「奇跡…いいえ、これは最高の『商品』ですわ!この物語、高く売れます!」彼女は即座に漁師の組合長に駆け寄り、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。「この『奇跡の魚』、わたくしが独占的に買い付け、西の都で売りさばきましょう!売り上げは…」
そして、この騒ぎの元凶であるクウガは、山のような魚の群れを指さし、きらきらと目を輝かせながら、こう呟いた。
「なあ、シン! 見ろよ! あの魚、塩焼きにしたら絶対うまいぞ! あっちのは煮付けだ!」
彼の頭の中は、これから始まるであろう宴のことで、すっかりいっぱいだった。
「な? うまいもんは、世界を救うんだ」
その日の夕餉は、町を挙げての大宴会となった。港の英雄としてもてなされた一行の食卓には、獲れたてでぴちぴちの海の幸と、玄蔵の醤を使った最高の料理が、これでもかというほど並んでいたことは、言うまでもない。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
海神様の怒りも、クウガの食欲の前ではただの空腹に過ぎませんでした。
どんな困難も「うまそうか、まずそうか」で判断し、神がかり的な幸運で解決してしまう一行。彼らの旅は、ますます予測不能なものになっていきます。
シンの常識はどこまで通用するのか。アヤの懐はどこまで潤うのか。そして、クウガの食欲はどこまで世界を救ってしまうのか。
次は、どんな騒動が彼らを待ち受けているのでしょう。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。
もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




