第028食 紫苑の庭園と、生命(いのち)の味
完璧な「楽園」には、飢えも、争いも、病もない。 だが、そこには、雨に打たれる喜びも、風と競う楽しさも、太陽に焦がれる情熱もない。 果たしてそれは、生命か、それとも、ただの「部品」か。 食いしん坊の少年は、その完璧な理想の奥に潜む、究極の「まずさ」――魂の孤独な叫びを、味わってしまう。 これは、敵の答えが、生命そのものを否定していると知る、最後の対峙の物語。
アヤの機転によって示された光の道標は、天を貫き、遥か東の一点を指し示し続けていた。 一行は、その光だけを頼りに、悪魔派圏の最深部、紫苑の思想が支配する領域の、さらに奥深くへと進んでいった。
光が途絶えたのは、巨大な管理都市の中枢、一切の立ち入りが禁じられた区画の、巨大な金属の扉の前だった。 鏡夜が、まるで一行の到着を計算していたかのように、その扉の前で静かに待っていた。 「お待ちしておりました、『イレギュラー』の皆様。光の道標を辿るとは…あなた方の『非効率な感情』が、古代のシステムさえも動かすとは、実に興味深いデータです」 鏡夜は、一行が成し遂げた奇跡を、「データ」の一言で片付けた。 「我が主、紫苑様が、あなた方にお見せしたいものがございます。彼が目指す『救済』の、最終的な『答え』が」
鏡夜に導かれ、重い扉の先へと足を踏み入れた一行は、息を呑んだ。 そこは、意外にも、無機質な管理室ではなく、巨大な地下空洞に広がる、広大な「庭園」だったからだ。 だが、その光景は、美しさを通り越して、異様の一言に尽きた。
人工の太陽が、寸分の狂いもない光量で、ドーム型の天井から地上を照らしている。管理された風が、一定のリズムで空気を循環させ、鳥も、虫も、一切の「無駄な」生命の気配がない。 見たこともないほど完璧な形をした果実が、病一つなく、害虫一匹いない木々に、それこそ定規で測ったかのように、寸分違わぬ間隔で実っている。 ここは、紫苑の支配型科学によって完璧に管理・運営される、究極の「理想の食料庫」。一つの閉じた世界だった。
「これこそが、我が主の『答え』です」 鏡夜の背後に、あの紫苑のホログラムが静かに浮かび上がった。その瞳は、以前、新・京の地下管理室で対峙した時よりも、さらに深く、冷たい論理の色を宿していた。 「飢えも、奪い合いも、不作もない、完璧な調和。自然という『予測不能な脅威』――干ばつ、冷害、病、虫、そして『不作』が生む人間の『欲望』――その全てから解放された、絶対の安定。これこそが、人類を苦しみから解き放つ、唯一の『救済』だ」
シンは、その完璧なシステムに、畏怖とも嫌悪ともつかぬ感情で立ち尽くしていた。 彼の、物事の「仕組み」を読み解く目が、この庭園の恐るべき全貌を理解し始めていた。 (すごい…。水路、光量、温度、土壌の栄養素…全てが中央の塔(あれか?)から管理され、完璧に循環している。無駄が、ない。……かつて僕があの時計塔に仕掛けたような、『優しいバグ』さえ許さない、完璧な『仕組み(システム)』だ。これほどのものが、本当に可能だなんて…) 彼の知恵が、紫苑の論理の「完璧さ」を理解してしまったからこそ、その冷徹さに、言い知れぬ恐怖を感じていた。
アヤもまた、その「絶対的な供給力」に、商人として戦慄していた。 (これほどの『生産性』と『安定性』…。これでは、どんな『市場』も『価値』も生まれない。いいえ、生まれる必要がない。白浜の塩のような『奇跡』も、玄蔵の醤油のような『職人の技』も、全て『非効率』として排除される。紫苑は、食の『未来』そのものを、ここで完成させ、そして、終わらせている…) 彼女の信じる「価値創造」の哲学が、根底から否定されていた。
二人とも、紫苑の言葉を、その完璧な現実を前にして、否定する言葉を見失っていた。 だが、クウガだけが違った。 彼は、その「楽園」をゆっくりと歩きながら、ずっと、顔を真っ青にしていた。シンやアヤがシステムや価値に圧倒されている間、彼は、そこに「在る」もの、そのものと対話していた。
彼は、たわわに実った、宝石のように完璧な果実を一つ、そっともぎ取った。 その完璧な球体、完璧な色艶。 その果実を、彼は口に運ばなかった。 ただ、自らの鼻先に近づけ、目を閉じ、その「味」を、魂で吸い込んだ。 そして、一言、呟いた。
「……まずい」
シンが、はっとしてクウガを見た。 「え…? 味が、しないのか? それとも、苦いとか…」 クウガは、ゆっくりと首を振った。その瞳には、深い、深い悲しみが浮かんでいた。
「違う。『悲しい』んだ」
「悲しい…?」 「ああ。ここの野菜も、果物も、全部が『ひとりぼっち』で泣いてる味がする」 クウガは、その完璧な果実を、まるで壊れ物を扱うかのように優しく握りしめた。 「太陽も、雨も、風も知らず、仲間の木と競い合うことも、虫に食われる悔しさも、それを乗り越えた喜びも知らねえ。ただ、ここで、『正しく』育てられるだけだ」 彼の研ぎ澄まされた感覚は、その完璧な果実の奥から溢れ出す、魂の叫びを「翻訳」していた。 「こいつら、生きてるのに、全然『楽しくない』んだ! 腹は膨れるかもしれねえ。でも、こんな『心が泣いてる味』のモン食って、誰が幸せになれるんだよ!」
クウガは、ホログラムの紫苑を、真っ直ぐに睨みつけた。 「あんたの『答え』は、わかった。あんたは、飢えをなくすために、生命が持ってる『喜び』を、全部殺したんだ!」 「……!」 紫苑のホログラムの瞳が、初めて、クウガの言葉によって微かに揺らいだように見えた。
「俺は、あんたのそんな飯、絶対に認めねえ!」 クウガは、あの廃墟の故郷で、鎮魂のスープを捧げた時に得た決意を、今、この場所で、紫苑に叩きつける「答え」として見つけた。 「俺の『うまい』で、あんたのその『悲しい味』を、全部、ぶん殴ってやる!」
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
ついに、クウガの「舌」は、紫苑の理想の「欺瞞」――生命そのものから「喜び」を奪っているという本質――を暴き出しました。 彼の研ぎ澄まされた感覚は、今や、敵の思想の核心を「まずい」の一言で断罪する、最強の武器となりました。
『思想の激突』編は、いよいよクライマックス。 次なる物語で、クウガは、この完璧な庭園で、紫苑に対し、自らの「答え」となる一皿を突きつけます。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




