第025食 鎮魂のスープと、東への決意
突きつけられた、もう一つの「IF」。 同じ舌を持ちながら、絶望の果てに心を捨てた男の過去。 食いしん坊の少年は、自らの才能が持つ「影」に、初めて迷い、立ち止まる。 だが、答えは、いつだって彼の原点にあった。 これは、悲しき祈りに「うまい」で応え、自らの進むべき道を照らし出す、決意の物語。
鏡夜が統治する「楽園」を後にした一行の足は、重かった。 荷馬車は、まるで導かれるように、再びあの廃墟――紫苑の故郷――へと戻っていた。 あの日、初めてこの地を訪れた時とは比べ物にならないほど、重く、冷たい空気が三人を包んでいた。
クウガは、一言も発しなかった。 あの「契約の味」……を追体験して以来、彼は自分の舌が信じられなくなったかのようだった。無理もない。これまで「うまい」と信じてきた純粋な感覚が、絶望の果てに「管理」という冷たい答えに繋がる可能性を、魂で知ってしまったのだ。 彼は、道中の携帯食を口にしても、何も言わなかった。味がしないのか、それとも、味わうことを、自ら拒絶しているのか。
(俺と、同じだった……) (俺が信じてきた「うまい」が、あの場所じゃ、人を獣に変える引き金になった……) (もし、ラミエルがいなかったら? シンやアヤがいなかったら? 俺も、あいつと同じように……)
シンは、馬の手綱を握りしめ、唇を噛んでいた。 (彼が見た「地獄」は、人の欲望という「仕組み」が作ったものだった。そして、彼が作った「楽園」は、その欲望を根絶するための、冷徹すぎる「仕組み」…。どちらも、間違っている。でも、じゃあ、答えはどこにあるんだ…?)
アヤもまた、扇子を固く握りしめ、黙り込んでいた。 (鏡夜の言う「贖罪」。なんと歪んだ価値の清算…。でも、あの飢餓の前では、わたくしの信じる「誇り」や「文化」など、本当に無価値だったのかもしれない…)
三者三様の重い問いを抱えたまま、一行は、あのパン屋の跡地で立ち尽くしていた。 クウガは、あの「レシピ帳」が置かれていた石窯の前に、膝を抱えて座り込んでしまった。 この土地に染み付いた、あの「ひもじい」という魂の叫びが、今は、彼自身の迷いと共鳴し、彼を苛んでいた。
どれほどの時が経ったか。 クウガは、ゆっくりと顔を上げた。 彼は、石窯の奥に、あの時見つけた「焼け焦げたパンの欠片」が、まだ残っているのを見つめていた。 そして、彼は思い出す。 あの黒い調理器具から味わった「契約」の味の、その 前 に。 あの古いレシピ帳から感じ取った、か細く、しかし必死だった「祈り」の味を。
「……違う」 クウガが、ぽつりと呟いた。 「俺は、あいつとは違う」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、二人に向き直った。その目には、まだ迷いの色が残っている。だが、それ以上に、何かを確かめずにはいられないという、強い光が宿っていた。 「俺、あいつに答えてやんなきゃなんねえ」 「クウガ…?」 「今、ここにいるあいつじゃねえ。あの時、ここで飢えて、絶望して、それでも『うまいもん』を諦めきれなかった…あの手記を書いた、『あいつ』にだ」
クウガは、荷馬車へと向かうと、決然とした手つきで、これまでの旅で手に入れた「宝物」を取り出していった。 香ノ宮の玄蔵が託した、魂の『幻の醤油』。 時守の村で授かった、時間を司る『時の種麹』。 そして、白浜の海が贈ってくれた、喜びを呼び覚ます『海神の涙塩』。
「シン、火を起こしてくれ! 一番でかい鍋で!」 「アヤさん、俺たちが持ってる、一番うまい水を!」
シンとアヤは、クウガの瞳に戻った光を見て、何も言わずに頷いた。 クウガは、この廃墟に今もなお健気に生えている、素朴な野草を摘み、鍋で煮込み始めた。それは、かつて少年時代の紫苑が、絶望の中で必死に探し集めたかもしれない食材だった。
彼は、その大鍋に、手に入れた素材たちを、祈るように、惜しげもなく注ぎ込んでいく。 『時の種麹』が、食材たちの硬い心を解きほぐし、 『海神の涙塩』が、その奥底に眠っていた「喜び」の味を引き出し、 『幻の醤油』が、バラバラだった味を、一つの温かい「魂」としてまとめ上げていく。
『フム…契約者よ、それは誰に食わせるのだ? ここには、お前たちしかおらんぞ』 ラミエルの問いに、クウガは、立ち上る湯気を見つめながら答えた。 「こいつらだよ。この土地で、腹をすかせて、悲しくて、凍えてる…『あいつら』に食わせるんだ」
やがて、奇跡のような香りを放つ、黄金色のスープが完成した。 クウガは、パン屋の跡地から見つけた、煤だらけの古い椀を丁寧に拭うと、そのスープをなみなみと注ぎ、石窯の前に、そっと置いた。
彼は、湯気の向こうにある、見えざるものたちに語りかける。 「……腹、減ってたんだろ。もう、大丈夫だ」 「争わなくてもいい。我慢しなくてもいい」 「あったかくて、しょっぱくて、腹の底から『うまい』って思えるもん、持ってきたぞ。だから…食ってけよ」
クウガは、そっと目を閉じた。 彼の研ぎ澄まされた感覚が、この土地の「味」の変化を感じ取る。 胸が張り裂けそうだった、あの「ひもじい」という絶望の味と、全てを諦めた「冷たい鉄の味」が、スープの温かい湯気に包まれて、ゆっくりと、ゆっくりと、解けていく。 そして、代わりに満ちてきたのは。 穏やかで、優しくて、どこまでも満たされた…「ありがとう」という、温かい涙の味だった。
この地に縛られていた、紫苑の故郷の魂と、彼自身の悲しき祈りが、クウガの「うまい」によって、確かに「鎮魂」された瞬間だった。
クウガは、涙を拭うと、東の空を真っ直ぐに見据えた。 「シン、アヤ。俺、決めた」 彼の瞳に、もう迷いはなかった。 「俺の仕事は、ただ美味いもんを探すだけじゃねえ。あいつが捨てちまった『心』ごと、食で救ってやる」
紫苑の絶望の原点は、理解した。だが、彼の「やり方」は断じて認めない。 あいつを、そして、あいつの冷たい飯に心が飢えている連中を、本当の意味で「救う」ために。 一行は、紫苑本人が待つ、さらに東の、悪魔派圏の最深部へと、決意を新たに旅立つのだった。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
これにて、紫苑の過去と向き合った『紫苑の鎮魂歌』編は、幕を閉じます。 クウガは、自らの能力の「影」を受け入れた上で、それでも「食は喜びであり、人を癒す力がある」という、紫苑とは対極の答えを出しました。彼の旅の目的は、明確な「救済」の意志へと昇華されたのです。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




