第021食 廃墟の町と、飢えの記憶
忘れられた場所に、忘れられた悲鳴が染み付いている。 それは、声にはならない、ただ「ひもじい」という魂の叫び。 金銭では決して測れない「価値」が、瓦礫の下には眠っている。 食いしん坊の少年は、知ることになる。 この世で最も悲しい味が、豊かな食卓ではなく、何もなくなった廃墟にあるということを。 これは、一行が、敵の心の奥底に眠る、最初の絶望に触れる物語。
紫苑の組織が管理する巨大都市「新・京」を後にしてから、一行は東へと続く荒野を進んでいた。 あの地下管理室での出来事が、三人の心に重い影を落としていた。
「……計算、したかね…」 シンは、馬の手綱を握りしめながら、何度も紫苑の言葉を反芻していた。自分の知恵が「救える命を奪った」という冷徹な論理。彼の瞳からは、いつもの気弱さとは違う、自らの行いの意味を問う、深い苦悩の色が浮かんでいた。
「……贅沢な、感傷…」 アヤもまた、扇子で唇を隠しながら、その表情は硬かった。「飢えの前では誇りなど無価値」という言葉。商売人として、人と人との信頼や、文化が持つ「物語」にこそ価値を見出してきた彼女の信条が、根底から揺さぶられていた。
そして、クウガは。 「……俺と、同じ……」 彼は、ただ黙って、荒野の先に広がる灰色の空を見つめ続けていた。自分と同じ「舌」を持つ男が、なぜ、あの「冷たくて、まずい」答えを選んだのか。その問いが、彼の頭から離れなかった。
旅の空気は重かった。 彼らは今、紫苑の故郷を探しているわけではない。ただ、彼という存在を生み出した「東」の、悪魔派圏の奥深くへと、その答えを求めて進んでいるだけだった。 道は荒れ、空気は澱み、ゴーストの気配も濃くなっていく。
数日後、一行は、完全に道に迷っていた。 鬱蒼と茂る森を抜けた先、そこには、地図にも載っていない、完全に打ち捨てられた「町」の残骸が広がっていた。 家々は半ば崩れ落ち、通りは瓦礫に埋まっている。大規模な火災があったのか、建物の多くは黒く焼け焦げていた。だが、それだけではない。シンが鋭い目で辺りを見回す。
「…おかしい。ただの火事じゃない。どの家も、まるでイナゴに食い荒らされたみたいに、何も残っていない。鍋も、釜も、農具の一つさえも…」 アヤも、荒廃した市場の跡地を見て、息を呑んだ。 「ええ…。略奪にしては、あまりに徹底的すぎますわ。まるで、この町から『食』に関するもの全てを、根こそぎ奪い去ったかのよう…」
その時、クウガが荷馬車からふらりと降り立ち、廃墟の中心で立ち止まった。 彼は、膝をつき、乾いた地面の土をひとつまみ、そっと口に含んだ。 そして、今までにないほどの深い絶望と悲しみに、その顔を歪ませた。
「……味が、する」 「クウガ…?」 「すっげえ、ひもじい味がする…。腹が減って、腹が減って、どうしようもなくて…喉が渇いて、もう涙も出なくて…」 クウガの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。 「この地面全部が、この石ころ全部が、『助けて』って泣いてる味がするんだ…!」 彼の「絶対味覚」は、この土地そのものに染み付いた、何十年も前の「飢餓の記憶」を、鮮烈な「味」として感じ取ってしまっていた。
シンは言葉を失い、ただその場に立ち尽くす。 アヤは、クウガの言葉に突き動かされるように、廃墟の中でもひときわ大きかったであろう、教会の残骸へと足を踏み入れた。 金目のものは、もちろん何もない。祭壇は砕け、ステンドグラスは割れ落ちている。 彼女は、そこで、泥にまみれた小さな木片を拾い上げた。それは、焼け焦げた子供用の木馬の一部だった。
「……」 彼女は、いつものように「お宝は残っていませんわね」と呟こうとして、その言葉を呑み込んだ。扇子を持つ手が、小さく震えている。 「…金銭的な価値は、ゼロ。計量不可能ですわ」 アヤは、木馬の煤を指でそっと拭う。 「ですが…ここには、とてつもなく重い『物語』が眠っていますわね。なぜ、彼らはこれほどまでに飢え、全てを奪われなければならなかったのか…。『飢えを知らない者の感傷』ですって…? ふざけてはいけませんわ」 彼女は、紫苑に投げかけられた言葉を、今、この場所で、本当の怒りをもって否定した。 「わたくし、それを知る必要があります。金儲けのためじゃない。ここで死んでいった人々の『価値』が、ただの『非効率』として切り捨てられるなど、商人として、断じて許せませんもの」
アヤの瞳に、再び強い光が宿った。 その時だった。 「こっちだ!」 クウガが、何かに導かれるように、町の外れにある、かろうじて形を残した石造りの建物へと駆け込んでいった。そこは、小さなパン屋の跡地だった。 石窯の奥に、何か黒い塊が残っている。
クウガが、おそるおそるそれを手に取った。 それは、焼け焦げ、石のように炭化した、パンの最後のひとかけらだった。 そして、その隣。奇跡的に、燃え残った革の表紙に守られるように、一冊の古い手記が挟まっていた。それは、この店の主人が遺した、日々のパンの焼き方と、町での出来事を記した「レシピ帳」のようだった。
クウガが、その煤けたページに、そっと指を触れた。
瞬間。 彼の脳裏に、これまでに感じたことのないほど、強烈な「味」の奔流が流れ込んできた。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
ついに、一行は紫苑の「原点」となる場所へとたどり着きました。『紫苑の鎮魂歌』編の、本当の幕開けです。 この土地に染み付いた、ただ「ひもじい」という絶望の味。そして、アヤの心に火をつけた、金銭では測れない「物語」の価値。
クウガが触れた、あの古いレシピ帳には、一体どのような「味」が、どのような「記憶」が、記されているのでしょうか。 次なる物語で、紫苑の過去の、最初の扉が開かれます。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




