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第002食:頑固な職人と幻の醤油

最高の味には、魂が宿る。


笑い声や、頑固な沈黙、そして時には、誰にも知られぬ涙の味さえも。


これは、食いしん坊の少年が、一杯のひしおに込められた職人の涙の味を解き明かし、


忘れられた祈りの形を、再び呼び覚ます物語。

一行が次に訪れたのは、岩肌を縫うように清流が走り、空気そのものが香ばしい香りを放つ醸造町「香ノかみのみや」だった。


「ここは西でも指折りのひしおの産地ですよ。特に、町一番と謳われる『玄蔵げんぞう』という職人の醤は、一度味わえば他のものは食べられなくなるとか」


アヤが扇子で口元を隠しながら、仕入れてきたばかりの情報を披露する。


「ひしお!」


その単語を聞いた瞬間、クウガの目がカッと見開かれた。


「シン! アヤ! それは絶対うまいやつだ! 行くぞ!」


返事も待たず、クウガは犬のように鼻をひくつかせながら、町の奥へと続く石畳の道を駆け出していった。


「あっ、こら! 勝手に行くな!」


シンの悲鳴が、活気ある町並みに虚しく響く。


クウガがたどり着いたのは、町の中心から少し外れた、古びてはいるが手入れの行き届いた一軒の工房だった。看板には、力強い筆跡で「玄」の一文字。中から、ツンと鼻を突く、しかしどこまでも深い発酵香が漂ってくる。


「お、親父さん! 一番うまいの、味見させてくれ!」


工房の奥で、岩のように厳めしい顔をした老人が、巨大な木の桶をかき混ぜていた。頑固一徹で知られる職人、玄蔵だった。彼はクウガを一瞥すると、無言のまま、小さな皿に琥珀色の液体を注いで差し出した。


クウガは、それを恭しく受け取ると、一滴、舌に乗せた。


瞬間、彼の全身に衝撃が走る。複雑で、豊かで、どこまでも深い旨味の波。


「……んまい!」


クウガの顔が、喜びでくしゃりと歪む。だが、その表情はすぐに、不思議そうなものに変わった。


「うまいんだけど……なんだか、泣いてるみたいな味がするな、これ」


その一言で、工房の空気が凍り付いた。


玄蔵の額に、青筋が浮かび上がる。


「……小僧。ワシの醤を、侮辱するか」


地を這うような低い声に、遅れて駆けつけたシンが真っ青になった。


「も、申し訳ありません! こいつはただの食いしん坊で、悪気は…!」


「泣いている、だと? ワシの醤がいつからそんな惰弱な味になった! 出ていけ!」


玄蔵の怒声に、シンはクウガの首根っこを掴んで工房から逃げ出した。アヤだけが、面白そうにそのやり取りを眺め、玄蔵の頑なな瞳の奥に、一瞬だけよぎった動揺の色を見逃さなかった。


その夜の宿で、シンはクウガに説教をしていたが、当の本人は上の空だった。


「なぁ、シン。あの醤、本当はもっとうまくなるはずなんだ。だって、泣いてたんだぜ?」


クウガの脳裏には、あの味がこびりついて離れなかった。それは単なる味ではない。何かを訴えかける、魂の叫びのように感じられたのだ。


翌日、クウガは再び玄蔵の工房を訪れ、土下座した。


「頼む、親父さん! 俺を弟子にしてくれ! 賄い飯つきで!」


「まだ言うか、この小僧!」


だが、何度追い返しても、クウガは諦めなかった。そのあまりのしつこさと、「泣いている味」という奇妙な表現が頭から離れなかった玄蔵は、ついに根負けした。


「……いいだろう。ただし、お前さんの連れも一緒だ。水汲みと薪割りを言いつける。音を上げたら、叩き出してやるからな!」


こうして、クウガとシンの、過酷な(?)修行の日々が始まった。


クウгаは文句も言わず、楽しそうに水汲みに励んだ。彼は町の様々な井戸や川の水を汲んでは、その都度こっそりと味見をしていたのだ。一方、不本意ながら巻き込まれたシンは、ぶつぶつ文句を言いながらも、黙々と薪を割り続けた。その真面目な働きぶりに、玄蔵も少しずつ態度を和らげていく。


その間、アヤは町の酒場で情報収集に勤しんでいた。


「ええ、玄蔵さんのところも、ここ数年、味が落ちたって評判でねぇ」


「なんでも、町の水源を管理してる大店の旦那が、自分のとこだけ良い水脈を独占してるって噂さ」


アヤの瞳が、商人のそれにきらりと光る。


数日後、クウガは玄蔵の前に、二つの桶を差し出した。


「親父さん。この二つの水、味が違うのがわかるか?」


玄蔵は訝しげに水を口に含み、目を見開いた。片方はいつもの清冽な水。だが、もう片方は、ごく僅かに、澱んだような苦みがあった。


「こっちが、工房で使ってる水だ。そして、こっちが…町の外れの、古い祠のそばで汲んだ水」


クウガが指さしたのは、工房が使っているはずの、町一番と謳われる水源の水だった。


「あんたの醤が泣いてたのは、この水が泣いてたからだ。水を作る菌たちが、元気がなかったんだよ」


クウガの「絶対味覚」は、水源そのものが微量のゴーストに汚染され、その力が発酵菌の生命力を少しずつ奪っていることを見抜いていたのだ。


その夜。クウガは、皆が寝静まった後、一人で水源へと向かった。


『契約者よ! この程度の穢れ、我輩の雷の一撃で浄化してくれるわ!』


「いいから、黙って見てろって、ラミエル」


クウガは汚染された泉に手を浸すと、静かに歌を口ずさみ始めた。それは、彼の村に古くから伝わる、作物の豊穣を祈るための、穏やかで優しい調べ。ラミエルの神々しい力は、その素朴な歌声を触媒として、荒々しい雷ではなく、温かい光となって水の中へと溶けていった。泉の底で澱んでいた微かな瘴気が、光に包まれて霧散していく。


翌朝、玄蔵は生まれ変わった水の味に絶句した。


そして、その水で仕込んだ新しい醤を口にした時、彼は子供のように声を上げて泣いた。それは、彼が若い頃に目指し、いつしか失ってしまった、理想の味そのものだったからだ。


噂は、あっという間に町中に広まった。


玄蔵の工房には、奇跡の醤を求める人々が列をなし、水源の利権を独占しようとしていた大店は、すっかり信用を失った。


町を去る日、玄蔵は巨大な樽に詰められた最高の醤を、三人に手渡した。


「小僧。お前さんの舌は、神の舌だ。達者でな」


ぶっきらぼうな感謝の言葉に、クウガはにっと笑って答えた。


アヤは、ちゃっかりと玄蔵と専属契約を結び、新たな販路を開拓していた。シンは、ようやく厄介事から解放されたことに、心底安堵していた。


一行の荷物に、また一つ、重くてうまい宝物が加わった。


彼らの旅は、また少しだけ、賑やかになった。

ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。


一杯の醤に込められていたのは、職人の意地と、そして水源の小さな悲鳴でした。


クウガの舌は、ただの食いしん坊のそれではなく、世界の声を聞くためのものなのかもしれません。


そして、不本意ながらも誰かのために汗を流すシンの人の良さ、混乱の裏で商機を見出すアヤのしたたかさ。仲間たちの輪郭が、少しだけはっきりとしてきました。


次は、彼らの前にどんな「味」と「騒動」が待ち受けているのか。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。


もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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