第018食 アヤの市場介入
混沌は、ある者にとっては「終わり」を意味し、ある者にとっては「始まり」を意味する。 完璧な秩序が崩壊し、人々が偽りの味に飢えた時、一人の商人は、金勘定ではない「本物の価値」を問うことを決意する。 それは、金儲けのためではない。失われた人々の「選ぶ心」を取り戻すための、ささやかな、しかし最も痛烈な反撃の狼煙。
阿鼻叫喚――。 紫苑の「食の博覧会」会場は、シンの仕掛けたささやかな「ズレ」によって、完璧な調和から無秩序な混沌へと叩き落とされていた。 甘いはずのブースから激辛のソースが噴射され、香ばしい匂いが約束された通路は、魚の腐臭と花の香りが混じった不快な悪臭に満たされている。自動人形たちは、想定外の事態に「エラー」を繰り返し、右往左往するばかりだ。
「やったな、シン! ざまあみろだ!」 クウガは、人々が「まずい!」と叫びながら逃げ惑う光景に、なぜか得意げだ。 「僕のせいじゃない…! とにかく、早くここから出ないと!」 シンは、貴賓室から注がれる鏡夜の冷徹な視線に気づき、顔面蒼白で二人を促す。
だが、アヤだけが、その場で足を止めていた。 彼女は、出口へと殺到する人々の顔を見ていた。その顔に浮かぶのは、怒りや恐怖だけではない。「裏切られた」という、深い失望と、何を信じていいか分からない「飢え」の色だった。
「…アヤさん? 早くしないと!」 シンの焦る声に、アヤはゆっくりと振り返った。彼女の瞳には、恐怖も焦りもない。ただ、凍えるような静かな闘志が宿っていた。 「…いいえ。今、逃げてはなりませんわ」 「ええっ!?」 「シンさん、あなたは『穴』を開けてくださいました。…この、完璧な管理に。クウガさん」 アヤは、クウガに向き直る。 「わたくしたちの『商い』の、お時間ですわ」
アヤが指さしたのは、出口の先。博覧会の混乱が波及し、あの「新・京」の完璧だったはずの市場までもが、機能不全に陥っている広場だった。 配給が止まり、人々は右往左往している。偽りの「完璧な味」に失望した人々が、今、本気で「信じられる食」を求めて彷徨っていた。 それは、アヤにとって、千載一遇の「商機」――いや、「好機」だった。
「シンさん、荷馬車を広場の中心へ! クウガさん、準備はよろしいですわね?」 「おう! 何を作るんだ!?」 「シンプルで、正直で、そして、誰にも真似できない『本物』を」
一行は、混乱する自動人形の警備網を抜け、広場の中心で荷馬車を止めた。そこは、昨日まで「完璧な野菜」が並んでいた、無人の配給所だった。 アヤの指示で、シンが火をおこし、クウガが米を研ぐ。その手際の良さは、これまでの旅で培われた、彼らの絆そのものだった。 アヤが荷台の奥から取り出したのは、二つの、小さな壺。 一つは、香ノ宮の頑固な職人・玄蔵が、涙と共に託した奇跡の醤。 もう一つは、白浜の海が、感謝と共に贈ってくれた、虹色に輝く『海神の涙塩』。
「さあ、クウガさん。彼らの『舌』を、思い出させてさしあげて」
クウガは、炊き上がったばかりの湯気の立つご飯を手に取ると、その虹色の塩を、ただ、優しく振りかけた。そして、心を込めて握っていく。 何の変哲もない、ただの「塩むすび」。 もう一方の鍋では、昆布と干し椎茸だけの、澄んだ出汁を煮立たせ、そこに、玄蔵の醤を、たった一滴だけ落とした。 それだけ。 紫苑の科学が作り出す、何十種類もの味を合成した「完璧な料理」とは、あまりにも対極の、素朴な「香り」と「湯気」だった。
その匂いが、混乱する市場に、ふわりと広がった。 それは、脳を殴るような強烈な快楽ではない。心の奥底にある、温かい記憶をそっと呼び覚ますような、懐かしい匂いだった。
「……いい、匂い…」 博覧会の悪臭に顔をしかめていた一人の老婆が、ふらふらと荷馬車に引き寄せられる。 自動人形が「許可ノナイ営業ハ…」と警告しようとするが、アヤが扇子一本で、その前に立ちはだかった。 「黙りなさいな、鉄くず。今から行うのは『商い』ではございません。『投資』ですの」 アヤは、怯える老婆に、そっと塩むすびを手渡した。 「どうぞ。お金はいただきませんわ。これは、あなた様が忘れてしまった、『選ぶ心』への、わたくしからのささやかな投資ですもの」
老婆は、おそるおそる、その塩むすびを口に運んだ。 次の瞬間。 老婆の目から、大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。 「……ああ…ああ…! お米の、味がする…! しょっぱくて、温かくて…! ばあちゃんが、昔…」 忘却の水と、強烈な快楽の味によって麻痺させられていた舌が、『海神の涙塩』の力によって、失っていた「本物の記憶」を呼び覚まされたのだ。
「こ、こっちの汁も…!」 誰かが、クウガの差し出した、醤の香りが立つだけの澄んだスープを口にする。 「な、なんだ、この深い味は…! 何も入っていないのに…体が、心が、喜んでる…!」
一人、また一人と、人々が荷馬車の前に集い始める。それは、行列ではなかった。誰もが、目の前の「本物の味」に涙し、肩を抱き合い、ただ「美味しい」と、この街に来て初めて、心の底から笑っていた。 紫苑の完璧な「供給」が止まった市場のド真ん中で、アヤの仕掛けた「本物の需要」が、爆発的に生まれた瞬間だった。
その光景を、遠巻きに、鏡夜が、冷ややかに見つめていた。 彼の背後には、武装した警備隊が控えている。だが、彼は「排除」を命じなかった。 彼はただ、泣きながら笑う人々の群れと、その中心で堂々と扇子を構えるアヤの姿を、まるで未知の生物でも観察するように、その瞳に焼き付けていた。 (システムによる供給の停止が、このような旧世代的な『価値』の再燃を誘発するとは…) (シンの『物理的なバグ』より、アヤの『精神的なバグ』の方が、遥かに厄介だ…) 鏡夜は、紫苑に報告すべき、最も危険な「イレギュラー」として、アヤの名を強く認識した。
「アヤさん、まずいですわ! 敵が集まってきました!」 シンが叫ぶ。 「ふふ、もう十分ですわ」 アヤは、満足げに扇子を閉じると、叫んだ。 「皆さん! 本当の美味しさとは、『与えられる』ものではなく、ご自分で『選ぶ』ものですわ! そのことを、どうか、お忘れなきよう!」
一行は、人々が作る感謝の壁に守られるように、荷馬車を発進させた。 鏡夜は、それを止めなかった。彼にとって、今は「サンプル」を逃し、その行動を「追跡・観察」する方が、より多くのデータを得られると判断したからだった。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
アヤの商才が、ついに金儲けのためではなく、「価値の再発見」と「未来への投資」という、彼女の成長した姿を見事に示しました。 シンの「知略」がシステムを乱し、アヤの「矜持」が人心を掴む。そしてクウガの「本物の味」が、それを証明する。三人の絆が、初めて敵の牙城を、内側から揺るがしたのです。
しかし、鏡夜、そして紫苑は、この「イレギュラー」なデータを手に入れました。 彼らの次なる一手は、思想の対決へと、さらに踏み込んでくることでしょう。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




