第017食 博覧会の罠と、シンの知略
最新の科学。至高の美食。 万人に幸福をもたらす、約束された食の未来。 だが、その輝かしい舞台の裏で、冷徹な目が「好み」を測り、「嗜好」を記録しているとしたら。 訪れた客こそが、試食される「食材」なのだとしたら。 これは、完璧な脚本に仕掛けられた見えざる罠と、その歯車を狂わせた、ささやかな知恵の物語。
紫苑が主催する「食の博覧会」の会場は、新・京の街並み以上に、その思想を雄弁に物語っていた。 ガラスと蒸気機関で構成された巨大な円形ドーム。内部は、計算され尽くした一方通行の順路が続き、来場者たちは、まるで水路を流れるかのように、その上を黙々と歩かされていた。
「うおお! すっげえ! 祭りの匂いだ!」 クウガは目を輝かせ、人波に飛び込もうとする。だが、すぐに違和感に気づき、鼻をひくつかせた。 「……いや、違うな。屋台ごとに匂いが混ざる、あのワクワクする匂いじゃねえ。道ごとに『はい、ここからは甘い匂い』『はい、こっちは香ばしい匂い』って、きっちり分けられすぎてる。つまんねえ匂いだ」
順路に沿って、自動化された配膳機が、寸分違わぬ量の試食品を差し出してくる。人々はそれを受け取り、無言で口に運び、そして次のブースへと進んでいく。 「あらあら。見事な効率ですこと」 アヤは扇子で口元を隠しながら、その光景を冷ややかに観察していた。 「人の流れ、配膳の速度、廃棄物の少なさ…全てが完璧に計算されていますわ。けれど…」 彼女は、あるブースで立ち止まった一人の少女を指さした。少女は、配られた青い菓子ではなく、隣の赤い菓子を欲しそうに見つめている。だが、母親は「だめよ。あなたに割り当てられたのは、こっちでしょう」と、少女の手から赤い菓子を取り上げていた。 「…誰も、『選んで』いませんわね。これは市場ではなく、ただの餌付け。そして、あのブースの奥、小さく光っているのは…」 アヤの鋭い視線は、人々が試食を終えるたびに、彼らの反応を記録する水晶板が、淡く点滅しているのを見逃さなかった。 「わたくしたち、どうやら『試食』されに来たようですわね」
クウガは、配られた「完璧な肉まん」を一口かじり、すぐに顔をしかめた。 「うまい! うまいけど…昨日街で食った『完璧な果実』と、同じ『うまい』の味がする! 種類は違うのに、全部が同じ機械で作った、同じ設計図の味だ! もう飽きたぞ、これ!」
クウガが文句を言い、アヤが「客」のデータを集める敵の商法に呆れている間、シンは、まったく別の場所を見ていた。 彼は、人々の顔ではなく、足元と天井に視線を巡らせていた。 床下を走る無数の蒸気管の配置。ブースごとに異なる圧力計の数値。天井裏を走り、試食品を補充していると思しき、無数の気送管の複雑なネットワーク。 彼の、物事の仕組み(カラクリ)を読み解く目は、この会場全体が、一つの巨大な「仕掛け」で成り立っていることを理解し始めていた。
「…おかしい」 シンは、アヤの分析を聞いて、ハッとした。 「アヤさん、彼らが集めているのは、ただの『反応』じゃないかもしれない」 彼は、ある配管の分岐点を指さした。 「あのパイプ、Aのブース(甘い菓子)にも、Bのブース(塩辛い煎餅)にも繋がってる。なのに、ブースの手前で蒸気の圧力が切り替わってるんだ。そして、Aで客の反応が鈍ると、Bへ向かう通路の床の温度が、ごくわずかに上がる…」 「…なんですって? それが、何ですの?」 「誘導してるんだ。彼らは、ただデータを集めるだけじゃなく、人の流れや食欲そのものを、この会場の『仕組み』で制御しようとしてる。この博覧会は、紫苑の思想に最も適した『好み』を人々に教え込み、依存させるための、巨大な『調教』の罠なんだ」
彼は思い出していた。疑心暗鬼の種を植え付け、村人たちをバラバラにした悪意の仕掛け。人々を完璧な「部品」へと変えてしまった、あの冷徹な街のシステム。その両方の、ぞっとするような思想が、今、この場所で一つになっているのを肌で感じていた。
「上等じゃねえか!」クウガが怒鳴る。「そんなマズい飯食わせるやつ、俺が直接文句言って…」 「ダメです!」シンが、珍しくクウガを強く制した。「ここは敵のど真ん中だ。騒げば捕まる。…でも」 シンは、蒸気管の集中するサービス用の点検口を見つめ、静かに言った。 「戦う必要はない。ただ、彼らの『完璧なデータ』を、少しだけ『おかしく』してやればいい」
シンの作戦は、彼らしい、大胆で緻密なものだった。 アヤが持ち前の弁舌で自動人形の警備員の注意を引きつけ、その隙に、シンは点検口の奥へと滑り込む。そこは、複雑な配管と歯車が、高温の蒸気と共に正確無比な音を立てて稼働する、この会場の心臓部だった。 彼は、森で罠を仕掛ける時のように、全体の「流れ」を読み解く。 (この歯車が、香りの切り替え弁を。この蒸気圧が、AとBの通路の温度を…) 彼は、汗だくになりながらも、一つの小さな調整弁を見つけ出すと、懐から、昨日、街でクウガが「まずい」と吐き出した、あの完璧な果実の「硬い芯」を取り出した。(シンは、その不自然なほど均一な芯を、何かに使えるかもしれないと、密かに拾っていたのだ) それを、調整弁の歯車の隙間に、そっと差し込む。 壊すのではない。ただ、完璧な回転に、ほんのわずかな「ズレ」を生じさせるだけ。彼が時計塔でやったことと、まったく同じだった。
一行が何食わぬ顔で再び順路に戻った、直後だった。 会場の完璧な調和が、突如として崩壊した。
「ぷしゅー!」 「甘いお茶」を配るはずのブースから、なぜか「激辛のソース」が噴射された。 「うわっ! からっ!?」 「な、なんだ!? 床が急に熱く…いや、冷たくなった!」 「この匂い…ラベンダーと魚の腐った匂いが混ざって…おえっ!」
完璧な蒸気圧が乱れたことで、気送管は「甘味」のブースに「塩辛」を送り、空調は「食欲増進の香り」の代わりに「不快な悪臭」を撒き散らし始めた。 完璧な管理に慣れきっていた来場者たちは、予測不能な事態にパニックを起こし、会場は一瞬にして阿鼻叫喚の渦に叩き込まれた。
「やったな、シン!」クウガが笑う。 「…感心してる場合じゃありませんわ!逃げますよ!」アヤが二人を引っ張る。 混乱の中、出口へと急ぐシンの目に、遠く離れた貴賓室のガラス窓が映った。 そこには、あの鏡夜が、表情一つ変えずに立ち、眼下の混乱を、そして――逃げようとするシンたち三人を――じっと、冷ややかに見つめていた。
その目は、明らかに「データ」にはなかった「異物」を見つけた科学者の目だった。
ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。
シンの知恵が、再び紫苑の完璧なシステムを打ち破りました。彼の成長は、もはや森の獣を捕らえる技術ではなく、巨大な社会の「仕組み」そのものに介入する知略へと、確かに進化しています。 しかし、敵もまた、彼らの存在を「予測不能な脅威」として明確に認識しました。
博覧会を混乱させられた紫苑の組織。 次に彼らが仕掛けてくる一手は、どのようなものなのでしょうか。 そして、この混乱を利用して、アヤが仕掛ける次なる一手とは。
私は、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。 もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。
また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。




