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第011食:偽りの幸福と、味を忘れた町

思い出の味は、腹を満たさない。 だが、心を、これ以上なく満たしてくれる。


偽りの満腹が、本当の心を餓えさせる時、食いしん坊の少年は知ることになる。 守るべきは腹じゃない。うまいものを「うまい」と感じられる、皆の心そのものだということを。

白浜の町を後にし、東へと進むにつれて、一行は世界の空気がわずかに変わっていくのを感じていた。木々の緑は色褪せ、風はどこか乾いている。それは、聖域の力が薄まり、悪魔派の圏内に近づいている証だった。


「なんだか、水が疲れてる味がするな…」 野営の朝、川の水を口にしたクウガが、ぽつりと呟いた。


やがて一行は、西と東の文化が混じり合う、大きな宿場町「境ノ宿さかいのやど」にたどり着いた。 活気はある。だが、人々の顔には奇妙なほどの無表情さが浮かんでいた。そして、その活気のほとんどは、町の中央にそびえる一軒の大衆食堂「幸福こうふくの館」にだけ、異様な熱気となって吸い込まれていた。


勧められるままに、一行もその異様な行列に並んだ。ほどなくして運ばれてきたのは、濃厚な香りを放つ、一皿の煮込み料理だった。一口食べた瞬間、脳に直接響くような、強烈で計算され尽くした旨味が、舌を支配する。


「……!」 シンもアヤも、その有無を言わさぬ美味さに目を見張る。


だが、クウガだけは、二口目を運ぶことなく、カタリと匙を置いた。そして、静かな怒りをたたえた目で、目の前の料理を睨みつけた。


「うまい。……うまいけど、これは、嘘の味だ! 腹はいっぱいになるのに、心がどんどん腹ペコになる!」


その時、店の奥から、紫色の優美な衣服をまとった、涼やかな目元の男が現れた。 「おや、旅の方。私の料理がお口に合いませんでしたかな?」


「あんたがここの主人か?」


「いいえ、私はただの食の指南役コンサルタント。この町の皆様に、非効率な“迷い”から解放された、絶対的な“幸福の味”を教えて差し上げているのです」


その男の言葉を聞いた瞬間、クウガの頭の中で、バラバラだったピースが一つにつながった。この料理の、心を空っぽにするような強引な美味さ。そして、宿場町に着いた時に感じた、あの奇妙な水の味。


「……あんたのその料理…さっき井戸水に潜んでた、『忘れん坊』の親玉の味がするぞ!」


クウガの「絶対味覚」が、点と点を結びつけ、この町の恐るべき支配の構図を暴き出した。 水源に溶かされた無味無臭の液体が、人々の繊細な味覚と「食の記憶」を麻痺させ、唯一、脳に強く訴えかけてくる「幸福の館」の料理に依存させる。食による、完璧な支配だった。


「これほどの効率的な集客システム…これは商売ではなく、侵略ですわ」 アヤの瞳が、商人のものではなく、戦士のそれに変わる。 「シンさん、クウガさん、作戦会議です」


三人は宿に戻ると、顔を突き合わせた。


「僕が水の流れを追って、汚染源の『仕掛け』を探ってみる」とシンが言った。「クウガの言う通りなら、必ず物理的な装置があるはずだ」


「わたくしは、この町の他の食堂の状況を探ってきますわ。彼らの協力を得られれば、反撃の拠点にできるかもしれません」とアヤが続く。


そして、クウガは拳を握りしめた。 「俺は、あの嘘っぱちの味を、本物の味でぶん殴ってやる」


行動は迅速だった。シンは町の外れへと姿を消し、アヤは風のように他の食堂の店主たちをまとめ上げてきた。彼女が勝ち取ってきたのは、「幸福の館」の真ん前という、最も喧嘩を売るのにふさわしい一等地と、寂れた店主たちの、最後の希望が託された小さな屋台だった。


クウガはその屋台に立つと、白浜で授かった、虹色に輝く**『海神の涙塩わだつみのなみだじお』**ただ一つを使い、炊きたてのご飯を、一つ一つ、丁寧に握りしめていった。


「幸福の館」から出てくる人々は、そのあまりに素朴な塩むすびに、何の興味も示さない。だが、強烈な味に飽きてぐずる一人の子供の姿を、アヤは見逃さなかった。


「奥様。お子様は、きっと優しい味に飢えているのですわ。一口、試してみてはいかがです?」


アヤの巧みな誘導で、母親は半信半疑のまま、子供に小さな塩むすびを買い与えた。 子供が、その塩むすびを一口かじった、その瞬間。


強烈な味に慣らされた舌に、純粋な米の甘みと、塩の深い旨味が、優しく染み渡る。子供の目に、みるみるうちに生気が戻り、そして、満面の笑みで母親を見上げた。


「おいしい!」


その、何の飾り気もない、ただ純粋な一言と、息子の心からの笑顔を見た母親の目から、はらり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……ああ、そうよ。美味しいものを食べたら、あなたは、そんな顔で笑う子だった……。この味…私が小さい頃、熱を出した時に、おばあちゃんが握ってくれた、しょっぱくて、温かい……おむすびの味だ……」


その一言が、引き金だった。 一人、また一人と、塩むすびを口にした人々が、忘れていた家族の味、故郷の風景、大切な誰かと食卓を囲んだ温かい記憶を次々と思い出し、その場に崩れるようにして泣き始めた。それは、偽りの幸福から解放された、魂の嗚咽だった。


その光景を、紫の衣服の男は、店の入り口から冷ややかに、しかし興味深げに観察していた。彼は懐から小さな端末を取り出すと、何事かを記録している。


「……なるほど。高純度の塩化ナトリウム結晶が、記憶野に残留した味覚情報を触媒として再活性化させる、か。極めて原始的だが、興味深い現象だ。我が主、**紫苑しおん**様も、このデータにはご満足なさるだろう」


男はそう言うと、パニックに陥る店員たちを尻目に、静かに人混みの中へと消えていった。


ほぼ時を同じくして、町の外れから小さく地響きがし、川の流れが一瞬だけ、清らかな光を放った。シンが、汚染装置の破壊に成功したのだ。町の水は、本来の優しい味を取り戻し、人々は偽りの幸福から、完全に解放された。


境ノ宿に、本当の笑顔が戻った。


クウガの旅の目的――「世界一の調味料を探すこと」――は変わらない。だが、その隣に、小さな、しかし決して消えることのない目的が一つ、加わった気がした。


「うまいものを、うまいまま、皆で笑って食べられる世界を守ること」。


それは、これから始まる本当の戦いの、ほんの序章に過ぎないことを、一行はまだ知らない。

ありがとうございます。物語の旅にお付き合いいただき、光栄です。


ついに、物語は第二段階へと足を踏み入れました。好敵手・紫苑の影が、一行の行く手に長く伸びています。彼の思想は、クウガとは対極にある、効率と支配の料理。この出会いは、クウガの目的を大きく成長させることになるでしょう。


初めて「怒り」の味を知ったクウガと、それを支える仲間たち。 彼らの旅は、ここから新たな局面を迎えます。


わたくしは、これからもこの世界の様々な物語を紡いでまいります。


もし、貴方がこの記録の続きを望んでくださるのなら、ブックマークや評価という形で、そのお心を示していただければ幸いです。


また、この世界の片隅で、貴方という読者に出会えることを。

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