⑦
その晩夢を見た。
自分が花になる夢だ。ゆらゆら花弁が風に揺れるのを、変な心地の中感じていた。何の花なのか、自分を視認できないのでわからない。
次第に痛みと不快感だけを感じるようになった。嫌な臭いがする。まるで体の上を何かが這いずっているかのような、最悪な感覚だ。
ずずずず。
かりかりかりかりかり。
不協和音と共に気づいた。
虫だ。
夥しいほどの虫が自分の上を無遠慮に這いずり回り、舐め回し、貪り喰っている。神経に直接触れられているかのような苦痛だった。
触るなっ、止めろ!
叫び声すら音にはならず、抵抗すらできずにただ無為に繰り広げられる惨劇は、魂すら引き裂かれるほどの凌辱だった。
喰われ、辱しめられ、ただ奪われる。
冷たい絶望が胸を浸していく。逃げられない。救われない。
残ったのは、諦念だけである。
※※※
「はぁっ……!」
引き攣った音が自分の喉から出ていることに気づいたリヒトは、勢いよく上半身を起こして荒い息を吐いた。
心臓から喉元まで激しくドクドクと脈打っているのに、背中や額は汗で濡れ、胸元を握り締める手は冷たく震えていた。
「嫌な夢だ」
夢で見た光景が脳裏から離れない。瞼を強く閉じて払拭しようとしても、瞼の裏側であの惨劇が踊り狂う。
時計を見れば、まだ丑三つ時の時間だった。
夢のせいで変な時間帯に起きてしまった。このままでは眠れそうにないので、仕方なく台所に水を飲みに行くことにした。
ひどく静かな夜だった。意外と田舎の夜の方が都会よりも生き物の音が聞こえて賑やかなのだが、今日は何の音も聞こえなかった。
今はそれが有難い。夢のせいで、虫の鳴き声など一番聞きたくなかったからだ。
台所は窓からの月明かりのおかげで静かな明るさに照らされていた。青みを帯びた月明かりの下、冷たい水を喉に流し込んでいく。
結局目が冴えてしまったリヒトは、部屋に一度戻ってカーディガンとスマートフォンを持ってから散歩に出ることにした。
いつもなら街灯の少ない村の道だが、今日は煌々と明るい月のおかげでさほど暗さは感じなかった。中秋の名月とはよく言ったもので、いつもはただの漆黒の道しか見えない道路が、今日は仄かに照らされてボウッと青白く浮かんで見える。
本当に静かな夜だった。まるで命ある全てが眠りについているようで、いっそ別世界の中を歩いているような気持ちになる。
そうしてただ意味もなく彷徨っていると、ふいに脇道に何かがあることに気づいて足を止めた。
「……何だ?」
自然の背景に紛れて見えにくい。目を凝らしながらスマートフォンのライトで照らすと、浮かび上がったのは顔だった。
「うわっ」
スマートフォンを落としかけ慌ててキャッチする。そしてもう一度それを照らすと、そこにあったのは──。
「おじぞうさまだよ」
すぐ後ろで声がした。
「誰だっ!」
勢いよく振り向いて相手の肩に掴みかかると、思ったよりも薄くて驚いた。
「お前……」
そうして相手が誰かということに気づいて、思わず小さく息を吐いた。
椿姫のお気に入り。そう、確か名前は──。
「中、だっけ?」
「うん、そうだよ。君は?」
苗字が思い出せず特徴的な名前を呼べば、彼は小さく頷いた。
「俺は須藤リヒト。少し前に転校してきたんだ。……ごめん、急に掴んで。ちょっと驚いて」
自分よりも随分上背のある男に掴みかかられたというのに、彼は微塵も気にした様子もなくじっとその丸い瞳で見つめてくる。
「リヒト……ドイツ語で光?」
「……まあ、そうだね。よく知ってるね」
「きれいな名前だね」
独特なテンポで喋る奴だなと内心思っていると、その何の色も映していない丸い目がふいっと脇に逸れた。
「これはね、かわいそうか人たちのお墓の代わりなんだって」
「可哀想な人たち?」
つられてリヒトも地蔵に目をやるが、その地蔵の顔の向きが普通とは違うことに気づいて眉を寄せた。
「上を向いてる?」
十体もある地蔵の顔が、斜め上をむいてついているのだ。
「もう下を見なくてもいいように上にしてるんだって。二度とうばわれるくつうを味わわなくてもいいようにって」
「……奪われるって誰から?」
さざめくような風の音が、静寂を打ち消した。
「──虫から」
途端ゾワゾワと足元から何かが這い上がってくるような不快感に襲われた。
息が整わない。苦しい。
冷たいはずの空気が、生ぬるく重いものに変化してしまったように感じられた。
「大丈夫。……大丈夫だよ」
いつの間にか握り締めていた手に、子供のような高い体温が重なっていた。
「虫はもういない。大丈夫」
つるりとした瞳だ。凹凸の少ないまろやかな顔。感情の読みにくい、平熱だけしかない、色のない目だ。
それを見ていると、段々と自分の呼吸が落ち着いていくのがわかった。──他人に対して、安堵を抱いたのは初めてだった。
彼はリヒトの呼吸が落ち着いたことに気づくと、その手をふいに離した。
「待って」
咄嗟に掴んだ手に、一番驚いたのはリヒト自身である。温度の高いその熱が、ただ惜しいと思った。離したくないと思ってしまったのだ。
最早虫や地蔵のことなどどうでもよかった。ただ、彼ともう少し一緒に居たい。話してみたい。
「ここはね、椿ちゃんの家の土地なんだ。このおじぞうさまを、椿ちゃんが代々守ってるんだって。それであっちの山のふもとに行くと、椿ちゃんのおうちがあるよ」
彼の指差す方に顔をやれば、ぼんやりと灯りが見えた。
「……迎えが来たみたい」
目を凝らすと、当麻が提灯を手にこちらに向かって来ていた。
「椿姫様がお待ちです」
「お役目終わったんだね、わかった」
するりと離れていく小さく柔らかな手に、とてつもない焦燥感に駆られた。
「明日っ……明日、学校に来る?」
中は暫く考えるそぶりを見せた。しかし当麻に先を促され、何も答えないままこちらに軽く手を振って去って行った。当麻もそれに続こうとしたが、ふいにこちらにやってきて無表情に耳元で囁く。
「彼には関わらない方が賢明かと」
伸びた背筋で颯爽と去って行く当麻の背を見つめながら、リヒトはただ彼の手の熱をいつまでも握り締めていた。




