②
結局名前すら思い出せない先輩を待つために、誰もいない放課後の教室に残る羽目になった。
用事あるなら誘わなきゃいいのに。10分くらいで終わると言ってキスを残して行った先輩に対する興味は、一切ない。
(帰っていいかな。飽きたな)
自分の時間をわざわざ割いてまで、別に彼女の家に行きたいわけでもない。
初日こそ窓から見える紅葉混じりの風景が新鮮だったが、今では暇潰しにすらならない。オレンジが少しだけ混ざり出した空を眺めていると、ふいに視線を感じた。
気づかないふりをしていれば、視線の湿度が上がったのを肌で感じた。9月とはいえまだ暖かい今、半袖から覗く肌にねっとりとした這いずり回る視線が鬱陶しかった。それが着崩した首元に移った時点で、リヒトは声をかけた。まるで何でもないことのように、今気づいた風に。
「なあに?」
そこにいたのは坊主頭の少年だった。同じクラス──この学校は1クラスしかない、とにかく同じクラスの少年だ。
「あ、あ、い、いや。あの、教室に忘れ物して。す、須藤は何で教室に?」
「人待ってる」
「そ、そっか」
しどろもどろで視線すら合わない彼に、笑みを浮かべているように見えるように口角だけを上げる。リヒトと話す時、耐性のない人間は大抵こういう反応になるので気にも止めない。教師ですらふいをつけばこうなるのだ。
特別話す必要性もないので、それ以降はまた窓の外に視線をやった。
しかしその判断を少しだけリヒトは後悔する。
「何、近いよ」
一瞬だった。彼の目はとろんと微睡みの中にいるように濡れていた。
(あぁ、キモイ)
慣れていても、嫌悪感は薄まらないのだ。
おおよそ同級生の距離感にない位置でリヒトを見上げながら、彼はうっとりと呟いた。
「須藤、須藤……本当に綺麗だ」
「ありがと」
おざなりにあしらいながら身体を離そうとしたリヒトの腕を、彼は汗ばんだ手で捕まえた。
「オレ、別に男に興味ないけど、でも須藤は別。男とか女とか関係ない。髪も目も作り物みたいに綺麗だ」
外国の血が入っているせいか、リヒトの色素は全体的に薄い。成長すれば焦げ茶になるだろうと父親に言われていた髪もブロンドのまま、瞳はジェードグリーンで父親にも珍しい色だと言われた。
美しいウツクシイうつくしい。言われ慣れている言葉だ。何の感慨も湧かない。
こういう時の処世術も対処法もわかっている。わかっているが面倒臭い。今すぐ殴って気絶させたら忘れてくれないだろうか。
「リヒトくん」
少女の声に、触れていた手は火傷を負ったかのようなにビクリと震えて離れた。
「待たせてゴメン! 帰ろ」
リヒトの腕にスルリと回った体温の高い細い腕は、まるでそこが特等席かのように居座った。少女の視線は同級生の彼を透明人間にして、リヒトの視界からもいないものとなった。
背中には湿った視線が未だに絡んでいるが、まだ女の方がマシかとそのまま教室を出た。
「ちょっと遅くなっちゃったね」
「んーいいよ」
少し歩くと舗装されていない砂利道が延々と続いていく。伸びた二つの影が混ざり合い、まるで1つの生き物のようでゾッとする。クネクネと犇めいているそれは、蛇のようですらあった。
少女が隣で何事か話している。どうやら先ほどの坊主の同級生の悪口を吐き捨てているようで、リヒトは曖昧に微笑んで適当に相槌を打った。
誰もがリヒトの隣を我先にと奪い合う。老若男女問わず欲望まみれのその顔は、誰であっても醜悪なものだ。
「それでね……」
ふいに途切れた少女の言葉に意識を浮上させると、彼女は少し青ざめた顔で前を見ていた。つられてそちらに顔を向ければ、小柄な二人の人間がこちらに向かって歩いてくる。思わず凝視してしまうと、乱暴に少女に腕を引かれて道の脇に寄せられた。
「え、なに」
「いいから道を譲って」
「え?」
「顔を下に向けて。絶対顔を上げちゃダメ」
ピシャリとはねのけるような声音だった。怪訝に思いながらも言われるまま顔を下に向ける。やがて砂利を踏む音が前を横切り、華の香りだけが残った。
生花のようなみずみずしく、芳醇な香りだった。
暫くそうして頭を下げていただろうが、隣の彼女が胸を撫で下ろすような気配が伝わってきた。
「今の何」
「あー、まぁそうだよね」
いつもなら他人に興味を持たない。普通の人間ならば。リヒトの目を引いたのは紅の艶やかな着物である。楚々とした仕草で道を歩くその人は、顔が見えないように被衣を着用していた。祭りか何かの催しがあるならわかるが、今日はただの平日だ。
「あの方は椿姫様」
「椿姫?」
「うん。この村の大地主の当主。リヒトくん、お婆様から何も聞いてない?」
少しだけ窺うような目だった。
「何を?」
少しだけ考えてから少女は言った。
「あの方に勝手に話しかけたりしちゃダメだよ。後、滅多に屋敷から出ないけど、今日みたいに道で会ったりしたら脇にどいて顔を下げて。絶対顔を見たりしちゃダメ」
「───それがこの村のルール?」
何故、とは聞かなかった。地主だということが理由ではないのだな、と曖昧な説明で察した。波風をたてたくないのはリヒトの方だ。村八分にされても面倒だし、何より行動したことが他人の意識を集めてしまうのは嫌だった。
リヒトの言葉に、少女は一瞬だけ目を丸くした。何かに気づいたような顔をして、それから曖昧に微笑した。
「何だか気が削がれちゃった。今日はここで解散してもいい?」
「いいよ」
頷いたリヒトに、彼女はまた曖昧に笑った。
「じゃあね」
「……リヒトくん!」
「何?」
「もし椿姫様のことが気になったら、詳しいことはお婆様に聞くといいよ」
「……? わかった」
適当に頷きながら、きっと家に帰る頃には気にも止めなくなるだろうなと思った。
リヒトの思った通り、家に着いた頃には興味も関心も欠片ほども残ってはいなかった。結局聞かないまま、季節は秋が深まっていった。