⑰
虚をつかれたような顔をした間抜けなリヒトの姿を視界に入れた椿姫は、楽しそうに口元を綻ばせた。
形の良い小さな白い歯に、リヒト自身毒気を抜かれる。今まで変に力が入っていた体が、強張りをゆるゆると解いていった。
「わたしはお役目を恥じていないわ。だって、愚かな人間から全てを献上させてあげてるだけだもの。いいこと、リヒト。椿姫は奪われる存在ではないの、支配し使役し奪う存在なのよ。そういう存在なの。そのために在るのよ。」
彼女は淡々と事実だけを語るように話した。それからふいに立ち上がると、机の上に置いていた古びた日記のような物を手に取った。その中からこれまた古びた写真を取り出すと、少しだけ何かに想いを馳せるように目を細めた。
「哀れな一人の女が、哀れな存在にならないためにそう運命た。強く強く望んだそれは呪いのように、脈々と血に繋がれ続いた。今度こそ奪われたりしないように」
「奪われたりしないように……」
無意識に彼女の呟きを復唱すると、ズキリとこめかみに痛みが走った。思わず額を押さえたリヒトに気をとられたのか、彼女の手からひらりと写真が零れ落ちる。丁度リヒトの目線の先に落ちた写真は、セピア色のモノクロ写真だった。異国の美しい男女が二人、仲睦まじそうに並んでいる。
ズキ、ズキっと鈍い鈍痛が神経を嬲ったが、リヒトは構わずその写真を手に取った。
優しそうな女性だ。そうだ、彼女のことを自分は見たことがある。いつだったか、そうだ、彼女は夢の中の女性だ。いや、違う、それが初めてではない。
確かに自分は彼女を知っている。
痛みが激しくなり、思考が霞む。
「リヒト、リヒト、具合が悪いの?」
椿姫の細い指先が肩に触れるのを感じながら、ジジジと耳元にノイズが走った。
彼女は優しくて可愛くて誰にでも愛される女性だった。身分関係なく分け隔てなく他人に接し、子供のように無邪気に笑う人だった。淡い色の金糸のような髪を揺らして、不思議な色合いのグリーンの瞳をしていた。柔らかい声で自分の名前を呼ぶ彼女のことが、愛しくて堪らなかった。
本当に愛していたのだ。
(……そうだ、愛していた)
愛する彼女の名前は──。
「──カメリア」
そうだ──彼女の名前はカメリア。自分が愛したただ一人の女だ。愛して慈しんで、そして無惨にも奪われ辱しめられた。
「お前、どうしてその名前を……」
椿姫の言葉に顔を上げる。
「俺は隣で一緒に映っている男の生まれ変わりだ」
断片的だが思い出した。とある外国で暮らしていた二人は仕事の関係で日本の土地を訪れていた。そしてある日運悪く仕事仲間数名と共に、山賊のような風貌の男たちに拐われたのだ。男は殺され、女は辱しめを受けた。
「……ずっと、お前は血の力が強く出たタイプだと思っていたけれど、そう……そういうことだったの」
懐かしむような眼差しで彼女の指先が頬を辿る。それを享受しながら、それでもリヒトの瞳に熱は生まれなかった。
「思い出したけど、俺はあの男じゃない。記憶はあるけど、俺は俺だ。須藤リヒトだ」
愛しさに似た感情はあるが、それは愛情ではなく哀愁である。あの時の怒りも絶望も諦念もリヒトの中で燻ってはいるが、大きな火種になることはない。その感情はあくまで経験したあの男のものだ。けして、リヒトのものではない。どうしてか思い出した今の方が冷静な気持ちだった。
「椿、君もそうだろ」
「……わたしは、もうわからないわ」
伏せた目には苦い色が滲んでいた。
「わたしたち椿姫はね、先代が死んだ日に全て思い出すのよ。早くて五つ、遅くとも十の頃には。椿とカメリア両方が混じって椿姫になる。そうして代々血を繋いできた。……奪われ辱しめを受けた女たちの無念と、命を落とした仲間の男たちの怨嗟を忘れないように、記憶を紡いで他者から奪う側で居続けた」
「腹の子はその時の?」
頷く彼女にリヒトは目を伏せた。
尾和座家はあの狼藉を働いた男たちの子孫だったのだ。
「あの後女たちは子を産んだ後、精神共に耐えきれず皆死んだわ。残ったカメリアは、ただ一人男たちを支配した。命を金を労力を、あらゆるもの全て男たちから搾取して、そうして奪われる側から奪う側になったの。あの日から、わたしたちは人ではなくなった──人を辞めたの」
生まれ変わっても忘れないように、ずっと彼女はそれを繰り返してきた。混ざって一つになって、自我さえあやふやになる。ただ、自分以外の人間の記憶があるとしか認識していないリヒトとは訳が違う。
何十年も、いや、百年以上も。
それは終わりの見えない地獄のようだった。
──なんて、孤独な旅だろうか。
他人を操るために蜜を与えるようなお役目など、ただの手段にしか過ぎなかったのだ。
哀しくて、強いひとだ。
「椿」
「なあに」
「俺も中が大事だよ」
だから、これからは二人で中を守ろう。
尾和座家のやり方で──。
「俺も、もう奪われたくはないからね」
そう言ったリヒトを彼女は驚いたように見つめた。
彼女の人間染みた年相応の表情は、この時初めて見た。




