⑮
悲鳴が聞こえる。悲痛な断末魔と共に、怒号にも似た囃し立てるような声もした。一方は奪う喜びの雄叫びと、もう一方は奪われる絶望の叫声だ。
女がこちらに向かって必死に手を伸ばしているのを、ガタイの良い男たちが羽交い締めにしている。
毛むくじゃらで丸太のような男たちだった。
『……っ! ……てっ……!』
女の顔はよく見えない。華奢な腕を伸ばし何事か騒いでいるのを、他人事のようにぼんやりと横たわりながら眺めていることしかできない。
『……ろっ……』
意図せずリヒトの口が動いた。何か言おうとして、ほとんど声が出ないことに気づく。
『……リア……』
絶望と共に目の前が暗くなっていくのを感じながら、これは夢だと自覚した。誰かの感情が流れ込んでくる不快さが、全ての輪郭を曖昧にしていく。
苦しみ、哀しみ、憎しみ、そして──絶望。
体が動くのならば、喉を搔きむしって自害するほどの感情の濁流だった。
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルころしてやるころしてやるころしてやるころしてやる──!
「殺してやるっ……!」
「あいや、何!? え、何、ホント何?! 怖いよ!」
リヒトの叫ぶ声と重なるように、間の抜けた素頓狂な声がすぐ傍で聞こえてきた。のろのろと身を起こしたリヒトは、隣で胸を押さえながら目を白黒させている難破な親戚をうんざりとした面持ちで見やった。
「……何でここに居るんですか、清水川さん」
相変わらず女物の派手な羽織を見に纏った男は、リヒトの冷たい視線にヘラッと笑った。
「鍵してないから入っちゃった」
「不法侵入なんですけど。というか、野薔薇さんは?」
「え、俺来た時居なかったけど」
田舎の人間は、鍵が開いていたら勝手に入ってくるというのは迷信ではなかったのか。痛む頭を押さえながら、休日にまで会いたくない男を前にして苛立ちが込み上げる。スマートフォンで時刻を確認すれば、朝の九時半である。この時間ならいつもなら野薔薇はいるのだが、この男が家に入ってきているということはどこかに出かけているのだろうか。
もし野薔薇が居れば、きっとこの男は門前払いされているはずだ。
「ていうか、凄い魘されてたね」
「……夢見が悪かったんです」
「あれま、可哀想」
「貴方が居ることによってますます悪化しそうです。なので今すぐ帰ってください」
前回の出来事から二週間が経っている。その間リヒトは一度も尾和座家には行っていない。今後行くこともないだろう。
「いや、それがね、椿姫の命令だからはいわかりましたって帰れないのよ」
「は? 知りませんよ、そんなの」
あんなことがあったというのに、平素と何も変わらない態度の清佳の面の皮の厚さに辟易する。
「お~ね~が~い! 一緒に屋敷に来てよ。君を連れて来るように命令されてるんだよー」
「行きませんし、もう二度と関わりませんよ。……あんた、俺に関わってほしくなかったんだろ? 希望通りになったじゃん」
口調を取り繕うことも馬鹿らしくなって投げやりに返すと、彼はいつもの独特な笑い声を上げた。それから不自然にピタリと止めると、リヒトの胸倉を掴んで目を細めた。
「もう遅いんだよ」
清佳の高い鼻梁が眼前に迫る。一切表情を消したその顔はやはり兄弟だからか、似ていないと思っていたのに、どことなく当麻の面影を感じた。
「もう手遅れだ、逃げられない。関わった後にもう関わらないなんて通じない。ここは外の世界じゃないんだ。椿姫が治める、椿姫が法の、椿姫の国だ。椿姫が命じたら、逆らうことはできないし赦されない。いいか? お前が叩いた地獄の門は、一度入ったら二度と開かないんだよ、クソガキ」
「……」
恫喝めいた言葉に一瞬気圧されそうになるが、すぐさま苛立ちに変わる。
(は? 今こいつ逆ギレした?)
人当たりこそ良くしてはいるが、生来リヒトは大人しいタイプではない。日本以外で暮らしていたこともあって自分の意思を伝えることに躊躇はないし、それは権利である。スウッと目を細め、自分を何も言えない子供だと舐めて胸倉を掴んでいる男の手を掴んだ。
「離せ」
支配下に置けると思うな。支配するのはこちらだ。
「っ……」
一瞬だけ清佳の目が意外そうに瞬いた。それから静かに手を離して、どこか不思議そうに首を傾げた。
「いいですよ」
「え?」
「屋敷に出向いてやってもいいって言ったんです」
気の抜けたような顔をしている清佳に背中を向けながら上のスウェットを脱いで、眉を寄せる。
「着替えるんで早く出てってくれます? まさか、寝巻きのまま来いとは言いませんよね?」
「あ、あぁ……わかった」
戸惑いながらも言われるまま部屋を出て行った清佳を横目で確認しながら、うんざりしてため息を吐いた。
腹立たしいことには変わりはないが、どう考えても椿姫はリヒトをこのまま放っておいてはくれなさそうだ。
口止めでもしたいのか何なのかは知らないが、村にいる以上無視できないことも、清佳の言うことも理解している。
村ぐるみで排除される羽目になっても面倒臭い。ならば、話をつけてしまったほうが早い。適当に調子を合わせてやり過ごせばいい。椿姫がどう扱われていようが、どうせリヒトには関係のない話だ。嫌悪感こそあれリヒトが当事者なわけではないのだから、何か思うだけ無駄である。当事者が変化を望んでいないのにどうにかしてやろうというほど、リヒトはお人好しではない。
私服に着替えてから歯を磨いて身だしなみを整え、さっさと玄関の方へ向かうと、何やら揉めるような声が聞こえてきた。
「何故貴方がここにいるのですか」
「あー……お早うございます野薔薇さん」
「質問に答えなさい」
いつの間にか帰ってきたのか、野薔薇が鋭い眼差しで清佳を詰問していた。
「椿姫の命令でリヒト君を迎えにきたんですよ」
心底参ったとでも言う風に頭を搔きながら答えた清佳に、野薔薇の顔色が変わる。それからピシャリと言い放つ。
「あれは尾和座家とは何も関係ありません」
「いやいや、そんなん通用しないってわかってるでしょ。確かに、何も知らない遠縁の関わりのない子供の立ち位置のままならそれで赦されたかもしれないですけどね。彼は知りすぎた、関わりすぎた」
「……あのことを知ってしまったの?」
ここからでも野薔薇が珍しく動揺しているのが伝わってくる。
(やっぱ野薔薇さんは知ってたんだ)
二人から死角の位置で壁に寄りかかりながら足元を見つめる。わかってはいたが、祖母が容認していたという事実は複雑なものだった。
「だとしても、あのコは三年もせずにこの村からいなくなる人間です。お役目のことなら口外はさせないと誓います、なのであのコを巻き込むのはお止めなさい」
「巻き込むも何も自分から行ってたんですよ? 貴方も黙認していたのでは?」
「私は許可など出していません」
「でしょうね。……でも今更遅いんですよ。椿姫に認識された、興味を持たれた。その時点で全ては椿姫の意のままになる」
「一体あのコに何の用があると言うのです」
「そんなの俺は知りませんよ。ただ、この村ではどんな人間も椿姫の命令は絶対です。それが意に染まらないことであっても俺たちには拒否権なんてない。……先代の妹である野薔薇さんなら嫌というほどわかってるでしょ」
野薔薇が先代の妹ということはリヒトと椿姫はハトコということになる。姉が大人たちに好き勝手されていることを、果たして彼女はどんな気持ちで黙認していたのだろう。
いや、考えても仕方のないことだ。
意識を切り替えて、顔を上げる。
「準備できました。行きましょう」
「リヒトさん」
ハッとした顔でこちらを見る野薔薇をあえて視界に入れず、清佳に声をかける。
「オッケー。んじゃ行こっか」
「リヒトさん!」
掴まれた手を見下ろしながら、そういえば彼女と触れ合うのは今日が初めてだということに今更ながら気づいた。
「遅くなる前に帰ります」
ひんやりとした温度の小さな手を優しく離しながらそれだけを告げて、リヒトは清佳の車に乗った。




