⑭
薄い気配が、リヒトの呼吸を整えてくれる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「はっ、はっ……は……はぁ」
「今感じていることはきみのじゃない。別の誰か。……大丈夫、ぜんぶまぼろしだよ」
声変わりもまだの幼い声にただ安堵した。手を引かれ、ゆっくりとそこから離れる。手を繋いだまま、部屋に入った途端座り込んだ。手の震えが止まらない。
「ごめんね、もう終わってると思ってた。当麻さんが椿ちゃんのそばにいなかったから」
その言葉に、思わずハッと目を見開いた。
「……知ってたの?」
「うん。あれは椿ちゃんのお役目だから」
お役目。確か清佳も同じことを言っていた。そうか、彼が言っていたのはこのことだったのか。見ないにこしたことはないと言っていたが、確かにそうだ。
あれがお役目なのだというなら、ずっと昔から椿姫の役割は家の繁栄のために身体を他人に捧げていたことになる。
あの光景が脳裏を過って、喉元が締まった。
彼はわかっているのだろうか。理解しているのだろうか、あの行為の意味を。いくら幼く見えようとも、中はリヒトと同じ年齢だ。わからない訳がない。なのに、どうしてこんなにも平気な態度でいられるのか。
「……ゴメン、帰る」
「うん、わかった。玄関までおくるよ」
「いや、いい」
「おくる。……ごめんね」
どうして彼が謝るのだろう。何に対して謝っているのだろう。
「いいって!」
背中を支えるように回された手に、思わず声を荒げてしまう。
「ちょっと、なぁに騒いでんの。廊下まで声が聞こえてるよ、まだお客様いるんだから」
廊下からひょっこりと顔を覗かせたのは清佳だった。彼は少しだけ目を瞬かせた後、合点がいったように頷いた。
「とりあえず二人ともこっち来て。騒ぐなら場所変えてね」
「もう帰るんで」
「はいはい、行くよー」
抵抗するリヒトを軽々と支えて引き摺るように歩き出した彼の後を、早足で中も追ってくる。
「人形ちゃん、さっき廊下にコップ二つ置き忘れてたけど」
「あ、わすれてた……後でとりに行く」
清佳の人形呼びは常なのか、気にした様子もなく中は答えた。
「ちょっと、離してくれますか?」
「足腰小鹿じゃん、無理でしょ。もう少しで着くから大人しくしてね」
見た目よりよほどガッチリしているのか、抵抗を試みるリヒトをいとも簡単にいなしながらしっかりとした足どりで歩いて行く。
「はい、到着。座って座って」
「いや、ここ台所ですよね。俺、帰ります」
小さなテーブルを囲むように並べられた椅子に無理矢理座らせながら、清佳は中に指示をする。
「人形ちゃん、お湯もっかい沸かしてくれる? 俺も寒いからあったかいモン飲みたい」
「わかった」
最早誰もリヒトの言葉など聞いていない。
「ちょっと、聞いてっ……」
「見たんでしょ」
なんてことのない話をするような声音だった。
「あれが椿姫のお役目だよ。先祖代々、ずうっと受け継がれてる」
簡易ストーブで手を温めながら話す清佳の表情は、いつも通りだ。
「村の外から金のある権力者を集めて椿姫に会わせるのが俺のお役目、つまんないでしょ」
初めて会った時に言っていた客とは、このことだったのか。つまり彼は、実妹相手に金のある人間を斡旋していたということだ。
そんなのはまるで──。
「女衒みたいって思った?」
ハッと顔を向ければ、見透かしたような無表情がこちらを見ていた。
「ハハハッ……俺も思ってるよ」
尾和座家の人間には役割があると彼は言った。そしてその役割からは逃れられない。彼が外で生きることを赦されたのは、この役割を遂行することと引き換えだったのだ。
尾和座家の富とは、椿姫を餌に集められていた。このことを村の人間は知っているのだろうか。特別な存在なんてものは最初から存在していなくて、ただ見目の良い哀れな少女が餌袋の役割を果たしていただけだ。外側だけ神秘的なものを演じて、その内情を隠しているだけにすぎない。
村ぐるみで行われているのか、それとも尾和座家の人間だけしか知らないのか。だとしても、汚い大人が子供を好き勝手にしている事実には変わりない。
昔からずっとこれが彼女の世界の一部なのだとしたら、それはなんて地獄だろう。
祖母が彼女のことを人間ではないと言っていたが、人間でないのは尾和座家の者たちの方だったのだ。
どの口で人間ではないなどとほざいていたのだろう。人間扱いしないのは、少しでも罪の意識から逃れたかったからだろうか。自分たちとは違う存在だから、何をしてもいいと。悪いことではないのだと、そう言い聞かせていたのだろうか。
いや、どうでもいい。──吐き気がする。
「……だから関わらない方がいいって言ったでしょ。地獄の門を叩いたのは君だよ」
お湯が沸く音と共に、嫌な静寂が落ちる。
「中は、何も思わないの?」
窓から見える降りしきる雪が、リヒトの胸の奥までも蓋をする。責める響きの声に、いつも表情の変わらない中の瞳が揺れたように見えた。
「椿ちゃんは、誇りをもってるよ」
ゆっくりと、一言一句言葉を選ぶように彼は言った。
「誇り?」
「……お役目は、嫌なことじゃない。はずかしいことじゃない。椿ちゃんは……」
「そう思い込まされてるだけだろ」
ハッと嘲るような声が漏れる。何もわかっていない。
その身を好きにされる苦痛も、奪われる絶望も。
「中はやられたことがないからわからないだけだろ!」
「痛っ」
細い肩を掴む手に力が入る。
自分の力ではどうすることもできない理不尽さを、抵抗することの無意味さを、拒絶の意思や声を捻じ曲げられる無力感を、人間扱いされていないような恐怖を──。
「お取り込み中ですか?」
いつの間に居たのか、冷静な声と共に当麻が台所へと入ってきた。
「清佳、お客様がお帰りだ。車を回しているから、客間へ迎えに行け」
「……誰のせいでお取り込み中なのかね」
「何か言ったか? さて、野薔薇さんのお孫様はどうされます? ここで子供のように喚かれても迷惑なのですが」
淡々とした声には、どこか嘲笑めいたものが含まれていた。
「中さんは椿姫様の所へ、お呼びですよ」
「うん……でも」
中の薄い体から無造作に手を離すと、彼は逡巡するかのように一度だけリヒトへと視線を向けてから、やがてゆっくりと頷いて台所を出て行った。
「帰ります」
「えぇ、そうしてください」
俯きながら出ようとしたリヒトに、どこまでも冷たい声がかけられる。
「……だから言ったでしょう。関わらない方が賢明だと」
「っ……!」
睨み付ける気力もなかった。喉の奥が締まったように苦しくて、ただその場から逃げるように走り去るしかできなかった。
※※※
足早に去って行ったリヒトを眺めながら、清佳は小さくため息を吐いた。
「……意地悪だね」
「何が」
こうなるように仕向けた張本人のくせに、澄ました表情で中が飲まずにいた入れたばかりのココアを美味しそうに飲んでいる弟へ、思わず苦笑が込み上げる。
「そもそも、清濁併せ呑む気概もないくせに関わる方が甘いんだ」
「そうは言ってもね、普通の一般家庭で育ったコだよ。……お前だって、最初は驚いたでしょ」
「だからこそだ。俺たちと違って慣れる必要もない。外にいつでも出て行けるんだ、この家にわざわざ固執する必要はないだろ」
無邪気で明るかった子供の時と変わっていない甘党に、弟の心根と同じ甘さを見つけて、どうしようもない気持ちになった。
『お前だって、出て行ってよかったんだよ』
気休めにもならない言葉は、胸の奥に締まっておく。
最早手遅れで、何の意味もないことを知っているから、誰よりも自由を愛していた弟の今を、歯痒くすら思う。
「相変わらず、お前は甘いね」
「何のことだ。訳がわからないことを言ってないで、早く客間へ行け」
「はいはい」
すげなく言われ、渋々立ち上がる。
自由の身から、わざわざ巣に飛び込んできた美しい親戚の少年を、不自由に囚われた男は逃がしたいのだ。追い出したいのではない。縛られなくてもいいように、その自由な翼を守ってやりたいのだ。
中途半端に逃げ出した自分と、自ら囚われた優しい弟。いっそあの美しい少年が弟の代わりになればいいと、そう思った下心を、きっと当麻は気づいている。
(結局俺は、どこまでも自分勝手なんだな)
自嘲が口の中を苦くする。
自覚はしているが、どうしようもない。──どうしようもないのだ。




