⑬
中とはあれから毎日尾和座家で会っていた。とはいっても彼はお喋りなタイプではないので、いつも静かに絵を描いている。リヒトはそれを傍で眺めているだけだ。
猛にも何がそこまで琴線に触れたのかと聞かれたが、リヒト本人にもわからない。ただあの時、悪夢の残滓から救ってくれたのが彼だったからか、それとも容姿に頓着しない人間だったからか──今となってはどうでもよかった。一つだけ言えることは、中の傍に居ると居心地が良いということだけだ。彼の傍では普通に笑える、呼吸ができる。
「中はいつも花の絵を描くよね。花が好きなの?」
「うん。花はこわくないから」
「怖くない?」
「うん」
相変わらず会話の要領はえないが、幼い子供に接するように続きを重ねる。
「そっか。人は描かないの?」
季節的にも冬に咲く花はあまりないからなのか、尾和座家には椿の花しか咲いてない。中のスケッチブックには、毎日深紅の花ばかり咲き誇るのだ。
「人間はこわいから。でも、椿ちゃんならたまにかく」
「……そう」
胸の奥にドロリとした熱が頭をもたげたが、それをおくびにも出さずに微笑む。中はじっとリヒトの顔を見つめた後、小首を傾げた。
「見る?」
「え?」
「かいたやつ」
彼はリヒトが返事をする前にパラパラとスケッチブックをめくって、ずいっと目の前に翳した。
「これって……」
それはまさしく椿の花だった。
艶やかな着物を纏い、足を崩してしなだれかかるようにして座っている少女。ただ一つ違うのは、あの妙に色気のある美しい顔の代わりに一輪の椿の花が咲き誇っているということだ。
人為らざる者──まるで花の形をした生き物だ。
人の形を模した花なのか、花の形を模した人なのか。
いや、どちらにせよ一方が普通から乖離している時点で、最早それは人とは呼べない存在だ。
「きれいでしょ。椿はね、花弁をちらしたりしないの。きれいで強くて、一番すき」
「……でも、椿は頭からとれるでしょ。人によっては、不吉な花って言われてるよね」
「無惨にちらされるより、いさぎよくていいよね。負けないって、そんな感じがする」
中の見ている世界は、きっとリヒトの目に映っているものより美しいのかもしれない。一体何が視えているのか、どうしようもないほど知りたかった。
「リヒトくんならかけるかも」
「俺?」
「リヒトくんも椿だから」
つるりとした丸い瞳がこちらを見上げてくる。向日葵が健気に咲いている瞳だ。意図せず指先が、彼の目の下に伸びる。柔らかな肌を親指で擽るように撫でていると、ふいに冷たい物が肌に触れた。中の頬やリヒトの指先に、淡い白が舞い降りる。
「雪だ」
中の声に触るのを止め、同じように上を向く。チラチラと雪の結晶が、淡い輝きを秘めて椿の花を染め上げていった。
「寒いもんね。リヒトくん、中にはいろ」
そういえば随分と息が白いことに今更ながら気づいた。本格的な冬の始まりを告げる息吹を感じながら中の後をついて行く。
「何か温かいものでももらお。台所にココアがあるから、リヒトくんも飲もう」
基本的に屋敷には人の気配はほとんどない。とはいえリヒト自体隅々まで屋敷の中を見て回ったわけではないのでどこかにはいるだろうが、今までも数回程しか尾和座家の人間には遭遇していなかった。
「ココア? うん、いいね」
甘い物は得意ではなかったが、中が勧めるなら無条件に首肯する。
並んで台所へ向かうと、そこには当麻がいた。お茶を淹れている最中だったようで、リヒトたちに気づくと彼は感情の見えない目でこちらを見た。
「中さんと野薔薇さんのお孫様」
彼はリヒトのことを野薔薇さんのお孫様と呼ぶ。どう考えても嫌がらせのような呼び方だがどうでもいい。リヒトが歓迎されていなかったとしても、当麻の気持ちを慮ってやる必要性も義務もない。中に会うためならば当麻の気持ちなどどうでもいいのだ、興味もない。
「当麻さんがここにいるってことは終わったんだ」
「お孫様は珍しいですね。あまり屋敷の中には入られないでしょう?」
何が終わったのかは知らないが、中の問いに答えることもなく、当麻は湯呑みに口をつけた。
「雪が降ってきたので」
「あぁ、冷えると思ったらそうでしたか。二人ともお茶は召し上がりますか?」
「いや、俺たちはココアを頂くので。ね、中」
「うん」
「そうですか」
温度のない硬質な響きのある口調は、野薔薇に近いものを感じる。
勝手知ったるといった風にココアの準備をしていた中は、寒い台所に少しだけ震えているリヒトに気づいて手を止めた。
「リヒトくん、お部屋に行ってて。できたら持ってく」
「え、でも」
「寒いから。一人でも持って行けるよ」
一分一秒でも傍にいたいと言う本音は流石に憚られたので、愛想良く頷いた。
「あ、場所わからないよね。ここでたら右に曲がってまっすぐ行ったら、廊下をつきあたった左の奥に部屋があるけど……」
「うん、わかった」
「大丈夫?」
一人でも行けるかという問いだろうが、身長百八十近い男に対するものではないそれに思わず笑った。大きな子供くらいに思われているのだろうか。
「子供ではないのですから、過保護なのでは?」
ちくりと嫌味が横から飛んできたが、それを軽く無視して中に手を振る。
当麻とはたまに屋敷でエンカウントするが、椿姫と行動を共にしていない時はこうしてたびたび嫌味を言われているので、段々慣れるというものである。
面倒臭い小姑くらいに思いながら迷うことなく突き当たりまで辿り着くと、そこで小さな声が聞こえた気がして足を止めた。ここを左に行けば部屋があるが、右の方から何やら人の気配がする。誰か他の親戚でもいるのだろうか。
抑えた、呼吸のような音だ。それから衣擦れの音が静かな空間に響いている。平素なら気にも留めなかったはずだ。それなのに、リヒトの足は部屋とは反対方向に向かっていた。
くれ縁から見える景色は、驚くほど白い。あっという間に全ての色が白へと染め上げられていく。それを視界の端に捉えながら、何故か抗えない何かに導かれるようにその手は声が聞こえてくる部屋の襖へと延びていた。
「……はっ」
部屋の中の呼吸音と、自分の呼吸音が重なる。本能が見るなと叫んでいるのに、震える指先は意思に反して襖を少しだけ開けた。
「あっ……。はぁっ……あぁ……」
「っ……!」
目の前にある惨状に、思わず悲鳴が漏れそうになった。咄嗟に自分の口に手を当て、呼吸を殺す。濡れたような細い悲鳴。布団の上に散らばる鮮やかな着物が、まるで鮮血のようですらあった。組みしかられ貪られている少女の白い足に、ぐうっと喉元から何かが込み上げてくる。
──そこにいたのは、まさしく化け物だった。
大きな虫の化け物が複数犇めき合って蠢いている。花の蜜を奪いたくて、無惨な狂宴を繰り広げているのだ。
ぞりぞりと肌を這う音が聞こえる。汚ならしいムカデの音だ。長くむちむちとした焦げ茶色の体をくねらせながら、花の蜜を味わっている。それが数匹犇めいている様は、あまりにも怖気が走る地獄だった。
その光景が、夢のそれと重なる。
立っていられなくなり、這うように座り込んだ。視界が回り、自分の心臓がやけに煩くて熱いのにどうしてか喉元から下は氷を含んだように冷たかった。
「はっ、はっ、はっ」
息が上手く吸えない。痺れた手足は鉛のように重く、あまりにも役に立たない。この場から一刻も早く逃げ出したいのに、まるで自分の上にあの虫たちが群がっているかのように自由が利かなかった。
次は自分の番だと、目の前が暗くなる。
痛くて、寒くて、苦しくて。
そう、誰も助けてはくれない。
奪われ、辱しめられ、喰われていく。
あの時もそうだった。──そう、だった。
「見ちゃだめ」
柔らかな手が、視界を覆った。




