⑪
中にはすぐに会えた。というのも、入口を入ってすぐの生け垣の前に彼はしゃがむようにしてスケッチをしていたからだ。
「中!」
自分でも自覚するほど声が弾んだ。
「……あれ、リヒトくん?」
リヒトの声に、茫洋とした表情で振り返る。隣に居る清佳をチラリと見てから、数回瞬きを落とした。
「どうしてここに?」
「中に会いたくて……迷惑だった?」
まろやかな染み一つない頬に手を滑らせると、彼は小さく頭を振った。
「迷惑じゃないけど、椿ちゃんがいやがるかも」
その言葉に思わず頬が引き攣りそうになるが、一切表情には出さずに微笑む。
「俺も尾和座家の血を引いてるんだ。今日は清水川さんの厚意で屋敷に入れてもらえることになって。親戚でも
嫌がるかな?」
「……そうなんだ、そっか、だからか」
自分の口の中だけで転がすように、小さく彼は呟いた。何か腑に落ちたようなそれに首を傾げると、横から清佳が口を挟んだ。
「彼、君に会うためにずっとあの気持ち悪い墓の近くでウロウロしてたんだよ。健気だよね」
ハハハッと乾いた嘲笑に、笑顔を保っていた目元が痙攣する。屋敷に入れてもらえたことは感謝するが、もう用もないのだからさっさと消えてほしいと胸中で悪態をついた。
リヒトの内心など見透かしているかのような表情で、清佳が何事かからかおうと口を開きかけたその時、ふいに空気が濃密なものに変化するのを肌で感じた。
「そこで何をしている、清佳」
冷たく硬質な声に顔を向けると、開かれた玄関の先に当麻と椿姫が立っていた。
「……思ったよりも早かったな」
ボソリと隣で清佳が呟く。
「これはこれは、代理人様と椿姫様」
「余所者を勝手に敷地内に入れるな」
大仰な仕草で胸に手を当て頭を下げた清佳を、当麻はにべもなく切り捨てる。おおよそ兄に対する態度ではなかったが、リヒト自身軽薄な態度のこの男を好ましく思えないのでさもありなんといったところだった。
「彼は尾和座家の血を引いています。余所者とはあまりにつれないのでは?」
「──外に戻る人間だ。何の関係もないだろう」
「ハハハ、相変わらずお優しいことで」
嫌味な態度に当麻が目を細める。興味がない兄弟喧嘩を見せられても困るので、口を挟むべきかと中の後頭部を見下ろしながら様子をみていると、ふいに鈴を転がすような声が割って入った。
「やめよ」
可愛らしい声だが、不思議と凛とした響きのあるものだった。今の今まで一度も言葉を発していなかった椿姫本人の声だった。
不思議と抗い難い感覚に襲われる。全てを包んで呑み込んでしまうような、支配者の声だ。
「「椿姫様、申し訳ありません」」
二つの兄弟の声が重なる。先刻まで嫌味の塊だった男ですら、傅くように膝を折って頭を垂れていた。
「清佳、お前は客間にいる客人を送りなさい。惚けて使い物にならないわ」
「はい」
「当麻、お前は中の傍に」
「かしこまりました」
「お前はわたしと来なさい」
一瞬、誰に言っているのかわからなかった。
「椿姫様っ!」
無表情だった当麻の顔に焦燥のようなものが見えて、思わず怪訝な顔をする。
「俺、ですか?」
無意識に中の方に目がいくが、彼はぼんやりと椿姫を見つめているだけだ。
「……わかりました」
「須藤リヒト!」
鋭い声が当麻から飛び出るが、椿姫を一瞥(顔は見えないが)で鎮圧される。
ゆっくり彼女に近づいて玄関に入ると、椿姫は何も言わず背中を向けた。言われるまま後ろをついつ行くと、やがて広い中庭が見える部屋へと通された。
中に会いたいがためにここまで来てしまったが、彼女と関わることは想定していなかった。今更ながらもう少しやりようはなかっただろうかと後悔に襲われるが、どっちみち椿姫と関わらずには中と交流することはできない。腹をくくりながら彼女の小さな背中を見つめているど、ふいに被衣が外された。
顔を見てはいけないと言われているのに、当の本人がその決まりごとを覆したことに思わずぎょっとする。
咄嗟に顔を背けるが、視界の端に豊かな黒髪がさらりと揺れた。椿姫の気配が近づいてきて、花の香りも強くなる。
「顔を上げなさい」
「……顔を見てはいけないと言われています」
「わたしがいいと言っているのよ」
他人に命令しなれている、拒否を許さない声音だった。暫く逡巡してから、リヒトは顔を上げた。
「っ……」
他人の美醜にあまり頓着のないリヒトですら、その瞬間息を呑んだ。
折れそうなほど華奢な首の上に鎮座しているのは、まるで人形のように精巧で緻密な作りをした顔だった。東アジア人特有の象牙のような白い肌は真珠のように艶めいていて、小ぶりながらもスッと通った鼻やけぶるような睫毛の大きな瞳が、計算されているかのように陳列していた。腰まである豊かな髪は美しく、これを烏の濡れ羽色と表現するのだろう。
人ではないナニか──ふいに祖母の言葉を思い出した。
『あれは、人ではないのだから』
リヒトより随分小さな体だというのに、目の前にいる存在から大きな圧を感じる。見下ろしているのは自分の方だというのに、上から押さえつけられ、丸呑みにでもされそうなプレッシャーがあった。
「お前、中を気に入っているんですってね」
答えられず、乾いた唇を舌で湿らせる。
「──あれは、ダメよ」
細い指先が擽るように、あやすように喉元を這う。
人形のような瞳が真正面からリヒトを見据え、ギクリとした。彼女の深い色をしたその瞳は、リヒトとどこか似ていた。緑がかった黒というよりも、黒みがかった緑の瞳。リヒトよりも少しだけ黒を滲ませた色。
それを見つめていると、頭がぼんやりしてくる。呑み込まれそうだ。
囁くように、椿姫の薄桃色の唇が寄ってくる。
「中は、わたしの物だから」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。言葉を音としか認識できないでいたが、それが意味のある言葉だと脳に届いた瞬間、カッと腹の底が燃えた。
「中は物じゃない!」
一瞬で沸騰した熱は腹の底でグルグルととぐろを巻くが、頭は妙に冷たく冴えていた。
結局この女も他の人間と変わらない。美しいウツクシイうつくしいと飢えた獣のように手を伸ばす者たちも、傍に置きたいからと中を囲む椿姫も、結局は貪欲な人間だ。村人たちが勝手に神聖視しているだけで、権力を行使することに慣れた人間なのだ。
何が欲しいがままにしていい権利があるだ。
椿姫という象徴を隠れ蓑にしただけの、甘やかされた子供ではないか。
「お前……どうして?」
払われた指先を見つめる椿姫の表情は、どこかあどけない。不思議そうに瞬く目に、リヒトは体を離そうとした。離そうとしたのだが、どこにそんな力があるのかと驚くほどの強引さで腕を引かれる。そのまま彼女の両手が頬を掴んだ。
「ちょっ……」
ずいっと、その人形のような顔が近づく。鼻先と鼻先が触れそうな距離までくると、彼女はじいっとリヒトの瞳を覗き込んだ。そうしてから、一人納得したように笑む。
「そう……そうなの」
全てを見透かしたような目が、きらりと光る。
「お前も、尾和座家の人間だものね」
あどけない顔立ちに反して、ひどく婀娜っぽい表情をする少女だ。染み一つない柔らかな肌に、右目の泣き黒子が色気のアクセントになっている。
「いいわ」
「え?」
どこか飽きたような表情であっけなく身を離した彼女は、口元だけで笑った。
「中に会いたいなら、これから好きな時にここへ来ていいわ。門は開けておいてあげる」




