暴君夫は強い乙女が好きならしいので、今日も陛下の前では強がりを発動しようと思います
帝都ルクレイノス。全ての道はこの玉座に通じると言われる中心地、その王宮の奥深くに、今日も新たな政略の火種が投げ込まれようとしていた。
エルミージュ・アルスベル・トルコザーミンは、緋色のロングヘアを風になびかせ、秋の葉のような瞳で睨むように宮廷の門を見つめていた。
「……この門の先に、あの“黒き暴君”がいるわけね」
彼女が嫁ぐ相手、帝国皇帝アレクシス・イグナート・ヴァン・ルクレイノス。その名を聞いただけで貴族の子弟が震え上がる、恐怖の象徴のような男である。
しかし、今のエルミージュには恐れている余裕などなかった。なぜなら──
「この結婚を断ったら、家が終わるどころか処刑されるんですものね……ああ、処刑よりはマシ、マシですとも」
ぶつぶつと呟きながらも、彼女は背筋を伸ばす。いま必要なのは、気品でも美貌でもない。生存本能からくる、“強がり”スキルである。
「陛下は強い女が好み、ですって? ならば今日から私は、最強の鋼鉄令嬢ですわ」
馬車から降りた彼女を待っていたのは、威圧的な衛兵たち。そして、彼らを従えるようにして、彼はいた。
──アレクシス。
漆黒の髪を無造作に流した、鋼鉄の鎧のような男。目は青銀色、冷たい刃のようで、まるで心を読まれているかのような錯覚すら覚える。
「……貴女が、トルコザーミンの娘か」
低く、感情の読めない声。
「そうですわ。エルミージュ・アルスベル・トルコザーミン、皇帝陛下におかれましては──まあ、私のような者でも恐れ多くないのなら、どうぞご自由に」
一瞬、衛兵たちがぴくりと動いた。だが、アレクシスは彼女を一瞥し、口の端をわずかに上げた。
「……変わった女だ」
「ええ、よく言われますわ。変人? 結構。強気? 上等。どうぞ、お好きにお呼びなさいませ」
(やばい今の言い方生意気すぎた!?)
だがアレクシスは、特に気を悪くする様子もなく、背を向けて言った。
「案内しろ。……我が皇妃となる者の部屋へ」
エルミージュは、なんとか足元をふらつかせずに歩き出す。
「──ふう……強がり乙女、第一戦、生還」
そう小さく呟いた言葉が、彼の耳に届いていないことを、彼女は願った。
翌朝、エルミージュは予定より一時間早く目を覚ました。昨晩の緊張が尾を引いているのか、それとも……。
「夢にまで陛下が出てきましたわ……無言で豆スープを差し出すだけの夢……」
寝巻きのまま呻くエルミージュに、侍女ナナがそっと声をかける。
「奥様、今日はいよいよ皇妃公務の初日でございます。朝議の立会いと、官僚方へのご挨拶が──」
「わかっておりますわナナ……ええ、わたくしはもう、鉄の王妃……鋼鉄の乙女……ッ」
おそろしくギチギチに巻かれたコルセットのせいで、気合いの空気も呼吸も苦しかった。
王宮中央の会議室。そこに並ぶのは、帝国中枢を担う高官たち。そして、その中央に座すのが──アレクシス。
エルミージュは緊張で唇を噛みしめながら、横に立つ位置へと進む。椅子には座らない。
「……本日は皇妃殿下もご列席か」
筆頭宰相の言葉に、官僚たちの視線が一斉に向けられた。
が、彼女は微笑むどころか、堂々と──
「当然ですわ。王妃として、陛下のお傍に立つのは当然の義務ですから」
言いながら、膝が震えそうになるのを必死でこらえる。手元の書類に視線を落とすと、内容が……読めない。
(いや文字は見える、けど意味が全く入ってこない……!)
アレクシスは特に声をかけるでもなく、ただ書類を手渡した。
それを受け取るとき、彼の指がほんの少し彼女の手に触れる。
(ひゃっ──!?)
跳ねそうになった反応を、首をかしげるフリで誤魔化す。周囲の誰も気づいていないと信じたい。
「……皇妃殿下」
筆頭宰相が口を開いた。
「先日の農地改革案について、妃殿下のご見解を伺っても?」
死。
これが死か。処刑よりマシだったはずの人生が、まさか公開口頭試問で終わるとは。
「ええ、もちろん心得ておりますわ。農地の再配分は……とても……重要……ですものね」
官僚たちの筆が止まり、空気が静まり返る中。
「──当然、今後は民草の声を反映しつつ、現場の意見を第一に据えるべきかと。絵空事で終わらせず、継続的な現地視察と報告制度の整備が求められます」
……えっ、何この流れるような発言。
エルミージュは自分の口から出た言葉に、一瞬驚いた。
(……いや、ナナに徹夜で叩き込まれた内容じゃないこれ!?)
「……ご立派な見解ですね」
アレクシスが、珍しく少しだけ表情を動かす。
──それが、褒めているのかどうかは分からなかったが。
(私、もしかして、うまくやれてる……!?)
……などと思った数分後には書類を落として机の脚にぶつかるなど、強がり乙女の挑戦は、まだまだ続くのだった。
朝議が終わった後、エルミージュは無言で控室に連れて行かれた。誰の案内もなく、ただアレクシスの後ろをついていく形だ。
重厚な扉が閉まる音が響いた瞬間、心臓が跳ね上がる。
(ひょっとして……今から怒られる? それとも、やっぱり追放される?)
「──座れ」
言われるままに、重そうな椅子に腰を下ろす。
アレクシスは書類を数枚めくったあと、視線を彼女に向けた。
「……先ほどの意見。よく通る声だった」
「へ?」
「見解も悪くない。第一印象より、ずっと聡明な女だ」
(まさかの……褒め言葉!?)
「そ、そうですわね! わたくし、頭の良さには定評がありますのよ! ……主に、家の猫から!」
しまった、意味が分からない反射返しをしてしまった。
アレクシスは一瞬だけ、眉を僅かに持ち上げた。
「猫、か」
「……はい。かわいくて、ちょっと意地悪な、でも大切な家族でして」
沈黙が落ちる。気まずさが濃度100%で満ちかけたその時──
「──猫よりは、素直なほうがいい」
アレクシスはそれだけを言い残し、再び視線を書類に戻した。
(……今の、なに? それって、どういう……!?)
「奥様、お疲れ様でした!」
晩餐会のときと同じように、侍女ナナは軽やかに部屋へ入ってきた。
「おつかれどころじゃないわよナナ、私、今日何回心臓止まりかけたと思ってるの!?」
「でもちゃんと答えておられました。農地改革の件、官僚様方も感心してましたよ」
「それはナナが昨日一晩中読み聞かせてくれたからで……」
彼女はベッドに倒れ込み、クッションを顔に押し付けた。
「……でも、陛下、ちょっと褒めてくれた……かもしれないのよね……」
「ほぉ〜〜〜! それは進展ですね?」
「えっ? いやいや、進展っていうか、たぶん……たぶんですよ!? 微妙に、猫よりマシみたいな……」
「それ、たぶん全力の賛辞ですね、あのお方にしては」
「……そうなの? ほんとに? 怒ってないの?」
「むしろ、ちょっと気にしておられるような空気、ありましたよ? 視線、しょっちゅう送ってました」
「ええ!? なんで!? わたし、何かついてた!?」
「いえ、“なにか”はたぶん奥様の存在そのものですね」
「……うう、心臓に悪いわ、ほんとに……」
ふたりはしばらく笑い合ったあと、夜の帳に包まれた寝室で、ようやく少し肩の力を抜くことができた。
「明日も頑張りますわよ、ナナ……強がり、続行です」
王妃の部屋──と呼ばれるが、もはや小さな城ほどの広さを持つ豪奢な寝室。中央には、泳げそうなサイズの天蓋付きベッド。
「……こ、こんなに広いと逆に落ち着きませんわね……」
室内には侍女のナナが控えていた。
「初夜……ですね、奥様」
「な、ナナ! 小声で言いなさい小声で! いや、そもそも言わなくていいのよ!!」
そのとき──部屋の扉がノックされ、静かに開いた。
現れたのは、もちろん“夫”である黒き暴君。
アレクシスは、無表情で部屋を見渡し、ベッドの端に腰を下ろすと一言。
「……寝ろ」
「…………は?」
「寝ろと言った。明日から王妃としての公務がある。体を壊されては困る」
(……って、それだけ!? いや、もちろんそれでいいけど!?)
無言のまま、彼は背を向けて椅子に腰を下ろし、読書を始めた。
(なにこの空気!!)
翌日、王宮内の書庫にて──
エルミージュはナナと共に、公務用の記録文書を整理していた。慣れない専門用語と古文体に、目も肩もガチガチ。
「はぁ……文字が剣に見えてきましたわ……」
「奥様、それはもう末期です」
そこへ、不意に重たい扉が開く音。
「──皇妃殿下」
現れたのは、もちろんアレクシス。
書庫内にいた近侍が慌てて頭を下げ、空気が一瞬で凍る。
(な、なぜこのタイミングで現れるの陛下!? 書庫ですよここ! 休憩中にチョコ食べてたのばれたらどうしよう!)
彼は特に気にする様子もなく、彼女のすぐ横にまで歩み寄ってきた。
「この文書、昨日の議事録と照合するように命じたが」
「あ、ああ……はい、もちろん確認済みですわ! 念のため三回読み返して──」
その時、積み上げていた文書の箱が、バランスを崩して崩れ落ちた。
「危──」
次の瞬間、エルミージュの身体は、アレクシスの腕の中にあった。
崩れた紙束の雨の中で、彼の腕がしっかりと彼女の腰を支えていた。
「……っ、け、怪我は……っ」
至近距離。呼吸が、熱い。瞳が、真っ直ぐすぎる。
「あ、あの、わたくし、無傷ですので!! 放していただいて大丈夫ですので!!」
「……そうか」
ゆっくりと、けれど名残惜しげに手を離すアレクシス。
「……重かったかしら、私……?」
「軽すぎて、倒れるかと思った」
「えっ」
「食事、もっと摂れ。衛兵より細い王妃では、困る」
(なにそれ、心配してくれた……の? 今の、優しさ……!?)
その日、寝室に戻ったエルミージュは、ナナに顔を隠したまま言った。
「……なにあれ、もう……なんなの……!!!」
「奥様、陛下、今完全に“男の顔”してましたよ?」
「やめてナナ~~~~!!!」
「……それで奥様、真っ赤な顔で“なんなの陛下~~”って」
ナナは笑いながらお茶を啜る。その向かいにいるのは、皇帝の側近ルーク・ザイデル。
「陛下が自分から腕を伸ばすなんて、相当ですよ。そもそも他人に触れるのすら珍しい」
「でしょう? なのに、ですよ? しかも“軽すぎる”発言。あれ、照れ隠しってやつですか?」
「たぶん“健康状態への合理的な配慮”と言いたいところを、うっかり本音が先に出たパターンですな」
「……不器用って言葉を体現してますよねえ」
ふたりは同時にため息をついた。が、その後すぐ。
「でもまあ、あの二人が歩み寄るなら、少し安心できる。……陛下は長いこと、一人で戦ってきた人だから」
ルークの声音には、深い敬意と微かな哀しみが混じっていた。
「……エルミージュ様が、陛下の光になってくれたら、いいですね」
数日後、王宮の正門にて。
「本日正午、宰相代理マリーネ・グラディウス殿下ご来訪との通達が」
ナナの声に、エルミージュは目を見開いた。
「グラディウス……って、あの、社交界の美貌剣士!?」
「はい。陛下の元婚約候補であり、現宰相の姪にして、“絶対に敵に回してはいけない貴婦人”ランキング第1位の方です」
「無理じゃない!? わたくし、勝てる気がしませんけど!?」
その時、エルミージュの頭の中に、“優雅に笑いながら毒を仕込む系美人”のイメージが浮かび上がっていた。
──黒き暴君の傍に寄り添うには、乗り越えるべき“刺の薔薇”が現れたのである。
謁見の間に入ってきたマリーネ・グラディウスは、完璧な所作で頭を下げた。
「久方ぶりでございます、アレクシス陛下。変わらず、お美しいこと」
その声音は甘く、誰が聞いても“意識している”と分かるもの。
「……貴公も変わらぬな。鋭い目と、毒のある舌」
「光栄ですわ。毒も、使いようで薬になりますもの」
視線が、エルミージュに向けられた。
「そしてそちらが……新たな皇妃様? うふふ、まあ……とても、個性的ですわね」
(出た! 優雅にマウント取ってくるやつ!!)
「初めまして、エルミージュ・アルスベル・トルコザーミンです。あなたほど完璧な美貌はございませんが、精一杯努めてまいりますわ」
「まあ、まあ。ご謙遜が過ぎると、嘘に聞こえてしまいますわよ?」
「では今度は正直に。私はあなたのような美しさに嫉妬するほど、自信はありませんので」
一瞬だけ、マリーネの笑顔が固まった。が、すぐに元に戻る。
「ふふ……面白い方。お気に入りになりそうですわ」
アレクシスは、ふたりのやり取りを黙って見守っていたが、ふと口を開いた。
「マリーネ。貴公は、私の隣に立つ者の資格を、自ら手放したのだ」
「……ええ。あの時の私には、帝国より自分の立場の方が大事でした」
マリーネの視線が、もう一度だけエルミージュを貫いた。
「……でも、今の陛下が選ばれた方なら、私も少しは……期待してみたくなりました」
(あの視線、ただの挨拶じゃなかった。陛下に“未練”がある……?)
エルミージュの胸に、小さな棘が刺さるような違和感が残された。
その夜。
エルミージュは一人、寝室のテラスで夜風に当たっていた。
「……あの人、美しかった。知性もあって、余裕もあって……あんな人が、陛下の“隣”にいたのね」
誰に語るでもなく、呟いた言葉は風にさらわれていく。
「私なんて、強がることしかできなくて。毎日必死で……それを“面白い”とか思われてるだけだったら、どうしよう」
胸の奥に、ズクンと刺さるような痛み。
(私はただの代替品なんかじゃない。陛下が選んだのなら、その選びに応える……!)
けれど心のどこかで、“自信”だけはまだ足りなかった。
恋というものを、初めて知って。初めて怖くなった夜だった。
一方、アレクシスは書斎で一人、冷えた紅茶に手をつけず、窓の外を眺めていた。
視線の先には、エルミージュの部屋の灯り。
(彼女には……恐れがある。だが、その中に“真の強さ”がある)
書類を閉じ、彼はそっとため息をついた。
(……あの光を、手放すつもりはない)
静かに、しかし確かに。アレクシスの中で、ある想いが輪郭を強めていた。
「──宰相府より通達。南方前線の補給物資に関する密書が、皇妃殿下名義で偽造されていたと」
アレクシスの執務室に集まった官僚たちがざわつく。
「まさか、皇妃様がそんな──」
「馬鹿な。エルミージュに軍務の伝手などない。誰かが意図的に名義を使ったとしか考えられん」
アレクシスの声には怒気はなかった。だがその静けさが、逆に場を凍らせた。
一方、エルミージュはすでに報を聞き、独自に調査を開始していた。
「ナナ、情報を洗って。誰が私の名前を使えたか、過去の交友録まで探るのよ」
「はい、すぐに動きます!」
その目は、もはや“強がり”ではなく、“戦う決意”の色を帯びていた。
(もしこれが陛下を貶めるための罠なら、絶対に許さない──)
そしてその夜。
密かに調査していたルークが、アレクシスに告げた。
「陛下。内部からの情報操作があったようです。犯人はまだ特定できませんが……どうやら、“皇妃様を排除したい派閥”が動き出しました」
アレクシスの目が細められる。
「そうか──ならば、こちらも“牙”を抜く時だ」
王宮の静寂の中、嵐の足音が確かに迫りつつあった。
翌朝、エルミージュは王宮内で正式に尋問を受けることとなった。
形式上は「参考聴取」だが、実際には告発の矛先を向けるための場だと誰もが知っていた。
「皇妃殿下、密書に記された命令語句が、あなたの口癖と一致する箇所が複数……」
「だからといって、私が書いた証拠にはなりませんわ」
彼女は毅然と答えるも、内心では震える手を膝の上で抑えていた。
(ここで怯んだら終わり。あの人が信じてくれてるなら、私は立たなきゃ──)
だが、事態は予想以上に早く動いた。
翌日の王宮報では、“皇妃が軍機を漏らした疑惑”として、エルミージュの名前が見出しに踊った。
「こんな……こんな扱い……っ!」
ナナは怒りで声を震わせ、ルークも「内部の誰かが情報をリークした」と唇を噛んだ。
そして──
「皇妃殿下には、謹慎を命じます」
宰相府からの正式通達が下りた。
その瞬間、エルミージュの世界は一度、静かに崩れ落ちた。
謹慎処分が下されて三日。
エルミージュは自室から一歩も出られぬまま、窓の外を見つめていた。
外の世界は動いている。だが自分は──
「……私は、ただの“使い捨ての王妃”だったのかしら」
その時、重い扉が勢いよく開かれた。
「エルミージュ!」
──呼び捨て。
アレクシスが、自分の名を──初めて、感情のこもった声で呼んだ。
「陛下……?」
「この件、お前を陥れようとした者が判明した。証拠も確保した」
「……本当に……?」
「信じなければ、ここに来ていない」
彼は手を差し出した。
「私の隣に立て、エルミージュ。もう、誰にも触れさせはしない」
その言葉に、エルミージュの目から、ようやく涙が零れた。
強がりではない、素直な涙。
初めて、彼女は“愛されている”という確信を抱いた。
アレクシスとエルミージュは共に動き出した。
「ルーク、情報操作に関与していた筆頭文官の記録を押さえたな?」
「はい。裏帳簿と暗号文、それにマリーネ侯の従者が出入りしていた証言もあります」
事件の背後には、マリーネ派の一部貴族が仕組んだ“皇妃排除”の陰謀があった。
「……やはり、そういうことだったのね」
エルミージュの目はもう怯えていなかった。
アレクシスは彼女の手を取り、公式に宣言した。
「皇妃殿下と共に、事件の真相を暴き、この場にいる者全ての前で潔白を証明する」
翌日、審問の場でエルミージュは堂々と証拠を提示した。推理と分析は的確で、王宮内の面々が圧倒された。
「これが“強がり”だったと、今でも言えますか?」
彼女の最後の問いに、誰も反論できなかった。
「……よくぞやったな」
審問後、アレクシスが静かに笑った。
「貴女はもう、ただ守られる者ではない」
「ふふ、では次は……守る側として、貴方の隣にいても?」
そう言って微笑むエルミージュに、彼はそっと頷いた。
事件の幕が下りた後、王宮は久々に穏やかな空気に包まれていた。
「……これでようやく、少し休めそうですね」
ナナが言うと、エルミージュはふっと笑った。
アレクシスの私室にて、ふたりきりのひととき。
「陛下、今日は何も予定がありませんのよ。まさか……ずっとお仕事?」
「いや、今日はお前と過ごすつもりで空けておいた」
「……っ、そ、そう……ですの?」
アレクシスは黙って、彼女の肩を引き寄せた。
「“エルミージュ”と呼んでも、もう拒まないな」
「そ、それは……っ、嫌ではありませんし……!」
「ならば今日は、強がりは要らない」
「……今日くらいは、……許されますわよね?」
頬を染めてもたれる彼女の髪を、アレクシスがそっと撫でた。
黒き暴君と鋼鉄乙女は、この瞬間だけ、ただ一組の“恋人”だった。
エルミージュと出会ってから、日々が少しずつ、確かに変わっていった。
最初はただの政略結婚。名ばかりの妃。そう割り切っていた。
だが──彼女の震える拳も、空回る強がりも。
あれほど心を動かされるとは、思っていなかった。
(誰よりも弱くて、誰よりも……強かった)
彼女を抱きとめた書庫の午後。
名前を呼んだあの夜。
共に戦い、共に笑った今日まで。
彼女は“王妃”以上に、俺にとって──
「……かけがえのない、たった一人だ」
誰もいない書斎の奥、アレクシスはそっと微笑んだ。
戴冠式の日。
白の礼装に身を包んだエルミージュは、真紅の髪を風に揺らし、ゆっくりと玉座の前へと歩み出た。
「エルミージュ・アルスベル・トルコザーミン。貴女は、帝国の皇妃として──」
アレクシスがその手を取り、声を重ねる。
「共に歩み、共に治め、共に生きる者として。帝国に、そして私に、並び立つ者として──その名を刻む」
式場に拍手が響く中、エルミージュは微笑んだ。
「では、今日から私は……名実ともに、“強がり”などいらない妃になりますわね」
──紅き薔薇が、白き玉座に咲いた。
そしてその香りは、帝国中に穏やかな風を運び続けた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
少しでも何かしら響いたのなら幸いです。