ローズと塔の使用人3
紅茶の準備を済ませた彼女は、リヒャルトが目隠しできているかを確認して部屋へ入った。彼は朝食や昼食のときと同じようにテーブル席に着き、背筋を伸ばしてローズを待っている。
紅茶のセットとクッキーを並べた皿をテーブルに置いてその場を立ち去ろうとしたところで、リヒャルトがローズに声をかけた。
「ここの主は茶の時間に客人をもてなさないのか」
捕虜というものは、果たして本当にこんなに偉そうなものなのか。自分は対応を見誤ったかもしれない。
そのまま聞こえない振りをして出ていくことも考えたが、油断してそうな今、何気ないところからリヒャルトの本音を引き出すチャンスかもしれない。そう考えを改めたローズは彼の正面の席に座った。
ゆっくりと香り立つように紅茶を淹れる。
クッキーとともにリヒャルトの前へ差し出すと、彼はテーブルの上を小さく探った。
ローズはそばへ行き、その手を取る。大きくてゴツゴツとした手をカップの持ち手まで導き、節くれだった指に自分の手を添える。リヒャルトはカップの場所を把握したようで、以降はカップを自分で持ち紅茶を味わった。尋問時とは違い手錠をかけていないので所作はいっそう上品に見える。
彼はすっかりソーサーの位置を把握したらしく、まるで目が見えているような正確さでカップを元の位置に戻した。
「君の好きな本を少し読んだ」
「……そう」
「私の行ったことのある場所もいくつか載っていた」
ローズは目を丸くした。
詳しく話を聞きたい気持ちをぐっと堪え平然を装う。
「ふうん」
「君はあの本に載っている場所のどこかへ行ったことはあるか?」
もちろんない。この塔から出たことはほとんどないんだもの。けれどそんな秘密をリヒャルトに話せるわけもなく、ローズは言葉を濁した。
「どうかしら」
リヒャルトは本に掲載されているマシェルバの絶景スポットの名をいくつか挙げて、ローズにその場所のことを聞いてくる。
「答える義理はないわ」
ローズが素気ない態度を崩していないにも関わらず、リヒャルトは不思議と機嫌が良かった。
「カシラヤの橋のページに開き癖がついていた。興味があるのか?」
もちろんある。カシラヤの橋はレグニッツ東部の自然林を分断する大きな川に架かる橋のことだ。その地域で古くから暮らす部族が川の両岸に植えたゴムの木の根を巧みに絡ませて作っている。木が成長するに従って根は複雑に絡み合い橋がどんどん大きくなることから「生きる橋」とも言われている。ローズがもっとも行ってみたい場所のひとつだ。
「俺は陸軍時代ここに行ったことがある。とても素晴らしかった。本に載っている挿絵に比べると、橋は一回りは大きくなっている」
「……そう」
「朝方になると川に雲海が浮かび上がるんだが、それが見事なんだ。それから……」
リヒャルトは饒舌に橋のことを教えてくれた。橋の感触や揺れ方や、修理の方法。どれもローズが知りたかったことばかりだ。夢中になって聞いてしまい、いつの間にか声が出るほど相槌を打っていた。話は盛り上がり、気づけば橋の話題から、マシェルバの北部の丘に咲く幻の水仙の話に移っていた。
ローズは咳払いをして気持ちを整え、「もう結構」と言って彼の話を遮った。
「昔はいろんなところへ行けたのに、今は塔に閉じ込められてお可哀相にね。あなたがこの塔から出られるのはいったいいつになるのかしら。もしかしたらおじいちゃんになってしまうかも。心から同情いたしますわ」
沈黙が続く。話の腰を折りすぎてしまっただろうか。せっかく気持ちよく話していたのに、小娘に気分を害されたと思うだろう。
ローズは自分に言い聞かせる。私は間違っていない。こうやってリヒャルトの心を折って、本音を聞き出すのが自分の役割なのだ。それが唯一兄から命令されたことだ。
「少なくとも、行ったことがない者より俺は随分と恵まれていると思うが」
「……」
「ありとあらゆる素晴らしい風景や文化をこの目で見たり聞いたりすることは、他の何物にも代えがたい経験となる」
「そうかしらね」
「そうだ。素晴らしいものに直接触れたときの感触や感動はずっと覚えている」
何も言い返せなかった。彼女は席を立った。リヒャルトはそれを引き止めなかった。ローズはキッチンへ逃げ込むと作業台にしなだれかかり突っ伏した。
塔に閉じ込めれられて可哀相。
この塔から出られるのはいったいいつになるのか。
もしかしたら……おばあちゃんになっても出られないかもしれない。
リヒャルトに放った言葉は、すべて自分に当てはまるものばかり。むしろ、自らに刺さるような言葉を選んだ。彼を棘で刺すたびに息苦しさが増えていく。
自分の将来が不安で仕方なかった。
マシェルバでは16歳を超えると成人扱いになる。同じ年ごろの女性は結婚したり、何か新しいことを始める人もきっといるだろう。そんな姿を見ることもなく、ローズはひとり塔に取り残される。おとぎ話のような出会いがあると信じていたのは遠い昔のことだ。塔に閉じ込められた姫を王子が救う物語を読んだ次の日、王の妾の子が悲惨な最期を迎えた歴史書を読んだ。ときめきも絶望もローズは図書室で学んだ。
服の袖に目を押しつける。こんなときにボルヘスがいたら。エルサがいたら。フランソワーズがいたら。思いきり抱きついていっときの不安を忘れることができるのに。
先ほどのリヒャルトを思い出す。目が隠されているから表情はよく分からない。けれど旅の思い出を語る声はとても生き生きとして、心底羨ましかった。嫉妬だ。酷いことを言った。本音を引き出す役割を果たしたなんて大嘘だ。
逃げだしたいとローズは思う。それが出来たらどれほどいいか。けど、そんな怖いことはできない。外の世界を彼女は知らない。
ぎゅっと固くまぶたを閉じる。服の袖が少しずつ濡れていく。
■■
フランソワーズは小走りで塔へと急いだ。あれもこれもと欲張っているうちに、帰ろうと思っていた時間を少し過ぎてしまった。
勝手口の前まで来ると、予想外の人たちが道向かいからやってきた。ボルヘスとエルサだ。彼らは両手に抱えきれないほどの荷物を持っている。まるで、旅行の帰りのように。
旅行の帰り!?
フランソワーズは2人の元へと急いだ。
「ふたりとも、もしかして今日はどこかへ出かけていたのですか?」
「そういうフランソワーズだってたくさん荷物を持って……どこかに行ってたのかい?」
「私はローズ様にどこか行きたいところはないかと尋ねられて…レグニッツ製のドレスを内緒で取り扱っているお店にいつか行ってみたいと伝えたら…」
「それに行ってらっしゃいと言われたのかい?」
「……そういうエルサさんたちも、もしかして」
3人は顔を見合わせ、それぞれが目を見開いて走り出した。我先にと勝手口から塔の中に入ると、キッチンの作業台でローズが倒れ込んでいる。
「ローズ様!」
慌ててそばへ駆け寄り顔を覗き込むと、どうやら彼女は眠っているらしい。安心したのもつかの間、フランソワーズは顔をしかめた。ローズの頬に涙の跡があり、長いまつ毛には雫がついている。
「随分と無理をされたんでしょう」
ボルヘスがそう言って、シンクを指差す。フランソワーズがそちらに目を向けると、洗われていない鍋や皿が重ねられていて、ボウルの中に真っ黒に焦げた物体がたくさん入っていた。
「私たちもフランソワーズと同じように休みを貰ったんです。朝食の準備も自分がすると言って譲ってくださらなくて……。一人で大変だったでしょうに」
ランドリールームのようすを見に行ったエルサがそう言いながら帰ってきた。手に持ったかごにはシーツが入っている。
フランソワーズはこの塔に隔離されているリヒャルトのことを思い出した。いくら捕虜とはいえども相手は隣国の公爵家のご令息だ。丸焦げの食べ物など食べ慣れているわけがない。もしかしたら倒れているかも。
心配になってようすを見に行くと、リヒャルトはいつも通り背筋を伸ばして読書に勤しんでいた。
「休暇は楽しめたか?」
「……はい」
「そうか」
リヒャルトはちらりとフランソワーズの方を見ると、すぐに視線を本へと戻した。フランソワーズはひとまずリヒャルトの無事に息をつき、それから部屋を見渡す。ローズが苦戦した跡はすぐに発見できた。ベッドのシーツにいくつものよれができている。
よろしければシーツを交換いたします、とフランソワーズは提案した。しかしリヒャルトはそれを断った。
「俺は寝相が悪いから、寝てしまえば同じことだ」
彼女はもちろん、リヒャルトの寝相が悪くはないことを知っている。毎日シーツ交換をしているのは彼女自身だからだ。
そしてリヒャルトが割と几帳面であることも、なんとなく推測している。
「…かしこまりました」
フランソワーズはリヒャルトの部屋から礼儀正しく退室し、キッチンへと引き返した。階段を下りる足取りがどんどん早くなっていく。慣れない手つきでシーツを交換したり、紅茶を運んだりするローズの姿が頭に浮かんだ。フランソワーズを休ませるために懸命に働いてくれたのだろうと思うと、自分の主が愛おしくて仕方なかった。
キッチンに戻るとローズは既に起きており、エルサに抱きついてしくしくと泣いていた。そしてフランソワーズに気づくと今度はフランソワーズに抱きついて離れなかった。彼女はローズを抱きしめ返して今日のお礼を心から伝えた。
「おかげで今日は買いたかったものがたくさん買えたのです」
それを聞いたローズが泣き止み、フランソワーズを見上げる。
「本当?」
「ええ。ずっと行ってみたかったところなので」
「何を買ったの?」
「もちろんローズ様のドレスです。この塔にはドレスらしいドレスが1着もないのですから」
「わたしの?だめよそんなこと。フランソワーズはフランソワーズが欲しいものを買わなくては」
「私は私の欲しいものをきちんと買いました。私はローズ様を着飾ることが趣味なのですよ?止める権利はローズ様にはありません!」
フランソワーズはきっぱり言い切った。
ローズは呆気にとられたあと、表情を緩めてようやく笑顔になった。フランソワーズはそんな彼女を見てよりいっそう強くローズを抱きしめた。
「私の服も買ってきました。もしよろしければ、それに刺繍を施してくれませんか?ローズ様の美しい刺繍が映えるだろうなと思って買ったものなのです」
「もちろんよ!お礼にとびっきりの刺繍を施すわね」
フランソワーズがローズにもう1着の服を見せる。ローズはそれを手に取り、あれこれと楽しそうに考えを巡らせている。
「さ、ドレスの話はここまでにして夕食にしましょう。美味しい海の幸をたくさん仕入れたんです」
刺繍の案を練っていたローズが思い出したように飛び上がる。
「そうだ、夕食が残っていたわ。ボルヘスは今日夕食を作ってはだめ。だって今日はお休みの日なのだもの」
ローズは包丁を握ろうとしていたボルヘスの元へ一歩を踏み出しす。しかしそれをエルサが引き止めた。エルサはローズの手を握ってにっこり笑った。
「今日はたしかに、私たちはお休みです。だから大切な人をキッチンに招いて晩餐会を開こうという話になったんです。息子ももうすぐやってきます。ローズ様も、もちろん出席してくださいますよね?」
エルサの手はカサついていて、たくさんの皺がある。この塔の掃除や洗濯やその他もろもろの雑務を一手に引き受けている証だった。
ローズはその手を両手で握り返した。こんなに美しい手を、ローズはほかに知らない。もちろん参加する、と彼女は返事をした。