フレンチトーストは福利厚生の代償
リヒャルトは優雅に目覚めた。
大きく伸びをしてベッドから起き上がると窓を開けて空気の入れ替えをしつつ庭を眺める。
視界の片隅で走っていく何かを捉えた。ふわりと広がる白いスカートの少女が、逃げるように塔の中へ駆け込んでいく。窓を開ける音で彼の存在に気づいたらしい。
その正体にピンときたリヒャルトが彼女の顔を見たいと思うのは自然なことだ。窓から身を乗り出す。少女の顔は彼女が庭で摘んだ春の花々によって巧妙に隠されている。しかし緩やかにウェーブのかかった見事な金髪を隠しきることはできなかったらしい。後ろになびく長い髪を一房すくってみたい。リヒャルトはそんな思いに駆られた。
少しの時間が経ち、ドアがノックされた。
朝食の時間だ。リヒャルトは入ってもよいと返事をした。いつもなら速やかに食事が運ばれてくるのに、なぜか今日はいつまで経ってもドアが開かない。しかたなく自分で開けると、廊下にぽつりと籠が置かれている。
籠の中を覗くと、四つ折りにされた紙と、いつもリヒャルトの目を覆う絹の布が入っていた。紙を開けば美しい字で「朝食が食べたければ目隠しをして椅子に座って待っていること」と書かれている。
どういうつもりだろうか。昨日、塔の主をからかったのが気に障ったのだろうか。さきほど見かけた姿を思い浮かべ、リヒャルトは辺りに響く程度の声で尋ねる。
「なぜ目隠しをしなければならない?理由が知りたい」
返答はない。しかし誰かが隠れ潜んでいる気配は感じられる。
リヒャルトは気配の方を見てもう一度尋ねた。
「そちらに向かってもいいん……」
「つべこべ言わずに目隠しをなさい!」
リヒャルトが言い終わる前に塔の主が言葉を被せてきた。隠れ潜んでいたのは彼女のようだ。
「なぜ君が?侍女はどうした?」
通常ならば、朝食を彼のもとへ運ぶのはフランソワーズの仕事だ。
「"有給"よ。フランソワーズは有給を取得したの。我が塔は福利厚生が整っているから、彼女は当然の権利を行使したの」
どこかで聞いた台詞だ。リヒャルトは一瞬言葉を失い、どうしようもなく可笑しくなって笑ってしまった。その笑い声をごまかすために軽く咳払いをして、籠に入れられた絹の布を拾い上げる。考えを改めようとする彼女の志しを汲んでやろうと思えた。
彼はその場で自分の目を隠すように布を縛って、そのままドアを開けっ放しにして部屋へ戻った。何日も過ごしている部屋だ。視力がなくとも自由に動くことはできた。
リヒャルトは椅子に座ると、先程より大きな声で塔の主に話しかける。
「座ったぞ、目隠しもした」
「……本当でしょうね」
「俺はくだらない嘘はつかない」
「目隠しを取ったら、護身用のナイフであなたを刺すわよ」
リヒャルトからすればそれは何の脅し文句にもならない。塔の主が相手ならば、例え視界が塞がれていても手足が自由に動かせなくても余裕で制圧できそうだ。しかし彼はただ「約束する」と返した。
ややあって、コロコロとワゴンを引く音が聞こえてきた。ワゴンはリヒャルトの近くで止まり、続けてテーブルにいろいろな食器を並べる音がした。食器はテーブルの上で何度も位置が替えられているのが分かった。リヒャルトは彼女の要領の悪さを感じつつも、嫌悪感は全くなく、むしろ微笑ましいとさえ思えた。
なんとかテーブルのセッティングを終えた塔の主は、次にベッドのほうへ向かったようだ。シーツが擦れる音が聞こえたので、恐らく彼女がベッドメイキングを試みたのだろう。本来ならばフランソワーズが手際よく一瞬で交換していくが、どうやらかなり苦戦しているらしい。もたついているようすに、リヒャルトは良かれと思って声をかけた。
「シーツの交換ならばこちらでしておくから、古いものを取って新しいものを置いておいてくれ」
塔の主は動きを止めた。しかし、そのあとすぐにシーツ交換を再開させる。
「俺は陸軍時代、宿舎のシーツは自分で替えていた。君が交換するよりも良いかと…」
「黙りなさい。刺すわよ」
明らかにムキになっている声色だ。負けず嫌いなのだろう。リヒャルトは言われた通りに黙り、シーツが交換されるのをじっと待つ。思ったよりも随分と時間が経ったあと、彼女がワゴンへ戻った気配がした。ようやく終わったのだろう。歩く音がドアのほうへと遠ざかっていく。
「目隠しを取ってもいいわよ。昼食が終わったらワゴンごと廊下に出しておいてちょうだい」
そんな台詞のあと、ドアはガチャリと閉められた。リヒャルトは自分の目を覆っていた布をすぐに剥ぎ取る。実は先ほどから部屋に充満する焦げた匂いが気になって仕方がなかったのだ。
匂いの元はすぐに特定できた。
テーブルに並んだ皿の上に、異様に焦げ付いた物体が鎮座していた。その姿形から、毎朝出されるクロワッサンでないことは分かる。リヒャルトが絶句していると、再びドアがわずかに開いた。隙間からなにか物言いたげなようすは伝わってくる。
リヒャルトは言葉を選んで塔の主に話しかけた。
「……今日はクロワッサンではないのだな」
主からすぐに返答はなかった。すこしの沈黙のあと、ドアの隙間から澄んだ美しい声が届く。
「"有給"よ。料理人は有給を取得したの。我が塔は福利厚生が整っているから、彼は当然の権利を行使したの」
「……そうか」
「人の上に立つものとして、有給を認めるのは当たり前のことよ。あなたもそう思うでしょう?」
「……もちろんだ」
彼が返事をすると塔の主は満足したのかドアを閉めた。
1人残された部屋で、リヒャルトは目の前の料理に向き合う。サラダは今まで出されてきたものと同じ姿をしている。かかっているドレッシングの量がやや多い気もするが、少なくともサラダとは分かる。水差しの中は今にもこぼれそうな飲み水がなみなみに注がれている。中に入った飲み水をコップに移す際には、並外れた技術を駆使しなければならないだろうがこれもまだ理解できた。しかし、彼を最も困惑させたテーブル中央の黒い塊。これはどういった類いの劇物なのだろうか。四角くくて分厚い大きな塊の上に、さらに長方形の塊が乗っている。
彼はフォークを手に持ち、ひとまず上に乗ったほうの劇物を軽く突いてみた。劇物は砕け散る。どうやら石炭だったようだ。石炭を慎重に端へと避け、下のほうの劇物に注視する。同じく表面をフォークで突くと、表面がわずかばかりポロッと崩れた。現れた本来の表面を確認してみると、どうやらそれは食パンと思われた。パンは辛うじて生還を果たしたらしい。
思いきってナイフを入れてみた。すると中央部から甘く良い香りと、卵色のパン生地が露わになる。フレンチトーストか!その正体にリヒャルトは驚愕する。そして、有給休暇中の料理人に代わってせっせとキッチンに向かい、このトーストを焼いて失敗している少女の後ろ姿を想像する。面白い。面白すぎる。
リヒャルトは腹を抱えて笑いそうになるのをぐっとこらえて机に突っ伏した。もしかしたらあの少女は食事のようすが気になって聞き耳を立てているかもしれない。笑いにつられて涙も出てきた。それを指で拭っていると、ふとベッドが目につく。シーツ替えに随分と手こずっていたのがよく分かる仕上がり。おそらく自分でやり直したほうがキレイに仕上がるだろう。
侍女も料理人も不在となった経緯は容易に想像できた。昨日リヒャルトに言い負かされた彼女は、その勢いに任せてそれぞれに有給休暇をすぐに取るよう命令したのだろう。代わりは全部自分が引き受けるから、安心して羽を伸ばしてこいとでも言って、それぞれの使用人の心配を跳ね除けたのだろう。あの強情さで。
ベッドのサイドテーブルには今日起きたときにあった花瓶とは別のものが置かれている。その花瓶に綺麗に生けられているのは、先ほど庭にでていた彼女の顔を巧妙に隠した春の花々であった。もしかしたら、今まで彼女が毎日選んで生けてくれていたのだろうか。
リヒャルトは胸が温かくなった。こんなに微笑ましい気持ちになったのも、声を上げて笑いそうになったのも、マシェルバへやってきて初めてのことだった。彼は、数分前まで石炭だと推測していた劇物の正体は十中八九ベーコンだろうなと想像しながら、本格的に朝食を始めるため、難易度高めの水差しに手を伸ばした。