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クロワッサンの攻防


「あなたの部下らしきレグニッツの兵士がひとりマシェルバから立ち去ったわ。あなたのことを慕っているといっても結局はその程度だったってことね」


ローズはその日も目隠しをしたリヒャルトと向き合っていた。傲慢な口調を意識しながら、最後に鼻で笑ってやることも忘れない。


「そうやって日を重ねるうちに、1人また1人とあなたの部下はあなたを諦めるんだわ」


リヒャルトはすっかり尋問に慣れてしまったようだ。尋問開始から3度目には、おとなしくしておく代わりに手錠は後ろ手にかけるのではなく、前にした状態で両手にかけてほしいと言い出し、5度目には尋問中にお茶を出せと要求してきた。


世間知らずなローズは、その要求を通してしまった。


ローズから鼻で笑われたリヒャルトだが、特に苛つく素振りは見せずに少しの間考え込んだあと、小さく笑ってこう切り返す。


「その兵士は黒髪で恰幅良い大きな男ではないか?」


当たりだ。ローズはリヒャルトに詰め寄った。なぜ分かるのか。やはりなにか企んでいるのではないか。けれどリヒャルトはすぐにその問いに答えようとはしない。


「ところで塔の主よ、君はパンが好きだろう」

「……なぜ分かるの?」

「ただの捕虜に対して朝食に必ず出来立てのクロワッサンが出される。自分が抱えるパン職人の腕を自慢したいのか、 何かしらの交渉を持ちかけようとしているか、はたまた俺に好意を持っているか……」

「好意を持つだなんて絶対にないわ!!」


彼の言葉に被せるようにローズは声を張り上げ否定した。うぬぼれているにも程がある。


「捕虜を無碍に扱うだなんて品の悪いことをしないだけよ。感謝なさい」

「どうだか?」


リヒャルトは余裕綽々な態度で紅茶を一口要求する。ローズは机に置かれたティーカップを持ち、席を立ってリヒャルトの口元にカップの縁をあて、飲みやすいように傾けてやる。上品な唇が僅かに開き、大きな喉仏がこくりと動く。彼が飲んだことを確認したローズはカップを机に置いて席に戻った。


目隠しをされた分際で貴族らしく紅茶を所望する彼の願いを叶えてやるため、当初この役目を務めていたのは侍女のフランソワーズだった。しかし紅茶係になって2日目、フランソワーズは切々と訴えてきた。


「あの方に紅茶を飲ませるなんて私には絶対に無理です。どうしてもと言うならローズ様が対応なさってください」

「何が無理だというの?カップの縁を唇に当てて流し込んでやるだけじゃないの」

「…ローズ様は!ローズ様はあの方のお顔をきちんと見たことがないからそんなことをおっしゃるんです!」

「……かお?目が2つ、鼻が1つ、口が1つ付いてるだけでしょう?」


ローズは侍女をたしなめたつもりだった。しかしフランソワーズは震えだし、ローズに強く抗議する。


「もっときちんと見てください!すらりと通った高い鼻。上品な口元とそこから見えるきれいに並んだ歯。眉の形や顔の骨格だって完璧です。そんな人が紅茶を飲むたびに動く、たくましい喉仏…間近で何度も見なければならない私の気持ちになってください!本来なら隠されていないはずのあの切れ長の瞳から放たれるなんとも言い難い眼差しまで想像してしまうと……」


アレを間近で見続けなければならないだなんて……よこしまな何かを考えてしまいそうで、心が悲鳴をあげています!私は夫に心を捧げると誓ったのに!!!


おしとやかなフランソワーズにしては珍しい声を張り上げての抗議は、塔全体に響き渡るほどだったという。ローズはそれを聞き、「私がやるわ、私がやるから」とフランソワーズの背中を何度もさすって彼女のたかぶる気持ちをなんとか収めてもらったのだ。



「……で、クロワッサンの味はどう思ったのよ」

「悪くはない。が、俺はもっと美味いクロワッサンを知っている」


何を偉そうに。ローズの眉間にシワが寄る。毎朝提供しているクロワッサンの味にこの上なく自信があったのは事実だからだ。なんだか負けた気がする。けれどその気持ちをぐっと堪らえる。


「あなたの舌ではうちの料理人が研究を重ねて仕上げた極上の味が分からないようね、残念だわ」

「不味いとは一言も言ってないだろう?君もブランジェリー・アッシュのクロワッサンを食べてみれば、一口でその味の虜になるさ」

「……ブランジェリー・アッシュ?」

「そうだ」



リヒャルトはブランジェリー・アッシュがいかに優れたクロワッサンを焼くかを滔々(とうとう)と語った。レグニッツ王都に小さな店舗を構え、焼き立てのクロワッサンを求めて朝からとんでもない行列ができること。店内にはさまざまな種類のクロワッサンがあり、中でも一番人気があるのはバターがたっぷり塗ってあるバタークロワッサンで、午前中に買いに行かなければ売り切れてしまうこと。口いっぱいに広がる芳醇な味わいとサクサクとした生地の食べ心地は1度食べれば忘れられなくなること。


話を聞いているだけなのに口の中に唾液が広がってくる。ローズはそれをごくりと飲み込み、食べに行きたくなる衝動をなんとか抑え込む。どうせ自分はこの棟から出られないのだから。


「……そのブランジェリー・アッシュだが」


一通りのお国クロワッサン自慢が終わったあと、リヒャルトはもったいぶったようすで本題を切りだす。


「俺の陸軍時代の部下の家業でね」

「それがなんだと言うのよ」

「毎月中頃になると、親を休ませるため軍務を切り上げて家業を手伝っている。孝行息子なのさ」

「その孝行息子が、昨日立ち去った兵士だと言うの?」

「そうだ。ちょうど手伝う時期に該当する」


ローズは呆気にとられる。

仮にも自分の尊敬する元上司が窮地に立っているというのに、家業のパン屋を手作うことを優先するというのか。



リヒャルトはその兵士が仕事を休んで家業を手伝うのが当然だと言わんばかりに「いかなる場合でも、有給を使うのは働く者に取って当然の権利だ」と事もなげに言う。


「有給?」


初めて聞く単語だ。ローズの声色を聞いたリヒャルトは彼女の無知を瞬時に見抜いた。


「マシェルバ王国には福利厚生という概念がないらしいな」


福利厚生も初めて聞く単語だ。塔の図書室でそれらについて書かれているものを読んだことはない。塔の外に出られない分、ローズはあらゆる本を選り好みせず何でも読むことにしていた。少しでも知識を深めるために、難しそうな政治の本や歴史書にも手を出した。



黙り込んだローズのようすを察したリヒャルトは、軽く福利厚生や有給について説明してやった。


「民は王を支えるために存在するのではないの?」


ローズの頭の中はハテナで溢れていた。絶対的に王が権力を持つ国で育った彼女にとって、リヒャルトの言うことはまったく新しい概念であり、価値観である。だから思わずそう尋ねた。


「では、王はなんのために存在するのだ?」


リヒャルトはローズの疑問に答えず、問いには問いで返した。

ローズは言葉を詰まらせた。かつて彼がこの塔にやってきたとき、彼女も問いには問いで返す意地悪を試みたがそれよりもずっと心に刺さるなにかがある。



「部下の力を伸ばすだけでなく、それぞれが抱える事情を把握して柔軟に対応してやる。人の上に立つものとして当たり前のことだ。塔のあるじよ、君もそう思うだろう?」

「……もちろんよ」


彼女は小さな声で答えた。世間知らずな自分が恥ずかしくてたまらなかった。リヒャルトはきちんと目隠しされているはずなのに、話していると何もかも見透かしてきそうな恐ろしさがある。


「今日は以上よ!」


慌てて席を立ち、ローズは勢いよく階段を下った。これ以上彼と向き合いたくなかった。



侍女のフランソワーズはローズが慌てて立ち去るのを心配そうに見つめたあと、リヒャルトの目隠しを解いた。絹の布がほどけ、露わになったブルーグレーの双眸はじっと階段を眺め、その目尻を少しだけ下げた。

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