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エヴァ、王都へ行く

エヴァは王都に来ている。


頼まれていた伝統刺繍のお直しが終わったのは昨日の夜のこと。ミュシェさんが王都へ行く日に合わせて仕上げた力作だ。そしてミュシェさんのぎっくり腰が再発したのが今日の朝。


「今日の夜会でこのドレスを着たいって言ってるご婦人がいてね?届けてくれるかしら」


ミュシェさんはソファから1歩も動けないようすで作業台に広げられたドレスを指差す。辛そうな彼女の姿に、エヴァは二つ返事で頷いてそのドレスを丁寧に包んだ。自分が直したドレスは既に運搬用のカバンに入れてある。あと1つ運ぶ余裕はありそうだ。


2つのドレスとミュシェさんから依頼された小さなお使いをいくつか携えて、エヴァは揚々と王都へ向かった。

ミュシェさんと一緒に何度か訪れたことはあるけれど、1人は初めてだ。チェックしていて、まだ行ったことのない場所がいくつかある。帰りに少し足を伸ばしても許されるだろうか?


彼女は胸を弾ませながら最初のドレスを届けに向かった。夜会のドレスは美しいデコルテを持つモンティ伯爵夫人からのご依頼で、大きく開いた豪華な胸元が魅力的だ。夫人は一目見たとたんに試着を希望し、エヴァはそれに付き合って夫人にドレスを着せ終わると思いつく限りの称賛の言葉を口にした。夫人はエヴァを大変に気に入り、最終的にはお茶までお呼ばれになった。


「エヴァはこのあと何か用事はあるのかしら?」

「王妃様の侍女を務める方のドレスをお届けにいきます」

「あら……そうなの。良かったら今夜の夜会に招待しようと思ったのに」

「そんな!滅相もないことです。私には場違いです」

「そんなことないわ。あなたとっても品があるし、遠方から来た親戚ということにしておけば、誰も気づきはしないわよ」

「お気持ちは大変嬉しゅうございます。次のお届けもありますので、お気持ちだけ頂いて帰りますね」


モンティ伯爵夫人はどうやらかなりの世話焼きらしい。マシェルバでは貴族と平民を明確に区別することが常識だったが、レグニッツはマシェルバに比べると貴族の敷居が低いらしく、商家の娘が貴族の嫁に入ることもままあるそうだ。たしかミュシェさんもどこぞのパーティーで伯爵令息と恋に落ちて子どもを授かったけど、結局性格が合わなくて結婚せずに自分1人で育てることにしたと言っていた。


このままここにいては押されて夜会に参加する羽目になると判断したエヴァは、そそくさと帰る準備を始める。


「そうなの……?せっかく仲良くなれたのに」

「また師匠と参ります。今日は沢山ごちそうになったので、今度は私の街で評判のお菓子をお持ちしますわ」

「本当に今夜は無理なの?……実は今日、ブラバント公爵のご令息をお招きしているの。あの"英雄様"よ?あなたも年頃の娘ならば会ってみたいのではなくて?」


英雄様……そのフレーズを聞いてエヴァの背筋が一気に凍りつく。冗談じゃない。こっちは彼に見つからないよう気の抜けない日々を過ごしているのだ。その夜会は絶対に参加したくない夜会リスト1位にたった今君臨した。



「ミュシェさんの腰の具合も気になるので、早く帰ってお手伝いをしてあげたいんです」

「なんていい子なの……!ではせめて、うちの馬車を使ってちょうだい。そんなに細い足で大荷物を抱えながら王都をあちこち歩くだなんて大変だもの」

「大丈夫です!私、こう見えても結構タフなんですよ」


なんとかモンティ伯爵夫人を納得させたいエヴァだが、彼女も譲ってくれない。馬車に乗る乗らないの押し問答は続き、仕方なく折れたのはエヴァのほうだった。


伯爵夫人に連れられて正門まで歩いていくと、馬車の前に青年が立っていた。茶色の髪やツンと上がった鼻がモンティ伯爵夫人にどこか似ている。


「甥っ子のルドルフを同行させるわ。荷物運びに便利でしょうから」


エヴァは目を見開く。ここまでしてもらうつもりなど全くなかったのだ。やはり馬車の件は丁寧に断ろうと思ったそのとき、目の前の青年がエヴァの荷物を取り上げてしまう。


「お嬢さん、こういうときは素直に送られてやるものです。どうやら伯母上はあなたのことを大変に気に入ったらしい。叔母上のわがままを聞いてやってください」


ルドルフはわざとかしこまった挨拶をし、チャーミングなウインクをしてみせた。エヴァはあっという間に馬車に乗せられ、気付いた時には御者にすべての行き先を伝え、席に座って窓の外にいる夫人に手を振っていた。


「さ、て」


ルドルフはエヴァの正面に座ると優雅に足を組んで微笑み手を差し出す。


「改めて自己紹介を。俺はルドルフ・ツヴァイク。モンティ伯爵夫人は叔母に当たる」


「エヴァです。ギークリスでドレスの仕立てをやってるミュシェ・スミルノワの店でお針子をしています」



彼女は差し出された手を軽く握って素早く離した。ルドルフはそんなエヴァの顔をまじまじと見つめてくる。何か話したいことがある犬のように。エヴァは笑顔を心に貼り付けて彼の視線を受け流し、自然な流れで窓の外へと目をやった。馬車から見える景色は、貴族の屋敷が連なる閑静な場所から、平民が暮らす活気あふれた城下町へと移ろうとしている。城下町はエヴァが暮らすギークリスの何倍ものにぎわいで、街中を闊歩する人々のいきいきとした表情がこの国の豊かさを物語っていた。


「王都にはよく来るの?」


ルドルフはエヴァの視線の先を眺めながら尋ねる。


「ときどき、師匠に連れられて」

「仕事かぁ…。どこか行ってみたいところはないかい?ついでに案内するけど」


行ってみたいところならある。けれどそれを目の前の知り合ったばかりの男性に伝えるのはいかがなものか。返事を応えあぐねている彼女のようすに、ルドルフはくすりと笑ってしまった。


「なぜ笑うんです?」

「失礼、警戒心の強い猫のようだと思ってね」

「………」

「君が可愛いって意味だよ」


エヴァは顔が熱くなるのを感じた。なんてキザったらしいことを!レグニッツの貴族の男はこんな感じなのだろうか?彼女はそう文句を言おうとしたところで、ふと"前例"の貴族の男を思い出した。あの人も確かに、こうやってからかってきたことがあった。



「……王都の城下町に美味しいクロワッサンを焼くお店があると聞きました」


照れを隠し、しどろもどろになりながら、お使いのついでに行ってみようと思っていたお店の名前を打ち明ける。ルドルフはその店を知っているらしく目を輝かせた。


「ブランジェリー・アッシュか!俺もときどき行くよ。いろんな種類のクロワッサンがあるんだ。中でも特に人気なのは…」

「バターがたくさん塗ってあるバタークロワッサンでしょう?」

「その通り。よく知ってるね!ちょうどその角を曲がったところにあるんだ。ほら、そこ」


ルドルフが窓から指差した方を見ると、石畳の道にずらりと人が並んでいて、道沿いの角に立つ小さな店までその列は続いている。列のそばには綺麗な装飾品のついた軍服を着た兵士もいて、兵士が列整備をするほどの人気のなのかとエヴァは驚きを隠せない。


「そんなに大きなお店じゃなさそうなのに、見張りの兵までいるのですか」

「あれは違うよ。あの近衛兵はマシェルバの姫が来ないか監視をしているのさ。彼女は絶対にブランジェリー・アッシュを訪れるだろうと"英雄"はお考えらしい」


エヴァは絶句した。

なぜバレているのか。実際に今日まさしく行こうと思っていたところだ。


御者に行き先の追加を伝えようとしたルドルフを慌てて引き止める。


「あの、クロワッサンは後回しでいいです。先にお届け物をしないと」

「楽しみにしていたのだから、先に行けばいいんじゃないか?」

「いえ、お仕事が優先なので、時間が余ったらで結構です」


ちょっとばかり頑なになったエヴァに、ルドルフは2度3度瞬きを返す。考えを巡らせ、何か思うことがあったらしい。


「……君のその髪なら、間違いなくあそこに立ってる近衛兵から尋問を受けるだろうね」


エヴァはため息をついた。ちょうどそう思っていたところだ。


「王都でのマシェルバ姫探しが本格化しているのは知ってる?」

「はい」

「最近は金髪の妙齢な女性がいたら国籍問わずに取り調べが始まるんだ。君があの兵に見つかると、おそらく近衛の詰め所に連れて行かれるだろう。」

「……」


王都に着くまでに取り調べは受けなかったのかとルドルフは尋ねた。それを聞いて彼女は荷物の中から大きく広がったツバのある帽子を取り出す。


「それで隠してきたのか。けど、あの列に並ぶとなると、じっくり姿を見られるだろうから君の髪はバレるかもしれないね」


エヴァは何も返事をしなかったが、ルドルフはそれを肯定と捉えた。


「良かったら俺が買ってこようか?君は馬車で待っていればいい。本当は店の中であれこれ選んでみたかったろうが……」


首を横に振る。貴族のご子息を買い物へ行かせるなんてとんでもない。ほとぼりが冷めたころに訪れたらいい。


諦めてほかの行きたいところリストを脳内から引っ張り出しているエヴァをルドルフはしげしげと見つめた。


「エヴァは英雄に興味がないのかい?」

「…え?」

「王都にいる君くらいの年頃の女性は、身分問わず英雄に夢中さ。彼に見初めてもらうチャンスを掴むために金髪にする者もいるくらいだ。近衛の詰め所で彼と直接会えるなんてまたとないチャンスだからね」


そんな恐ろしいこと、エヴァは絶対にごめんだ。窓のカーテンを閉めて近衛兵を視界から消すと、彼女は自分の行き先を改めてルドルフに伝えた。余計な場所は行かなくて良いと。


「英雄様とは関わりたくありません。私は道を歩くだけで兵隊さんから声を掛けられる日々に辟易としているんです。その原因を作った人に近づきたいだなんて、天地がひっくり返っても思わないわ」


ルドルフは面食らった顔を浮かべる。拒絶が強すぎただろうか。けれどこの人もモンティ伯爵夫人と似てある程度のお節介だろうと判断したエヴァは、はっきり言っておかないと知らぬ間に近衛師団の詰め所とやらに連れて行かれるんじゃないかと不安に駆られたのだ。


エヴァの勢いに押されたルドルフがゴクリと喉を鳴らす。黒目を右から左へとゆっくりと流した彼は、再びエヴァを視界に捉え、あからさまな笑顔を作った。


「……すみません。引きましたか?」

「いや、人にはそれぞれ事情があるから……」


馬車の中が静かになる。細切れの世間話が続き、お互いにどうでもよい情報の収集に精を出す。エヴァの頭にはクロワッサンが浮かんでは消える。


なぜ彼女が行きたいと願う場所がバレているのか。それは勿論、パン屋の情報をエヴァに伝えたのが、ほかならぬ英雄様本人だからだ。

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