号外!ローズ姫発見
やや短めですがキリが良いのでここまでです。
仕事に打ち込むことは、エヴァにとって都合が良い。余計なことを考えずに済むからだ。
ふだんから考えることは多かった。自分が逃げたあとの祖国のこと。フランソワーズやボルヘス、エルサのこと。脱出するときにエヴァを助けてくれた人たちのこと。
みんな無事で暮らしているだろうか。気を抜けばそのことばかり考える。
「痛っ」
刺繍針が指先を刺す痛みで彼女は我に返った。今週に入ってから何度目の痛みだろう。今までこんなことなかったのに。気もそぞろなせいでせっかくの仕事が台無しになってしまう。
気持ちを切り替えようとエヴァは作業台からキッチンへと移動した。打ち合わせに出かけたミュシェさんがそろそろ戻って来るころだ。コーヒーでも淹れようと思った。
王都から帰った次の日、エヴァは再び近衛兵によって捕らえられることを覚悟した。しかし意外なことに、その日は何事もなく平穏に過ぎていった。夜になってベッドに潜り込むとき、彼女は今日1日が終わったことを安心するとともに、次の日こそは捕らえられるという不安に飲み込まれそうになる。そんな気持ちを抱え3つの夜をやり過ごした。
サイフォンをセットしアルコールランプに火を点ける。温まるに連れてコポコポと泡が立つ。ロートを差し込むと、お湯がみるみるうちに上昇してくる。豆から挽いておいたコーヒーの粉を投入して、へらで撹拌させる。砂時計をひっくり返して少し待ってからアルコールランプを消すと、フラスコへとコーヒーが一気に抽出されていく。
コーヒーができる過程は科学実験のようで楽しい。紅茶を淹れるのとはまた違った面白さがある。自分が淹れたコーヒーをいつかボルヘスに飲んでほしいとエヴァは思う。もともと国王付きの料理人だったボルヘスのことだ。コーヒーのことは詳しいかもしれないし、エヴァよりもずっと上手に淹れられるかもしれない。けれど彼は優しいから、初めて飲んだと言って喜んでくれるだろう。
自分の分のコーヒーをカップに移しているところへちょうどミュシェさんが帰ってきた。おかえりなさいと声をかけてミュシェさんの分のカップを準備する。エヴァにお礼を言うと、彼女は手に持っていた紙をテーブルに広げた。コーヒーを運んでいたエヴァの目に、大きく書かれた見出しが映る。
《号外!旧マシェルバ王国のローズ姫を発見》
体中にビリビリと電流のような衝撃が走った。
震える手でそれに触れると、荷物の整理を終えたミュシェさんがエヴァに話しかけてくる。
「そこら中で号外がばら撒かれてたから1枚もらってきたのよ。あなたの祖国のことだし、読むかしらと思って」
コーヒーカップをミュシェさんに渡し新聞の号外を拾いあげた。持つ手は震え振動が紙まで伝わる。心臓の鼓動がうるさい。
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号外!
旧マシェルバ王国のローズ姫を発見
レグニッツ国王付近衛師団広報部は、約3年前に滅んだマシェルバ王国の姫、ローズ・マシェルバが見つかったことを16日の定例会で明らかにした。ローズ・マシェルバはマシェルバ王国第15代国王フィリップ・マシェルバの第2子で、同国最後の王ルイ・マシェルバの異母兄妹とされる。私生児であることから長年存在が隠されていたが、同国で起こったクーデターをきっかけに存在が発覚。彼女はマシェルバが滅んだ原因のひとつ、ウエスト塔の暴動が起こった際に行方不明となっており、レグニッツ国王付近衛師団が捜索に当たっていた。
広報部によると、彼女が見つかったのは13日。ローズは近衛師団が実施する尋問会に現れ、自らがローズ・マシェルバであることを認めたという。ローズ・マシェルバと面識がある近衛師団団長のリヒャルト・ブラバントも肯定的な立場を表明しており、本人である可能性は極めて高い。
関係者の話によると、ローズ・マシェルバとされる人物はレグニッツ東部の村・ベッソンで給仕として働いていたという。彼女の身分を正式に確定させるため、近衛師団は近日中にレグニッツ中央裁判所で特別公聴会を開く手筈を整えている。
マシェルバ王国はレグニッツ暦1456年に起こったクーデター「マシェルバの春」をきっかけに廃国。クーデターの指導者であったマクシミリアン・ルソーらを中心に、1457年にニューカント共和国が建国した。
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エヴァの手の震えは新聞を読み進めるうちに止まっていた。ベッソン村などエヴァは行ったことがないし、給仕の仕事に就いたこともない。
リヒャルトは確かエヴァにギークリスで暮らしてどれくらい経ったのかを尋ねてきた。それから、仕事は何をしているのかを聞いてきて、エヴァはお針子だと答えた。第一彼女は自分がローズであることを認めていない。
つまり、新聞に書かれているローズはエヴァのことではないらしい。リヒャルトは別の誰かをローズであると認めたことになる。
エヴァにとってそれはこの上なく喜ばしい。彼女を捕らえようとしたことは勘違いだったと思ってくれるのは願ってもいないことだ。
けれどなぜだろう。不安がまったく拭えない。
尋問室で自分に向けられた鋭い眼差しが脳裏にこびりついて離れない。彼女の正体を認めさせると言い切った力強い声は、エヴァを強く縛りつけている。
「エヴァ、どうしたの?すっかり固まってしまって」
ミュシェさんがエヴァの顔の前で手をひらひらさせる。エヴァは我に返り、笑顔を取り繕った。
「よ、良かったですね!お姫様が無事に見つかって」
「本当にねぇ…リヒャルト・ブラバントが関わって解決しなかった事件はないから、いずれ見つかるとは思っていたわ」
「……そうなんですね」
エヴァはすっかりぬるくなってしまったコーヒーを1口飲んだ。2口目はとても飲めそうになかった。