小鳥をめぐる攻防
「無論だ」
リヒャルトはルドルフを一瞥しただけで、すぐにエヴァへと視線を戻した。エヴァが紅茶を拒否し飲まないように口を閉ざしているというのに、彼は諦めもせず執拗にエヴァの下唇にカップをあてがってくる。行動は強引なくせに、ときどきは頬に優しく触れて早く飲むように促す始末。そのようすを見たルドルフはにっこり笑って口を開いた。
「少し目を離したとたん王宮一の美男子と浮気をするだなんて、君はなんて魅力的な女なんだ。早く僕の手元に帰っておいで、小鳥ちゃん」
リヒャルトの眉がわずかに動いた。ほんの少しの隙をルドルフは見逃さない。エヴァの元へと駆け寄ると、すばやく目隠しをほどいてカップを机に置き、彼女を自分の方へと引き寄せる。エヴァの腰に手を回し、彼は悠然とドアへと向かった。まるでそうやって彼女を連れ出すのが当然であるかのように。
「待て」
リヒャルトは座ったまま、鋭い視線を二人に投げた。ルドルフは歩みを止めて横目でちらりと彼を見た。眉間には皺が寄っている。怒りが滲み出るリヒャルトの表情を確認し、ルドルフはすぐにエヴァへと視線を戻した。周囲に聞えるように愛の台詞を彼女へ注ぎながら、ドアノブに手をかけて扉を開ける。別れの言葉の代わりに手を振った。
「少しでも2人の時間を邪魔されたくないんだ」
「俺は諦めない。必ず、君をローズだと認めさせる」
リヒャルトはルドルフの存在などまるでなかったかのようにエヴァに話しかけた。彼女はリヒャルトが恐ろしくて、返事をすることさえままならない。一層固くなったエヴァの体をほぐすように、ルドルフは彼女の腰に回していた手を腕へと移動させ、軽く叩いて先に退出するよう促す。固まった体をなんとか動かしたエヴァは、ルドルフの支えもあってようやく尋問室から退出することができた。
すみやかに控室を後にした2人は、言葉を発することなくルドルフが待機させていた馬車に乗り込んだ。向かいに座るエヴァの表情は真っ青で、何か言葉をかけることさえ憚られる。
沈黙は続いた。観光がてら、帰りにどこかへ寄り道をしよう。ルドルフはそう提案するつもりでいたけれど、今となっては断念するほかないだろう。エヴァは尋常ではないほどリヒャルトを恐れており、リヒャルトは誰の目から見ても明らかにエヴァに執着していた。
ローズ。確かに彼はそう言った。必ず君をローズだと認めさせると。
あの英雄がターゲットを間違えることがあるだろうか。
少しの逡巡のあとルドルフは口を開いた。
「依頼主にドレスは渡しておいたよ。最高の仕上がりだと君を称賛していた」
エヴァはハッとした顔をしてようやくルドルフを見た。まるで今まで存在を忘れていたかのように。
「渡してくださったんですね……ありがとうございます」
お礼を言ったあともエヴァの物憂げなようすは変わらない。ルドルフに気を遣って軽い世間話には応じるものの、心ここにあらずなことは明らかだ。どうしたものかと考えあぐね、ルドルフはため息が出た。エヴァの肩をビクつく。
「怖がらせたいわけじゃないんだ。ごめんね、ため息をついたりして」
「いえ……私こそ雰囲気を悪くしてしまって……」
「あんなことがあったんだ。気持ちが沈むのは当然さ。さぞかし怖かったろう」
「……」
エヴァの心は遠いところにあり、無理にこちらに戻すことは憚られた。行きとは異なる重い沈黙を乗せたまま馬車は王都を走り抜ける。窓からの眺めは賑やかな街並みから閑静な住宅街へと切り替わり、草原へと続く。エヴァの住むギークリスまであと少しというところで、彼女はようやく自ら話し始めた。
「あの方は、ルドルフ様から見てどんな方ですか?」
「……リヒャルト・ブラバントのことかい?」
「…はい」
「いけ好かないね」
「え?」
エヴァは面食らった表情を浮かべた。ルドルフは彼女の顔色を確認してから大げさに悪態をつく。
「賢くて実績もあり、将来有望でおまけに顔がいい。気になる女性に声をかけてもみんなリヒャルトに夢中で、振り向いてもらうのに苦労するんだ」
眉を寄せて不満げに文句を連ねると、エヴァの表情が少しだけ緩んだのが分かる。
「おまけに」
ルドルフはずいっと顔を前に出した。深刻な顔をつくり、指を1本立てる。
「今日、俺の気になってる子を奪おうとした」
少しの間のあと、エヴァの顔が赤らんだ。ルドルフがにこりと笑うのとは反対に彼女は眉を寄せる。
「真剣に聞いていたのに、からかったんですね!」
馬車の中の空気が柔らかくなった。エヴァは抗議を込めて頬を膨らませて見せた。けれどルドルフがあまりにも笑うから、そうやって拗ねることすらバカらしくなった。
そうこうしているうちに馬車はミュシェさんの店の前に着いた。ルドルフが先に降りてエヴァに手を差し出す。エヴァはその手を取った。ためらいはなかった。
想定よりも帰りが遅かったせいでミュシェさんはかなり心配したようだ。エヴァは彼女に心配させまいと明るく振る舞い、モンティ伯爵夫人がドレスを大変気に入っていたことを嬉しそうに語ってみせた。
ルドルフはその間、なにも言わなかった。ただ微笑みを浮かべてエヴァに同意し、ミュシェさんには丁寧に挨拶をした。ミュシェさんはルドルフのことを大層気に入り、夕食を一緒にどうかと提案したけれど、彼は残念そうな顔を浮かべ「叔母の夜会に参加しなければならない」と固辞した。
帰りの馬車に乗り込む前、ルドルフはそれまでの柔らかな笑顔を仕舞い込み真剣な顔でエヴァを見つめた。
「何かあったら力になるよ。乗りかかった船だからね」
エヴァは言葉に詰まった。今日知り合ったばかりの小娘に、どうしてこうも親切にしてくれるのか。ルドルフの意図が分からない。エヴァの考えは顔に出ていたのだろう。彼女が疑問を投げかける前に、ルドルフは彼女の手に自分の手を重ねて答えた。
「人には誰しも秘密があるものさ。君も、俺もね。秘密は時には弱点にもなるだろうが、時にはその人を一層魅力的にする。俺の目に映る君は、とても魅力的な人だ。君は冗談だと思ったろうけれど」
彼はほんの少し手に力を入れて彼女の手を握ると、すぐに離した。
「君が思っているよりも俺は随分と使える人材だと思うよ。自分で言うのもなんだけど、リヒャルトにだって負けない」
ルドルフはそう言い残して馬車に乗り込んだ。小さくなっていく馬車が見えなくなるまで、エヴァは彼を見送った。
■■
ルドルフがシャンパンを飲みながらご令嬢の相手をしていると、ホールの入り口が騒がしくなった。誰が来たかは明らかだ。隣りのご令嬢でさえ、ルドルフではなく今来たばかりのリヒャルトを目で追っている。叔母があの手この手を使って、リヒャルトを夜会に出席させることに成功した経緯は知っていた。知っていたから驚きはしない。しかし、ずっと探していた女性が見つかったのだ。予定をキャンセルすることだって十分に考えられた。ーーあるいは逆か。ルドルフがこの夜会に出席すると分かっているから、彼は何が何でもルドルフに会いに来たのかもしれない。ローズとの関係を確かめるために。
リヒャルトは会場を見渡してルドルフを見つけると、予想通り一直線に彼のもとへとやってきた。挨拶をしようと試みるご令嬢には目もくれない。自分の隣りに陣取ったリヒャルトを横目で確認し、給仕係からシャンパンを受け取るとルドルフは彼に差し出しす。ルドルフが先程まで話をしていたご令嬢は空気を読んでその場からそっと離れた。
リヒャルトはなにも言わずにグラスを受け取った。表面的な会話をスタートさせたのはルドルフだった。
「相変わらず凄まじい人気だな。たくさんのご令嬢の視線をこんなに奪うなど、大罪ではないか」
「好んで奪っているわけではない」
「煩わしいなら、早くたった一人を決めればいい。ハッセル伯爵のご令嬢はどうだ?君に夢中だと評判だ」
リヒャルトは返事をする代わりにシャンパンに口をつけた。一口を上品に味わう。ルドルフはグラスを揺らして返事を待った。 美丈夫2人が並んで立つ姿を、夜会に参加しているご令嬢が頬を赤らめながら見守っている。ルドルフのほうを見もせずにリヒャルトは答えた。
「君にも同じことが言えるのでは?」
「俺は最近良い子が出来た。君も知ってる通りね」
「…エヴァ・ジヴェルニーから手を引け」
今度はルドルフがシャンパンで喉を潤す。横目でちらりとリヒャルトの表情を盗み見たけれど、正面を見据えたままでこちらを向こうともしない。
「その台詞、そのままお返しする」
「捜査の邪魔だ」
「……君に残されたローズ・マシェルバの捜査期間は、あと2週間らしいじゃないか」
ホールの中央でモンティ伯爵夫妻が踊り始めた。2人に注がれた令嬢たちの視線もほうぼうへ散らばる。ルドルフとリヒャルトはそれを遠目に眺めた。
「調べるのが早いな」
「あと2週間逃げ切れば彼女は君から解放されるわけだ」
「身分証を把握できたのだから、この件はもうすぐ円満に解決する。君の出る幕ではない」
「……そうかな?」
ルドルフはリヒャルトの方を向いた。言葉の節々に挑発の気配をわざとらしく出す。
「一度拘束した身柄を俺に奪われ、あっけなく解放した。あの部屋を出るとき、君は言ったな。『必ず、君をローズだと認めさせる』と。つまり、本人が自らローズであると認めなければならない。そういう条件で君は動いているのではないか?」
リヒャルトは問いには答えない。それを良いことにルドルフは続けた。
「そうなると、例え尋問され続けたとしても、ローズであると自ら証言せずに2週間を過ごせば、彼女は君から逃げ切れる。例え、エヴァがローズであったとしても」
「認めさせるさ」
リヒャルトもようやくルドルフの方を向いた。彼は手に持ったグラスをテーブルに置き、鋭い目つきでルドルフを見据える。
「手を引けと忠告はした。話しは以上だ」
彼と踊りたい。そう願って秋波を送る令嬢たちには目もくれず、リヒャルトは会場から立ち去った。ローズ・マシェルバ以外興味がない。ルドルフの目には、リヒャルトがそう宣言しているように見えた。